オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第36話:灰色の雪と、備えた者【1663年 夏】

 その音をハルコルは腹の底で聞いた。

 

 耳ではなかった。鼓膜を打つ類の音ではなかった。臓腑の奥の、もっと深いところ──脊髄の芯を下からゆっくりと掴み上げるような震えだった。

 

 まだ夜の明けきらぬチセ(家)の中だった。囲炉裏の熾火がぱちと一つ爆ぜた。母トゥレㇷ゚の寝息。父ペカンクㇽの長く重い息。垂れ筵の向こうで夜の色がほんの少しだけ薄れかけている──いつもの夜明け前の家の音。

 

 そこに。

 

 ずう……ん……。

 

 地の底を這って、足の裏から背骨へ、背骨から後頭部へ這い上がってくる音。雷ではない。雷は空から落ちる。だがこの音は川の水の底を伝うように、地面の下から滲んできた。梁の上で砂の粒がさらさらと鳴った。

 

 ハルコルは跳ね起きた。

 

 (揺れじゃない。──大地が寝返りを打った、あの春の夜とは違う。あれは地盤が軋んだ。これは──遠くで何かが爆ぜた)

 

 心の臓がどんと一つ鳴った。

 

 土間に下り、垂れ筵を払い、外へ出る。

 

 夏の盛りだというのに夜明けの風が肌に冷たかった。裸足の足の裏に地面の冷えがじかに伝わる。草露が足首を濡らした。

 

 そして──気づいた。

 

 蝉が鳴いていない。

 

 いつもなら空が白みかける前からエゾハルゼミ(ヤキ)が森のあちこちで鳴き出す。あの甲高いうなるような声が夜明けの一番手だ。それがない。鳥の声もしない。虫の羽音すらしない。森という森が息を呑んだまま凍りついている。世界じゅうが耳を塞いだように黙っていた。

 

 その沈黙の中でハルコルは空を仰いだ。

 

 東はいつものように白んでいく。だが──西がおかしかった。

 

 沙流川(サㇽ・ペッ)の川面に立ち込めた朝靄の、そのさらに向こう。西の地平の上だけが夜の明けるのを拒むようにどんよりと淀んでいた。ほかの空が薄青く透けていくのに、そこだけが灰色の染みのようににじんで残っている。

 

 ずう……ん、とまた地を這う音が来た。

 

 西からだった。

 

 風はわずかに西から東へ流れていた。その風に乗って嗅いだことのない匂いが鼻の奥を突いた。焦げた石の匂い。硫黄のつんと粘膜を刺す匂い。遠い。だが確かにそこにある。

 

 (来た)

 

 喉の奥がきゅっと絞まった。

 

 (七千年眠っていた山が──目を覚ました)

 

 遠さの目盛りが狂う。あの暗みとあの匂いとあの音が湧き出す場所は、歩いて幾日もかかる西の彼方──内浦の海を抱く山々のそのさらに奥だ。それほど離れていてなお地の底を這う震えがここまで届く。その一事があの山が溜め込んできた力の途方もなさをどんな言葉より雄弁に語っていた。

 

 (だが灰はまだ来ていない。空が暗んでいるだけだ。──これは前触れだ。山が火の口をこじ開けようとしている。本番はこれからだ)

 

 ハルコルは踵を返した。

 

 

 

 

 

 

「父さん。──起きてください」

 

 声をかけたとき、すでにペカンクㇽはもう半身を起こしていた。

 

 囲炉裏の熾火が下からふたりの顔を照らしている。赤い。母はもう目を覚まし、ただ黙って身を起こしていた。

 

「西の山がおかしい。──地の底で何かが爆ぜています」

 

 ペカンクㇽの眉がわずかに動いた。それだけだった。脇に置いた弓に手を伸ばしかけ──やめた。これは弓で立ち向かえるものではない。長はそれを一息で解した。

 

「どうなっていた」

 

「分かりません。──ですが灰が来ます。風に乗って、ここまで」

 

 ハルコルは言葉を選ぶ余裕を捨てた。今は伝わることだけがすべてだ。

 

「灰は雪のように降ります。けれど雪とは違う。──吸えば喉を焼く。目に入ればただれる。屋根に積もればチセを潰す。井戸も川も灰で濁って飲めなくなる」

 

 ペカンクㇽは息子の顔を見た。その目に問いはなかった。

 

 ただこう言った。

 

「水を蓄えさせる。他に何かあるか」

 

 ハルコルは胸の奥でやることの順を、火皿の粒を選り分けるように並べた。

 

「三つです。──ひとつ、人をチセの中へ。口と鼻を濡らした布で覆って。外に出る者はできるだけ少なく。ふたつ、水を今のうちに屋根の下へ。桶も甕も川の水で満たして家に入れる。灰が降れば川は飲めなくなる。みっつ、火は絶やすな。ただし煙の出口は小さく塞ぐ。煙出しから灰を入れないように」

 

 ペカンクㇽは一度だけ頷いた。

 

 そして垂れ筵を払い、外の薄闇へ声を放った。

 

 長の声だった。大きくはない。だが岩に染み入るように村の隅々まで届く。何年もかけてこの大地とこの村の空気に馴染んだ声だ。

 

「皆、起きよ。──山が火を噴いた」

 

 

 

 

 

 

 村が目を覚ました。

 

 あちこちのチセから寝起きの顔が覗いた。淀んだ西の空を見上げ、凍りつく。地を這う音がまた一つ遠く轟いた。子どもが一人、火のついたように泣き出した。

 

 ざわめきが波になって広がりかけた。

 

 その波を押しとどめたのは母トゥレㇷ゚だった。

 

「布を出して。古布でいい。井戸の水で、よく濡らして」

 

 畑の女衆を束ねる母の声は、こういう朝にこそ芯を持った。母は走り回らなかった。近くの娘に布を配らせ、それを濡らす桶を据えさせ、一人ひとりに自分の顔で手本を示していった。こう覆うんだ、と。口元を布で包む母の横顔は畑の朝と変わらぬ速さで手を動かしていた。

 

 ハルコルは村人たちを呼び集めた。

 

「川へ。──桶を持てるだけ持って水を汲んで家に入れる。急げ。だが転ぶな。怪我をすればその分手が減る」

 

 村人たちが天秤棒を担いで川へ走る。ギシ、ギシと取っ手の軋む音がいつもの朝の倍の速さで響いた。その百歩を何度も何度も往復した。樺皮の桶の水がちゃぷちゃぷと縁で揺れ、点々と土を濡らしていく。

 

 ミナが帳簿の板を抱えて駆けてきた。

 

「水。──どれだけ要る」

 

「人ひとり一日に両手で掬って三杯。──それを三日か四日ぶん。多いに越したことはない」

 

 ミナは炭筆を板に走らせた。村人およそ四百。三日。掛け合わせた数を口の中で呟き、それから顔を上げた。

 

「桶が足りない。──甕も革袋も、水の入るものは全部使う。それでいい」

 

 語尾が問いではなく宣言だった。ミナは本当に急ぐとき問わない。

 

「それでいい。──ミナ。水運びは任せていいか」

 

 ミナがめずらしくふっと笑った。

 

「分かった」

 

 短く言って甕を抱えに走っていく。

 

 

 

 

 

 

 カニタが工房の方から飛び出してきた。

 

「ハルコル様。──炉だ。炉をどうしやす」

 

 その顔は煤ではなく別のもので強張っていた。火を落とすことは職人にとって片腕をもがれるに等しい。炉の火を消すことは鍛冶の手を止めることだ。カニタにとってそれは息を止めろと言われるのに近い。

 

「炉は落とせ」

 

 ハルコルは即座に答えた。

 

「……えっ」

 

「煙出しから灰が入る。炉に灰が落ちれば何が起きるか分からない。──それに今は鉄を打つ時じゃない。火の番に人手を割けない」

 

 カニタは口を開きかけ──噤んだ。

 

「……腕が鳴らねえ朝だ」

 

 ぼそりとそう言った。声は低く掠れていた。

 

「だが分かりやした。火種だけは灰の被らねえ甕に移しときます。──またいつでも熾せるように」

 

「頼む。──それとカニタ。工房の奥に積んだシムカㇷ(占冠)の石。あれを奥から手前に移しておいてくれ」

 

 カニタが怪訝な顔をした。あの白っぽい崖の石を、なぜ今。

 

「……あれを使うんで」

 

「いずれ。──灰が積もった後だ」

 

 ハルコルはそれ以上言わなかった。今は説く時ではない。カニタも長くは問わなかった。この村でハルコルが「いずれ」と言ったものは──種芋も、黒い砂も、燃える黒い石も──みな後になって意味を持った。職人はそれを骨身で知っていた。

 

「……へい。取り出しておきます」

 

 カニタは工房へ駆け戻った。その背中が半歩だけいつもより小さく見えた。

 

 

 

 

 

 

 その日、灰は降らなかった。

 

 西の空は一日じゅうどんよりと暗いままだった。地を這う音は思い出したように遠く轟いた。だが空から落ちてくるものは何もなかった。

 

 ほっと胸を撫で下ろす者もいた。噴いたといってもここまでは来ねえのでは、と。

 

 ハルコルはそうは思わなかった。

 

 (山はまだ火の口を開けきっていない。今のは口をこじ開けるための最初の一撃だ。地の底の水が熱で爆ぜている音だ。──本当の火はこれからだ)

 

 その確信を口には出さなかった。ただ夕餉の後も水を運ばせ、濡れ布を備えさせ、家々の煙出しを小さく塞がせた。父ペカンクㇽは息子のやることに一切口を挟まなかった。ただ自分は村を回り、年寄りと子どもを頑丈なチセへ移していった。

 

 問わぬ父と説かぬ息子。その間に長い時をかけて積み上げてきた信の橋が音もなく架かっていた。

 

 夜のあいだも地鳴りは絶えなかった。眠れぬ者が多かった。

 

 そして翌朝──。

 

 

 

 

 

 

 ハルコルを起こしたのは母の息を呑む声だった。

 

「ハルコル。──西を見て」

 

 跳ね起き、外へ出た。

 

 そして立ち尽くした。

 

 西の空に柱が立っていた。

 

 黒く、太く、天を衝いて立ち上がる柱。前の日のどんよりとした暗みとはまるで違う。一本の──おぞましいほどに巨きな煙の柱が西の地平からまっすぐ空へ、空へと伸び上がっている。その頂は見えなかった。首をどれほど反らしても天のどこまで届いているのか見極められない。

 

 あまりに遠く。あまりに高い。

 

 (あれが──七千年眠っていた山が、ついに火の口を開けた姿か)

 

 柱の根元のあたりで、ときおり声のない閃光が走った。雷だ。黒い柱の腹の中で稲妻が音もなく明滅している。光が先に届く。音は遅れて地を這って来る。光と音のずれがあの柱までの途方もない距離を体に刻み込んだ。

 

 (前世で映像でしか見たことのない景色だ。──噴煙柱。あれが本物の噴煙柱)

 

 ハルコルはその恐ろしさとその美しさに一瞬動けなかった。人の手の及ばない力が人の物差しの届かない規模で天を突いている。その前では村も畑も炉の火も鉄も銃も──すべてが砂の一粒ほどに小さかった。

 

 だがそれは一瞬だった。

 

 (来る。──あの柱から灰がここまで来る。風は西から東へ。僕たちのいる方へ流れている。──今度こそ本番だ)

 

「皆、チセの中へ。──濡れ布を顔に。灰が来る」

 

 

 

 

 

 

 日が高くなった。──はずだった。

 

 だが空は明るくならなかった。

 

 西から流れてきた黒い天蓋がじわじわと頭上を覆い、太陽を呑んでいく。真昼だというのにあたりは夕暮れのように翳った。光が灰色の膜を透かして滲んで届く。鳥は一羽も飛ばない。森の音という音がことごとく死んでいた。

 

 そして降り始めた。

 

 最初はごく細かい白っぽい粉だった。

 

 ふわりと一片。垂れ筵の隙間から外を覗いていたハルコルの手の甲にそれは音もなく落ちた。冷たくはない。雪ではない。指で擦るとざらりと乾いた感触を残し、灰白色の汚れが皮膚に残った。ガラスの粉をもっと軽くもっと脆くしたような。

 

 粉はしだいに密になっていった。風に乗って横から斜めから村じゅうに音もなく降り注ぐ。それは季節を間違えた雪のようだった。夏の盛りに灰色の雪が降る。畑の畝に、茅葺きの屋根に、広場の地面に──薄く、薄く、けれど確かに降り積もっていく。

 

 ハルコルは濡れ布で口と鼻を覆い、もう一度だけ外を見渡した。

 

 村は静まり返っていた。すべてのチセに人が籠り、煙出しからは細い煙だけが灰の空へまっすぐ立ち上っている。広場には誰もいない。降る灰の中に無人の村が灰色に沈んでいく。

 

 屋根に灰の触れる音が聞こえる気がした。さら……さら……と無数の細かな粒が茅の上を滑り落ちていく、ごく微かな音。耳を澄まさなければ聞こえない。世界でいちばん静かな音。

 

 その静けさが何より恐ろしかった。

 

 噴火の音は遠い。灰の降る音は近い。だがどちらも人の声が届かない場所から来ている。

 

 ハルコルは垂れ筵を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 チセの中へ戻ると囲炉裏端に母が年寄りと子どもたちを集めていた。皆濡れ布を顔に当て、火を囲んで息を潜めている。熾火の赤い光が下から怯えた顔を照らしていた。

 

 その輪のいちばん奥にエカシ・モノクテが座していた。

 

 七十に手の届く老人は灰の降る朝に慌てなかった。

 

 震える子どもたちを節くれだった手でひとり、またひとり、自分の膝の近くへ引き寄せていく。その手は大きくはない。だが地面から生えた根のように揺るがなかった。

 

「怖がるな」

 

 その声は大きくはなかった。だが──子どもらの泣き声がすうっと引いていく。声の中に、森の奥の太い幹のような動かないものがあった。

 

「儂がまだ若い頃の話だ。──お前たちの父の生まれる前のことだ」

 

 モノクテはゆっくりと語り始めた。語り部の低くよく通る声で。

 

「南の海の山が火を噴いた。空が暗くなり灰が降った。海がいちど大きく引いて──それから山のような波になって戻ってきた。多くの者が死んだ」

 

 子どもらが固唾を呑んで老人の口を見つめている。囲炉裏の熾火がぱちと爆ぜた。

 

「だがな。──逃げた者は生きた。高い所へ逃げ、振り返らずに走った者は生きた。そして──生き残った者でもう一度村を建てた。畑を起こし子を産み、こうしてお前たちがここにいる」

 

 老人は皺に埋もれた目で子どもらを見渡した。その目は外の灰色の空よりずっと遠いものを映していた。

 

「灰はいつかやむ。山はいつか眠る。──それまで儂らはここで火を囲んでおればよい。それだけのことだ」

 

 ハルコルは囲炉裏端の隅でその語りを聞いていた。

 

 外では灰が降り続いていた。さら、さらと。世界でいちばん静かな音がチセの屋根を撫でていた。

 

 

 

 

 

 

 灰は二日降り続いた。

 

 風向きが変わったのか噴煙の勢いが衰えたのか──三日目の朝には降りがぱたりと止んだ。

 

 チセの中でハルコルは垂れ筵の隙間から差す光の質が変わったことに気づいた。灰色の膜が薄れている。

 

 外へ出た。

 

 そして息を呑んだ。

 

 村のすべてが灰白色の薄物を一枚被っていた。チセの屋根も広場の地面も畑の畝も川辺の桟橋も──緑も土の黒も何もかもが灰の色に塗り込められている。夏の盛りの命の色がことごとく灰の下に沈んでいた。

 

 音も変わっていた。足を踏み出すとさくと灰を踏む乾いた音がする。村じゅうがその音に覆われていた。風が吹けば灰の粉が舞い上がり、鼻の奥で焦げた石の匂いがまた刺した。

 

 空は薄く明るみを取り戻している。雲の切れ間から弱い陽が灰の村を白々と照らしていた。影がない。灰が光を散らしてすべてを同じ明るさに均してしまう。

 

 ハルコルはしゃがみ込み、広場の地面に積もった灰へ指を差し入れた。

 

 さくと指が沈む。指の腹で灰の層の底──元の地面に触れるまでの深さを測る。

 

 第一関節がちょうど隠れるくらい。

 

 (……指一本の半分と少し。──十センチといったところか)

 

 心の中だけで前世の物差しで測った。

 

 (白老の海辺では背丈ほども積もったと後の世には書かれていた。ここはそれよりずっと遠い。風下の端の方だ。だからこれで済んだ。──いや、「済んだ」と言っていいのか)

 

 立ち上がり、掌の灰をぱんと払う。灰は指紋の溝に残ってなかなか落ちなかった。

 

 指一本ぶんの半分の灰。たいした厚さではないと言う者もいるだろう。だがハルコルは知っていた。この灰の下で畑がどうなっているか。井戸の水がどうなっているか。そして──この灰を放っておけばどうなるか。

 

 (屋根の灰は雨を吸えば重くなる。乾いた灰の倍も三倍も。──茅葺きがその重みに耐えられるか)

 

 ハルコルは振り返り、灰色の村に向かって声を上げた。

 

「皆、聞いてください。──灰を下ろします」

 

 

 

 

 

 

 灰の撤去は屋根から始まった。

 

 ハルコルはチセの屋根の灰を最優先で下ろさせた。理由は明快だった。乾いた灰は軽い。だが雨を吸えば何倍にも重くなる。屋根が抜ければ住む場所を失う。

 

「板で掻け。手で払うな。──舞い上がった灰を吸えば喉を傷める。濡れ布は外すな。掻いた灰は下に落としてまとめて運ぶ」

 

 男たちが屋根に上り木の板で灰を掻き下ろしていく。ざあ、ざあと灰が地面に滑り落ちる。乾いた灰の煙がふわりと立ち、陽の光に灰色に光った。

 

 次は井戸と水回りだった。

 

「井戸は汲んで捨てろ。底まで何度も汲み出す。──溜めた水はまだ使える。だが川の水はしばらく飲むな。上から流れてくる灰が落ち着くまでだ」

 

 そして──畑だった。

 

 ハルコルは母トゥレㇷ゚と畑の女衆とともに畝の前に立った。

 

 灰をそっと手で払う。

 

 菜種が──春に黄の花をつけ夏にかけて莢を膨らませていたはずの菜種が、灰の重みに茎を折り畝に倒れ伏していた。灰を被ったまま折れた茎はもう起き上がることはない。黄色かった莢は灰白色に汚れ、中の種だけがかろうじて生きていた。

 

 女衆の一人が低く嘆きを漏らした。

 

 母は唇を引き結んで倒れた菜種を見下ろしていた。春に黄花が畝を埋めた朝の母の顔をハルコルは覚えている。あの朝の笑みの分だけ今の沈黙は深かった。

 

 ハルコルはしゃがみ、菜種の根元の土を指で探った。灰の層を抜けてその下の黒い土に触れる。土はまだ湿りと温もりを残していた。冷たい灰の下にまだ生きている。

 

 (茎は折れた。だが──根は生きている。それに)

 

 立ち上がり畑のいちばん奥へ歩いた。エモ(ジャガイモ)の畝だ。葉は灰を被ってぐったりと垂れている。だが──。

 

 畝の一つを選び手で灰と土を掻き分けた。爪の中に湿った土が入り込む。

 

 土の中からエモが現れた。

 

 地表の葉はしおれている。だが地の下の芋は灰の害をまったく受けていなかった。土という蓋が灰から芋を守っていた。ころりと掘り出した一個を掌で転がす。ずっしりと重い。健やかな芋の重さだ。土の匂いがした。生きているものの匂い。灰の村で久しぶりに嗅ぐ命の匂いだった。

 

 ハルコルは母を振り返った。

 

「母さん。──地の上のものは傷みました。けれど地の下のものは無事です。エモは生きている。菜種も来年また播けます」

 

 母の強張っていた頬がわずかにゆるんだ。

 

「……そうかい」

 

 母はそれだけ言って倒れた菜種を一本そっと拾い上げた。

 

 

 

 

 

 

 灰を下ろし終えた村は、それでもまだ灰色のままだった。

 

 屋根から広場から畝から──掻き集められた灰は村のはずれに灰色の山となって積み上げられていた。これをどこへやるか。ただ捨てるには量が多すぎた。

 

 ハルコルはその灰の山の前に立っていた。風が吹くたび灰の粉が舞い上がり、濡れ布越しにも焦げた石の匂いがした。

 

 灰は厄介者だ。だが──。

 

 ハルコルの目が工房の方へ動いた。あの奥に占冠の崖から運び下ろした白い石が積んである。雨を避けてしまわせたあの石が。

 

 (あの石を強く焼けば酸を消す薬に変わる。焼いた石に水をかければひとりでに崩れて白い粉になる。その粉が灰で痩せた土の酸を和らげる。──前世でそう習った)

 

 ハルコルはカニタを呼んだ。

 

「カニタ。──シムカㇷの石を焼いてみたい。お前の炉で」

 

 カニタは熾し直したばかりの炉の前で振り返った。火種を甕から戻して炉に移し、やっとまた火の傍に立てるようになったばかりだ。その顔にほんのわずか色が戻っていた。

 

「あの白い石をですかい。──何になるんで」

 

「畑の薬になる。──強く焼くと別のものに変わる石だ。焼いた後で水をかけるとひとりでに崩れて白い粉になる。その粉が灰で痩せた土をまた作物を育てる土に戻す」

 

 言葉をいくら並べてもカニタには伝わるまい。前世で得た理屈は頭の中にはっきりと道筋を描いている。だがそれは頭の中の話だ。

 

「──言うより見た方が早い。やってみよう。お前が火を見てくれ」

 

 カニタの目がぎらりと光った。灰に埋まった朝に落とした火を、また新しいものを試すために使う。それはこの野鍛冶が何より好む火の使い道だった。

 

 

 

 

 

 

 シムカㇷの石を炉に入れ、強く焼いた。

 

 カニタの天秤鞴がふいご、ふいごと風を送る。炉の中で白い石が赤く熱し、やがて白く輝いた。半日焼き続けた。工房に籠った熱が灰で冷えた体の芯をじわりと温めた。

 

 炉から掻き出した石は見た目こそ元のままだ。だが手に取ると軽くなっていた。中身の半分が火に喰われたように。ハルコルはその焼けた石を桶の中に置き、上から水をそっとかけた。

 

 しゅう、と音がした。

 

 次の瞬間。

 

 石がぱきりと音を立てて自ら崩れ始めた。水を吸った石は湯気を立て、ぶつぶつと泡立ち、桶の中でみるみる白い粉へと姿を変えていく。桶の縁がほんのりと温かくなった。水をかけたのに熱が生まれる。石が死んで粉になって、その粉が桶を温めている。

 

「うわっ。──石がひとりでに崩れた。──熱い。水をかけたのになんで熱くなるんで」

 

 カニタが目を丸くした。

 

 ハルコルもその光景を改めて見つめた。

 

 理屈では知っていた。焼いた石に水が加われば熱を出しながら別のものに変わる。それが酸を和らげる薬になる──と。だがこうして自分の目の前で石が生き物のようにひとりでに崩れて粉になり桶を温めるさまは──知識で「知っている」のとまるで違う重さで迫ってきた。

 

 あの囲炉裏端で爺さんが子どもたちに語って聞かせた言葉が、今ここで石と水と湯気の形をしてハルコルの前に立っていた。

 

 ハルコルは桶の中の白い粉を両手ですくった。さらさらと指の間からこぼれ落ちる。灰色の村にひとすくいの白。

 

「カニタ。──これだ。この粉を灰の積もった畑に撒く。そうすれば痩せた土がまた作物を育てられる土に戻る」

 

 カニタは白い粉を指でつまんだ。さらさらとこぼれ落ちるその粉をじっと見ている。

 

「……種芋を持ってきた時も燃える黒い石を持ってきた時も──あんたはこうだった。何の役に立つのかこっちにゃさっぱり見えねえ石を先に積んでおく」

 

 ぼそりと言った。

 

「で、いつも後から意味が分かる。──まったく敵わねえや」

 

「敵う敵わないじゃない。──先に積んでおいた者だけがいざという時手を伸ばせる。それだけだ」

 

 

 

 

 

 

 白い粉を撒く作業は村じゅうの手で行われた。

 

 まず畝に積もった灰を土に鋤き込んだ。火の山の灰はそれ自体が痩せた土なのではない。鋤き込み馴染ませればいずれ土の一部になる。ただ酸が強すぎる。その酸を白い粉が和らげる。

 

 ハルコルは撒く量を慎重に決めた。多すぎればかえって作物を傷める。少なすぎれば効かない。一畝に両手でこれだけ。女衆にその加減を繰り返し手で示した。

 

「白い粉が土と灰に馴染むまでしばらくかかる。──今すぐ何かが起こるわけじゃない。だが雪が溶ける頃には土が変わっている。来年ここに播く種は今年よりよく育つはずだ」

 

 女衆が白い粉を畝に撒いていく。灰色の畝に白い筋が一本、また一本と引かれていく。灰の畝に白い線。その線の下で見えないものが少しずつ動き始めている。

 

 その光景をペカンクㇽが広場の端から見ていた。

 

 ハルコルが近づくと長は白い筋の畑を見つめたまま口を開いた。

 

「灰が降った。畑が埋まった。──だがお前は慌てなかった」

 

「慌てる暇がありませんでした」

 

「いや」

 

 ペカンクㇽは首を振った。

 

「お前は山が噴く前から知っていた。──いつとは言わなんだが、知っていた。違うか」

 

 ハルコルは答えなかった。ただ父の目を見返した。

 

 ペカンクㇽはそれ以上問わなかった。ふっと息を吐いた。

 

「問わぬ。──お前がこの村を生かす子か滅ぼす子か。それだけ分かっていれば十分だ。──氷の溶けた春にそう言った。今も変わらん」

 

 長は白い筋の畑から目を離さなかった。

 

「灰の下で芋が生きていた。菜種の根が生きていた。──備えた者だけが見られる景色だ。これは」

 

 

 

 

 

 

 灰を被った夏は過ぎていった。

 

 灰は雨に流され土に鋤き込まれ白い粉に和らげられて、少しずつ村からその灰色を薄れさせていった。

 

 底まで汲み出した井戸がまた満ちた。屋根の灰を下ろされたチセは一棟も潰れなかった。地の下の蔵ではエモが何事もなかったように収穫の時を待っていた。

 

 灰の積もった土はまだ本来の黒い色を取り戻しきってはいない。

 

 川を見やる。

 

 灰の流れ込んだ沙流川では魚影が目に見えて薄くなっていた。淵を覗いても春に遡ってきたあの群れの影も形もない。

 

 森も同じだった。狩りから戻ったカントが弓を下ろしながら吐き捨てるように言った。

 

「獣がいねえ。鹿も兎も。──灰を嫌って山の奥へ逃げやがった」

 

 短く鋭い声だった。弓を握る手が空を掴んでいた。

 

 (魚は減った。獣は遠くへ逃げた。──戻ってくるまでしばらくかかるだろう。一年か二年か。それまでは蔵の蓄えたエモがこの村の命綱だ)

 

 ハルコルはふと足を止めた。

 

 胸の底から冷たいものが這い上がってきた。灰の冷たさではない。もっと深い、もっと古い冷たさだった。

 

 (……はたしてこの村はもとの行く末ではどうだったのだろう)

 

 その問いは答えのないまま黒く渦を巻いた。

 

 (僕がここに生まれ落ちていなかったら。エモもなかったら。──この灰の夏をこの村は越えられただろうか。魚が消え獣が逃げた森で、痩せた畑だけを頼りにいったい何人が次の春を迎えられただろうか)

 

 考えてぞっとした。

 

 背筋を這い上がった冷えが首の後ろでじっと座り込んだ。

 

 (怖い。──僕がここにいなかったら、というその先を想像することがこんなにも怖い)

 

 それは思い上がりかもしれなかった。一人の子どもに村の生き死にを背負えるはずもない。だが──エモを蒔き地の下の蔵を掘らせ占冠の白い石を積ませたのがほかならぬ自分であることもまた確かだった。

 

 (背負うしかない。──知ってしまった者は知らぬふりができない)

 

 西の空を見やる。あの黒い柱はもうない。山は再び眠りについた。

 

 だがハルコルは知っていた。あの山の眠りがいつまで続くか誰にも分からないことを。そして──目を覚ます山があの山一つとは限らないことを。

 

 (次はもっと近い山が噴くことを知っている)

 

 その思いは胸の奥にしまった。今は言う時ではない。今日、村は灰の下から立ち上がったばかりだ。

 

 夕暮れの風が西から流れてきた。その風はもう焦げた石の匂いを運んでこなかった。土の匂いと夕餉の煙の匂いだけを運んできた。生きている村の匂いだった。

 

 ハルコルは白い粉の引かれた畝にもう一度目をやった。




第36話をお読みいただき、ありがとうございます!


おまけの解説コーナーです。

【火山灰の土壌への影響】
火山灰の主成分は、ごく細かいガラスの粒です。

降ったばかりの新鮮な火山灰には、硫黄酸化物や塩化水素といった火山ガス由来の成分が付着しています。これらが雨水に溶けると酸性の水となり、土壌の酸性度を押し上げます。さらに厄介なのが、灰に含まれるアルミニウムです。酸性に傾いた土の中では、このアルミニウムが活性化し、植物の根が吸い上げるはずのリン酸と強く結びついてしまいます。リン酸は植物の三大栄養素の一つで、これが土中にあっても植物が使えない形になってしまうのです。

日本は世界有数の火山国で、国土の約半分が火山灰由来の土壌(黒ボク土と呼ばれます)に覆われています。北海道は特にその割合が高い。現代の農学では、この火山灰土壌の酸性矯正に石灰資材を施用し、リン酸肥料を多めに投入することが教科書の基本として記されています。


【消石灰による土壌改良】
石灰石。化学の言葉で言えば炭酸カルシウム。貝殻やサンゴの骨格と同じ成分の石です。

この石灰石を強い火で焼くと、石の中に閉じ込められていた炭酸ガスが飛んで、別のものに変わります。生石灰と呼ばれるもので、見た目はあまり変わりませんが、手に取れば元より軽くなります。重量のおよそ四割を占めていた炭酸ガスが抜けたことによるものです。

この生石灰に水をかけると、石は水を吸い込みながら猛烈に発熱し、ひとりでに砕けて白い粉に変わる。この反応で生まれるのが消石灰──水酸化カルシウムです。現代では駅弁の加熱材にも使われているほど強い発熱です。

この消石灰は水に溶けると強いアルカリ性を示します。つまり、酸の反対。火山灰で酸性に傾いた土にこの粉を撒けば、土の酸が和らぎ、植物の根が再び栄養を吸えるようになります。

石灰による酸性土壌の矯正は、世界中の農業で古くから行われてきた技術です。ローマ時代にはすでに畑に石灰を撒く習慣が記録されていますし、日本でも江戸時代以降、石灰は「土を甘くする薬」として農書に登場します。




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