オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
第4章「灰の業、水の道」、幕開けになります。



【第4章】灰の業、水の道(1663年秋〜)
第37話:灰の秋と、地の下の実り【1663年 秋】


 水が、死んでいた。

 

 川底に灰が沈んでいる。流れの上を歩くように堆く溜まり、少しの風、少しの波で巻き上がって水を白く濁らせる。ハルコルは岸辺の石に両足を据え、見下ろした。かつて碧色に澄んでいた沙流川(サㇽ川)が、今は灰汁を溶かし込んだようにくすんで、重たく、どこへも行けない顔をして流れている。

 

 簗(てㇱ)が、川幅いっぱいに渡してあった。丸太の杭を等間隔に川底へ打ち込み、杭と杭のあいだを柳の枝で編んだ柵が塞いでいる。川を遡る鮭は、この柵に行く手を阻まれ、手前に溜まる。

 

 溜まったところを、男たちが鉤銛(マレㇷ゚)で突く。長い柄の先端に、紐で括った鉄の鉤が嵌めてある。水中の魚体を目がけて突き入れると、鉤だけが柄から外れ、紐に引かれて魚の中で回る。返しがなくとも、暴れるほど鉤が深く食い込んで逃がさない。

 

 ──それが、秋の漁だった。

 

 だが今、簗の手前に男たちが腿まで水に浸かって立っているだけだった。鉤銛を構えた腕が、もう長いこと動いていない。突くべき魚が、来ないのだ。背中に水の冷えが染みているはずだが、誰も上がらなかった。上がれば、今日も穫れなかったと認めることになる。

 

 簗の杭が、ときおり微かに震える。だがそれは魚の体当たりではなく、川底の砂利が流れに揺すられているだけだった。

 

「……上らねえな」

 

 低い声が、水面をすべって消えた。誰が言ったのか分からない。全員が同じことを噛んでいた。

 

 秋の鮭が、来ない。

 

 木の葉が赤く色づくこの季節、いつもなら簗の手前が銀色にたぎった。行く手を阻まれた鮭が折り重なるように群れ、柵を揺すり、杭を根元から軋ませた。水飛沫が上がり、男たちの鉤銛が次々と弧を描いて落ちる。引き上げるたびに銀色の魚体が跳ね、紐の先で鉤が食い込んだまま離れず、鮭が水面を叩く音と男たちの掛け声が夕暮れまで途切れなかった。それが今年は、半日待って、ようやく一尾か二尾。影は薄く、力もない。

 

(鮭が川の匂いを頼りに帰ってくるなら……灰で川底の匂いが変わってしまったのかもしれない)

 

 風が吹いた。頬に水飛沫がかかる。指先で拭うと、ざらりと粒が残った。灰だ。夏が終わり、秋が深まっても、この谷にはまだ灰が棲みついている。

 

 簗を任されている若い男が、空の背負い籠を岸の石に叩きつけた。カン、と乾いた木の音がして、籠が跳ね返り、横倒しに転がった。男はそれを拾わなかった。

 

「夏の灰だけじゃ、済まなかったってことかよ」

 

 苛立ちと不安を、そのまま声にしたような吐き捨てだった。ハルコルは何も言えなかった。

 

 川下から、ミナが歩いてきた。背に帳簿の木札を括りつけた背負子を負い、足元の石を一つ一つ確かめるように踏んでいる。男たちの様子を一瞥しただけで、ハルコルの隣まで来て立ち止まった。

 

「鮭、去年の半分も上ってこないわ」

 

「……半分」

 

「これから増えるかもしれない。でも、当てにはできないわ」

 

 木札を膝に載せ、石の欠片で何かを刻みつける。手を止めず、ミナは言った。

 

 濁った水が、足元の石を舐めて流れ去る。その水の底に、黒い粒が混じっているのが見えた。砂鉄だ。

 

(毎年秋は、鮭の邪魔をしないために砂鉄採りを止めていた。男が川に入って板で砂利を浚えば、水が濁り、川底が荒れる。産卵床を踏み壊す。──だが、そもそも鮭が上ってこないのなら)

 

 ハルコルは顔を上げた。

 

「ミナ。──簗に張りつけている男たちを、砂鉄に回せないか」

 

 ミナの手が止まった。刻みかけの石の欠片を木札の上に置いたまま、ハルコルを見た。

 

「秋は鮭が遡上する。砂鉄は春と夏。──そう決めたのは、あなたでしょう」

 

「鮭が上らない川を、空けておいても仕方がない」

 

 ハルコルは水に浸かったまま動かない男たちに目をやった。

 

「鮭が戻ってきたら、すぐに簗に切り替える。だが今は──鉄が要る。鍬も、鉞も、まだまだ鉄が要る」

 

 ミナは目を伏せ、指先で木札の刻みをなぞった。砂鉄の在庫と鉄器の需要を、頭の中で突き合わせているのだろう。

 

「……合うわ」

 

 声は低かったが、迷いはなかった。

 

「鮭が半分なら、干し場に張る人手も半分で済む。残りの男を砂鉄に回して、秋のうちに春の分まで溜めておけば、来年の春は炉に専念できる」

 

 ミナの数字が、ハルコルの中で別の形を結んだ。鮭の代わりに砂鉄。川が銀色の魚で満ちる代わりに、川底の黒い粒を掬い集める。

 

 川の水が、白く濁ったまま流れていた。その濁りの底に、黒い砂鉄が眠っている。

 

 

 

 

 

 

 鮭は上らなかった。だが、川を下ってきたものは、あった。

 

 舟だった。

 

 ハルコルが舟着き場に降りると、沙流川の上流から丸木舟が連なって下ってくるところだった。一艘、二艘、三艘。どの舟も喫水が深い。舳先が水面すれすれまで沈んでいる。重い荷を積んでいた。

 

 先頭の舟が岸に寄せた。漕ぎ手が舟底から荷を持ち上げ、岸に下ろす。

 

 ごとり。

 

 白っぽい石が転がり出た。角ばって乾いた、拳よりひとまわり大きな塊。ハルコルは膝をつき、手を当てた。ひんやりとした石の肌が、掌に吸いつく。

 

 石灰石だった。占冠(シムカㇷ)の沢の白い崖から割り出した石が、こうして次々と村に届いている。

 

「ウタ」

 

 声をかけると、二艘目の舟から、交易を束ねる男が岸に上がった。日に焼けた背が光っている。旅の埃と、川の飛沫が入り交じった匂いがした。

 

「これで四度目の便になります」

 

 ウタは岸に積まれた石の山に目をやった。

 

「シムカㇷ(占冠)の者たちが崖を削って、沢伝いに峠まで運んでくれています。峠を越えれば、こちらの川の上。あとは流れに乗せて下すだけです」

 

 占冠は分水嶺の向こう側にある。沙流川を遡り、源に近い峠を越えた先。そこの沢を流れる水は、やがて鵡川に注ぐ。鵡川の中流から下流はオニビシの勢力圏だ。だから石灰石を鵡川で下すわけにはいかない。代わりに人の背で峠を越えさせ、こちら側の沙流川上流まで運び、舟に積む。

 

「ニプタイからも、漕ぎ手と荷運びを上流へ送りました」

 

 ウタが言った。

 

「上で荷を受け取って下る。空舟で遡ってまた受け取る。──途切れないようにしています」

 

 荷を運ぶ者、舟を漕ぐ者、峠で待つ者。幾十もの手が一つの流れになって、白い石を村へ運び込んでいた。

 

 ハルコルは石灰石の表面を指でなぞった。ざらりと粉が指に残る。これを焼けば白い粉になる。灰に痩せた土の酸を和らげ、地力を少しずつ取り戻していく。すぐには効かない。何年もかかる。

 

(焦らない。土が応えるまで何年でもかける。──種を持って歩いた者の話と同じだ)

 

「畑も川も、まだ灰の中です」

 

 ウタがハルコルの隣に立った。川を見つめながら、静かに言った。

 

「ですが、こうして石が届く。網が、生きています」

 

 ハルコルは顔を上げた。ウタの日焼けした横顔が、秋の光の中で穏やかだった。

 

「困った時こそ、繋がりが物を言います」

 

 ウタが笑った。白い歯がのぞいた。

 

「何年もかけて結んできた繋がりですよ」

 

 ハルコルは何も言わず、川を見た。石を降ろし終えた舟がもう向きを変え、上流へ戻っていく。空になった舟は軽い。漕ぎ手が竿を差すたびに、ぐい、ぐいと水を割って遡っていく。

 

(一つの村だけなら、灰に潰されていた。だが村は一つじゃない。山の向こうにも、川の上にも、繋がった手がある)

 

 白い石が、岸辺に積み上がっていく。秋の日差しを受けて、灰色の水際に白く光っている。

 

 

 

 石だけではなかった。

 

「ハルコル。上流の者たちが、面白い話を持ってきました」

 

 舟着き場からの帰り道で、ウタが横を歩きながら言った。

 

「面白い話」

 

「シムカㇷ(占冠)もユーパㇽ(夕張)も、灰がほとんど降らなかったそうです」

 

 ハルコルは足を止めた。

 

「うっすら積もった程度だと。山がいくつも挟まっていますから、風が灰を運ぶ向きもこちらとは違ったのでしょう」

 

 占冠も夕張も分水嶺の北側にある。村を埋めた灰は、いくつもの山に遮られて向こうまでは届かなかった。同じ夏、同じ噴火でも、降った灰の厚さがまるで違う。

 

「ここからが面白いところです」

 

 ウタの声が弾んだ。

 

「向こうのエモが──豊作だそうです」

 

 ハルコルは息を呑んだ。

 

「良く穫れたと。シムカㇷの者たちがエモの種を分けてもらった礼にと、エモを舟に積んで送ってきています。ユーパㇽからも余った分を回すと」

 

(同じ作物を離れた場所にいくつも植えておいた。──一つの村が飢えても別の村が支える。そのためにエモを各地へ広げたんだ)

 

 村々にエモの種を渡して回った。一つのコタンの畑が潰れても、別のコタンの畑が生きている。その狙いが、灰の降った秋に、形になっていた。

 

「繋がりは食い物まで運ぶというわけです」

 

 ウタが岸の石灰石の山を顎で示した。

 

「土を直す石と、腹を満たすエモ。──その両方が、川を下ってきます」

 

 

 

「下ってくるだけでは、足りん」

 

 低い声が、川風を断つように落ちた。ペカンクㇽが岸に立っている。石灰石の山を背に、腕を組んで舟を見つめていた。

 

「ウタ。帰りの舟に鍬を積め」

 

「……鍬、ですか」

 

「シムカㇷとユーパㇽに、鉄の鍬を渡す。エモの礼だ」

 

 鉄の鍬。カニタの炉で砂鉄から鍛えた刃。それを、エモの礼に送る。

 

「もらいきりは、借りだ。借りは鎖になる」

 

 ペカンクㇽの目が、川を上っていく空舟を追った。

 

「輪は、こちらからも流さねば回らん」

 

 それだけ言って、長は踵を返した。ウタが深く息をつき、その背を見送っている。

 

 ハルコルは足元の灰色の地面を見つめた。それから、川と、川の上を行き来する小さな舟を見た。

 

 胸の奥に、今朝の川岸で鮭を待っていた時とは違うものが灯っていた。

 

 

 

 

 

 

 石が届き、エモが届く。

 

 では、この村の畑のエモはどうか。

 

 エモの畝に女たちが散っていた。石灰を焼いて撒き、灰を薄く鋤き込んだ畝。春に植え、夏に灰を被ったエモを、いよいよ掘り上げる。

 

 ハルコルは女たちに混じって畝に膝をついた。手鍬の刃を土に差し込み、ゆっくりと返す。黒い土が、ぼそりと割れた。その中に──。

 

 あった。

 

 ごろり、とエモが転がり出る。手のひらに載せると、ずっしりと重い。土の匂いが指のあいだに広がった。湿った土の匂い。生きているものの匂い。灰の臭いとは違う、暗い地の底から上がってきた、確かな命の重さ。

 

(地上の作物は灰に焼かれた。川の鮭は来なかった。──だがエモは、地の下で生きていた)

 

 ハルコルは掘り出したエモを両手で包んだ。灰がどれほど降っても、土の中までは届かない。葉は灰をかぶって力を落としたが、エモそのものは地の暗がりで守られていた。

 

「穫れたねえ」

 

 隣でエモを掘っていた女が、息をつくように言った。

 

「ああ。穫れました」

 

 ハルコルは頷いた。だが──。

 

 籠にエモを集めていくうちに、手が止まった。

 

 出来が揃っていない。

 

 同じ畝の、同じ深さに植えたエモなのに、こぶしほどに太った株もあれば、指先ほどに痩せた株もある。隣り合った二つの株で、まるで大きさが違う。灰を厚くかぶった区画ほどその差が目立ったが、灰の薄い畝でも株ごとに揺れがあった。

 

「今年は出来がまちまちだね」

 

 女の一人が、大小のエモを並べて首を傾げた。

 

「こっちの株は立派なのに、隣がこれだ。同じように植えたのにねえ」

 

 ハルコルは両手にエモを一つずつ持ち、見比べた。右はずっしりと重く、肌が張っている。左は痩せて、皮に皺が寄っている。

 

(なぜこれほど差が出る。灰のせいか──いや、灰を被っていない畝でも、差はある)

 

 胸の奥が、かすかにざわついた。理屈がまだ形にならない。何かの端に手が触れている感覚だけが、指先に残った。

 

「ミナ」

 

 帳簿を抱えてやってきたミナを呼んだ。

 

「畝ごとに、株の出来の差を書きとめてくれないか。よく穫れた株と穫れなかった株。どの畝のどのあたりか」

 

「面倒ね」

 

 ミナは一拍、間を置いた。もう木札と石の欠片を構えている。

 

「──だけど、書くわ。数字にしておけば、比べられる」

 

 それでいい、とハルコルは思った。今は分からなくていい。違和感を消さずに帳簿に残す。数字は忘れない。もう一度この目で見たときに、この差の意味に手が届くかもしれない。

 

 大きいのも小さいのも、選り分けずに籠へ入れていく。それでも籠は重かった。例年には及ばない。枝豆ほどの痩せた株が混じっている分だけ、収量は落ちている。だが──。

 

「全部の畝を合わせれば」

 

 ミナが刻んだ数字を読み上げた。

 

「冬を越す分には、足りるわ」

 

 ハルコルは深く息を吐いた。

 

 足りる。

 

 その二文字が、灰の秋の畑に、ゆっくりと沁み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 エモは、地の下で生き延びた。では、地の上に播いたものはどうだったか。

 

 ハルコルが畑に着いたとき、女たちはもう菜種の畝に散っていた。

 

 菜種は、この村にとって初めての作物だった。春に播き、夏に背を伸ばし、秋に莢を実らせる。輪作の四年目──エモ、大豆、アワとヒエ、そして菜種。四つの作物が一つの畝を順に巡る環が、ようやく一巡する秋だった。

 

 その環の、最後の輪。

 

 ハルコルは畝の前に立ち、息を止めた。

 

 茎が黒い。

 

 夏の灰に覆われた菜種は、葉が焼けて縮れ、莢の多くが実をつける前に萎んでいた。まだ立っている茎も、灰の重みに撓んで半ば地に伏している。まともに膨らんだ莢は、十のうち二つもなかった。

 

「……ひどい」

 

 ハルコルはしゃがみ、莢を一つ摘んだ。指のあいだで力なく潰れ、中から痩せた種がぽろりとこぼれた。黒ずんで小さい。爪の先ほどしかない。

 

(葉が灰に覆われて、光を吸えなかった。莢が膨らむ前に養分が尽きたんだ)

 

 菜種は地の上で実る。空から降りしきる灰を、茎も葉も莢もそのまま浴びた。逃げる場所がなかった。

 

 女たちが黙って莢を摘んでいく。指先で一つずつ探り、まだ中身のありそうなものだけをより分けて籠に落とす。声もなく、ただ手だけが動いている。籠の底には、黒く痩せた種が薄く溜まっていくばかりだった。

 

「これで油が搾れるのかね」

 

 女の一人が振り返った。問うというより、もう答えを知っている顔だった。

 

 ハルコルは籠を覗き込んだ。村じゅうの灯りを賄える量からは遠い。

 

 だが。

 

「搾ってみましょう」

 

 ハルコルは立ち上がった。

 

「少しでも。──一滴でも油が出るか、確かめたい。これだけ手をかけて育てた種です」

 

 女たちが目を見合わせた。しばらく、誰も動かなかった。やがて、籠を地面に置いていた年嵩の女が、腰を上げて籠を抱え直した。何も言わず。ただ、それが返事だった。

 

 

 

 

 

 

 搾油は、村の誰もやったことのない仕事だった。

 

(炒る、潰す、絞る。前世で読んだ本にはそう書いてあった。だが分量も火加減も書いてなかった。──やってみるしかない)

 

 ハルコルは前世の記憶を繰り返しなぞりながら、手を動かした。

 

 まず、菜種を平たい鉄鍋に広げ、弱い火で炒った。

 

 じり。じり。じり、じり、じり。

 

 小さな種が鍋肌の上で弾ける。ひとつ、またひとつ。やがてざわざわと粒が蠢きだし、香ばしい匂いが立ち上った。焦げた灰の匂いが染みついたこの秋の空気のなかに、はじめて温かな香りが混じる。

 

「いい匂いだねえ」

 

 火の番をしていた老女が目を細めた。皺だらけの顔が、鍋の湯気の向こうに揺れている。

 

 炒りあがった種を臼に移し、杵で搗いた。ごとり。ごとり。重く鈍い音が、秋の畑にこだまする。種が砕けて、やがてねっとりとした褐色の塊に変わる。脂が滲んで、杵の先が鈍い光を帯びはじめた。

 

 その塊を布に包み、二枚の板で挟んだ。上に石を載せ、さらにもう一つ。ずっしりと重みが加わる。

 

 待った。

 

 布の端を、女たちが囲んで見つめている。ハルコルも息を詰めて、布の下の板を見つめた。

 

 何も起きない。

 

 風が吹いて、頭上の枝がざわめいた。鳥が一羽、低く鳴いて飛び去った。

 

 ぽとり。

 

 布の端から、雫が落ちた。

 

 琥珀色だった。秋の陽を透かしたような、澄んだ黄金。それが、ぽとり、ぽとり、と石の窪みに滴り落ちていく。一滴が落ちるたびに、窪みの底で小さな輪が広がり、消えた。

 

「……出たよ」

 

 老女が、囁くように言った。

 

 ハルコルは石の窪みに顔を近づけた。琥珀色の油が薄く溜まっている。獣の脂とはまるで違う。澄んで、軽くて、鼻に近づけると温かい香りがする。炒った種の名残のような、ほのかな甘さ。

 

(少ない。でも、油だ。──土から生まれた油だ)

 

 布からの雫は、やがて細い筋になり、また雫に戻り、長い時間をかけて少しずつ窪みを満たしていった。集まった油は、小さな壺に移してもいくつか分。豊かな実りの年の収穫には遠く及ばない。

 

 だが──冬の夜を幾晩かは照らせるだけの量は、そこにあった。

 

 

 

 

 

 

 その晩、ミナが灯明の油を替えた。

 

 いつもの獣脂を芯から拭い取り、新しい菜種油に浸す。火口から火を移すと、炎がすっと立ち上がった。

 

 チセの中が明るくなった。

 

 ハルコルは、はっとして顔を上げた。獣脂の灯明しか知らなかった目には、その光は別の季節が差し込んできたように映った。煤けた赤ではない。澄んで白に近い光が、囲炉裏の周りに円く広がっている。

 

「……明るい」

 

 ミナが手元の木札をかざした。刻んだ文字の一画一画が、溝の底まではっきりと読める。

 

「帳簿の誤字が減るわ」

 

 それだけ言って、ミナは帳簿に向き直った。だがその声には、いつもの研いだ刃のような硬さがなかった。

 

 囲炉裏の薪が、パチリと爆ぜた。

 

 戸口に、影が立っている。

 

 ペカンクㇽだった。いつから見ていたのか。腕を組み、灯明の光を見つめている。皺の刻まれた顔が、菜種油の白い光の中で、いつもより近く見えた。獣脂の灯りでは影に沈んでいた目元が、くっきりと照らされている。

 

 長は、しばらく黙って灯りを見ていた。やがて、短く言った。

 

「明るいな」

 

 ハルコルは父を見上げた。

 

「──あの小さな種の力か」

 

 ペカンクㇽの声は低く、静かだった。だが、その静かさの底に、ハルコルは確かな重さを聞いた。問いではなく、確かめるような声だった。

 

 

 

 翌朝、ハルコルは壺を一つ持って工房を訪ねた。

 

 カニタがすでに仕事にかかっていた。前の晩に替えた菜種油の灯明の下で、細い鏨を砥石に当てている。しゃり、しゃり、と金属が石を撫でる音が、朝の静けさに細く響いていた。

 

「どうだろう、その灯りは」

 

 カニタは手を止めずに答えた。

 

「獣脂とは段違いでさあ」

 

 鏨を光にかざし、刃先を透かして見る。

 

「夜でも細けえ仕事ができまさあ。手元に影が出ねえ。──鉄を打つにゃ、影が一番の敵なんでさあ」

 

 灯明の白い光が、カニタの掌の上の鏨に細い筋を落としている。職人の目が、その光の中で静かに光っていた。

 

「種がたんと穫れる年が来たら」

 

 カニタは研ぎ終えた鏨を台に置いた。

 

「工房の夜が、まるごと変わりまさあ。──それまでは、この油、一滴も無駄にゃできねえですが」

 

 灰にやられた畑から、僅かに穫れた種。その種から絞った、琥珀色の油。その油が灯す白い光の下で、鉄を打つ男がいる。

 

 足りない。まだ、とても足りない。

 

 それでも──灯りは変わった。

 

 

 

 

 

 

 その晩。

 

 菜種油の灯明が白い光を落とすチセの中で、ハルコルとミナとペカンクㇽが囲炉裏を囲んだ。

 

 ミナが今日の数を木札に刻みつけていた。鮭の漁獲、菜種の油の壺数、掘り上げたエモの籠数、占冠から届いた石灰石、山の向こうから舟で送られてきたエモ。数字が一つ一つ、白い光の下に並んでいく。

 

「鮭は去年の半分も上らなかった」

 

 ミナが刻みながら言った。

 

「菜種は灰にやられた。油は壺にいくらか」

 

 ペカンクㇽは黙って頷いた。灯明の炎が揺れて、長の顔に白い光と影が交互に流れた。

 

「だが」

 

 ミナの指が別の木札を引き寄せた。

 

「エモは穫れた。山の向こうのエモも届いた。地下の蔵には去年からの備えがある」

 

 炉の薪が崩れて、ぱきり、と小さな音を立てた。

 

「──冬は越せるわ」

 

 沈黙が落ちた。囲炉裏の赤い火と、灯明の白い光が、チセの壁に二つの色を重ねている。

 

 ペカンクㇽがゆっくりと口を開いた。

 

「五年前なら」

 

 その声は低く、遠くから届く地鳴りのようだった。

 

「この秋で村は終わっていた」

 

 ハルコルは父の顔を見た。ペカンクㇽの目は灯明を見つめていた。菜種油の白い炎を、まばたきもせずに。

 

「鮭が上らず、畑が灰に焼かれれば──冬を待たずに飢えていた」

 

「……ええ」

 

「だが、今は違う」

 

 長の声が、ほんの少し上がった。

 

「地の下にエモがある。繋がった村がある」

 

 ペカンクㇽが灯明から目を離し、ハルコルを見た。

 

「──備えていた者だけが、この秋を越せる」

 

 ハルコルはその言葉を、胸の底で受け止めた。

 

(空から灰が降った。川から鮭が消えた。畑の上のものは焼けた。──それでも村は折れなかった。地の下に蓄え、山の向こうに種を播き、川に網を結んでおいた。その一つ一つが、今、この村を支えている)

 

 灯明の炎が、まっすぐに立っている。風もないのに、ゆらぎもせず、白く澄んだ光を放っている。

 

 痩せた種から絞った、ほんの僅かな油。それでも、灯りは確かに灯っている。

 

 ミナの木札に刻まれた数字が、その光の下ではっきりと読めた。

 

 四年の輪が一巡した。エモ、大豆、アワとヒエ、菜種。最後の環は灰に焼かれて細った。だが輪は閉じた。閉じた輪の真ん中に、村はまだ立っている。

 

(山は、また目を覚ます。それも、今度はもっと近くで)

 

 ハルコルは、夏に空を覆った灰色の天地を思い出した。あれが最後ではない。前世の知識がそう告げている。いつかまた、大地が吼える。

 

(だが──何を備えればいいのかを、もう知っている)

 

 囲炉裏の火が崩れ、もう一度、パチリと爆ぜた。赤い火の粉が舞い上がり、天窓の闇に吸い込まれて消えた。

 

 菜種油の炎は、その音にも揺らがなかった。

 

 白く、澄んで、灰の秋の夜を照らしていた。




第37話をお読みいただき、ありがとうございます!

おまけの解説コーナーです。
今回はサケ漁と菜種油について。

【テシとマレㇷ゚──アイヌのサケ漁の仕組み】
簗(てㇱ)の前に男たちが立ち、鉤銛(マレㇷ゚)を構えて鮭を待つ場面を描きました。

テシは、川幅いっぱいに丸太の杭を打ち込み、杭と杭のあいだを柳の枝で編んだ柵で塞いだ仕掛けです。遡上する鮭はこの柵に行く手を阻まれ、手前に溜まります。
溜まったところを、岸辺や水の中から狙い撃つわけです。

もうひとつの仕掛けとして「ウライ」があります。
こちらは川を堰き止めて箱のような構造に鮭を追い込む罠で、いわば「入ったら出られない柵」。

テシが「壁を作って待ち伏せる」漁法なら、ウライは「囲い込んで捕らえる」漁法です。

マレㇷ゚(鉤銛)の仕組みですが、二〜三メートルほどの長い柄の先端に台木があり、そこに紐で括った鉄の鉤(約二十センチ)が嵌めてあります。
鮭に向けて突き入れると、鉤だけが台木から外れます。
このとき鉤が回転して、突き刺す瞬間は「銛」、引き上げるときは「鉤」として機能するのです。
返しがなくても、鉤が回って魚の中で食い込むため、暴れても外れません。
つまり、一本の鉄の鉤が「突く道具」と「引っかける道具」の二役を、瞬時に切り替える構造になっています。

また、マレㇷ゚には返しがありません。
返しがないから鉤を傷めずに済み、魚から抜いてすぐ次の一突きに使える。
秋の短い遡上期に、何百尾もの鮭を次々と突いていく、そんなアイヌのサケ漁に最適された道具と言えます。

なお、アイヌはサケを「神の魚」として大切にし、最初に遡上してきた一尾を「アシㇼチェㇷ゚」(新しい魚)として迎え、ヌサ(祭壇)に供えてカムイに感謝する「アシㇼチェㇷ゚ノミ」の儀式を行いました。
川を汚す行いを禁じ、根絶やしにするような漁法を戒めるなど、資源の持続性に対する意識は非常に高かったようです。



【菜種油──獣脂の赤い灯りから、白い光へ】
動物性の油──獣脂や魚油──は、灯明に使うと独特の臭気を放ち、煤が多く出ます。

一方、菜種油は煤が少なく、炎が安定し、明るいです。
これは菜種油の特性で、粘度が高く酸化安定性に優れるため、芯が油をゆっくり吸い上げて均一に燃焼するのです。

日本の灯火の歴史を振り返ると、菜種油が広く灯明に使われるようになるのは江戸時代に入ってからです。
室町末から江戸初期にかけて搾油技術が進み、「搾め木(しめぎ)」と呼ばれる圧搾器具の開発で大量生産が可能になりました。
それ以前は荏胡麻(エゴマ)油が主流でしたが、菜種油が取って代わりました。
ただし、菜種油は高価なものでした。
文化年間(十九世紀初頭)の記録では、米一升が百文に対して菜種油は四百文。
庶民には高嶺の花で、江戸の町ではもっぱらイワシの魚油が使われていました。

「炒る → 臼で搗く → 布に包んで板と石で圧搾する」という手順は、大蔵永常が天保七年(1836年)に著した『製油録』に記された工程の、もっとも原始的な形にあたります。

技術が暮らしを変えるのは、兵器だけではありません。
灯りが明るくなれば、夜に帳簿がつけられる。鏨が研げる。
冬の長い夜の過ごし方そのものが変わる。アイヌの夜が変わっていきます。



* * * * *

いつも温かく見守ってくださる既存の読者様、そして新しくご覧頂いている皆様、本当にありがとうございます。
皆様のアクセス、お気に入り・しおり・感想、そして評価が何よりの執筆の原動力です。

第4章に入りましたが、今後ともよろしくお願いいたします。
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