オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
肘が、ぶつかった。
ユキの肘が積んであった部品の山に当たり、仕上がりかけの撃鉄がごとりと床に落ちた。カニタの槌が止まる。工房の空気が、一瞬冷えた。
「……すまない」
ユキが拾い上げ、指で面を確かめた。欠けてはいない。カニタは何も言わず、槌を振り直した。
春の朝だった。外では雪解けの水音が絶えず、軒先の氷柱がぽたり、ぽたりと崩れている。だが工房の中に季節はなかった。冬と同じ煤の匂いが天井に澱み、壁は炉の蒸気に汗をかいている。天井の煤が炉の熱に煽られて剥がれ、ぱらりと鋼板の上に落ちた。
ハルコルは入口から中を見た。壁際に鋼板の控えが積み上がり、仕上がった銃身を寝かせる棚が通路を塞いでいる。部品の山が床を侵し、人が通るだけで何かに当たった。砥石と鉄粉が泥に混じり、足元はどこを踏んでもざりざりと鳴る。レウは今朝から製鉄所のほうに入っている。銃身の組み付けと鋼板の鍛造。二つの仕事が一つ屋根の下に収まりきらなくなっていた。
「カニタ」
カニタは槌を止めずに半身で振り向いた。
「隣に、もう一棟建てよう。雪が解けたら」
槌が台に置かれた。かん、と短い音を残して。カニタが額の汗を腕で拭った。
「ありがてえ。さすがに手狭になってた」
外で、沙流川(サㇽ川)の氷がぴしりと割れた。
◆
雪解けを待って、普請が始まった。
凍てた地面は硬い。ハルコルも鉄の掘り棒を握り、霜柱ごと土を割った。がつ、がつ、と腕に返る衝撃。冬のあいだ炉の前で緩んだ体が悲鳴を上げた。掘り返した土は灰色をしていた。一昨年の夏に降った火山の灰が、雪の下でそのまま残っている。
材木はアエトモが見立てた。沙流川の上流から切り出したミズナラとハルニレ。斧が幹に食い込むたび、銃床を削るときとは違う骨太な音が林に響く。倒れた木が地を打つ重い振動が足裏に伝わった。皮を剥いた白い木肌から、湿った木の匂いが立ち昇る。
「筋が素直だ。冬を越して締まっている」
アエトモが切り口を一度撫でて、それだけ言った。低く短い声だった。隣でシノッが枝を払っている。義父と娘婿の斧が、ほとんど同じ拍で木に入った。
柱が立ち、梁が渡り、壁に粘土を塗り込む。素手で粘土を練ると指先が痺れたが、日が高くなるにつれ泥の匂いの中に春の温みが混じり始めた。屋根を葺くハルニレの樹皮の匂いが風に乗って畑のほうまで届いた。
問題は、床だった。
前の工房は地面を踏み固めただけで、雨が降れば泥がまとわりつく。砥石を据えれば傾き、鉄粉が泥に混じって始末が悪い。粘土と砂を練り水を加えて搗き固めるのが常だったが、搗いても乾けば罅割れ、踏めば砂が浮いた。
改善策はカニタが見つけた。ある日の昼過ぎ、カニタが工房の外に出て水を飲んでいた。
ふと、視線が止まった。
村のあちこちに、灰の山が積んである。噴火のあと屋根から下ろし、畑から掻き出し、道から掃き寄せた灰。使い途がなく、ただ積まれていた。雪が解けて露わになった灰色の山が、春の日差しの中でぼんやりと白く煙っている。邪魔だと文句を言う者はいても、何かに使おうとした者はいなかった。
カニタがその山に歩み寄り、灰をひと掬い掌に載せた。指で擦った。さらさらと崩れる。だが砂とは違う。粒の一つひとつに角がある。カニタは指先の感触に目を細めた。
「……細けえな。角がある」
工房に戻ると、練りかけの粘土の中にその灰を混ぜた。水で湿らせ、ユキを呼び、二人で踏み固めた。
翌朝。
ハルコルが工房を覗くと、カニタが床に片膝をついていた。掌で叩いている。
こん、こん。
石を叩く音がした。昨日まで泥だった場所から。
「硬えんだ」
カニタが踵で踏んだ。凹まない。爪を立てても、表面が僅かに白くなるだけだった。
「灰を噛ませた。砂だけの時とは別物だ。──こりゃ、使えるぞ」
ハルコルはしゃがんで指の腹で床を擦った。乾いた粘土の感触ではない。石に近い、滑らかな硬さが指に返った。
(なるほど。灰の細かい粒が粘土の隙間に食い合った。火山灰の角ばった微粒子が粘土と噛み合う。)
「カニタ。これ、道にも使えないか」
「道?」
「泥道だ。荷を担ぐたびに足を取られる」
「……灰なら、いくらでもある」
カニタの口元が緩んだ。
三日後、泥道に灰混じりの粘土が敷かれた。女たちが灰と土を運び、男たちが水を撒いて踏む。子供たちまでが走り回って搗き固めた。乾いた翌朝、荷を背負った男が歩いても、わだちが深く刻まれなかった。これまで泥に半分埋まっていた足が、軽い。
ペカンクㇽが灰色の道を歩いて戻ってきた。足を止め、地面を見下ろし、もう一度踏んだ。
「……固いな」
一度だけ頷いた。だが長の足が泥に沈まなかったことを、道を敷いた男たちは黙って見ていた。あの灰が、こうなる。降っただけの灰が、踏まれて固まって、人の足を支える道になった。
新しい工房が建った。
次に、アエトモとシノッの話になった。二人は上流から通っていたが、銃床は乾きを見ながら削るものだ。
「通いじゃ、変わり目を見逃す」
アエトモが低く言った。ハルコルはペカンクㇽに相談し、まず客人用のチセに入ってもらうことにした。チセの普請は工房の合間に進め、夏を待たずに小さな住まいが立つ算段だ。
アエトモとシノッが荷をまとめてきた日、客人用のチセに木の香りが満ちた。壁に鉋と鑿が大きさの順に掛かり、床には削りかけのミズナラが並んだ。アエトモは初日から銃床の乾き具合を確かめに工房を覗いた。通いでは見逃していた微かな反りの兆しを、その日のうちに見つけた。「……こいつは、もう半日早く削るべきだった」と低く呟き、鉋を取った。最初の晩、新しい工房の床を踵で踏みに来ていた。硬さを確かめている。丸木舟の職人が、自分の足で建物の床を検めていた。
朝。カニタが炉に火を入れる。レウが製鉄所で鞴を踏み始め、鋼板の下ごしらえを回す。工房ではユキが部品を台に並べ終わる頃に、隣からアエトモの鉋がミズナラを撫でる音が聞こえてきた。しゅ、しゅ。薄い削り花が床に散ると、シノッが掃き集めて燃しつけに回す。カニタの槌が鋼を打ち、その余韻が消えないうちにアエトモの鉋がまた一筋削る。鉄の匂いと木の匂いが梁の下で混じり合い、それが新しい工房の匂いになった。
カニタが銃身を仕上げるとアエトモの銃床が待っている。アエトモが銃床を仕上げるとシノッの肩当てが待っている。一人が遅れれば全員が止まり、一人が早ければ次の一丁に取りかかれる。五人の手が一丁の銃を分けて作る。前の工房では肘がぶつかった。この土間では腕を伸ばしても壁に届かない。
工房の床は硬い。灰が噛んだ床の上を、五人の足が毎朝踏む。その足が泥に沈まないだけで、仕事の捗りが違った。
銃の量産体制が、ここに整った。
◆
工房の床は灰で硬くなった。だが畑の土は、灰に焼かれたまま痩せていた。
ハルコルは畝の縁にしゃがみ、土を掬っていた。灰色の粒が指の間から落ちる。鼻に近づけても、土の匂いがしなかった。灰の匂いだけが、乾いて鼻を刺した。
噴火の前、この土は黒かった。掌にしっとり吸いつき、エモの根が力強く張る土だった。今は掬い上げてもすぐにこぼれる。根を受け止める力が、抜けていた。もう一度、掌の灰色を見た。この色が村の冬を脅かしている。
前の秋に占冠(シムカㇷ)の消石灰を撒いた畝は酸が和らいで芋の越冬をどうにか保ったが、春に掘り返すと表面の白い筋の下はまだ砂のように締まりがない。
ハルコルは土を掌から落とし、立ち上がった。
石灰だけでは足りない。土に養いを戻すものが要る。
ハルコルの足が、硝石の培養場に向いた。ミナが管理する培養の床──人の尿と草を混ぜ込んだ土を何年もかけて醸し、硝石を取り出す仕組みだ。結晶を抽出し終えた土が、培養場の脇に積まれていた。黒く、湿り、手に取ると土の匂いが濃い。搾りかすだった。畑の灰色の土とは、まるで違う。
「ミナ。この残り土、畑に入れてみたい」
ミナは残土の山を見た。
「硝石はもう抜けてるのに?」
「硝石は取った。だが土の養いは残っている。長いこと醸した腐葉だ。──灰で痩せた畝に、これが要る」
ミナが残土をひと掬い、指で崩した。黒い粒のあいだから、細かい根や枯草の筋が見えた。匂いを嗅いで、顔をしかめた。だが、その匂いこそが土に養いが残っている証だった。
「結晶を取ったあとの煮汁も、薄めて撒けば畝の足しになる」
「……捨ててたわ、あれ」
「捨てないでくれ。結晶は火薬に。養いは土に。──同じ床から両方取れる」
ミナは帳簿を開き、残土の量を書き留めた。
残土を畝に鋤き込み、煮汁を薄めて撒いた。だがそれでもまだ、灰は動かない。水がなければ石灰も残土も土の奥まで届かない。
さらに、水が要る。
ハルコルはペカンクㇽのところへ行った。
「水路を引きたい。沙流川の上流から水を取り込んで、畑の脇を通し、要所に溜め池を掘る。下流側は防柵の空堀に落として、そこから沙流川に戻す。畑に水を届けながら、空堀にも水が入る」
ペカンクㇽは黙って聞いていた。
「……人手は」
「秋に砂鉄を豊富に集めました。しばらく砂鉄集めに人を出さなくていい。その分を溝掘りに回します」
「わかった」
短かった。だがその一言に、長の判断が載っていた。
アエトモに声をかけた。
「畑の脇に水の道を引く。サㇽ川の上流から取り込んで、要所に池を掘り、最後は防柵の空堀に落とす。──水の筋を読んでほしい」
丸木舟の職人は川を知っている。舟を浮かべる目で何十年も沙流川を見てきた男だ。アエトモは黙ってハルコルの顔を見た。それから、川のほうに目をやった。
「……見てみる」
翌朝、アエトモが畑と川のあいだの地形を歩いた。川辺に下り、水面を覗き込み、岸の土を踵で突く。沙流川が蛇行する内側の岸で足を止めた。
「ここだ。流れが緩い。土が柔らかい。──ここから取り込める」
傾斜を読みながら、水路の筋を示していく。まっすぐではなく、斜面に沿って緩やかに蛇行させる。
「舟と同じだ。まっすぐ押せば水が暴れる。少し曲げてやれば、穏やかに流れる」
二人で棒を刺し、紐を張った。畑の脇を通り、防柵の空堀へ下る線が描かれた。途中三箇所、アエトモが足を止めた。地面が少し窪んでいる場所だ。
「ここを掘れば水が溜まる。桶に汲むなら、溜まりがあったほうがいい」
水路の途中に、小さな池を掘る。水はそこに溜まり、女たちはそこから桶で汲んで畝に撒く。川まで下りなくていい。畑のすぐ脇に、水がある。
紐が全ての線を描き終えたとき、日が西に傾いていた。ハルコルは取水口の位置から畑を見下ろした。水は、あの紐に沿って流れ、三つの窪みに溜まり、空堀に落ち、川に帰る。あとは掘るだけだ。
掘り始めた。
最初の三日は石との戦いだった。鍬が石に当たるたびに、がん、と腕が痺れる。大きな石は二人がかりで抉り出し、小さな石は壁に積んだ。溝だけではない。三箇所の池も掘った。溝より深く、広く。一つ目の池が掘り上がったとき、底の土が湿っていた。地面の下にも水がある。掘りを深くすると、底からじわりと水が沁み出してきた。伏流水だ。水路を止めても、この池は干上がらない。
四日目から土が柔らかくなり、溝が伸び始めた。七日目に雨が来て壁が崩れた。翌朝やり直した。誰も文句は言わなかった。だが鍬を突き立てる音が、前の日より荒かった。
丸太を刳り抜いて樋にし、崩れやすい箇所に渡す。石と土と木を継ぎ合わせる素朴な造りだった。ハルコルも泥にまみれて石を据え、樋を噛み合わせた。爪の間に泥が詰まった。
取水口には工夫をした。川の増水に備えて、溝の入口の両側に太い杭を打ち込み、杭のあいだに板を落とし込む溝を刻んだ。普段は板を外して水を通す。川が膨らんだら板を嵌めて塞ぐ。水を入れるのも止めるのも、板一枚で済む。アエトモが杭の位置を決め、シノッが板を削った。舟の舷側を塞ぐ要領だ、とアエトモが短く言った。
半月目の朝。取水口の土を崩した。
水が、流れた。
細い流れが溝の底を濡らし、黒い土に光の筋を引いた。すぐに水嵩が増し、畑のほうへ伸びていく。ちゃぽ、ちゃぽ、と石に当たる音。
最初の池に水が入った。溝から流れ込んだ水が、掘った窪みにゆっくりと溜まっていく。底の土が黒く濡れ、水面がじわじわと広がった。膝の深さまで溜まったところで、水は溢れて次の溝へ流れ出した。二つ目の池、三つ目の池。水が溝と池を交互に通りながら、畑の脇を下っていく。
溝は防柵の空堀へ流れ込んだ。乾いていた空堀の底に水が溜まり、土の壁が黒く染まっていく。溢れた水は下流側に落ちて沙流川に戻った。上流から取り込んだ水が、畑を通り、三つの池を満たし、空堀に落ち、川に帰った。
空堀の縁に、カントが立っていた。水を湛えた堀を見下ろし、短く言った。
「水があると、越えにくくなるな」
それだけ言って、巡回に戻った。
男たちが鍬を置き、溝に沿って立っていた。誰も何も言わなかった。半月、石と泥に手を裂いた男たちが、池に水が溜まっていくのをただ見ていた。
漏れはあった。樋の継ぎ目から水が滲み、三割近くが途中で地面に消えた。ハルコルは継ぎ目を見た。ちろちろと水が垂れている。
(工房の灰混じりの粘土は床で効いた。だが水が流れる中では搗き固められない。搗いたそばから流される。平らな床と水路では条件が違う。──今は粘土で凌ぐしかない)
応急で粘土を詰めた。翌朝にはまた滲んでいた。だが七割の水は池に届いている。空堀にも水が入った。足りない。だが、ないよりはずっといい。
水路を引いて半月。三つの池に水が溜まり、畑の景色が変わった。
ハルコルは畑に立ち、朝の景色を見た。
去年までこの時分、女たちが天秤棒を担いで川と畑を何度も往復していた。ちゃぷ、ちゃぷ、と桶を揺らし、百歩の道を水の重さに肩を赤くしながら。
今、女たちは川まで下りない。畑の脇の池に桶を沈め、水を汲んで畝に撒く。池までは十歩もない。汲んで戻って撒いて、また汲む。足が軽い。川まで百歩を往復していた頃とは、体にかかる重さがまるで違った。
母のトゥレㇷ゚が池の縁で桶に水を汲んでいた。腰を伸ばし、水面を見た。
「楽になったねえ。……水がこんな近くにあるだけで、こんなに違う」
その声には、何年も畑を仕切ってきた女の実感がこもっていた。トゥレㇷ゚の掌は鍬の柄で硬くなっている。あの手が百歩の水運びから解放された分だけ、鍬を振る時間が増えた。土を耕す時間が増えた。それだけのことが、畑の力を変える。
池の水を桶で汲み、畝に撒くたび、水が土に沁み込み、石灰や残土の養いが畝に馴染んでいく。
夕暮れの空が西から赤くなっていた。水路を流れる水音が、春の風に混じっている。ちゃぷ、ちゃぷ、と石を洗う音。その向こうから、工房の槌の音。かん、かん。鋼を打つ音と水が土を洗う音が、同じ空気の中に並んでいた。
畑の土は、まだ灰色だった。
だが水の通った畝の端から、灰色の下に、黒い土が覗き始めている。
第39話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【硝石培養残土】
日本には天然の硝石鉱床がありません。戦国時代から江戸末期まで、火薬の原料である硝石(硝酸カリウム)は国内で製造する必要がありました。その方法は大きく三つ。古い建物の床下土から硝酸塩を抽出する「古土法」、蚕の糞や山野草を床下に埋めて四〜五年かけて醸す「培養法」、そして屋外に人畜の糞尿と草を積み上げて一〜三年寝かせる「硝石丘法」です。
本作での培養場は、人の尿と草を土に混ぜ込んで何年もかけて醸すもので、培養法と硝石丘法の中間に近い方法です。
硝石を抽出した後の培養土には、有機物や植物養分がなお残っています。
本作では、その性質に着目して畑へ還元する描写としました。
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