オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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仕事の方でトラブっていて投稿が遅れました。


第40話:選ぶ目と、山越えの荷【1664年 夏】

 芋の丈が、揃わない。

 

 ハルコルは畝の端にしゃがんだ。背を焼く夏の陽が灰色の土に白い影を落としている。春に石灰を鋤き込み水路を引いた畝に、エモの葉が広がっていた。緑の葉が風に揺れるたび、土の灰の匂いがふわりと立ち上がる。

 

 だが、揃わない。

 

 同じ畝に同じように植えた種芋だった。こちらの株は膝の高さまで茎が伸び、濃い緑の葉を広げている。隣の株は踝にも届かず、葉の先が黄色く萎れかけていた。三つ向こうの株は茎だけ伸びて葉が薄い。その隣はずんぐりと低いが葉の色は濃い。

 

 灰を被った畝で、差がはっきりと出ていた。平年ならば見過ごすほどのものだろう。だが灰という負荷のもとで、一株ごとの強さの違いが剥き出しになっている。

 

 ハルコルは指で土を掬った。灰の粒がまだ残る灰色と黒の入り混じった土。ざらりとした手触りだった。

 

 ハルコルは葉を見つめた。

 

(種芋から切り分けた写し──クローン、のはずだけど、畝ごとにこれだけ育ちが違う。性質が違うものが交じっている。和人が送ってきたものがもともと単一ではなく、混ざっていたのか。混ざっているなら──選べる)

 

「ハルコル」

 

 ミナの声だった。帳簿を抱えて畦道を歩いてくる。

 

「また畑に張り付いてる」

 

「見てくれ。この畝と、隣」

 

 ミナが畝の前に屈んだ。帳簿を開き、植え付けた日と場所の記録を指で辿った。目が細くなる。

 

「……同じ日に植えたのに」

 

「灰のせいだと思った。でも灰は同じように降った。土も同じように鋤き込んだ。それなのに」

 

「株ごとに違う」

 

(よく穫れた株を種芋に残して、植え継いでいけば──揃えていける)

 

「種芋をただ切り分けて植えているだけじゃ、土地に合うものと合わないものが混ざったままだ。秋の収穫のとき、よく穫れた株から出た芋だけを、来年の種芋に残そう」

 

 ミナの目が動いた。

 

「……選ぶ」

 

「そうだ。土地に合うものを選んで残して、植え継ぐ。毎年それを繰り返せば、少しずつ灰の土でも育つ芋に揃っていく」

 

 ミナは畝に目を戻した。膝の高さの株と、踝にも届かない株。同じ畝の中の剥き出しの差。

 

「それなら秋に、どの株からどれだけ穫れたか、全部記録しないといけない」

 

「頼む」

 

「頼まれなくても、いま決めた」

 

(種芋からの選抜。──これが一つ目の道。既にあるものの中から、土地に合うものを選び出す)

 

 ハルコルの目が、畑の隅に向いた。

 

 エモの株の一つに小さな花が咲いていた。白い花弁に薄紫の筋。その花の後に緑色の小さな実がつくことがある。村ではそれを「毒の実」と呼んで捨てていた。中に種があるが、種芋で増やすのが当たり前で、実の種を蒔く者は誰もいない。

 

 ハルコルは畝の間を歩き、花の前に屈んだ。白い花弁は薄く、指で触れれば破れそうだった。花の根元に緑色の小さな膨らみがある。これが熟せば実になる。だが大半は落ちるか、熟す前に朽ちてしまう。

 

「選抜した種芋から取れた種も必要になる」

 

 ミナが眉を寄せた。

 

「種芋があるのに、わざわざ種から育てるの?」

 

「種芋から育てた芋は、親と同じものしか出ない。だが種から育てれば、親とは違う芽が出る。性質がばらける。もっと良いものにしていける」

 

(種芋はクローン──親の写しだ。だが種子は違う。花粉を受けて実になった種は、一粒ずつ違う性質を持つ。その中から灰の土でも穫れるものを選べたら)

 

「ただし、種から育てた芋が食える大きさになるまで三年はかかる」

 

(この秋は、あの実を見逃さず拾おう。蒔くのは来年の春。芽が出ても食える芋になるまで三年──長い道だ。だが、この道の先にしかないものがある。まだ誰も見たことのない芋)

 

 選抜が「今あるものを選ぶ道」なら、もう一つは「まだないものを作る道」だった。

 

 

 

 

 

 

 その日の夕刻。シムカㇷ(占冠)から使いが来た。

 

「ニウㇰの長からの言伝てがあります」

 

 ペカンクㇽのチセの囲炉裏に、シムカㇷの男が座った。ペカンクㇽが向かいに座り、ハルコルが父の右に控えた。

 

「ムカ・ペッ(鵡川)の川筋の者たちが飢えているようです。山越えの行き来で聞こえてくる話が、どれも悪い。鮭が上らない、蓄えが尽きた、と」

 

 囲炉裏の火がぱちりと爆ぜた。

 

「特にニワン(似湾)が厳しいと聞いています。──ニウㇰの長は、気にかけておられました」

 

 ペカンクㇽは黙っていた。腕を組み、火を見つめている。ハルコルは父の横顔を見た。表情は変わらない。だが組んだ指の先が微かに動いていた。

 

「……ニワン(似湾)か」

 

 低い声だった。独り言のように。

 

 使いの男が去った後も、ペカンクㇽは囲炉裏の前から動かなかった。ハルコルは訊いた。

 

「ニワン(似湾)で気にかかることがあるの」

 

「ムカ・ペッ(鵡川)の中流だ。昔のニプタイと同じくらいのコタンだ。長の名は──イッケウ」

 

 ペカンクㇽの声が僅かに落ちた。

 

「若い頃に行き来があった。鮭の遡上の時季に互いの川を訪ね、獲物を分け合い、祭りの夜に酒を酌んだこともある。──だがオニビシの力が固まり、ムカ・ペッ(鵡川)が丸ごと飲み込まれてからは途絶えた。もう十年以上になる」

 

 囲炉裏の煙が天井に溜まっていく。焚き木の甘い匂い。

 

「去年の夏にウス(有珠)の山が吼えた。海沿いは潰れた。中流のコタンはどうなっているか」

 

 ハルコルは答えなかった。答えは使いの男が持ってきた言伝ての中にあった。蓄えが尽きた。鮭が上らない。──見捨てられている。

 

 ペカンクㇽは立ち上がった。

 

「評定にかける」

 

 

 

 

 

 

 その夜。ペカンクㇽのチセに集まったのは、ニプタイの柱となる者たちだった。ペカンクㇽ、ハルコル、カント、ミナ。囲炉裏の奥にモノクテが座っている。

 

 蛙が鳴いている。夏の夜の湿った空気がチセの中にも忍び込み、火の熱と混じって肌にまとわりつく。

 

 ペカンクㇽが切り出した。

 

「ムカ・ペッ(鵡川)の中流、ニワン(似湾)。噴火から一年、蓄えが尽きている。確かめに行き、手を貸す。──俺が行く」

 

 カントの眉が動いた。

 

「頭が出るのかよ」

 

「イッケウは俺の知り合いだ」

 

 それだけだった。一拍置いて続けた。

 

「川下に少し行けば、ムカ・ペッ(鵡川)との間の山が狭まる。そこを越える」

 

 カントの目が細くなった。

 

「南か。河口の連中と鉢合わせるかもしれねえぜ。──俺も行く」

 

 ミナが帳簿を開いた。指が数字を辿る。

 

「出せる量を見ます。ペミカンと干し鮭を合わせて四十人分ほど。エモの蓄えからも出せる」

 

 ミナの目が帳簿に落ちている。指が数字を辿り、何かを書き込んだ。

 

 沈黙が落ちた。蛙の声が遠くなり、また近づく。

 

 モノクテが灰を掻いた。七十を過ぎた老人の手がゆっくりと灰を寄せ、火の粉が一つ、ふわりと舞い上がって消えた。

 

「……儂は昔、山が崩れた後を知っている。津波の後、助けを求め来た者を追い返した村はなかった」

 

 短い間。

 

「だが──来なかった者は、どうなった。隣に来られる力すら残らず、声を上げられぬまま消えた村がある。……来る力のない者には、行くしかない」

 

 エカシの声は低く、囲炉裏の煙のように広がった。

 

 ペカンクㇽが立ち上がった。

 

「飢えた者に手を貸さぬ村に──種を持って歩く資格はない」

 

 ハルコルの胸がどん、と鳴った。

 

「カント、道を見ろ。小さく。静かに。目立たぬように」

 

 

 

 

 

 

 三日後。

 

 支援隊がニプタイを出た。

 

 ペカンクㇽ。ハルコル。カント。それに山歩きに慣れた若い衆が五人。ペミカンの詰まった背負い袋。干し鮭を革袋に詰めたもの。エモを籠に入れたもの。八人の背に荷が割り振られている。

 

 沙流川沿いの道を川下へ向かった。村を出て半時も歩くと、右手の山裾から川辺までが一気に拓けた。平地の南側にこんもりとした丘がある。

 

「サルバだ」

 

 カントが丘を顎で示した。

 

「この拓けたところから西の山裾へ。峠を一つ越えりゃ、すぐ沢がある。向こうはムカ・ペッ(鵡川)の側だ。シムカㇷ(占冠)回りより近い。荷を背負っても半日もかからない」

 

 カントが先に立った。倒木が道を塞いでいた。若い衆が鉈で枝を払い、丸太を脇に転がしながら進む。渡りには倒木の幹を架け、苔で滑る足元を荒縄で縛った。

 

 鳥が鳴いていた。沢の水音が近く、風は通らない。湿った空気に土と苔の匂いが混じっている。足元はぬかるみ、背の荷が肩に食い込んだ。

 

 ペカンクㇽは先頭から三番目を歩いた。五十を越えた足だが崩れない。荷を背負ったまま倒木を跨ぎ、若い衆が渡した丸太を黙って渡った。額に汗が光っている。だがその足は、ニプタイの畝を歩く時と同じ太さで地を踏んでいた。

 

 沢に出たのは昼を過ぎた頃だった。尾根の上で風が変わった。サㇽ川の水音が消え、代わりに別の沢音が下から上がってくる。木々の向こうに広がる山襞の形が変わっていた。同じ山でも稜線を境に、水の行き先が違う。こちら側の水はすべてムカ・ペッ(鵡川)へ流れ落ちていく。

 

「ここからは向こうの水だ」

 

 カントが短く言った。木の幹に山刀で印を刻んでいく。冬に雪が積もっても辿れるように。

 

 下りは速かった。沢筋が広がり、やがて細い川になった。その川沿いに鹿の踏み分けた道が出てきた。

 

 

 

 

 

 

 煙が見えた。

 

 細い煙が二筋、木立の上に立ち上っている。五棟あるはずの村に、二筋だけ。

 

 カントが手を上げて一行を止めた。

 

「先に行く。待ってろ」

 

 一人で林の縁を回り込み、村の外れから様子を窺っている。やがて戻ってきた。

 

「五棟のうち煙が出てるのは二つ。あとは戸が開いたままだ。人は──いるにはいる。だが少ねえ。川辺に子どもが二人。……痩せてる」

 

 ペカンクㇽの目が細くなった。何も言わなかった。

 

「行こう」

 

 ハルコルが言った。

 

 

 

 

 

 

 村に入ったとき、最初に目に入ったのは干し棚だった。

 

 鮭を干す棚が三つ並んでいる。空だった。この時季なら干し魚の残りか山菜の束がかかっているはずの棚に、何もない。風が通り抜けるだけだった。

 

 チセの一つから女が出てきた。一行を見て足が止まった。背後から子どもが覗いている。三つか四つだろう。頬がこけ、目だけが大きく見える。

 

 女が何かを叫んだ。奥のチセから男が走り出てきた。手に弓を持っている。だが弦は緩く、矢を番えるまでに間があった。──腕に力が入っていない。

 

 カントが一歩前に出て、ゆっくりと両手を広げた。

 

「サㇽ川のニプタイから来た。──敵じゃねえ」

 

 男の弓が下がった。下がったのではなく、支えきれなかったのかもしれない。

 

 奥から、もう一人。

 

 大きな男だった。骨格が太い。だが頬がこけ、擦り切れた鹿革の衣の下の体はその骨格に見合う厚みを失っていた。腰に小刀が一本だけ光っている。弓も、槍も持っていない。

 

 四十前後。肉が落ちてなお、残った骨の太さが衣の下に見て取れる。

 

「……何者だ」

 

 低い声。疲れと、それを押し殺す力が同居している。

 

 ペカンクㇽが前に出た。荷を背負ったまま、イッケウの前に立った。

 

 イッケウの目が動いた。

 

 一瞬、止まった。

 

「……ペカンクㇽ」

 

 掠れた声だった。

 

「イッケウ」

 

 ペカンクㇽが応えた。短く。

 

 二人の間に風が吹いた。空の干し棚が軋む。十年以上の空白が、その風の中にあった。かつて鮭の遡上の時季に互いの川を訪ね、獲物を分け合った二人の長が、一方は肉が落ち、一方は荷を背負って、似湾の痩せた土の上で向き合っていた。

 

 ペカンクㇽはイッケウの顔を見ていた。こけた頬を見ていた。かつて隣の川の長として知っていた男が、一回り細くなっていた。

 

 ペカンクㇽは背の荷を下ろした。紐を解く。ペミカンの袋が転がり出た。

 

「まず、食え」

 

 短かった。それだけだった。

 

 ハルコルが荷を下ろした。若い衆たちも続いた。干し鮭の袋。エモの籠。鉈と小刀を包んだ布。鉞。ペミカンの袋がもう一つ、二つ。似湾の土の上に荷が並んでいく。

 

 イッケウは荷を見つめた。唇が引き結ばれていた。

 

 

 

 

 

 

 チセの中は薄暗かった。囲炉裏の火が赤い。だが薪が細い。太い幹を割る余力がないのだろう、小枝ばかりが燃えていた。煙は薄く、匂いも弱い。

 

 ペカンクㇽが奥に座った。ハルコルが右に控え、カントが入口脇に立つ。イッケウが囲炉裏の向こうに座った。外では若い衆が女たちにペミカンの分け方を伝えている。子どもの声が聞こえた。

 

「……本村は五棟。周りに小さなコタンが幾つか。全部合わせて七十人ほどだ」

 

「七十人」

 

 ペカンクㇽの声は短かった。

 

「ああ。──まだ、誰も死なせてはいない」

 

 まだ。その一語にイッケウは全てを込めた。

 

「去年の夏にウス(有珠)の山が吼えた。灰が降った。海沿いのコタンは潰れた。俺たちの村は中流だから直には潰れなかった。だが交易が止まった。海の道が塞がった。去年の秋は鮭がほとんど上って来なかった。山から獣がいなくなった」

 

 一度、言葉を切った。拳が膝の上で握られている。

 

「オニビシに、使いを出した」

 

 ペカンクㇽの目が動いた。

 

「三度、出した」

 

 囲炉裏の火がぱちりと爆ぜた。

 

「一度目は秋だった。蓄えが尽きかけていた。食料を回してくれと頼んだ。──返事はなかった」

 

 イッケウの声は低く、乾いていた。

 

「二度目は冬だ。男を二人、海沿いのオニビシの本村まで歩かせた。戻ってきた一人が言った。『回す物はない』と」

 

 短い間。

 

「三度目は、雪解けの頃だ。……使いの男は追い返された。顔も見なかった、と」

 

 拳の甲に筋が浮いている。

 

「長年従ってきた。鮭を納め、毛皮を納め、言われた通りにしてきた。……三度頼んで、三度とも応えなかった」

 

 囲炉裏の煙が天井に溜まっていく。

 

 長い沈黙があった。

 

 イッケウがペカンクㇽを見た。

 

「お前には──頼んでいない」

 

 声が掠れた。

 

「……来た」

 

 その二語の間にあったものを、ハルコルは言葉にできなかった。三度頼んで応えなかった者と、一度も頼んでいないのに山を越えて来た者。イッケウの目に浮かんだのは涙ではなかった。もっと乾いた、もっと深い何かだった。

 

 ペカンクㇽは黙っていた。イッケウの話を全て聞き終えるまで、一語も挟まなかった。やがて腕を組んだ手を膝に下ろした。

 

 

 

 

 

 

 イッケウは囲炉裏の火を見つめた。しばらく動かなかった。

 

「……オニビシのもとでは、恩は鎖だった。食わせてやったと言われ、毛皮を搾り取られ、逆らえば次の冬の交易を絶たれた」

 

 低い声だった。怒りではない。もっと古いものだった。

 

「だから聞く。──お前たちの輪に入って、何年かして、抜けたいと言ったら」

 

「止めない」

 

 ペカンクㇽが即答した。

 

「止めたら、俺がオニビシと同じになる」

 

 イッケウの肩がゆっくりと下がった。構えていた体から、十年分の力が抜けるように。

 

 しばらく黙って囲炉裏の火を見つめていた。やがて膝の上の拳が開いた。

 

「……お前たちの輪に、加えてもらえないか」

 

 三度頼んで応えなかった者がいた。一度も頼んでいないのに来た者がいた。その者に自分から頼んだ。

 

「ただし、俺の村は俺が仕切る。それだけは譲らない」

 

「当然だ。──占冠のニウㇰも、夕張のイコㇿも、自分の村は自分で仕切っている」

 

 イッケウが顔を上げた。

 

「上流のポンペッ(穂別)にも声をかけていいだろうか」

 

「いいだろう、待つ」

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 若い衆たちが食糧を女たちに分けていた。干し鮭の袋を開けると、子どもたちが寄ってきた。頬のこけた顔。だが目だけは生きていた。年嵩の女がエモを一つ手に取り、重さを確かめるように掌で転がした。

 

 少し離れた所で、ペカンクㇽとイッケウが並んで立っていた。腕を組み、子どもたちが干し鮭を受け取るのを見ている。二人とも何も言わない。

 

 

 

 

 

 

 昼過ぎ。

 

 ペカンクㇽが一行を率いて似湾を出た。来た道を戻る。沢筋を遡り、峠を目指す。背の荷は軽くなっていた。

 

 イッケウが村の外れまで見送った。供は連れず、一人で立っている。

 

「ペカンクㇽ」

 

 背中に声がかかった。ペカンクㇽが振り返った。

 

「……返す。必ず」

 

「返すな。春には種芋を送る──植えろ」

 

 イッケウの口元が僅かに動いた。背を向け、村に戻っていった。痩せた背中だった。だがその名の通り、背骨は折れていなかった。

 

 

 

 

 

 

 峠を越えた。

 

「俺は川下を見てくる。ここで待ってろ」

 

 カントが一人で下りていった。腰に山刀、肩に機械弓。足音が草の中に消える。

 

 ペカンクㇽは、川筋を見渡した。眼下に沙流川が銀色に蛇行し、川沿いの道が糸のように伸びている。振り返れば西の沢が山襞の奥へ細く消え、あの峠の向こうに似湾がある。ハルコルは父の隣に立った。風が吹き抜けていく。

 

 半時ほどでカントが戻ってきた。

 

「ここからニプタイまでは問題ねえ」

 

 カントの声は低かった。

 

「だが、もう少し川下に焚き火の跡がある。崖の陰に隠してあった。石が三つ、輪に組んである。灰は雨を吸って固まってた。──二日か三日前だ」

 

「猟師か」

 

「この時季に川下のあのあたりで火を焚く猟師はいねえ。それに猟師は火を崖の陰に隠したりしねえ。──数人。川下から来て、このあたりまで嗅ぎに来て、帰った。河口の連中だろうよ」

 

(斥候──)

 

 ハルコルの背筋が冷えた。支援隊が通った道の先を、別の誰かが嗅ぎに来ている。ペカンクㇽの目が細くなった。

 

「カント。この道は」

 

「使う。ほかに近い道はねえ」

 

 カントは、川下を見た。

 

「だが、使い続けるなら──あの丘に拠点がいる。見張りじゃ足りねえ。チャシだ。しっかりしたのを」

 

 カントが足元の土を踵でとん、と踏んだ。

 

「見ろ。川下から来る奴はあそこの丘の下を通るしかねえ。西の沢に入る奴も丘の下を通るしかねえ。あそこに目があれば川の道と山越えの道、両方が押さえられる」

 

「規模は」

 

 ペカンクㇽが短く訊いた。

 

「常に数人が詰める。柵と土塁を巡らし、いざという時にはニプタイから駆けつけて立て籠もれる造り。──道を守るなら、それだけの構えがいる」

 

 カントの口の端が上がった。

 

 ペカンクㇽは川下を一度見て、それから西の沢を見た。

 

「造ろう」

 

 カントは川下を見据えたまま、低く言った。

 

「嗅ぎ回る鼻は、次に来たとき覚えさせる。この先は剣呑だ、とな」

 

 風が丘の裾を吹き抜けた。沙流川の水音が遠く響く。西の沢が山襞の奥へ細く消えている。あの峠の向こうに、似湾がある。

 

 ハルコルは背の空になった袋を揺らした。朝にはここに干し鮭が詰まっていた。今は空だ。食い物は山を越えて、痩せた村に届いた。




第40話をお読みいただき、ありがとうございます!


おまけの解説コーナーです。

【じゃがいもの品種改良】
じゃがいもは通常、種芋を切り分けて植えます。これは栄養繁殖、つまり親のクローンを作る方法です。

もう一つ、種からも栽培が可能です。じゃがいもは緑色の小さな実を結実します。じゃがいもの花が受粉して結んだ果実で、中にはTPS(True Potato Seed=真正種子)と呼ばれる種が入っています。種芋がクローン──親の完全な写しであるのに対し、この種は花粉を受けて生まれたものですから、一粒ごとに遺伝子の組み合わせが違います。蒔けば親とは違う性質の芽が出ます。
ただし、実が完熟すること自体が稀で、中の種から育てた芋が食べられる大きさになるまでに三年はかかります。北海道の冷涼な長日条件はじゃがいもの開花と結実には比較的好適で、日高の気候なら品種改良を行うには向いているといえます。
なお、実にもソラニンが含まれていて有毒です。


【チャシ──アイヌの「柵囲い」】
チャシとはアイヌ語で「柵囲い」を意味する言葉で、高台に壕を巡らし柵を立てた施設のことです。
北海道全域で500箇所以上のチャシ跡が確認されており、構築時期はおおむね16世紀から18世紀──まさに本作の時代と重なります。用途は、戦いの砦だけではありません。見張りの場、祭祀・儀礼の場、集落間の談判(チャランケ)の場など、多目的に使われていたと考えられています。

沙流川と鵡川の流域は、北海道の中でもチャシ跡が集中している地域の一つです。沙流川中流の平取町周辺にはシベチャリ川流域チャシ跡群をはじめとする複数のチャシ跡が確認されており、鵡川流域にもチャシ跡が点在しています。二つの川は分水嶺を挟んで隣り合い、流域間の往来がありました。つまり、チャシが多いということは、この地域が「守るべき道」の交差点だったということです。




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