オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第42話:雪が呑む音と、選ぶ手【1664年 冬】

 ドォン。

 

 腹に響く銃声が白い斜面を駆け登り、それきり消えた。山びこは返らない。降り積もった雪が、音の尻尾まで呑み込んでしまう。残ったのは、硝煙の匂いと、的板の前に舞い上がる雪煙だけだった。

 

 三方を尾根に囲まれた窪地。カニタが銃の試し撃ちに使っていた谷間を、カントは訓練の的場(まとば)に選んだ。尾根の上に裸のダケカンバが並び、その向こうに薄く霞んだ空が広がっている。初冬の陽は低く、窪地の底にまで届かない。踏み固められた雪の上に、朝の足跡だけが幾筋もついていた。

 

「雪は音を呑む。尾根の外には届かねえ。──存分に撃て」

 

 カントの白い息が、冷たい空気に溶けた。

 

「次の組」

 

 カントの声が飛んだ。

 

 三十人の若い衆が、六つの組に分かれている。カントが狩りの腕と目の良さで選び抜いた者たちだった。木綿を重ねた上に鹿皮の上着を羽織り、その胸に斜めに革帯を掛け、指の長さほどのヤヤントㇷ゚(千島笹)の筒がずらりと挿さっている。腰には鉛玉の入った小さな革袋と、鹿角を削り出した口薬入れを一つずつ。肩にニプタイの銃。五十歩先に、煤で丸を描いた的板が並んでいる。

 

 構えを待つ間も、白い息が三十ほど立ち昇っていた。重ね着で膨れた体が、構えに入ると急に締まる。撃つ時だけ袖をまくり、待つ間は袖の中に指を引っ込めて銃身を抱え、足踏みをして雪を固める者がいる。革帯に挿した筒が、動くたびにかちゃりと触れ合った。

 

 ハルコルは窪地の縁から、それを見ていた。上から見下ろすと、六つの組がそれぞれ固まっているのがよく分かる。肩を寄せ合っているわけではない。だが同じ組の五人は、立つ間隔が似ている。一緒に撃ち、一緒に込め、一緒に待つうちに、体が覚えた距離なのだろう。

 

 去年は、腰に火薬壺を提げていた。一発撃つごとに壺を傾け、手で粉を量って銃口へ落とす。風が吹けば飛び、手が濡れていれば指に貼りつく。黒い粉が幾度となく零れた。

 

 カニタは、試し撃ちのあいだ、その光景を見ていた。零れた粉を拾い集める手つきに目が止まり、風で飛ぶ粉を体で庇う仕草に眉を寄せ、寒さで指が固まって壺の蓋を落とす場面で、腕を組み直した。やがて工房の脇に、刈り出したヤヤントㇷ゚(千島笹)が積まれた。山の沢に幾らでも茂る、暮らしのすぐ傍の笹だ。春は筍を掘り、簗(やな)や籠にも編む。太い稈を指の長さに切り、節をひとつ残して底にする。一本に一発分の粒の火薬を詰め、弾力のある木の蓋をきつくはめ込んだ。

 

 火皿の口薬は、鹿の角を刳り抜いた小筒へ。木の蓋に刻んだ窪みが、すり切りで一回分を量る。

 

「その場で量るから、こぼすんだ。──玉薬入れだ。量るのは、囲炉裏端で済ませちまえばいい」

 

 その工夫を、今年の冬、初めて雪の中で試している。手間を消せたかどうかは、この谷でしか分からない。

 

 撃ち終えた組が下がり、次の五人が前に出る。踏まれた雪が、きゅっと鳴った。その入れ替わりの隙に、指導役の二人が組のあいだを歩いていた。

 

 最初の試し撃ちの頃からカントの隣で銃を握ってきた二人だった。あれからひと巡りの季節と半分。三十人の中で最も多くの弾を撃ち、最も多くの不発を潰してきた。カントの声が谷の全体を動かし、二人の手が個々を直す。

 

 一人が射手の肘を押し下げていた。

 

「肘、高え。──絞れ」

 

 もう一人が火皿の蓋の閉め方を見せている。指の腹で蓋をそっと押さえ、ぱちりと嵌める。乱暴に閉じれば口薬が零れる。丁寧すぎれば遅れる。その塩梅は、言葉より手の方が早く伝わった。射手が頷き、同じ動きを繰り返す。三度目で、音が変わった。指導役は何も言わず、次の射手に歩いた。

 

 次の組が前に出た。五つの銃口が、同じ的へ向く。

 

「──放て」

 

 ドン。

 

 五発が一つに聞こえた。的板がばしりと鳴って雪煙を上げる。硝煙が五つの銃口から白く吐き出され、冷えた空気の中でなかなか散らなかった。弾痕は三つ。残り二発は雪壁に消えたが、カントが見ていたのは散らばりではなかった。

 

「──音は揃った」

 

 それだけ言って、次の組に顎を向けた。

 

 次の組が並んだ。構え。放て。──ドン、ドォン。音が二つに割れた。

 

「揃ってねえ」

 

 カントが歩み寄った。

 

「並んで撃つなら、雷は一つだ。五つの雷と一つの大雷じゃ、別物だぜ。──もう一度」

 

 五人を並べ直し、自分の声で息を合わせさせる。吸え。止めろ。落とせ。カントの声に合わせて白い息が五つ、同時に止まった。引き金に指が触れる間だけ、誰の胸も動かない。三度目で、ようやく音が一つにまとまった。カントが小さく頷く。五番目、六番目の組が続いた。

 

 

 

 窪地の端で、射手の一人が、かじかむ指で角の口薬入れの蓋を外した。窪みへ口薬を盛り、すり切りで一回分。火皿へ空けて、構えようとした。

 

「──息をかけるな」

 

 指導役が横から制した。

 

「湿る。湿った粉は、火を吐かねえ」

 

 射手が慌てて顎を引いた。頬を銃床からわずかに浮かせ、構え直す。引き金。

 

 カチン。

 

 火花は散った。だが、それきり。銃口は沈黙している。

 

 射手が銃口を下げかけた。

 

「動くな。──遅れて吹くことがある」

 

 指導役が低く制した。射手の腕が止まる。銃口は的を向いたまま。十を数え、さらに十。腕が震えても、構えは崩さなかった。窪地の空気が、その間だけ、硬く止まる。

 

「──よし。下ろせ」

 

 肩が落ちた。

 

「……不発です」

 

 指導役が銃を受け取り、火皿を開けた。燧石(ひうちいし)の刃先を親指の腹で撫でる。

 

「石が丸くなってる。──替えろ」

 

 替えの石を射手の手に押し付けた。

 

「石は使い減りする。五十も撃ちゃ角が潰れる。減ったまま戦に出りゃ、撃てねえ棒を抱えて死ぬことになる」

 

 射手が悴む指で石を締め直す。指が思うように動かず、一度、締め具が滑った。指導役は手を出さなかった。自分の指で覚えなければ、戦の場では間に合わない。射手が息を詰め、もう一度。今度は嵌まった。構え、引き金。

 

 ドォン。

 

 今度は銃口が火を噴いた。五十歩先の的板が、ばしりと鳴る。丸の縁。当たりだ。射手の頬が、寒さとは別のもので赤くなった。

 

 指導役はもう隣の射手のそばにいた。筒を抜く手が震え、木の蓋を外しあぐねている。

 

「怖くていい。──十も撃ちゃ、指が先に覚える」

 

 低い声で言って、震える手に自分の手を添え、蓋の外し方を直した。

 

 

 

 風が尾根を渡った。粉雪が斜面を舞い、どこかの枝から、どさりと雪の落ちる音がした。それきり、谷はまた静まる。雪の匂いが、火薬の残り香をさらっていった。

 

 窪地の端に、浅く掘った火床がある。くべてあるのはエモの練り炭だった。赤く灼けているのに、煙が立たない。音を呑む谷に、煙まで立てては意味がない。射手たちは組を終えるたびに火床のそばへ寄り、熾火に手をかざした。十ほど数える間だけ指を温め、また列に戻る。

 

「込め直し。全員──火薬なしだ」

 

 カントの声に、三十人が一斉に動いた。

 

 火薬を入れず、弾も入れず、装填の手つきだけを繰り返す。空の稽古だった。帯から筒を抜き、蓋を外すふり、銃口へ空けるふり。腰の袋から玉を取って落とすふり。槊杖(さくじょう)を抜いて突き固め、火皿の蓋を開け、口薬を盛るふりをして閉じ、構える。ひと通りの動きを声で数えながら繰り返した。

 

 早い者で二十を数える間にひと通り。遅い者は五十を超えた。

 

「遅え」

 

 カントが雪を蹴った。

 

「一発目はいい。怖えのは二発目までの間だ。込めてる間、お前らはただの的なんだぜ。──数を縮めろ。指が覚えるまでやれ」

 

 三十人が黙々と繰り返した。カチャ、カチャと槊杖の音が谷に重なり、白い息が三十の柱になって立ち昇る。カントは腕を組んで端から順に手つきを見ていった。指導役の二人は動きの遅い者のそばに立ち、指の運びを手で直している。

 

 火薬を使わない稽古なら、日が暮れるまでやれる。硝石と硫黄には限りがある。だが手の動きを刻み込むのに、火薬は要らなかった。同じ動きを、何十と繰り返すうちに、手が止まらなくなる。考える前に、指が次の筒を探している。そうなるまで、やる。

 

 

 

 ミナが帳簿を抱えて、窪地に上がってきた。斜面を登る足元に、朝の雪がきしむ。射手ごとの撃った数を数え、名の横に印を付けていく。

 

「一人、日に二十まで」

 

 帳簿から目を上げずに言った。

 

「そこそこだな」

 

 カントが低く言った。ミナは頁を繰った。

 

「硝石は蔵に十分ある。培養を始めて四年。冬は育ちが遅いけれど、蓄えで賄える」

 

 指が、別の頁で止まった。

 

「──けれど硫黄だけは、減る一方。新しく入る当てがないの」

 

 カントは黙った。数の話になれば、この女には敵わない。

 

「ウタに頼んである」

 

 ハルコルが言った。

 

「交易先の首長たちに、黄色い石──つんと匂いのする石がないか、当たってもらってる」

 

「当てはあるの」

 

「まだ返事はない。でも、あの匂いのする山は、この大地のどこかに必ずある」

 

「それと、硝石の培養はニプタイだけの話じゃない。シムカㇷ(占冠)にも、ユーパロ(夕張)にも、ムカ・ペッ(鵡川)のコタンにも、やり方を伝えよう」

 

 ミナが筆を止めた。

 

「教えるなら、私が行く。藁の被せ方も水の撒き方も、四年かけて覚えたことが全部あるの」

 

「頼む」

 

 カントが窪地に目を戻した。訓練を終えた組が的板を直しに歩いていくのを、目で追っている。

 

「もっと撃たせてやりたい」

 

「そのうちにね。──硫黄を見つけて」

 

 ハルコルは二人のやり取りを聞きながら、帳簿の表紙を目で追った。あの頁のどこかに、銃の数も載っている。初雪の頃で四十挺。春が来れば、五十を超える。一冬前にはまだ数えるほどしかなかった銃が、いまは射手を選んで鍛えるところまで来ていた。

 

(銃だけ揃っても、撃つ腕が育っていなければ、ただの重い棒だ。銃に皆を慣らせていく──)

 

 

 

 昼を挟んで、訓練は続いた。陽が窪地の西の縁にかかり、雪面に長い影が伸びている。午前に比べれば風は落ちたが、じっと構える体から熱は奪っていく。若い衆は足踏みの回数が増えていた。

 

「距離を延ばす。八十歩」

 

 カントが的板からさらに距離を取るように言った。

 

 八十歩。的板がひと回り小さくなった。煤の丸が、手のひらほどに縮む。朝は五十歩で的板の丸が拳ほどに見えていたものが、三十歩退いただけで別物になる。五人の斉射の半分以上が外れる。込め直しの手が冷えで震え、筒の粉を銃口の脇に零す者が出た。

 

「手が凍るのは仕方ねえ。だが指は動く。──動くうちは撃てる。止まった時がお前の死ぬ時だ」

 

 次に、組の入れ替えに新しい動きを加えた。

 

「撃った組、そのまま下がれ。──次の組、前に出ろ」

 

 前の組が撃ち終えたら下がる。下がりきらないうちに後ろの組が左右から回り込み、前に出る。前の組が込め直している間に、後ろの組が撃つ。撃ったら下がり、込め終えた組がまた前へ。

 

「込めてる間に前を空けるな。──誰かが常に構えてろ」

 

 初めての動きに、足がもつれた。前へ出る組と下がる組がぶつかり、声が飛ぶ。雪を蹴散らしながら場所を探す者、銃を抱えたまま隣の背中にぶつかる者。窪地の雪が、踏み荒らされてぐずぐずに崩れた。

 

「足だ──銃より先に足を動かせ」

 

 指導役の一人が叫んだ。三度、四度と繰り返すうちに足の運びが整い始める。前へ──撃つ──下がる。込める──前へ──撃つ。下がる者は肩越しに後ろを確かめ、出る者は左右を見て空いた線に入る。声でなく体で間合いを測る動きが、少しずつ現れていた。銃声のあいだの沈黙が、少しずつ縮まっていた。

 

 

 

 次に、伏射を入れた。雪の上に腹這いになり、銃身を雪壁の縁に据えて撃つ。衣を通して、雪の冷たさが腹に沁みた。体の熱が雪に吸い取られ、五発も撃てば肘から先の感覚が消えた。込め直そうにも、伏せたままでは腕の動きが窮屈になる。帯から筒を抜くのに、立っている時の倍の手間がかかった。

 

「立って撃ちゃ的になる。伏せりゃ当たりにくい。──だが、伏せたまま込め直すのは立ちの倍かかる。どっちを選ぶかは、そん時の地形だ」

 

 若い衆の動きが、目に見えて変わっていた。朝の最初の一発は腰が引けていた者が、午後には込めの手つきに迷いが消えている。筒を抜き、蓋を取り、銃口へ空ける。一連の動きの途中で手が止まらない。体が覚え始めていた。

 

 窪地の端で、若い射手が一人、黙々と込め直しを繰り返していた。狩りの腕で名を聞いたことのない、物静かな若者だった。だが構えに入ると、息の白さが変わる。吸って、止めて──白い息が、ふつりと消える。その間だけ、体のどこも動かない。周りの雑踏がそこだけ切り取られたように、静かだった。

 

「あれは」

 

「弓なら、並より下の奴だぜ」

 

 カントは腕を組んだまま言った。

 

「だが、息が静かだ。──弓は腕が引く。銃は、息が撃つ。腕っぷしは関係ねえ」

 

 ドォン。若者の一発が、八十歩先の的板の丸のほぼ真ん中を抜いた。的板が弾かれて傾ぎ、雪煙がゆっくりと流れた。本人は表情も変えず、もう次の筒を帯から抜いている。当たったことより、次の一発が大事だとでも言うように。

 

「ああいうのを、あと何人か見つけてえ」

 

 カントの目が、並んだ三十人を順に撫でた。選ぶ目だった。獲物を見る目ではない。育つ木を見る、山の目に近かった。

 

 その日の最後の一発が谷に弾け、雪に呑まれた。陽はとうに尾根の向こうに落ち、窪地の底には薄い藍色の影が溜まっていた。

 

 窪地を下りる若い衆の肩で、銃身がまだ薄く煙を立てていた。誰も口を利かない。一日撃ち続けた耳が、まだ静けさに馴染んでいないのだ。足元の雪だけが、ざく、ざくと鳴った。

 

 

 

 村に下りると、チセの前に据えた大鍋から湯気が立っていた。鹿の骨を朝から煮出したオハウ(汁もの)に、干した鮭の身とエモが大きく切って沈めてある。

 

 女たちが椀をよそった。若い衆は銃を壁に立て掛け、黙ったまま椀を受け取る。最初の一口で冷えた腹の底に熱が落ちた。エモは舌の上でほろりと崩れ、甘い。

 

 ふう、と誰かが長い息を吐いた。それを合図のように、ぽつりぽつりと声が出始める。今日の的のこと。不発のこと。足がもつれたこと。カントは隅で椀を傾けながら、その声を黙って聞いていた。

 

 

 

 

 

 

 地下蔵の中は、外より温かい。

 

 下りると、土の匂いと、芋の乾いた匂いに包まれた。冷えた頬に、地の底のぬるい空気がそっと触れる。地面を掘り下げた蔵は、冬も地温に守られて凍らない。壁際の棚に、秋に穫れたエモが畝ごと籠に分けて積まれている。獣脂の灯りがひとつ、低い天井に影を揺らしていた。外の銃声も、ここまでは届かない。

 

 女たちが、車座になって芋を選っている。膝の上に籠を載せ、手は休まず動いていた。芋を取り、回し、灯りに掲げ、裏を返し、戻すか別の籠に移すかを決める。その繰り返しだった。

 

 ミナは帳簿を膝に開いていた。畝の番号と、株ごとの印。「良」「並」「痩」。秋の畑で書き溜めた字が、頁にびっしりと並んでいる。

 

「七の畝。三つ目の株」

 

 ミナが読み上げると、トゥレㇷ゚が棚から籠を引き寄せた。中の芋を取り、手のひらで転がし、灯りに掲げる。皮の色を見、指で押して弾力を確かめていた。

 

「──良し。形もいい」

 

 選ばれた芋が、別の籠へ移される。こと、と乾いた音がした。

 

 種芋の籠だった。春に植えるのは、もう手当たり次第ではない。灰の土でよく穫れた株の芋だけを、選んで、残す。秋の畑でミナが数え、書き留めた、その帳簿のとおりに。

 

「次。同じ畝の、五つ目」

 

「……これは駄目だ」

 

 年嵩の女が、芋を握ったまま首を振った。

 

「帳簿が『良』でも、こいつは外す」

 

「どうして」

 

 ミナが顔を上げた。女は答える代わりに、ミナの手に芋を載せた。

 

「持ってみろ」

 

「……軽い」

 

「同じ大きさで軽いのは、中が緩んでる。春まで保たない。植える前に萎びる」

 

 女は籠から別の一つを取り、並べて握らせた。ずしりと締まった重さと、頼りない軽さ。同じほどの大きさなのに、手に伝わるものがまるで違う。締まった方は皮が張って滑らかで、指で押しても弾き返す硬さがあった。手が、違いを覚える。

 

 ミナはしばらく、二つの芋を見比べていた。皮の張り、目の深さ、指に返る硬さ。帳簿の文字だけでは掬えなかったものが、掌にある。それから帳簿に向かい、筆を走らせる。「良」の字の横に、新しい言葉が書き足されていく。手取りの重さ。皮の張り。傷の有る無し。灯りの下で筆を持つ横顔は、畝の端で株を数えていた秋のミナと同じ目をしていた。

 

 若い女が一人、手を止めて訊いた。

 

「同じ畑の芋なのに、そんなに違うものなの」

 

「違う」

 

 答えたのはトゥレㇷ゚だった。籠の芋を一つ、灯りにかざす。

 

「人と同じだ。同じ村に生まれても、寒さに強い子と、弱い子がいる。強い子の芋を選んで、種にする。──それだけのこと」

 

「なんだか、可哀想」

 

「食われるほうの芋に言ってやりな」

 

 低い笑いが、土の天井にこもった。手は、止まらない。

 

 ハルコルは腰掛けて、それを見ていた。

 

(選べる、と言ったのは僕だ。でも、何を見て選ぶかは──この穴の中で、いま増えていってる)

 

 こと。こと。

 

 種芋の籠に、芋の落ちる音が続く。急がない、静かな音だった。一冬かけて選び、春に植え、秋にまた選ぶ。それを、何年も。

 

 灯りが揺れ、女たちの手元の影が伸びては縮んだ。

 

 地の上では、また雪が降り始めているはずだった。銃声も、槌の音も、雪を踏む足音も、いまごろはみな、白い静けさの下にある。

 

 その静けさの底で、こと、と籠が鳴った。




第42話をお読みいただき、ありがとうございます!

おまけの解説コーナーです。
今回は射撃訓練の回ということで、銃を撃つ周辺の「道具と手順」に関連する事柄などを。


【千島笹(チシマザサ)】
 北海道に「竹」は生えていません。本州で「竹」と聞いて誰もが思い浮かべる真竹(マダケ)や孟宗竹(モウソウチク)は、いずれも温暖な気候を好む種で、北海道の冬には耐えられないのです。孟宗竹に至っては中国原産で、日本に渡来したのは18世紀──日本で広く使われるのは後の時代です。

 では北海道に竹の仲間がまったくないかというと、そうではありません。山の沢筋や林の下に、びっしりと藪を作って茂っている笹があります。チシマザサ(千島笹)。ネマガリダケ(根曲竹)の名でも知られる、ササ属では最も北に分布する大型の笹です。稈(かん──茎のこと)の根元が雪の重みで弓なりに曲がるのが名前の由来で、北海道から東北、本州の日本海側の山地に広く群生しています。

 アイヌ語では竹のことをトㇷ゚と呼びます。千島笹は、十勝アイヌ方言ではヤヤントㇷ゚──「普通の竹」と呼ばれていたようです。「普通の」という形容がついているのは、アイヌの暮らしにとってこの笹がそれほど当たり前の素材だったということです。春には筍を掘って食べ、稈は簗(やな)や籠に編み、矢の鏃(やじり)の素材にもし、口琴のムックリもチシマザサから作られていました。

 稈の太さは直径一〜二センチメートルほど。真竹のように太くはなりませんが、節と節の間が詰まっていて、適度な硬さと弾力があります。
 本作では、装薬を入れる筒に、この太い稈を利用することとしました。節が天然の「底板」になり、わざわざ蓋を作らなくても片側が塞がる。粒の火薬を詰めて木の蓋をはめ込めば、一発分の装薬が収まります。



【火薬入れ】
 一発ごとに火薬を量り、銃口へ込める。これは前装銃(銃口から弾と火薬を装填する銃)に共通する大きな手間の一つでした。
 十六世紀から十七世紀にかけてのヨーロッパでは、銃兵(マスケット兵)が「バンドリア」と呼ばれる革帯を肩から斜めに掛け、そこに一発分の火薬を入れた小さな木製容器を複数ぶら下げて携行する例が見られました。弾は別の革袋に、火皿に盛る口薬(くちぐすり)は専用の小容器に分けて携帯します。
 こうした小容器の数は地域や時代によって異なりますが、十二本前後を吊るした例も知られており、後世には「十二使徒(トゥエルヴ・アポストルズ)」という呼び名で紹介されることがあります。



【紙薬莢(ペーパーカートリッジ)と、日本の早合(はやごう)】
 ヨーロッパで使われていた火薬容器は、やがて別の形へ発展していきます。紙薬莢(ペーパーカートリッジ)です。

 十六世紀後半頃には、一発分の火薬と弾を紙で包んで携帯する方法が各地で見られるようになりました。デンマークやナポリの兵士の使用例が知られており、ポーランド王ステファン・バートリの軍でも採用されたと伝えられています。十七世紀に入ると、この方式はヨーロッパ各地の軍隊へ広がっていきました。

 使い方は地域や時代によって多少異なりますが、一般的には紙の端を噛み破り、少量の火薬を火皿へ入れ、残りを銃口へ注ぎます。その後に弾を込め、残った紙を栓(ワッズ)の代わりとして押し込み、槊杖(ラマー)で突き固めました。

 木製の火薬容器と比べると、紙薬莢は使い捨てにできるため扱いやすく、装填の効率向上にも役立ちました。後には蜜蝋や獣脂などを用いて耐湿性を高めた例も知られています。


 一方、日本でも戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、火縄銃の装填を効率化するための道具が使われるようになります。それが「早合(はやごう)」です。

 早合は竹や木、あるいは革や紙を漆で固めた筒状の容器で、一発分の火薬や弾をあらかじめまとめて携帯するためのものでした。構造や内容物にはさまざまな形式があったと考えられていますが、使用時には蓋や栓を外し、銃口へ中身を注ぎ込んでから槊杖で突き固めます。複数の早合を胴乱(どうらん)と呼ばれる装具に収めて携行した例も知られています。



【銃と戦術の変化】
 前の組が下がり、後ろの組が前に出る動きを繰り返させた場面。あれは、ヨーロッパの軍事史で「カウンターマーチ」と呼ばれる戦術に似ています。

 十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、オランダを中心とするヨーロッパ各地では、火縄銃兵を効率よく運用するための隊形や訓練法が研究されました。その中で発展したのが、前列が撃ったら後方へ下がって装填し、その間に後列が前へ出て撃つという交替射撃です。
 火縄銃(マッチロック)は一発撃ってから次弾を撃つまで長い時間がかかります。一列だけで戦えば、その間に騎兵や槍兵に距離を詰められてしまう。そこで複数列を順番に回転させ、できるだけ途切れない射撃を行おうとしたのです。

 十七世紀前半になると、スウェーデン王グスタフ・アドルフの時代に、こうした射撃戦術はさらに発展しました。兵士の訓練を重視し、装填や射撃の手順を標準化するとともに、従来より浅い隊形で火力を前面へ集中させる運用が広まっていきます。
 また、複数列が息を合わせて撃つ一斉射撃も重要な戦術となり、銃兵中心の戦い方が次第に確立されていきました。

 十七世紀後半に燧石式銃(フリントロック)が普及すると、戦術はさらに変化します。火縄式に比べて扱いやすく、不発も減ったため、銃兵の比重がますます高まりました。さらにソケット式銃剣の普及によって、銃兵自身が白兵戦にも対応できるようになり、槍兵は次第に姿を消していきます。

 十八世紀初頭にかけて、ヨーロッパでは燧石式銃と銃剣を装備した歩兵を主力とする軍隊が一般的となり、横隊による一斉射撃と交替射撃を組み合わせる「戦列歩兵」の時代が到来しました。




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