オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
仕事のゴタゴタがようやく片付いたのでペースを戻します。
「峠を下りてくる一行がある。先頭はイッケウ──連れが四人」
見張りの声が、村の柵門から響いた。
ペカンクㇽとハルコルが村の入口に出ると、一行が川辺の道を歩いてくるところだった。イッケウは去年より肉のついた顔で、まっすぐ前を見て歩いている。その半歩後ろに、見慣れない男がいた。五十がらみ。陽に灼けた顔に深い皺が刻まれ、肩幅は広い。背負い籠は負っていなかった。
(穂別の……長だろうか)
村の入口でペカンクㇽと向き合うと、イッケウが短く目礼を交わした。
「ポンペッ(穂別)が、声を揃えた」
前置きはなかった。
「頑固な男だが、約束は守る。雪のあるうちに、俺が二度通った。──春になって、自分の足で来ると言った。それが、この男だ」
イッケウが半歩退くと、後ろの男が前に出た。ペカンクㇽより頭ひとつ低いが、地を踏む足に重みがあった。
「ポンペッの、ルウカだ」
目礼ひとつ。それからペカンクㇽの目をまっすぐ見た。
「ニワンが冬を越せた。あんたらが山を越えて食糧を運んだと聞いた」
声は低く、愛想はなかった。だが目が逸れない。言わねばならぬと腹を据えて来た目だった。ペカンクㇽは黙って頷いた。
ルウカの後ろに、若い男が三人控えている。空の背負い籠を負っていた。二人は穂別の者。もう一人は似湾と穂別の間の沢の村の者とのことだった。
イッケウが、沢の村の若者を目で示した。
「沢二つの、小さい村でな。五十人に届かん。ポンペッが動いたと聞いて、俺のところに来た。輪に入りたい、と。……小さくても、いいか」
ペカンクㇽは三人の若者を順に見た。空の背負い籠を見た。ルウカを見た。イッケウを見た。
「束ねるのは、誰だ」
「長は、それぞれの村にいる。村のことは、村の長が決める。──俺は、間を歩くだけだ」
短い沈黙があった。遠くで、畑の鍬の音が聞こえている。ペカンクㇽの目が、わずかに細くなった。
「ユーパㇽ(夕張)と、同じだ」
「ユーパㇽ?」
「山の向こうに、同じことをしている男がいる。──それでいい。学びに来る者は迎える」
それで話は決まった。長い話にはならなかった。ルウカは話の間ずっと腕を組んで黙っていた。決め事はイッケウに委ね、自分は見定めに来たという構えだった。
その日のうちに、三人の若者は畑に学びに入った。
植え付けはまだ半ばだった。日が高く、畝の黒い土から湿った匂いが立ちのぼっている。女たちが手を取って教える。畝の高さ。株と株の間。芽の向き。土の被せ方。若者たちは最初こそ遠慮がちに見ていたが、ほどなく並んで土に膝をつき、ことり、ことり、と芋を伏せ始めた。鍬の使い方は教えるまでもなかった。畑を知る手だった。ただ、エモを知らないだけだ。
「深すぎる。それじゃ芽が、土から出る前にくたびれる」
年嵩の女の容赦ない声に、若者が慌てて掘り直し、笑い声が起きた。
ルウカは畝の端に立って、それを眺めていた。腕を組んだまま、目は若者たちの手元ではなく、畑の広さを測っていた。
ハルコルは一行を畑の奥へ連れて行った。
「エモの畑は、同じ場所で作り続けると痩せる。だから、四つに分けて回します」
言葉より先に、目の前の畑が教えていた。並んだ四面の畑。一面はいま芋を伏せたばかりの黒い土。隣ではマメの畝を起こしている。その隣にはヒエの種が蒔かれた畝が並び、いちばん奥で菜種の芽が出始めていた。エモの次はマメ、マメの次はヒエ、ヒエの次は菜種。菜種の根が深く土を耕し、そこへエモがまた還る。若者たちは四つの畑を順に見比べ、指を折って数え、頷いた。
(種は、また自分で歩き始めた。鵡川の中流から、その隣のコタンへ。──去年は似湾まで。今年は穂別と、沢の村。誰かが命じたわけじゃない。穫れる畑を見た者が、自分の足で習いに来る)
それから、地下蔵へ案内した。
戸を開け、梯子を下りると、ひやりとした空気が肌を包んだ。土の匂い。芋の匂い。地の底の囲いに、冬を越したエモがまだ並んでいる。
穂別の若者が、囲いの縁に手を置いた。
「……雪の下で、凍みないのか」
「この深さまで掘れば、凍みません。──土そのものが、いちばん厚い毛皮になる」
ルウカが梯子を下りてきた。土壁に手を当てた。冷たく、乾いている。囲いの中の芋をひとつ持ち上げ、掌で重さを量り、黙って戻した。
「うちの村は、春が来る前に、いつも蔵が空になる」
若者の声は低かった。問いではなかった。目が、足元に並ぶ芋の山から離れない。
「だから、植えるんです。秋に穫って、ここに納めて、春まで保たせる。──蔵の掘り方も、帰る前に教えます」
若者は芋の山から目を離さず、ゆっくりと頷いた。
梯子を登り、外の光の中に出た。ルウカが目を細め、それからハルコルを見た。
「……聞きたいことがある」
「何ですか」
「俺たちにできることは、ないか。もらうだけでは、気が済まん」
声は低かった。頼みではなく、申し出だった。組んだ腕の指が、きつく食い込んでいる。
ハルコルは一瞬、ペカンクㇽの方を見た。父は顎をわずかに動かしただけだった。
「──あります。ふたつ」
ハルコルはルウカと若者たちを、沙流川の河原へ連れて行った。
春の雪解けで水嵩の増した川が、石の間を低く唸っている。河原の砂利を踏むと、じゃり、じゃりと足の裏に石が食い込んだ。水際の空気はまだ冷たい。
川辺に、板が一枚据えてあった。手のひら二つぶんの幅で、緩く傾斜をつけて石の上に置かれている。板の表面には浅い溝が何本か刻まれていた。
ハルコルは河原の砂を一掬い、板の上端に載せた。柄杓で川の水をすくい、少しずつ流す。さらさらと砂が水に押されて滑り落ちていく。軽い砂は板の下から流れ、重い粒だけが溝に残った。
黒い砂だった。
ハルコルは溝の砂を指先で摘み上げた。ざらりとした感触が爪に残る。掌に集めれば、見た目の量よりずしりと重い。
「これが、砂鉄です」
「これを炉で焼けば、鉄になる」
ルウカが板の前に屈み、溝に残った黒い砂を指で触った。摘んで掌に落とし、その重さに眉を動かした。
「……これが、鉄に」
「川底の砂の中に混じっています。流れの緩い淵や、砂が溜まる曲がりに多い。──あんたたちの川にも、あるかもしれない」
穂別の若者が板を覗き込んだ。砂を触り、水を流してみた。二度、三度。繰り返すうちに、溝に黒い筋が残る要領を掴み始めた。沢の村の若者も横から覗き、自分でも砂を掬い上げた。
ルウカは立ち上がり、川面を見た。その目は、自分の村を流れるムカ・ペッ(鵡川)の中流を辿っていた。
「探してくれますか。黒い砂が採れる場所を見つけたら、集めて、乾かして、まとめておいてほしい」
「やり方は、いま見た」
「もうひとつ、頼みたいことがある」
ハルコルは河原から畑の方へ歩きながら言った。
「屋根のある、雨の当たらない場所を用意してほしい。風が直に吹かない方がいい。──近いうちに、慣れた者をそちらへ送ります。そこで始める仕事がある」
ルウカは歩きながら横を向いた。
「何の仕事だ」
「土の中から、ある粉を育てる仕事です。やり方は送る者が教えます」
それ以上は言わなかった。ルウカも問い詰めなかった。言わぬには理由がある、と分かる男だった。腕を組み直して、ひとつ頷いた。
「砂鉄と、その粉。どちらも手に入ったら、そちらへ送ればいいんだな」
ハルコルは足を止め、ルウカの方を向いた。
「代わりに、鉄を渡します。鉈でも、小刀でも、鍬の刃でも。砂鉄の量に応じて」
ルウカの足が止まった。
「……鉄を」
声が低くなった。組んでいた腕がほどけ、拳がゆっくりと握られた。
「本当か」
「本当です」
ルウカはしばらく黙っていた。それから河原の方を振り返り、畑の方を見た。どちらも今日初めて見たものだった。
「帰ったら、すぐに川を見る」
イッケウが横から口を開いた。
「ハルコル。一度、こっちへ来い。ムカ・ペッを見せたい」
ルウカが頷いた。
「川のことなら、案内はする」
「行きます。──シムカㇷ(占冠)の荷を川で流せないか、前から気になっていました。川筋を見せてください」
イッケウが短く頷いた。
夕刻、ミナが若者たちに種芋の籠を渡した。
「渡せるのは、村ひとつに、いつつの畝ぶん。一回では渡しきれない。また受け取りに来て」
籠を覗いた若者の顔に、落胆が一瞬よぎった。ミナは構わず続けた。
「足りないと思うでしょう。でも、秋には十倍になる。全部、種芋に回して。──食べたら、そこで終わり」
「……食わずに、植えろと」
「最初の秋だけ。こらえて。──干し魚は、輪の中で融通する」
若者たちは籠を抱え直した。ずしり、と腕が下がる。重さを、確かめるように。
ルウカが籠の中を覗いた。揃った芋が並んでいるのを一目見て、黙って頷いた。芋の善し悪しは、山の長にも分かる。
その晩、ミナは囲炉裏端で帳簿を開いた。新しい頁の頭に、筆を入れる。
鵡川中流から上流域。
似湾、七十。穂別、ルウカ。沢の村、二つ。渡した種芋。約束した干し魚。砂鉄──穂別・沢の村より。硝石──場所の用意を依頼──。
筆の音だけが、しばらく続いた。書き終えると、ミナは頁を指で軽く撫でた。皺ひとつない、まだ何も起きていない頁。帳簿を閉じた。
トゥレㇷ゚がヒエを醸したトノト(濁り酒)を椀に注ぎ、客に回した。遠来の長をもてなす、甘く豊かな酒だ。ルウカは黙って椀を受け取り、一口飲んでゆっくりと息を吐いた。
次にトゥレㇷ゚が注いだのは、別の白い酒だった。
「こっちは試しだ」
春越しのエモを潰して醸した一杯。だが先ほどのトノトとは似て非なるものだった。薄く、酸い。ルウカは一口含んで眉を動かしただけだった。
囲炉裏の向こうで、イッケウが火を見ていた。椀をゆっくり傾け、底まで飲み干している。外では虫の声が始まっている。
「河口は、静かだ」
誰に言うともなく、低い声だった。
「静かなのは、いいことだ」
ハルコルが言うと、イッケウは火から目を離さずに、少しだけ首を振った。
「静かな川ほど、底が深い。……俺は、あの男に長く使われた。あれは、忘れる男じゃない」
炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
ルウカは、口は挟まなかったが、イッケウの言葉を聞く目は、山の獣の気配を読む目だった。
◆
翌朝、イッケウとルウカ、三人の若者は帰り支度を整えた。
若者たちの背負い籠に、種芋が詰まっている。一回に運べるぎりぎりの重さ。
ハルコルはカントとともに、一行を峠まで送ることにした。サルバの峠を越え、鵡川に繋がる道。
村を出て沙流川沿いに少し下ると、道が西へ折れる。峠道の入口だった。
一行は峠道にはすぐ入らず、少し南まで進んだ。低い丘がある。丘の上に杭と丸太の柵が据わっていた。柵の内側は人の背丈ほど掘り下げられ、掘った土で周囲に低い土塁が盛られている。櫓はない。だが見張り台がわりに太い丸太が三本、互い違いに組まれて柵の内から突き出し、登れば沙流の谷も峠道の入口も一望できる造りだった。
サルバのチャシ。
去年の秋、ペカンクㇽが「造ろう」と言い、冬の間にカントの部隊と若者たちが交代で積み上げた小さな砦だった。
カントが丘を登り、柵の内へ入っていった。中で二人の若者が焚き火を囲んでいる。片方が立ち上がり、軽く首を下げた。
「変わりはねえか」
「昨夜、鹿が三頭、東の沢を下りました。ほかには」
「鹿か。──人は」
「誰も」
カントは土塁の崩れを指先で確かめ、見張り台に登って南を眺めた。
「砦としちゃ小せえ。だが、ここに目と耳があるだけで話が違う。峠を越えてくる足も、道に入る足も、ここから見える」
丘の下で待っていた若者たちは、柵を見上げていた。ルウカも見ていた。若者たちとは見る目が違った。土塁の高さ、柵の組み方、見張り台の角度。
チャシを後にして峠道へ入ると、すぐに足が取られた。
雪解けの水が道の窪みに溜まり、踏めばずぶ、と脛まで沈む。冬の間に倒れた細木が道を塞ぎ、落ち葉が厚く腐って滑った。去年の秋に獣道を少し広げた程度の道が、ひと冬の雪と水に叩かれてだいぶ傷んでいた。
「荒れてるな」
先頭のカントが鉈を抜いた。倒木を払い、張り出した枝を落としながら進む。
「冬は雪の上を歩く。雪の下はまた別の道だ」
ハルコルは泥を踏み分けながら、道の両脇に目を配った。去年、枝に結んだ蔓の目印がまだ残っている。雪の重みで落ちたものもあった。
「直しながら行きましょう。帰り道が分からなくなっては困る」
穂別の若者は背負い籠を下ろさず、片手で泥地に枝を投げ込んでいく。種芋を地面に置きたくないのだ。沢の村の若者も黙って倒木を脇へ寄せ、窪みに石を踏み入れた。ルウカは何も言わず、手だけが動いていた。太い枝を折り、ぬかるみに渡す。一歩ごとに道の足場を固めていく。来た道を、帰る道にする手つきだった。
道を直しながら登るのは、ただ登るより何倍もかかった。だが踏み固めた跡は残る。次に通る足が、もう少し楽になる。
(この峠の向こうに似湾がある。穂別がある。鵡川が流れている。──これから先は、多くの人が荷物が、この道を行き来する)
尾根が近づくにつれ、風が変わった。南から吹き上げる風に木の芽と湿った土の匂いが混じり、沙流の谷から鵡川の谷へ峠を吹き抜けていく。
峠に出ると、東側に沙流川の谷が広がっていた。
ハルコルは西の斜面を見下ろした。イッケウとルウカ、三人の若者がこれから下りていく道。
「行く」
ルウカが背負い紐を直した。若者たちが籠を背負い直す。ずしり、と肩が沈む。ひと畝ぶんの重さ。
「道がぬかるんでいるから、足元に気をつけて。──秋に穫れた数を聞かせてください」
穂別の若者が黙って頷いた。
ルウカは西の斜面を見下ろし、それからハルコルを見た。
「川に黒い砂があったら、集めて送る」
言い置いて、先に斜面を下り始めた。足取りは速かった。山の男の足だった。若者たちが続く。背負い籠の底が揺れ、春の霞の中で小さくなっていく。
カントが鉈を肩に担いだまま見送っていた。
「……あいつら、食わずに植えるかね」
「植えますよ。蔵が空になる冬を知っている人たちだ」
カントは鼻を鳴らした。だが目は、最後の一人が尾根の向こうに消えるまで離れなかった。
◆
畑では、種芋の植え付けが終わりにかかっていた。
女たちが畝に沿って並び、籠から芋を取っては、掘った穴に伏せていく。ことり、ことり、と湿った土が芋を受ける音が続く。
今年の種芋は、去年までと違う。
冬の地下蔵で、帳簿と女たちの手が選り分けた芋だけが、籠に入っている。灰の土でよく穫れた株の子。持てば掌に沈む、皮の張った芋。籠の中を覗くと大きさも形も不思議なほど似通っていた。
ミナが籠の一つを覗き込んだ。
「去年より、粒が揃ってる」
帳簿を開き、畝の番号と籠の出どころを突き合わせていく。どの畝に、どの株の子を植えたか。秋にどの畝がよく穫れたか、また数えるためだ。
「揃った種芋から、揃った株が出るかどうか。今年の秋に分かる」
「出る、と思う」
ハルコルが言うと、ミナは顔も上げずに答えた。
「思う、は帳簿に書けない。──書けるのは、秋の数だけ」
年嵩の女が籠の芋をひとつ取り、掌で二度、三度と揺すった。重さを量る、いつもの仕草。それから黙って穴に伏せた。通った芋だけが、土に還っていく。
ことり、ことり、と音は昼まで続いた。
ハルコルは村の畑から少し離れた林際に立っていた。村の畑の連なりが途切れ、潅木の影が落ちる小さな一角。少し前から鍬を入れ、根を起こし、石を拾い続けてきた場所だ。畝はわずかに四本。村の畑のひと隅にも満たない。
懐から、小袋を取り出した。
去年の秋、枯れた蔓の先から拾い集めた実。その果肉を洗い落とし、陰で乾かし、冬の間は炉の煙の届かぬ乾いた棚で眠らせてきた種だった。掌に空けると、芥子粒ほどの薄茶の粒が、さらさらと音もなく寄り集まる。
「四百六十二」
後ろでミナの声がした。帳簿を小脇に抱え、畝の本数を目で数えている。
「数えたのか。これを」
「冬の間に。──暇だったわけじゃない」
ミナは帳簿を開いた。新しい頁に、もう何かが書き付けてある。試しの畑、畝四本、種四百六十二粒。筆の先が、蒔く前から秋の欄を空けて待っていた。
(種芋なら、一つの芋から一つの株。だがこの粒は、一粒ずつ性質が違う。同じ実から採れた兄弟でも、別の芽が出る。──その中に、灰の土を好むやつがいるかもしれない)
ハルコルは屈み、指先で土に浅い筋を引いた。粒をひとつまみ、筋に沿って落としていく。風が吹けば飛ぶほど軽い。息を詰め、薄く土を被せ、掌でそっと押さえた。
ざく、ざく、と村の畑の方から鍬の音が届く。村の女たちが畝を起こしている。その一人が手を止め、こちらを見ていた。年嵩の女だった。芋の善し悪しを掌で量る、あの女だ。
「ハルコル。そこは、何の畑だ」
「エモの畑です。種から育てる」
「種? エモは、芋を伏せて育てるもんだろう」
女の眉が寄った。鍬を担いだまま、二、三歩近寄ってくる。
「あの小さな粒から、芋が出るのか」
「エモが生えます。ただし、秋になっても穫れるのは小指の先ほどの芋だ。食えない。──それをまた来年植える。三年目に、ようやく食える大きさになります」
「三年」
女は呆れたように畝を見渡した。四本の畝。芥子粒の種。三年。
「種芋で足りるだろうに」
とがめる声ではなかった。理解はできないが、邪魔をする気もない。畑の仕事を疎かにしているわけでもない。女の関心はそこで尽き、鍬を担ぎ直して戻っていった。
(そのとおり。物好きの畑だ。だから村の畑から離して、分けた。ここでなら、何度しくじってもいい)
足音がした。振り向くと、ペカンクㇽが立っていた。いつからいたのか、四本の畝と息子の手元を黙って見ている。
長い間、何も言わなかった。やがて顎で畑の縁を指した。
「囲いを立てろ。鹿が食う」
それだけ言って、背を向けた。
ハルコルは父の背を見送り、それから残りの粒を蒔き終えた。最後のひとつまみを土に落とすと、小袋は空になり、頼りないほど軽くなった。去年の秋、懐で軽かったのと同じ重さ。だが中身は、もう土の中にある。
その日の夕方には、囲いを立て始めた。
林から切り出した細い杭を畑の四隅と縁に打ち込んでいく。とん、とん、と木槌の音が夕暮れの林に響いた。杭と杭の間に蔓を渡し、人の腰の高さで二重に張る。柵と呼ぶには頼りない作りだった。それでも鹿は足元の見えない囲いを嫌う。
最後の蔓を結んでいると、川辺の道をカントが通りかかった。射手の見回りの帰りらしい。立ち止まり、囲いを上から下まで眺めた。
「砦にしちゃ、頼りねえな」
「相手は鹿です」
「なら十分だ。──鹿は、夜討ちはかけてこねえ」
笑いもせず、歩き去った。
日が落ちる。蒔いたばかりの畝は、まだただの土の筋だった。何も生えていない。何も約束されていない。それでも囲いだけは、先に立っている。
木の芽が開ききった頃、試しの畑に変化が来た。
ハルコルは朝の光の中で、畝の前に膝をついた。
芽が、出ていた。
最初は苔と見分けがつかなかった。それが日ごとに伸び、いまは指の節ほどの丈で、四本の畝に点々と並んでいる。鹿避けの囲いの中、誰にも食われず、霜にもやられず。
そして、その芽は、一本ずつ違っていた。
葉の縁の切れ込みが深いもの。浅いもの。色の濃いもの、白っぽいもの。隣より頭ひとつ高いもの。地を這うように低いもの。同じ日に、同じ実から採れた種を蒔いたのに、揃った芽は二本となかった。
種芋の畑では、こうはならない。親の写しが、親と同じ顔で並ぶだけだ。
(ばらばらだ。──それでいい。ばらばらに生まれてくれなければ、選べない)
村の畑の方から、女たちの声が風に乗って届く。
足音がして、ミナが囲いの外に立った。帳簿を開き、畝の頭から芽を数え始める。唇がかすかに動き、筆が走る。
「三百と十一。──四百六十二のうち」
(三つに二つは出た。……上出来だ)
「数えるのは、ここから。どれが伸びて、どれが枯れて、秋にどれだけ付けるか。──全部」
ミナは帳簿を閉じ、それから囲いの中の芽をもう一度だけ見た。ばらばらの、不揃いの、帳簿に書きようのない眺め。ほんの一瞬、目元が緩んだように見えた。何も言わずに、村の畑へ戻っていった。
入れ替わるように、鍬を担いだ年嵩の女が道を通りかかった。足を止め、囲い越しに畝を覗き込む。
「……生えたのか。あの粒から」
「生えました」
女はしばらく、不揃いの芽を眺めていた。
「……畑の芽はもう掌に届くよ。こいつらで、芋になるのかい」
答えを待たず、歩き去った。だが去り際の声は、春先に呆れていた時より、わずかに柔らかかった。
ハルコルは畝の端から端まで、ゆっくりと目を這わせた。間引きはまだしない。印も付けない。どれが当たりかは、秋の土の中が教えてくれる。今はただ、伸びさせるだけだ。
目を上げた。囲いの向こうに村の畑の芽が見えた。同じ丈で、同じ色の芽が、畝という畝にまっすぐ並んでいる。
朝の風が、林を抜けて畑を渡った。
ばらばらの小さな芽が、同じ風に、揺れていた。
第43話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【アイヌの伝統的なお酒「トノト」】
アイヌには、独自のお酒が存在していました。「トノト」と呼ばれる、白く濁った醸造酒(どぶろく)です。
ヒエ(アイヌ語でピヤパ)などの雑穀を煮て、そこに麹を混ぜて発酵させることで造られていました(後には和人から交易で得た米も使われるようになります)。
アイヌ文化において、このトノトは単なる嗜好品ではなく、極めて神聖なものでした。日常的に晩酌として飲むようなものではなく、カムイ(神)への祈り(カムイノミ)や、イオマンテなどの重要な儀式、そして遠方からの大切な客をもてなす場でのみ醸造される「神と人とを繋ぐ供物」だったのです。
じゃがいもはデンプン質が主成分で糖分が少ないため、そのまま潰して発酵させても、酸っぱくなってしまい、美味しいお酒にはなりません。
これを現代のウォッカや焼酎のような「強くて透明な酒」にするためには、アルコールだけを抽出する「蒸留」というもう一段階の工程が必要になります。
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