オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第44話:燃える水と、道を知る川【1665年 夏】

 舟底の割れは、親指の幅ほどもあった。

 

 舳先に近い底板を、細い筋が斜めに走っている。古い傷だ。叩き込んだ苔の上から松脂を温めて流し、固めてある。ハルコルが指の腹でなぞると、樹脂の滑らかさの下に、傷の段差がかすかに指へ伝わった。

 

 「去年の春、岩を噛んだ。……空の舟なら、保つ」

 

 占冠(シムカㇷ)の長、ニウㇰが言った。朝靄の川辺に、古い丸木舟が一艘、艫を水に浸けて横たわっている。桂を刳り抜いた一本彫り。人がよんにん、前後に座ればいっぱいの細身だった。

 

 ウタが舟に屈み、割れの上を指でなぞった。それから舟腹を、こん、こん、と拳で叩く。音を聞く顔だった。

 

 「……いい舟です。よく乾いている」

 

 「新しい舟は、村で使う。──それで足りるなら、使ってくれてかまわない」

 

 ニウㇰの声に飾りはなかった。ハルコルは頭を下げた。

 

 村はずれの畑では、エモの畝が朝の光を受けて青々と続いている。その向こう、川の上手に白い崖が霞んで見えた。畑の土を直し、鉄の湯を助ける、あの白い石の崖だ。崖の下の岸には、切り出した石が積まれていた。

 

 (白い石。これから、ここの荷はまだ増える。今は沢伝いに峠へ担ぎ上げて、沙流川に下ろしている。……でも占冠は、鵡川の上に座っている村だ。この川をまっすぐ下れれば──)

 

 ハルコルは川面に目を戻した。鵡川(ムカ・ペッ)。占冠の盆地を出た水は、西へ谷を刻み、やがて南へ折れて中流へ下っていく。

 

 ウタが櫂を舟に積みながら言った。

 

 「歩けば、三日の道です」

 

 (舟なら、何日か)

 

 ハルコルは川面を見た。

 

 「──今日、分かります」

 

 ニウㇰが舟の舳先に手を置いた。

 

 「その舟は、くれてやる。川下で使え。……戻さなくていい」

 

 それだけ言って、背を向けた。

 

 二人は舟を押し出した。舟底が砂を噛み、それから、ふっと軽くなった。水が舟を受け取った音だった。

 

 

 

 

 

 

 流れは、すぐに速くなった。

 

 両岸の山がせり上がり、川幅が狭まる。水の色が深い青に変わり、舟足が見る間に伸びた。櫂は漕ぐためではなく、舵のために水へ入れる。ウタが舳先で膝を立て、水面の筋を読み続けていた。

 

 右手の岸の上に、細い道の跡が見え隠れする。三年前、父とウタとともに夕張(ユーパㇽ)へ向かって歩いた、あの川沿いの道だった。膝まで水に浸かって渡渉した瀬。笹を分けた斜面。あの時は足の下にあった川が、今は体を運んでいる。

 

 前方で、水の音が変わった。

 

 ごう、と低い唸りが谷に籠もり始める。ウタが振り返った。

 

 「峡です。──一度、着けます」

 

 舟を岩陰の緩みに寄せ、二人は岸に上がった。ウタが岩伝いに先へ歩き、峡の入口を見下ろす。ハルコルも並んだ。

 

 見覚えのある崖だった。

 

 層をなした赤い岩が、両岸に立ち上がっている。緑の夏山の中で、そこだけが焼けたように赤い。赤い岩の峡(はざま)。三年前に父が、夏は緑に赤が映える、と珍しく声を上げた場所だ。その崖の間を、白く泡立った水が岩を縫って走り落ちていた。

 

 ウタは長いこと黙って水を見ていた。岩の頭。水の筋。泡の巻き方。目だけが動いている。

 

 「……行けます。真ん中の黒い岩の、右を抜ける。左は水が巻いている」

 

 「その先の、白い段は」

 

 「あそこは駄目です。舟を降りて、岩伝いに曳きます」

 

 短いやり取りだけで、舟に戻った。

 

 流れが舟を掴んだ。

 

 速い。両岸の赤い縞が、頭の上を後ろへ流れていく。しぶきが顔を打った。ウタの櫂が右に入り、左に入り、舟が岩の間を滑り抜ける。水鳴りの底で、舟底を水が叩く音が、どどど、と腹に響いた。

 

 黒い岩。その右。

 

 舟が傾ぎ、水の背に乗り、すとん、と落ちた。冷たいしぶきが膝を濡らす。振り返ると、抜けてきた岩の間で水が白く牙を剥いていた。

 

 崖の中ほどを、平らな岩棚が過ぎていく。三年前、渡渉のあとに父と腰を下ろし、濡れた足を乾かした場所だ。あの日、半日がかりで越えた眺めが、瞬きのうちに背後へ流れ去っていった。

 

 白い段の手前で、ウタが舟を岸の岩に寄せた。二人は水に降り、舫い縄を取って、岩伝いに舟を曳いた。膝まで浸かった水が、押し戻すように脛を叩く。

 

 ハルコルは懐から薄い木札を出し、墨で線を引いた。峡の形。黒い岩。曳く段の位置。

 

 (三年前は、この峡を半刻かけて歩いて抜けた。今日は──あっという間だった。曳きを入れても、比べものにならない)

 

 峡を出ると、谷が緩んだ。三年前のあの日、この川を舟で下れれば、と最初に口にしたのはウタだった。父は首を振り、それから前を向いたまま言った。その言葉が、水音の残りの中で耳に甦る。

 

 ──今は使えない。だが、いつまでも使えないとは限らない。

 

 使えない理由は二つあった。一つは流れの速さ。もう一つは中流から下流を抑えるオニビシの目だ。速さは今、この目と体で測った。そして中流には、もう、輪に加わった村々がいる。

 

 

 

 

 

 

 櫂が、軽くなった。

 

 水を掻くたびに腕へ返ってきた重さが、ふっと抜ける。流れが速さを失い、舟底を押す力が緩んだのだ。

 

 川が、広がっていた。

 

 両岸を締めていた崖が低くなり、代わりに緩い段丘が岸を成している。その上にハルニレとヤチダモの梢が川面へ覆い被さり、木の下闇から漏れた陽が水面で砕けて、揺れるたびに光の粒が散った。

 

 鵡川の、中流域だった。

 

 ウタが櫂を上げた。雫が、ぽた、ぽた、と落ちる。

 

 「……ここから先は、流れが優しい」

 

 その声に、わずかな緩みがあった。ハルコルは岸を見ながら櫂を入れた。段の高い岸。崖の切り立つ岸。砂利の張り出す岸。舟を着けられる場所と、着けられない場所。川が教えてくれることを、一つずつ、木札に拾っていく。

 

 

 

 

 

 

 日はまだ高いうちに、右手の岸に人影が立った。

 

 ポンペッ(穂別川)の合流口だった。岸の砂利に、ルウカが腕を組んで立っている。その後ろに、若者が二人。春にニプタイへ来た顔だった。

 

 舟が岸に擦り着くと、ルウカは舟を見て、二人を見て、それから鵡川の川上を見た。

 

 「……上から、下りてきたのか」

 

 低い声だった。

 

 「シムカㇷ(占冠)を、今朝、出ました」

 

 「今朝」

 

 ルウカはもう一度、川上を見た。山の重なりの奥、赤い峡のある方角を。それきり何も言わず、顎で村の方を示した。来い、ということだった。

 

 

 

 穂別の畑は、沢沿いの緩い斜面にあった。

 

 いつつの畝。春に背負って帰った、あの種芋が、いま膝の丈の株になって並んでいる。葉の色は濃く、畝の土は丁寧に寄せられていた。畝の端に立った若者が、誇るでもなく、ただ言った。

 

 「……誰も、食わなかった」

 

 「秋が、答えてくれます」

 

 畑の脇に、屋根だけの小屋が新しく立っていた。掘立ての柱に、茅を葺いた片流れ。中は空だった。ハルコルが目をやると、ルウカが短く言った。

 

 「言われた通り、雨の当たらん場所を作った。……何の仕事かは、まだ聞かん」

 

 「近いうちに、慣れた者を送ります。その者が、全部教えます」

 

 小屋の隣には、筵が広げてあった。黒い砂が、薄く延ばして乾かされている。傍らに、口を縛った革袋が三つ。一つを持ち上げると、見た目より、ずしりと重い。

 

 「川を、見た」

 

 ルウカは、ハルコルの手の袋を見たまま続けた。

 

 「川の曲がりに、あった。──板は、若い者が作った」

 

 筵の脇に、傾斜をつけた選別の板が立てかけてある。春にハルコルが河原で見せた板と同じ形。だが溝が、ひとまわり深く刻まれていた。若者が板を目で示した。

 

 「浅く彫ったら、こぼれた。だから、深くした」

 

 「──僕が渡した板より、いい板だ」

 

 ハルコルが言うと、若者は目を伏せた。だが口の端が、わずかに動いた。

 

 筵のまわりでは、村の女がふたり、乾いた砂鉄を木の匙で袋に移していた。手つきに迷いがない。もう幾度も繰り返した動きだった。沢の水音に、さく、さく、と砂の鳴る音が混じる。春にはなかった音が、この村の暮らしに一つ、増えていた。

 

 

 

 

 

 

 夕餉の前、ルウカが川辺でハルコルを呼び止めた。

 

 「……妙な水の話が、ある」

 

 組んだ腕はそのままに、目だけが沢の奥の山を向いていた。

 

 「ここからポンペッ(穂別川)を上った先に、日の沈む側から入る大きな沢がある。その奥だ。土が黒く、水の面に脂が浮く。獣も飲まん。……年寄りは、臭い水と呼んでいる。昔から、あそこの水だけは駄目だと」

 

 「脂が、浮く」

 

 「魚の脂とは違う。鼻を突く。──あんたは、変わったものが好きらしいな。見るか」

 

 「見たい。案内を、頼めますか」

 

 ルウカは頷きもしなかった。

 

 「朝だ」

 

 その晩は穂別に泊まった。夕餉は焼いた川魚と、山菜の汁だった。囲炉裏を囲んでも、ルウカはほとんど喋らない。代わりに、若者の一人がおずおずと訊いた。秋には、あの畝からいくつ穫れるのか、と。

 

 「掘ってみるまで、分かりません。でも──きっと驚きます」

 

 若者は頷き、また火に目を戻した。

 

 ルウカは寝る前に一度だけ、土間の隅の革袋──黒い砂の袋を掌でぽん、と叩いた。約束は動いている、という手つきだった。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、ルウカと村の若者を一人伴い、ポンペッ(穂別川)を上った。

 

 沢沿いの獣道を、ルウカが先に立って登っていく。楢と潅木の茂みを分けるうちに、風の匂いが変わった。

 

 ルウカの言った通りの、鼻を突く匂いだった。松脂とも、獣の脂とも違う。焦げてもいないのに、どこか火を思わせる匂い。

 

 茂みが切れると、湿地が開けていた。草の生えない黒い土が水際に広がり、よどんだ水たまりが点々と続いている。その水の面に、膜が張っていた。日を受けて、青と赤と金色が、ぬらりと渦を巻いている。

 

 とぷ、と水の底から泡が上がり、膜の色を割った。

 

 ルウカが足を止めた。

 

 「……ここだ。これより奥へは、猟師も入らん」

 

 ハルコルは水際に屈み、指先で膜をすくった。黒い雫が指を伝う。水よりも軽く、さらりと流れて、あとにぬめりと、あの匂いが残った。

 

 (石油だ。原油が、地面から滲み出してる。……こんな場所が、本当にあるのか)

 

 枯れ枝を一本折り、先を黒い水たまりに浸した。表面に浮いた膜をたっぷりと絡め取り、腰の袋から火口(ほくち)を出して燧石を打つ。火口の赤を枝先へ移すと、しばらく燻ったのち、ぼっ、と赤黒い炎が立った。炎は赤黒く、細い黒煙を引いた。

 

 若者が声もなく跳び退いた。ルウカは動かなかった。だが組んでいた腕が、ゆっくりとほどけた。

 

 「……水が、燃える」

 

 「水じゃない。水の上に浮いている、これが燃えるんです」

 

 ハルコルは枝を黒い土に突き立てて火を消し、腰の水筒を外した。中の水を空け、膜の厚いところから黒い液を掬い入れる。とろり、と細い筋が筒の口に落ちた。量は掌に載るほど。今は、それでいい。

 

 (継ぎ目に塗れないか。……いや、駄目だ。松脂よりずっとさらさらしてる。塞ぐどころか、流れてしまう。──これはこれ。使い道は、別にある)

 

 木札を出し、余白に「臭い水の沢」と書き付けた。

 

 「ルウカ殿。いずれ──砂鉄と同じように、この水も集めてほしいと、頼む日が来るかもしれない」

 

 ルウカはしばらく、燃え跡の枝を見ていた。

 

 「……鉄に、なるのか」

 

 「鉄には、なりません。でも、いつか要る」

 

 「そうか」

 

 ルウカはそれ以上、問わなかった。

 

 「汲めと言われれば、汲む。……どうせ、誰も使わん水だ」

 

 帰り際、ハルコルはもう一度だけ湿地を振り返った。黒い土。ぬらりと光る膜。とぷ、と上がる泡。誰も使わず、獣も飲まず、ただ地の底から滲み続けてきた水。

 

 (この大地は豊かだ)

 

 

 

 

 

 

 ポンペッ(穂別川)を下りルウカたちと別れ、繋いでいた舟に乗った。穂別川が合流した、川幅を増した鵡川を下る。

 

 「秋に、穫れた数を聞かせてください」

 

 岸のルウカは、片手を上げただけだった。それで足りた。

 

 中流の水は、変わらず優しかった。ウタは舳先で水面に目を落とし続けている。

 

 「この辺りは底が浅い。膝ほどです。増水しても腰まで。──渡れます」

 

 舟が岩の脇を過ぎたとき、足元で、ちゃぷ、と小さな音がした。

 

 見下ろすと、舳先の割れの継ぎから水が染み出ている。一条の細い筋が、足の横を伝っていた。叩き込んだ苔が、ふた日の水に、とうとうふやけたのだ。

 

 ウタが振り返り、足元を見た。眉がわずかに寄る。櫂を止め、舟底の割れに手を当てた。

 

 「……空の舟でも、これです。荷を積んで往き来する舟は、丸木では小さい。板を継いだ、大きな舟になる。──継ぎ目は、もっと染みる」

 

 ハルコルは足元の水を見つめた。量はわずかだ。だが荷が水を被れば台無しになる。干し魚も、鉄の地金も、火薬の素材も、水には弱い。

 

 (松脂なら多少は防げる。だが熱で溶けるし、長くは保たない。──何か、もっと粘って水を弾くものが要る)

 

 ハルコルは木札の余白、「臭い水の沢」の字の横に「継ぎ目・防水」と書き付けた。宿題だ。いつか解く。

 

 ウタは何も言わず、また櫂を水に入れた。舟底に薄く溜まった水が、漕ぐたびにちゃぷちゃぷと鳴った。

 

 

 

 昼を過ぎた頃、左手の岸に、知った沢口が開いた。

 

 似湾(ニワン)の沢だった。

 

 砂利の岸に舟を引き上げていると、沢の奥からイッケウが歩いてきた。足を止め、ハルコルとウタの顔を見て、舟を見て、それから川上を見た。ルウカと同じ順だった。だが口から出た言葉は違った。

 

 「……漏ったか」

 

 舟底に残った水の跡を、目ざとく見つけていた。

 

 「少しだけ。昨日は、保ったんですが」

 

 「そうか」

 

 イッケウは、驚かなかった。上から下ってきたことにも、赤い峡を抜けたことにも、何も言わなかった。ただ、傍らの石に腰を下ろし、掌で隣の石を示した。

 

 沢の向こうでは、村の女が河原に降りて水を汲んでいる。子供が二人、水際を走り回っていた。木立の合間に見える屋根は、茅が新しく葺き替えられ、去年の夏より色が明るい。

 

 子供の一人が駆けてきて、引き上げた丸木舟を珍しげに覗き込んだ。舟底の割れに触れようとして、イッケウに首根を掴まれ、笑いながら逃げていく。その笑い声を、去年のこの村は持っていなかった。

 

 ハルコルは木札を差し出した。

 

 川の流れ。赤い峡と、曳く段の印。穂別の位置。渡れる浅瀬。そして木札の隅に、昨日、穂別に着いた時に書き付けた文字。

 

 「一日」。

 

 「昨日の朝、シムカㇷ(占冠)を出て、ポンペッ(穂別)に日のあるうちに着きました。曳きを一度入れて、一日です」

 

 「……一日」

 

 低く繰り返し、それから、川下へ目を向けた。声が低くなった。

 

 「だが、これより下へは行くな。ウタフの手の者は、いなくなってはいない。──河口は、あの男の庭だ。長く付き合いがあった俺が言う。あの男は、忘れない」

 

 この春、囲炉裏の火を挟んで聞いた警句と、同じ響きだった。静かな川ほど、底が深い。

 

 「分かっています。使うのは、ここまで。──ここから先は、まだ早い」

 

 イッケウは頷き、立ち上がった。

 

 「峠の口まで、岸を行く。……その前に、見せたい場所がある」

 

 

 

 

 

 

 イッケウは岸の道を先に立った。舟は流れに乗り、その背を追って沢口から僅かに下る。

 

 「峠道は、この先の小さな沢を登る。その沢の口の下手だ。──砂利が、舌のように張り出している。水が、そこで回る」

 

 岸からの声は、その通りだった。

 

 左岸の段の裾に、白い砂利が川へ張り出している。その先端で流れが二手に割れ、砂利洲の裏側に緩い淀みができていた。流木の枝が一本、ほとんど動かずに浮いている。

 

 「水が、回っている」

 

 ウタの声に、張りが戻った。舟が淀みに滑り込むと、水音が、ふつりと消えた。舟底を砂利が、ずず、と受け止める。

 

 二人は舟を降り、ウタが真っ先に段の縁へ歩いた。縁の土に残った線を、指で確かめる。

 

 「増水の痕は、この線まで。段の上は乾いている。──杭を打つなら、ここでしょう」

 

 段の上は平らに開けていた。潅木と夏草の奥に、七歩四方ほどの平地がある。屋根を渡せば、荷を雨から守れる広さだった。ウタが縁に沿って歩き、十歩ごとに立ち止まっては、川面との高さを目で測っていく。

 

 「上流側に十五歩ほど、縁が真っ直ぐで、岸が崩れていない。舟を並べて着けられます」

 

 ハルコルは段の上に立ち、ゆっくりと体を回した。

 

 北を向けば、鵡川が緩く蛇行しながら上流へ続いている。山の重なりの奥に赤い峡があり、そのさらに奥に占冠がある。足元の砂利洲には、今朝までの道のりを運んできた丸木舟。そして東には、峠道の入る小さな沢の口──その峠の向こうに、サルバの丘とニプタイがある。

 

 川で下ってきた荷を、ここで陸に揚げる。峠を越えれば、ニプタイ。

 

 (占冠の白い石も、穂別の砂鉄も、臭い水も。……いつか全部、この砂利の上を通っていく)

 

 「雪が来る前に、杭を打ちましょう」

 

 ウタが言った。ハルコルは頷いた。

 

 イッケウが岸伝いに砂利洲へ降りてきて、丸木舟の舷に手を置いた。

 

 「舟は、どうする」

 

 「ここに置いていきます。ニウㇰ殿が、川下で使えと。──イッケウ殿の村で、預かってもらえますか」

 

 イッケウは舟の舳先を、川上へ向け直した。割れを埋めた松脂の跡を、掌で撫でた。

 

 「……直して、使う。杭打ちも、足場の丸太も、川のことなら俺の村のほうが手が早い」

 

 「頼みます」

 

 「頼まれたから、ではない」

 

 イッケウは舟から手を離さなかった。

 

 「この舟が、最初の一艘だ。──俺の村の冬が、変わる。だからやる」

 

 

 

 日が西に傾き、段の上の草が金色に染まり始めた。

 

 ハルコルとウタは峠道の沢口に立ち、荷を背負い直した。腰には、黒い水を入れた水筒が一つ。懐には、川の全部を書き付けた木札。

 

 登り口で、ハルコルは一度だけ振り返った。

 

 夕暮れの光の中に、鵡川が横たわっている。占冠の靄の中にいた水が、赤い峡を抜け、穂別の前を過ぎ、似湾の沢を集めて、いま目の下の砂利洲を洗い、そのまま流れ下っていく。

 

 誰に命じられたわけでもなく、ただ低い方へ、海の方へ。

 

 川は、道を知っていた。




第44話をお読みいただき、ありがとうございます!

おまけの解説コーナーです。

【鵡川(ムカ・ペッ)】
鵡川。アイヌ語では「ムカ・ペッ(muka-pet)」と呼ばれます。
その語源には「水の湧き出る川」や「(上げ潮で砂が運ばれ)河口が塞がる川」など諸説ありますが、「臭い水(原油)が地の底から湧き出す沢」が実在したことを踏まえると、「水が湧く川」という響きにはどこかロマンを感じます。

鵡川は上流の占冠(シムカㇷ)から始まり、層をなす赤い岩肌が美しい「赤岩青巌峡(あかいわせいがんきょう)」の激流を抜け、穂別、似湾を経て海へと至る、全長135キロにも及ぶ長大な水系です。


【穂別川(ポンペッ)】
ルウカたちのコタン(村)があり、「臭い水(原油)」を見つけるために上っていった川は、鵡川の大きな支流である「穂別川」にあたります。
アイヌ語で「ポン・ペッ(pon-pet)」は、ずばり「小さな・川」を意味します。

ちなみに、この穂別川の上流域は、さらに太古の時代(白亜紀)の地層がそのまま地表近くに広がっており、現代ではアンモナイトや海棲爬虫類(ホベツアラキリュウ)の化石が多数発掘される「化石の里」としても全国的に有名です。


【穂別の石油沢と炭鉱】
北海道むかわ町穂別(キウス地区)には、「石油沢(せきゆざわ)」と呼ばれる場所が実在します。
この一帯は古くから天然ガスや原油が地表に滲み出しており、昭和の初期から1970年代頃にかけて、実際に小規模ながら油田として原油の採掘が行われていました。

また、穂別(ポンペッ)の地は、原油だけではありません。
穂別周辺は、後に北海道の石炭開発とも深く関わる土地でもあります。近代に入ると「穂別炭鉱」や「新登川炭鉱」などが開かれ、昭和中期にかけて炭鉱の町として栄えました。




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