オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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幕間6:蝦夷地の若き藩主【松前藩】

 息が、浅い。

 

 福山館の奥座敷に、昼の光が白く這い込んでいた。障子紙に映る日差しは夏のものだったが、褥の中の高広の肌は冷えていた。汗すら、もう出ない。

 

 松前高広は、天井の杉板を見ていた。数え二十三。それが、今この褥の上に横たわっている男の歳だった。

 

 (──また)

 

 胸の左奥を、鈍い拳が押す。呼吸を深くしようとするたびに、肋の裏側が軋む。もう痛みとも呼べなかった。ただ、胸の奥に居座り続ける重たい圧が、息をする度に思い出させる。お前の身体はもう、お前の思い通りには動かないのだと。

 

 この痛みを、高広は知っている。三年前。宇都宮の宿で、夜半に一度だけ、左の胸から肩へと走った鋭い痛み。翌朝にはすっかり消えていた。長旅の疲れだ、と自分は寝返りを打って片付けた。

 

 二年前の冬に、同じ痛みが戻った。今度は三日、消えなかった。広林に手筈を整えさせ、湯の川へ湯治に赴いた。十一の歳に重い病で身体を壊した時と同じ湯だ。松前家の藩主は代々、身体が丈夫ではない。高広はそれを、血のようなものだと思っていた。

 

 だが、湯治から戻っても痛みは完全には消えず、息を深く吸うたびに胸の奥で何かが引き攣る感覚だけが残った。

 

 今年の春、階段を上がるだけで、膝が笑った。

 

 (──ワシは、あとどれほど持つ)

 

 父・氏広は、二十七で江戸藩邸にて死んだ。祖父・公広も、四十四で逝った。曾祖父の慶広は長命だったが、それは例外だ。松前の当主の血は、短い。

 

 分かっているのは一つだけだ。自分が死ねば、竹松丸が、七つで家督を継ぐことになる。

 

 (──ワシが六つで継いだのと、同じだ)

 

 (──江戸に、おる)

 

 竹松丸は、今、江戸にいる。松前家の世継ぎとして江戸藩邸に置かれ、母と乳母に育てられている。

 

 三年前、江戸で竹松丸に会った。四つだった。袴の裾に飛びついて「お土産はあるかえ」と跳ねた。白い貂の毛皮を見せてやると、目を丸くした。小袖の裏地に仕立ててやると約束した。あの子は、今ごろ何をしているだろう。

 

 (──七つだ。もう、あの白い貂の小袖は、きつくなっている頃だ)

 

 高広は、ふと笑おうとした。だが頬は思うようには動かず、口の端がわずかに持ち上がっただけだった。

 

 (──会いたい、な)

 

 褥の中の、誰にも聞こえぬ声だった。

 

 (──もう、会えぬか)

 

 

 

 

 

 

 障子が、静かに開いた。

 

 「殿」

 

 低く太い声が、褥の傍に降りた。

 

 蠣崎蔵人広林。

 

 三十を越えたばかりの武人は、膝を揃えて端座し、頭を下げた。高広の枕元には、すでに薬湯の椀が置かれていたが、中身は冷えて湯気を失っている。広林は黙ってそれを下げ、新しい白湯を運ばせた。

 

 「……蔵人」

 

 「ここに」

 

 「叔父上に、文を出したか」

 

 「先月、早飛脚を立てました。殿の御不例の子細と、竹松丸様の御養育について。江戸の八左衛門泰広殿には、万事の差配をお願い申し上げておきました」

 

 「うむ」

 

 高広は天井を見たまま、しばらく黙った。

 

 泰広は江戸にいる。竹松丸も江戸にいる。高広が死ねば、家督相続の手続きは、すべて江戸で行われる。将軍への御目見え。御老中への献上品。幕閣への根回し。──そのすべてに、叔父の助力が必要だ。三年前の参府で泰広と膝を突き合わせた夜、「ワシに、もしものことがあった時は──竹松丸を、お頼み申す」と告げた。泰広は「命に代えても、竹松丸殿をお守り申し上げる」と深く頭を下げた。あの言葉を、今は信じるしかなかった。

 

 「……蔵人」

 

 「はっ」

 

 「主殿(とのも)はどうしている」

 

 「主殿は、奥書院にて、知行主らの上納帳を検めております」

 

 「上納帳を」

 

 「はい」

 

 高広の薄い唇の端に、冷たい笑みが浮かんだ。

 

 (──ワシが褥に伏している間に、あの男はもう、金の勘定を始めている)

 

 蠣崎主殿広隆。守広系の蠣崎家を継いだ男。政に明るく、口が巧く、帳面を操る術に長けている。高広が十一の歳に湯治に出されていた頃から、松前藩の実務を回す側に立ってきた家柄の三代目だ。広林が武で支え、広隆が政で回す。高広はその二本の柱を使い分けてきた。

 

 だが──

 

 (あの二人は、ワシがいるから釣り合っている。ワシが消えれば──)

 

 「蔵人」

 

 「はっ」

 

 「福山を──頼む」

 

 三年前、江戸藩邸の奥座敷で叔父・泰広に言ったのと、同じ重さだった。あの時は、「竹松丸を頼む」と言った。今は、「福山を」と言う。竹松丸は江戸にいる。叔父が守る。ならば──この蝦夷地の砦を守るのは、広林しかいない。

 

 広林は、深く頭を下げた。額が畳に触れた。

 

 「殿の御身に、万一のことがあれば。──この蔵人、福山と蝦夷地のことは」

 

 「死ぬな、蔵人」

 

 高広の声は、か細かったが、鋭かった。

 

 「死んで忠義を見せるのは、一番の下策だ。──お前は生きて、ここを守れ」

 

 広林は、息を呑んだ。高広の目が、褥の中から広林を見ていた。もう瞼を上げているのも辛いはずだったが、その目だけは、冷たく鋭かった。

 

 (──この御方は、死の際にあっても、人の腹の底を読む)

 

 「……ハッ。──生きて、お守り申し上げまする」

 

 高広は、薄く笑った。

 

 そして、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 文月の五日。

 

 松前高広は、福山館の奥座敷にて、息を引き取った。

 

 享年、数えの二十三。父・氏広が二十七、子の高広が二十三。蝦夷島主の血は、また短く燃え尽きた。

 

 広林は、高広の顔に白い布を被せる時、手が震えた。

 

 遠い江戸では、竹松丸がまだ何も知らない。七つの男児は、父が死んだことを、早飛脚が届くまで知らない。知った時、あの子はどんな顔をするだろう。泣くだろうか。──殿は、六つで父を亡くした時、泣いたのか。広林は知らない。高広がそのことを語ったことは、一度もなかった。

 

 

 

 

 

 

 法幢寺の梵鐘が、福山の港町に低く響いた。

 

 松前家の菩提寺は、城の山手に位置する古刹だった。夏の日差しが伽藍の甍を焼き、読経の声が白壁の内側にこもって、外へはほとんど漏れない。

 

 寛文五年の夏、福山館は喪に服した。

 

 四代藩主・松前高広の死は、城下の町人にも、港に出入りする廻船商人にも、海峡の向こうの三厩に至るまで、またたく間に伝わった。だが遠く江戸に届くには、早飛脚でもなお日を要する。

 

 広林は、葬儀の支度と並行して、江戸への急報を重ねて手配した。海峡の向こうの津軽藩や南部藩にも伝えた。蝦夷島主・松前家の当主逝去は、幕府への届け出が急を要する。家督相続の手続きは江戸で行われる。竹松丸の将軍への御目見え、御老中への献上品、幕閣への根回し──そのすべてを、江戸の泰広が仕切る他ない。広林にできるのは、福山から書状と献上品を送り、泰広の差配を助けることだけ──そう思い定めていた。

 

 (──江戸のことは、八左衛門様に任せるしかない。ワシの仕事は、ここだ)

 

 葬儀には城下の寺社の僧侶、知行主、藩士、町年寄が列席した。だが位牌の前に座るべき竹松丸の姿は、そこにない。海を隔てた江戸にいる幼い藩主の代わりに、広林が左に、広隆が右に控えた。

 

 梵鐘の余韻が消えると、蝉の声が戻ってきた。

 

 葬儀が終わり、人が引けた後、広隆が広林の隣に立った。

 

 「蔵人殿。──竹松丸様のお目見えと、御家督御礼の儀がある。江戸に参る」

 

 「……主殿殿が」

 

 「八左衛門様だけでは心許ない。幕閣への根回しと、献上の段取りには、なお人手が要る。──蔵人殿も、共に渡られよ」

 

 広林は、広隆の顔を見た。

 

 「……拙者も、か」

 

 「七つの殿の、初の御目見えぞ。家老が二人揃って御前に列してこそ、松前の家中に乱れなし、と幕閣の目に映る」

 

 広隆は、寺の門の方へ視線を流した。

 

 「それに──拙者も蔵人殿も、まだ新しい殿に御目通りしておらぬ」

 

 広林は、答えに詰まった。そのとおりだった。竹松丸は江戸で生まれ、江戸で育っている。「福山を頼む」と託された己が、その福山の主となる子の顔を、まだ知らぬ。

 

 「これより先、蝦夷地は冬へ向かって静まる。──福山を空けるなら、今をおいてほかにない」

 

 広隆の声は落ち着いていた。葬儀の余韻がまだ寺の白壁に残っているというのに、この男はもう次の手を打ち始めている。

 

 「それと──今宵、奥書院にて話がある。発つ前に、蔵の中身のことを決めておきたい」

 

 広林は、短く頷いた。

 

 「参る」

 

 

 

 

 

 

 奥書院の燭台に火が入ったのは、日が暮れてからだった。

 

 広林が入ると、広隆はすでに文机の奥に座っていた。文机には、帳面が三冊と、古びた巻物が一つ、几帳面に並べられている。

 

 広隆は、広林より九つも若い。数えて二十三──逝った殿と、同じ歳である。守広系蠣崎家の三代目として、松前藩の財政と外交の機微を、部屋住みの頃から叩き込まれてきた。高広が幼少で家督を継いだ後の藩政を、裏から支えた家柄でもある。

 

 口元に薄い笑みを浮かべる癖があった。誰に対しても穏やかに見えるが、広林はその笑みの下に、算盤の弾く音を聞く気がしていた。

 

 「まず、お家の存続から」

 

 広隆は挨拶もそこそこに切り出した。

 

 「我らが江戸に参り、八左衛門様ら一門衆とともに、竹松丸様のお目見えと御家督御礼の儀を整える。御老中への献上品は、蝦夷地の上物の昆布と鷹の羽──こちらから持参する」

 

 「御礼の儀に、不足はあるまい」

 

 「ああ。だが──江戸の話は、江戸で片付く。問題は、こちらだ」

 

 広林は頷いた。家の存続は、松前藩にとって何よりも先に立つ。藩主が逝き、幼君が継ぐ。そのこと自体は、高広が六つで継いだ前例がある。問題は、幕閣の信任をつなぎ留められるかどうかだ。──それは、福山ではなく、江戸で決まる。

 

 だが、広隆が次に開いた帳面は、別の話だった。

 

 「次に、蔵の中身の話をする」

 

 広隆は、薄い笑みを消さないまま、帳面の数字を指でなぞった。

 

 「明暦の大火から八年。江戸藩邸の再建は済んだが、近江屋への借りは、利を含めてなお多く残っておる。殿の参府にも費えがかさみ、旅費の半分近くは外から借りた金だった」

 

 「承知しておる」

 

 広隆は、帳面の頁を一枚繰り、広林の方へ向けた。

 

 「それに、山だ。──これは砂金の上がりよ」

 

 年ごとの数字が、上の行から下の行へ、目に見えて細っていた。慶広公の御代には、川を浚うだけで砂金が光った、と古老は言う。その川が痩せ、今は山を深く掘っても、上がりは年々目減りしていく。

 

 「金の山が藩を養った時代は、終わりつつある。蔵に入る道が、細くなっておるのだ」

 

 「加えて──殿の逝去で、葬儀の費え、家督相続の手続きの費え、幕閣への献上品の費え。これが、一度に来る」

 

 広隆は帳面を閉じ、広林を見た。

 

 「蔵が足りぬ。──足りぬから、増やす」

 

 「増やす、とは」

 

 「商場(あきないば)の運上を上げる。知行主からの上納を引き上げ、その分、蝦夷との交易の比率を改める」

 

 広林は、黙った。

 

 「改める」とは、何を意味するか。広林には分かっていた。

 

 蝦夷地の交易比率は、すでに蝦夷たちにとって不利だった。和人が持ち込む安手の鉄鍋、古着、濁酒を、蝦夷たちが命懸けで猟った毛皮や干鮭と交換する。その交換の釣り合いが、もともと和人に大きく傾いている。

 

 「改める」とは、その釣り合いを、さらに傾けるということだ。

 

 「──蝦夷が呑むか」

 

 広隆は、薄く笑った。

 

 「呑ませる。蝦夷に選ぶ権利はない。神君の黒印状がある」

 

 広隆は、几帳面に並べた巻物に手を伸ばした。古びた和紙に墨書された文面──松前家が代々、蝦夷地交易の独占を保証された根拠。家康公が松前慶広に下した黒印状の写しだった。

 

 「蝦夷地に出入りする者は、すべて松前藩の許可を得ること。──これが、我らの御墨付きだ。蝦夷との商いは、松前の手を通さねば一切罷りならぬ。蝦夷がどれほど不満を持とうと、他に売る先がない以上、我らが定めた値で売る他はない」

 

 広隆は巻物を広げたまま、指で一行一行なぞった。

 

 だが、なぞらなかった行がある。

 

 黒印状には、続きの条があった。夷人に非分を申しかくるべからず。夷の往来は、夷次第たるべし。──家康が松前に交易独占を認めた代わりに課した、蝦夷との共存の条件。

 

 広隆は、その行に指を触れなかった。触れなかったのか、忘れたのか。あるいは──はじめから、読んでいなかったのか。

 

 広林は、広隆の指がその行を飛ばすのを、見ていた。

 

 

 

 

 

 

 「具体の算段はこうだ」

 

 広隆は、新しい帳面を開いた。

 

 「主だった商場の知行主に、上納の引き上げを通達する。引き上げ分は、蝦夷との交易比率で吸収する。鮭百本に対して鉄鍋一つ──これを、鮭百五十本に改めることとなろう」

 

 「五割増しか」

 

 「五割は穏やかな方だ。実際には、現場の番人がもう少し絞るだろう。──鮭の数え方にも、手がある」

 

 広隆は帳面の端に小さく書いてある数字を示した。

 

 「蝦夷が百本持ってきたと言っても、番人が数えれば八十本だ。──残りの二十本は、形が悪い、虫が食っている、と弾く。弾いた分は、買い叩く」

 

 広林の眉が、かすかに動いた。

 

 「数の誤魔化しか」

 

 「誤魔化しではない。正当な検品だ。──松前家の台所が苦しい以上、何処かで絞らねば、家が潰れる。蝦夷を絞るか、家臣を絞るか。どちらかしかない。そして家臣を絞れば、殿を支える者がいなくなる。──竹松丸様は、まだ七つだ。今、家臣に離反されれば、松前家は終わる」

 

 広隆は、そこで帳面を置き、声を少し落とした。

 

 「もっとも──絞るのは、当座しのぎよ。蝦夷から搾れる量には、限りがある。いずれは、商いの形そのものを変えねばならぬ」

 

 「形を、変える」

 

 「今は知行主が銘々に船を仕立て、銘々に商っておる。船の費えも、番人の飯代も、みな知行主持ちだ。これを、まずは近江の商人どもに船や仕入れの手配から請け負わせる。ゆくゆくは、商場そのものを任せ、我らへ運上金を納めさせる。商人は励むほど己が儲かるゆえ、勝手に励む。我らは坐して金を得る。……まだ、思案の段だがな」

 

 広林は、眉根を寄せた。商場を、商人に任せる。それは蝦夷地の浜を、銭の勘定だけで動く者らの手に渡すということではないのか。

 

 「それと、もう一つ」

 

 広隆の指が、帳面の隅の書き付けを叩いた。

 

 「西の浜の鰊(にしん)だ。春の群来(くき)で、海が白く濁る。あれはまだ、獲れるだけ獲ってはおらぬ。網を増やし、他国の漁師を入れ、水揚げから運上を取る。──ゆくゆくは、和人地の浜だけの話ではないぞ。鰊は魚にあらず。米よ。米の獲れぬこの地では、な」

 

 広隆の論理は、明快だった。家の存続のためには金が要る。金は蝦夷地から搾る。それが松前藩の構造だ。米が獲れぬ藩には、他に道がない。

 

 広林は、その論理を否定できなかった。否定はできなかったが──胸の底に残る異物感は、飲み下せなかった。

 

 「……殿が逝かれたばかりだ。まず家督を固めるのが先ではないか」

 

 「家督を固めるために金が要ると言っているのだ、蔵人殿」

 

 広隆は微笑んだ。穏やかな声だった。

 

 「幕閣への献上。将軍様への御目見え。江戸藩邸の維持。八左衛門様の差配の費え。──すべて金だ。金がなければ、家督は固まらぬ」

 

 広林は、拳を膝の上で握った。

 

 「分かった。──だが、蝦夷が静かでいるうちの話だ。シャクシャインとオニビシの抗争の火種は、まだ消えておらぬ。承応の頃に一度仲裁したものの、寛文に入ってからも不穏な知らせが絶えぬ。サㇽやモンベツの知行主から、蝦夷同士の争いで交易に差し障りが出ておるとの訴えが来ておる」

 

 「それは承知しておる」

 

 「承知しておるなら──蝦夷を絞り過ぎれば、蝦夷同士の抗争だけでなく、我らにも刃が向く恐れがある」

 

 広隆は、ゆっくりと首を振った。

 

 「刃を向けさせぬのが、知行主の腕だ。蝦夷は烏合の衆。束ねる力がない。──シャクシャインとオニビシが互いに潰し合うなら、むしろ都合がよい。弱った方を呑み込めばよいのだ」

 

 広林は、その言葉を聞いて、口を閉じた。反論はあった。だが、今この場で広隆と角突き合わせることが、竹松丸のためになるとは思えなかった。藩主が逝き、幼君が立ち、家の土台が揺れている。二人の家老が割れれば、藩そのものが割れる。

 

 「──好きにされよ。ただし、蝦夷地の押さえは、拙者が引き受ける」

 

 広隆は、微笑んだまま頷いた。

 

 「それでよい」

 

 広隆は、広げていた帳面を、静かに重ね直した。

 

 「──御礼の儀が済んだら、拙者はそのまま江戸に残る」

 

 「……残る、と」

 

 「金主も、幕閣も、御老中も、みな江戸におる。借財の談判も、御公儀への聞こえも、これからの松前は江戸で決まることばかりよ。福山に座っていては、手が届かぬ」

 

 燭台の火が、広隆の薄い笑みを揺らした。

 

 「役方は拙者が江戸で引き受ける。番方と蝦夷地は、蔵人殿が福山で。──殿の代わりに、海を挟んで、二人で松前家を支えようではないか」

 

 二人の家老の間に、短い沈黙が落ちた。夏の夜風が、奥書院の障子を微かに鳴らしている。

 

 

 

 数日の後、二人の家老は、三厩へ渡る船に乗った。福山館は、留守居の藩士に委ねられた。新しい比率の触れは、まだ出されぬ。──だが帳面の数字は、もう組み上がっている。油紙に包まれ、広隆の行李の中に。

 

 

 

 

 

 

 江戸の風は、乾いていた。

 

 海峡の潮を含んだ福山の風とは、肌への触りがまるで違う。藩邸の庭の松が、白く高い冬空の下に、乾いた影を落としている。広林が江戸の土を踏んでから、はや幾月かが経っていた。

 

 御家督の儀も、将軍・家綱公への御目見えも、恙なく済んだ。

 

 御目見えに備え、竹松丸は元服の儀を済ませ、松前兵庫吉広と名を改めていた。泰広の差配によるものだった。

 

 御目見えの日の朝、広林は藩邸の式台で、初めて吉広を見た。

 

 数えの七つ。裃の肩が薄く、駕籠へ向かう足が小さかった。教えられた通りに歩き、教えられた通りに、駕籠の前で一度立ち止まって見送りの列へ顔を向ける。幼い所作の、どこにも乱れがなかった。

 

 その袖口から、白いものが覗いていた。

 

 貂の毛皮だった。亡き殿が参府の折に土産として携え、小袖の裏に仕立てさせたという、白い貂。袖はもう、寸が足りていない。小さな手首が動くたび、白い毛が朝の光を弾いた。

 

 (──御成長、なされた)

 

 広林は、式台に手をついたまま、それだけを思った。

 

 

 

 

 

 

 御家督の儀が済んだ晩、藩邸の広間に、松前の血が集まった。

 

 祝いと呼ぶには静かな、内々の膳だった。殿の喪は、まだ明けていない。それでも広間には、松前の名を持つ顔が、これほどかと思うほど並んでいた。

 

 上座に、吉広。裃を脱ぎ、子供らしい小袖に着替えている。その右に、泰広が座っていた。

 

 松前八左衛門泰広。亡き殿の叔父にして、御公儀の命で幼君の後見に立った男。──高広が「頼む」と言い、「命に代えても」と答えた、あの男である。数えて四十一。旗本の身なりは質素で、脇差の拵えにも飾りがない。泰広は家老二人の労を短くねぎらうと、あとは黙って、盃を舐めていた。賑わいの中で、その座り姿だけが、妙に静かだった。

 

 左手の列には、江戸の旗本松前の一門が居並んでいた。

 

 その筆頭に、松前内記玄広。神君家康公に大坂で御目見えし、夏の陣で二ヶ所の手疵を負って二千石の大身に立った忠広様──その孫にあたる。江戸の旗本松前の、本家筋の当主だった。数えて三十一。家督を継いで、七年になるという。

 

 その隣に、弟の兵部本広。数えて十九。兄によく似た面差しの、まだ線の細い若者だった。

 

 「御本家の大事とあらば、我ら江戸の松前、いつなりと」

 

 玄広の声には、大身の家らしい鷹揚さがあった。

 

 広隆が盃を受け、如才なく礼を返す。座の政は、ここでも広隆の領分だった。

 

 泰広の後ろには、男児が二人、控えていた。元服を済ませたばかりの嫡男・八兵衛嘉広と、まだ前髪の三男・孫七郎。孫七郎は吉広より幾つか年嵩なだけで、膳が進むうちに、幼い藩主の傍らへ席を移していた。

 

 孫七郎が、何事かを耳打ちした。

 

 吉広が、笑った。

 

 式台で見た、教えられた通りの所作の子が──歯を見せて、笑ったのだ。

 

 (──城は北に、血は江戸に、か)

 

 広林は、盃を置いた。福山の館に、藩主の直系の血は残っていない。血は、みな、この広間にある。海峡と、長い陸路の向こうに。

 

 

 

 

 

 

 宴が半ばを過ぎた頃、泰広が、目立たぬように座を立った。

 

 立ち際、その目が、笑っている吉広の上に、一度だけ留まった。それから、広隆と広林へ、短く目配せを寄越した。

 

 奥の座敷には、火鉢が一つだけ入っていた。広間の賑わいが、襖二枚を隔てて、遠い潮騒のように届く。茶が三つ、運ばれてきて、下がった。

 

 「呼び立てて、済まぬ」

 

 泰広は、廊下の跫音が絶えるのを待って、口を開いた。

 

 「二年前になる。有珠の山焼の注進を、それがしが御老中へ届けた折──大目付・北条安房守様に、内々に呼ばれた」

 

 広林は、茶碗を置いた。大目付。大名家を検める、御公儀の目だ。

 

 (──八左衛門様の御内室は、安房守様の息女。……身内なればこそ、聞き得た話だ)

 

 「安房守様の文机には、注進状と並べて、もう一枚の紙があった。四年前に蝦夷地へ漂着した、伊勢の船頭の口書の写しよ。──古い漂流人の紙を、わざわざ取り寄せて、山焼の報と並べて読んでおられた」

 

 広隆の口元から、薄い笑みが消えていた。

 

 「蓋に、北、と一字書いた文箱があってな。蝦夷地の書付を、以前から、あの箱に集めておられる。──御公儀の目は、確かに北を向いておる。山が焼けてからは、なおのことだ」

 

 座敷の火鉢で、炭が小さく爆ぜた。

 

 「浜の差配は、蠣崎の両家の掌中にある。それがしは浜を知らぬ。知らぬゆえ、これまで口を挟まなんだ。──だが、これだけは言うておく」

 

 泰広の目が、広隆と広林を、順に見た。

 

 「御公儀に検められて、困る帳面を、作られるな」

 

 短い沈黙のあと、広隆が、畳に両手をついた。

 

 「御懸念、有難く承りまする」

 

 声は、どこまでも丁重だった。

 

 「なれど、御老中の奉書には──蝦夷地の儀、先例の通り、と。御公儀が先例と仰せの商いを、先例の通りに続けるまでにございまする」

 

 「……先例の通り、か」

 

 「八左衛門様には、殿の御身の上を、何とぞ。政は拙者が江戸で御公儀に当たり、蝦夷地は蔵人が福山で押さえまする。──御後見の御手を、藩政ごときで煩わせは致しませぬ」

 

 丁重の底に、線が一本、引かれていた。

 

 泰広は、しばらく黙っていた。

 

 それから、頷いた。頷きは浅く、目は頷いていなかった。

 

 「それと──」

 

 言いかけた口が、そこで止まった。

 

 広林は、続きを待った。火鉢の炭が、白い灰を一枚、落とした。

 

 「……いや。それだけだ」

 

 泰広は、静かに膝を起こした。

 

 「──家の血を、頼み申す」

 

 言い置いて、出て行った。

 

 襖が閉まると、広隆は茶碗を取り上げ、冷めた茶を一口飲んだ。

 

 「江戸の御方には、江戸の見え方がおありよ」

 

 広林は、答えなかった。

 

 (──検められて、困る帳面、か)

 

 膝の上の拳が、ひとつ、固くなった。

 

 

 

 

 

 

 福山へ発つ前の晩、藩邸の一間で、広隆は広林の前に一通の奉書を置いた。

 

 御老中の奉書だった。趣は一つ。──蝦夷地の儀、先例の通り。

 

 「交易の独占は、殿の代でも揺るがぬ、との仰せだ。──これが我らの御墨付きよ」

 

 広隆は、奉書の脇に、あの古びた巻物を並べた。福山から行李に納めて運んできたのだろう。夏の夜と同じ、黒印状の写しだった。

 

 「諸国より松前へ出入りの者ども、相断りなくして、夷人と直商売仕る儀は曲事たるべき事──」

 

 広林は、黙って巻物を見ていた。

 

 広隆の指は本文へ移り、そこで止まった。付記──「夷の儀は、何方へ往行くとも、夷次第たるべき事」。──「夷人に対し非分申しかくる者、堅く停止の事」。指は、そのどちらにも触れなかった。

 

 広隆は、巻物を静かに巻き戻した。それから、油紙の包みを広林の前へ押し出した。固く紐の掛かった、几帳面な包みだった。

 

 「これを、福山へ。触れは、蔵人殿の名で出されよ」

 

 「……拙者の、名で」

 

 「国におる家老が判を捺すのが、筋というものよ。役方の細かな指図は、追って文で送る」

 

 広林は、包みを両手で受け取った。紙の束にしては、重かった。

 

 (──殿は、それを見越して、二人に遺言を分けたのだろうか)

 

 高広は、吉広を泰広に、福山を広林に託した。広隆には何も言わなかった。何も言わなかったが、広隆が金の勘定を始めていることは、褥の中から見えていた。それを止めなかった。止めなかったということは──

 

 (──認めた、ということか。蝦夷を絞ることを)

 

 広林は、巻き戻された巻物に目をやった。「夷人に対し非分申しかくる者、堅く停止の事」──文字は、紙の内に巻き込まれて、もう見えない。見えないが、そこに在る。




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【松前高広(1643~1665)】
松前高広(まつまえ たかひろ)は、江戸時代前期の武家。蝦夷地を支配した松前氏の第4代当主で、一般には松前藩第4代藩主と数えられる。

寛永20年(1643年)、第3代藩主・松前氏広の長男として生まれる。
慶安元年(1648年)、父・氏広が江戸藩邸にて27歳の若さで急死したため、わずか6歳(数え)で家督を相続した。幼少の藩主を支えるため、藩政の実務は守広系蠣崎家の蠣崎主殿広隆や、正広系蠣崎家の蠣崎蔵人広林といった有力な一族の重臣たちによって回されることとなった。

高広自身、11歳の頃に重病を患って湯の川へ湯治に赴くなど、歴代当主と同様に若年期から決して壮健とは言えぬ身体であった。

金山(砂金)の枯渇や江戸藩邸の焼失に端を発する財政難の最中にあり、後の松前藩の蝦夷地支配(アイヌ交易)の方針を大きく変質させる転換期を生きた人物である。

寛文5年7月5日、福山館にて病死。享年23。戒名は松前院殿漢臣利永大居士。



幕間6投稿に先立って、幕間4と5の一部単語の置換を実施しています。

矩広は、元服前の幼名が竹松丸、元服後の初名が吉広でした。そのため、幕間4・5に登場する元服前の呼称を「竹松丸」へ修正し、今後は「吉広」で統一します。「矩広」への改名は、これより後のことだったようです。
考証から漏れていました。申し訳ございません。

和人視点は、逆に資料が多く、精査が大変です……。



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