オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第46話:冬の鞣しと、鉄器の刻印【1665年 冬】

 瀬の音だけが、残っていた。

 

 ハルコルは足を止めた。秋には、この段に立てば、瀬の音の上に人の声が乗っていた。筏を寄せる声、材を数える声、綱を投げる声。いまは、どれもない。瀬だけが、同じ調子で鳴っている。

 

 岸からは氷が張り出していた。淀みは端のほうから白く塞がり、浅瀬では子供らが尻で滑っては歓声とともに転がる。追いかける犬の爪が、かり、かり、と氷を掻いた。

 

 だが、川の芯は黒いままだ。両側から迫った氷にはさまれて、細くなった流れがかえって速く走っていく。下手の渡し場では、岸の氷を割って丸木舟を出していた。棹が氷の縁を叩く音が、瀬の音に混じる。

 

 雪が来ても、峠越えの便は途切れていない。秋のうちは、段の上から荷を見送るだけだった。この冬は、ハルコルも列のひとりだ。背負子を降ろした者たちは、いま村のチセで湯をもらっている。帰りの荷が整うまでの、短い逗留だった。

 

 筏は、もう春まで来ない。

 

 段の上の蔵は戸を閉ざし、軒に雪を厚く載せていた。それでも、中身は眠っていない。峠を越える便が発つたび、黒い袋と白い石の袋が蔵を出て、尾根の道を東へ運ばれていく。戸口の木札には、出た数だけ新しい刻み目が増えていた。今朝も若者がひとり、荷を担ぎ出しては木札に小刀を入れ、指で刻みを数え直している。

 

 蔵の軒が白く光っていた。雪ではない。細い魚が簾のようにびっしりと吊るされ、凍てた風に干し上げられている。スサㇺ(柳の葉の魚)だ。岸が凍てる前のわずかなあいだ、似湾の若い者たちは鵡川を下って、下流の網場に入る。今年はそこで、久しぶりに大きな群れに当たった。

 

 雪を踏む音がして、イッケウが段を上がってきた。並んで立ち、軒のスサㇺへ顎をやる。

 

 「灰の年から、下の網場でも群れが薄くてな。去年は、届けるだけで精一杯だった。……隣の挨拶が、あれしかなかった」

 

 「今年は」

 

 「網を入れるたび、腕が抜けるかと思った。……蔵も竿も足りんという冬は、この村では初めてだ」

 

 軒のスサㇺは、二重に吊るされていた。竿が足りない、というのはそういうことだった。

 

 「峠の便には、うちの若いのを四人通わせている。ニプタイの背負子と、もう名で呼び合う仲だ。……ゆうべも、どこの村の誰それが嫁を取るの取らんのと、うちの囲炉裏で騒いでいた」

 

 「帰りの荷が、変わりましたね」

 

 「ああ。去年は、食う物を運んでもらった。今年は、鉈と、鍬の刃と──仕事を運んでいる」

 

 イッケウは、岸の氷へ目を戻した。

 

 「筏が止まると、静かすぎてな。秋のうちは、瀬の音と材の当たる音で、村中がせわしない気になっていたが」

 

 岸の氷の下から、水が小石を転がす音が届いた。川は、止まってはいない。ただ、細くなって冬をやり過ごしている。

 

 

 

 昼過ぎ、帰りの便が発った。

 

 ハルコルは列の中ほどで、背の荷を揺すり上げた。似湾の若者が四人、混ざっている。荷は炭の俵と、干したスサㇺの籠。峠の雪は締まって、歩きやすい。

 

 蔓の輪の道しるべをたどって尾根に取り付く。先頭の若者が振り返り、見送りの子供らへ大声で何か言って笑わせた。サルバのチャシの下で一息入れる頃には、日は峠の肩まで傾いでいるだろう。振り返ると、岸を白く縁取った川と炭の煙と魚の光る軒が、ひとつの村の形に収まって見えた。

 

 

 

 

 

 

 桶の水が、白く濁っている。

 

 ニプタイの村はずれの風下に、この冬のために掛けた小屋が一棟ある。柱を立てて萱を葺き、風の来る側だけ筵で塞いだ、囲いばかりの粗末なものだ。その土間に、大きな木の桶が三つ並んでいる。乳のように白い水の面から、皮の端が覗いていた。

 

 鹿の皮だ。雪が根雪になってすぐ、カントの猟隊が橇を鹿の山にして沢から戻ってきた。

 

 「雪の早い年は、鹿が沢に固まる」

 

 橇の綱を解きながら、カントはそれだけ言った。

 

 「肉は捌く。皮は任せた。……足りなけりゃ、まだ獲ってくる」

 

 若い者が、獲物から抜いた矢を束ねていた。矢柄の尻には、それぞれ違う刻みが入っている。

 

 アイシロシだ。

 

 鹿の神は、その刻みを見て、どの矢に当たるかを決めるという。幾人かで追ったとき、倒れた獣に残った矢が誰のものかを告げるのも、この刻みだ。父から、あるいは父の兄弟から受け継ぐ、家筋の印だった。

 

 ハルコルは、束ねられた矢の尻をしばらく見ていた。

 

 本当なら、任されたところで、冬にできることは少ない。

 

 冬に剥いだ皮は、枠に張って干すか、丸めて炉の上へ吊るしておく。仕事は夏だ。温んだ水に幾日も漬けて腐らせ、毛の根が緩んだところで洗い、丸太に掛けて揉む。臭くて、待つ仕事だった。冬にやろうとしても、水が凍て、木灰の灰汁は効きが鈍い。毛の根は締まり、掻いても掻いても抜けず、指ばかりが赤く割れていく。

 

 だが、夏までは待てなかった。

 

 「革が足りねえんでさあ」

 

 カニタは、蔵の砂鉄を工房へ運び込む手を止めずに言っていた。

 

 「銃が十挺なら、肩当ての革が十枚。ヨイチへ回す毛皮とは別口でさあ。女衆の手が回らねえと、こっちの銃が仕上がらねえ」

 

 雪の日も、工房の炉は落ちなかった。峠を越えてきた黒い袋が、日に幾つも工房へ消えていく。先に尽きるのは、いつも炭のほうだ。

 

 その革のために、ハルコルは石焼きの窯へ人をやった。

 

 この秋、炭焼きとは別の窯がひとつ増えている。白い石だけを焼くための窯だ。去年までは、製鉄の炉が空いた隙を借りて焼いていた。炉が銃身で塞がるようになってからは、借りる隙がない。──焼く場所を、別に作った。

 

 窯から出てくる石は、同じ大きさでも、来たときより軽い。桶の水へ落とすと、しゅう、と音を立てて湯気を噴き、みずから熱を持って崩れ、白い粉になる。占冠の崖から筏で下り、峠を越え、ここで火に入って水に落ちる。畑の酸を和らげ、炉の仕事を助けてきた粉が、いまは俵で積まれていた。

 

 その俵を三つ、小屋の土間へ運ばせた。桶の水に混ぜると、澄んだ水がたちまち濁った。

 

 「腐らせる代わりに、これを使います」

 

 「灰汁より、ずっと強い灰汁だと思ってください。これに皮を沈めて、幾日か待ちます。……強い灰汁が、毛の根を緩めるはずです」

 

 「はず、かい」

 

 母トゥレㇷ゚が笑って、袖をまくった。

 

 「いいさ。畑の粉が皮にも効くかどうか。効かなくても、粉が減るだけだ」

 

 (石灰乳。皮の下ごしらえに使うことだけは知っている。どれだけ濃く、何日漬けるのか──そこから先は、試すしかない)

 

 桶へ入れる前に、下ごしらえがあった。

 

 凍って板になった皮を、湯を張った桶で戻す。柔らかくなったところを丸太の背へ掛け、マキリの背でしごく。刃ではない、背だ。刃を使えば皮まで削げる。裏に残った肉と、冬の脂。脂は冷えて硬く、しごくたびに白く縮れて、丸太の下の土間へ落ちた。

 

 女たちは丸太を跨いで腰で押さえ、上から下へ、同じ角度で手を運んだ。この手つきだけは、誰にも教わる必要がなかった。

 

 三日、待った。

 

 初日は桶の縁に氷が張り、湯を差して割った。二日目には、白い水に触れた指がぴりぴりと痛んだ。皮を返すのは、木の棒の仕事になった。その晩は雪になった。女たちは桶へ古い筵を掛け、戸口の筵を下ろして引き上げる。朝、戸を開けると、敷居の内側にまで雪が吹き込んで、土間に細い筋を引いていた。

 

 三日目の朝は、晴れた。

 

 母トゥレㇷ゚が棒で皮を引き上げ、丸太の背へ掛けた。灰色にふやけて、指で押すと厚く沈む。その毛の面へ、マキリの背が毛並みに逆らって入った。

 

 ずる、と。

 

 毛が、束で抜けた。

 

 ひと掻きで、掌ほどの幅の毛が根ごと離れていく。掻くというより、拭うのに近い。丸太の周りに女たちが集まって、順に手を入れた。夏を待って腐らせるはずだった仕事が、見る間に一枚の裸の皮になっていく。

 

 「……なんだい、こりゃあ」

 

 年嵩の女が、マキリを握ったまま笑い出した。

 

 「うちの婆さまが知ったら、腰を抜かすよ」

 

 しくじりも、すぐに出た。浮かれて五日漬けた一枚は、毛は抜けたが表がぬめって張りを失った。三日、長くて四日。その境目は、母トゥレㇷ゚が皮の耳を摘まみ、引いて、日に透かして、ひとつずつ決めていった。

 

 

 

 毛は抜けた。だが、革にはならなかった。

 

 岸の氷を割って開けた濯ぎ場で、腕が痺れるまで濯ぐ。それでも、乾かすと皮が白い粉を吹いた。指で払っても、翌日にはまた吹いている。粉を吹いた皮は板のように硬くなり、折り曲げると音を立てて割れた。

 

 「粉が、抜けきらない」

 

 濯ぎ直した。二度、三度。流れへ半日沈めた一枚もあった。薄くはなったが、消えはしない。

 

 (強い灰汁が、皮の中に居座っている。……水では、出ていかないのか)

 

 手が止まっているあいだ、皮は雪の上に並んで、白く粉を吹き続けていた。

 

 

 

 「渋を、くぐらせてみるかい」

 

 言ったのは、婆さまが腰を抜かすと笑った、あの年嵩の女だった。

 

 自分のチセから木の桶をひとつ提げてくる。中は、濁った赤茶の汁だった。ハンノキ(ケネ)の皮を煮た汁──糸を染めるのに使う、あの渋だ。

 

 「灰汁を使った糸を、そのまま染めに入れると色が食わない。渋を先にくぐらせると、食う。……理屈は知らないよ。婆さまが、そうしていた」

 

 白い粉を吹いた皮を、赤茶の桶へ沈めた。

 

 半日置いて引き上げ、濯いで、雪の上へ広げる。

 

 乾いた。

 

 粉は、吹かなかった。皮はうっすらと赤茶に染まり、石灰だけを濯いだ皮より、手の中で素直に曲がった。それでも、まだ革ではない。

 

 ハルコルは、その一枚をしばらく見ていた。

 

 

 

 残ったのは、揉みだった。

 

 母トゥレㇷ゚が鹿の脂を少しだけ火にかざして緩め、掌へ薄く延ばして、濡れた皮の裏へ擦り込んだ。塗るのではない、押し込むのだと言った。乾いてから塗っても、もう入らないのだと。

 

 それから、乾かしながら揉む。乾くのを待って揉むのではない。乾いていくあいだじゅう、休まずに揉む。手を止めれば、止めた分だけそこが板になる。

 

 女たちは皮を握れるほどの棒に巻き、雑巾を絞る形で捻った。捻っては開き、開いてはまた別の向きへ捻る。腕が上がらなくなると次の者へ渡し、渡された者がまた捻る。

 

 夜になっても、終わらなかった。

 

 炉端へ皮を持ち込み、火を絶やさずに揉み続ける。誰かが歌い出し、拍子が手に合わさった。歌が途切れると手も鈍るので、歌は途切れなかった。ハルコルも一度、渡された。捻ってみて、すぐに自分の手の弱さが分かった。皮は、こちらが力を抜いた分だけ、確かに硬くなる。

 

 (待てば、固まる。……この仕事にだけは、待つ時間がない)

 

 明け方、最初の一枚が上がった。

 

 畳んでも折り目が立たない。開けば、元へ戻る。頬に当てると、しっとりと冷たかった。

 

 最後に、それを炉の上へ吊るした。煙が下から回り、日を跨いで、皮は薄い飴色に変わっていく。煙を通した皮は、濡れても硬く戻らないのだと、女たちは言った。理由は誰も言わなかった。

 

 

 

 上がった一枚目は、カニタの工房へ渡った。銃床の肩当てに縫い付ける、エゾシカの革。二枚目からは、ヨイチへ回す荷の綴りに新しい行が立った。ミナは行を書き終えると、炭の筆の尻で綴りの縁を、こつ、と叩いた。

 

 「革、上がり三枚。冬のうちに、あと二十」

 

 それから綴りを繰って、別の頁を開いた。

 

 「石灰の頁は、去年まで一行だった」

 

 頁の上を指す。畑。一行きり。

 

 「いまは三行ある。畑。炉。革」

 

 指が下へ降りて、四行目の空白で止まった。

 

 「──ここは、まだ空けてある」

 

 濯ぎ場では、若い女たちが氷を割り直していた。次の三枚が、桶で待っている。

 

 

 

 

 

 

 「打つ物が、決まらねえんでさあ」

 

 鑢の音が止んだ。工房の土間には、鉈の荒地が二十ばかり並んでいる。まだ刃の形をしていない、厚い鉄の板だ。カニタは膝で立ち上がり、その列を顎で示した。

 

 「冬に打たなきゃ、春の荷には間に合わねえ。だが、こいつがヨイチへ行く物なのか、輪の中へ配る物なのか。それが決まらねえと、鍛えが変わるんでさあ」

 

 「鍛えが」

 

 「輪の中なら、うちの森と畑を知ってる連中が使う。鈍りゃ、研ぎ直しに来られる。……よそへ出しちまえば、二度と手が届かねえ。届かねえ物は、鍛えも焼きも、少し変えなきゃならねえんでさあ」

 

 カニタは炉の火を掻いた。炭が崩れ、赤い粉が舞い上がって消えた。

 

 「それに、炭でさあ。鉈を三十打つぶんの炭は、銃身が幾つか分の炭でもある。……どっちに焼くかは、俺が決めることじゃねえ」

 

 ハルコルは並んだ荒地の一枚を持ち上げた。ずしり、と手に来る。まだ何にもなっていない重さだった。

 

 

 

 

 

 

 雪が、また降り出していた。

 

 ペカンクㇽのチセに、六人が集まった。炉を囲んでカント、ミナ、カニタ、ハルコル。奥にモノクテが背を丸め、入口寄りではトゥレㇷ゚が縄を綯っている。手は動いているのに、掌の中の縄は少しも縒れていかない。

 

 ペカンクㇽは、しばらく火を見ていた。

 

 「秋から、考えていた」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

 ミナが帳簿を開いた。頁を繰る音が、屋根を打つ雪の音に混じる。

 

 「この冬に回せる余りは、鉈にして三十と少し。小刀なら、その倍。鍬の刃なら、十を超えない。……三つとも出すなら、そのうちの割り振りだ」

 

 「多いのか、少ねえのか」

 

 カントが訊いた。

 

 「少ない。ヨイチが一年に松前から取る鉄は、もっと多いだろう」

 

 ハルコルは膝の上で指を組んだ。

 

 「出さなくても、鉄はヨイチへ行きます。松前からは……秋に聞いた値のままなら、鮭百五十本で、鍋ひとつです」

 

 奥で、モノクテが咳をした。乾いた、長く尾を引く咳だった。

 

 「わしが若い頃は、鍋ひとつに鮭が六十本だった」

 

 炉の火が、ぱち、と爆ぜた。

 

 「わしの目玉が黒いうちに、六十が百になり、百が百五十になった。……次に幾つになるかは、わしはもう見んだろうがな」

 

 カントが胡坐を組み直した。

 

 「鉈は、人も斬れる」

 

 火の向こうへ、視線だけが動いた。

 

 「ヨイチが誰と組むかは、ヨイチが決めることだ。三年先にあの刃がどっちを向いてるか、俺は請け合えねえ」

 

 「そこは、俺も心持ちが悪いんでさあ」

 

 カニタが顔をしかめた。

 

 「打った物が、どこで何を切ってるか分からねえ。鍛冶の性分としちゃあ、面白くねえ話でさあ」

 

 ペカンクㇽが、はじめて口を開いた。

 

 「刃のことは、案じておらん」

 

 カントの眉が上がる。

 

 「ヨイチが刃をこちらへ向けるなら、鉄があろうとなかろうと向ける。向けぬなら、鉈を百やっても向けん」

 

 ペカンクㇽは炉の縁に手を置いた。節の張った厚い手が、灰の熱を測るように動かない。

 

 「案じているのは、別のことだ」

 

 雪が、屋根の上を滑って落ちた。

 

 「輪の中では、黒い砂を持ってくれば鉄が渡る。定めがあるから、村は輪に入る。──輪の外にいたままで、同じ定めで鉄が渡るなら」

 

 言葉が切れた。薪が一本、灰の中へ崩れた。

 

 「誰が、輪に入る」

 

 誰も答えなかった。ミナの指が、開いた頁の上で止まっている。

 

 (……そこか)

 

 秋からこちら、ハルコルが数えていたのは、出す鉄と入る石だった。長がふた月のあいだ黙って見ていたのは、帳簿に行の立たないものだ。

 

 「……では、量を絞りましょう」

 

 自分の声が、思ったより低く出た。

 

 「今年は鉈を十だけ。輪の中へ回る分より、はっきり少なく」

 

 「量ではない」

 

 ペカンクㇽは首を振りもしなかった。

 

 「十でも三十でも、同じ定めで渡れば、定めは外まで伸びる。伸びた定めは、縮まん」

 

 火が低くなった。長は薪を足さず、灰の上で赤く沈んでいく熾を見ている。

 

 やがて、顔を上げた。

 

 「出す」

 

 カニタが背筋を伸ばした。

 

 「だが、輪の中の定めは、輪の中のものだ。外へは、その都度決める。今年は鉈と小刀と鍬の刃。何と換えるかは、荷が来てから決める」

 

 「トカプチへ出す鉄も、その都度ということでしょうか」

 

 ハルコルが訊いた。トカプチの硫黄は、山が遠いという返事が来たきりで、こちらが何を出すかは決まっていない。

 

 「そうだ。──その場で決めろ」

 

 ペカンクㇽの目が、火の向こうから息子へ動いた。

 

 ミナの筆が動き出した。炭の走る音が、屋根を打つ雪の下で、かすかに続く。

 

 ペカンクㇽは、その音を聞いていた。

 

 カニタが膝を叩いた。

 

 「打っていいんですかい」

 

 「打て」

 

 立ちかけて、カニタはもう一度座り直した。

 

 「……ひとつだけ。銘を入れさせてもらえますかい」

 

 「銘」

 

 「鏨で、二本。刃の根に、こう」

 

 カニタが土間に指で線を引いた。斜めに交わる、短い二本。

 

 「俺の打った物だと分かる。ヨイチの誰かが十年使って、それでも刃が残ってりゃ、次に頼むのはうちでさあ。刻んでおけば、研ぎ直しにだって来られる」

 

 ペカンクㇽは土間の二本の線を見た。

 

 「入れていい」

 

 カニタが顔を上げた。

 

 「──ただし、お前の印ではない」

 

 「なら、誰のを」

 

 「人の印ではない」

 

 長は炉の縁から手を離し、灰の面へ指を下ろした。

 

 縦に一本。その両側へ、上を向いた短い枝を、二対。

 

 「ニプタイの印を打て」

 

 カニタの指が、土間の上で止まった。

 

 蔵の袋に焼き付けている、あの印だった。家筋を告げるアイシロシではない。荷がどこから来たかを示すために、この数年で使い出したものだ。

 

 ハルコルは、灰の上の形を見ていた。木にも見えた。支流を集めた川にも、見えた。

 

 「……袋の印を、鉄に」

 

 声にしたのは、ミナだった。筆は、もう動いていない。

 

 「打て」

 

 カントが身を起こした。

 

 「和人に知られるぞ」

 

 「そうだ、いずれ知られる」

 

 ペカンクㇽは、否定しなかった。

 

 火が、ぱち、と爆ぜた。長は灰の上の刻みから目を離さない。

 

 「鉄は、増える」

 

 カントが口を開きかけて、やめた。

 

 「去年より今年、今年より来年だ。出す数も、それにつれて増える。……そのどこかで、必ず知られる」

 

 「……隠し通せねえ、と」

 

 「通せぬものを、名なしで出して、何になる」

 

 ペカンクㇽは、まだ灰を見ている。

 

 「隠して出す鉄は、いつまでも拾い物だ。拾い物では、値は育たん」

 

 「値の話をしてるんじゃねえ」

 

 「同じことだ」

 

 長は、はじめてカントを正面から見た。

 

 「印のない鉄では、欲しくなった者が、どこへ来ればいい。……来られぬ鉄をいくら出しても、輪は太らん」

 

 カントの目が、火から灰の刻みへ移った。

 

 カニタは、土間の二つの図を見比べていた。斜めに交わる自分の二本と、幹に枝を張った村の印と。

 

 やがて、自分のほうだけを足の先で均した。均し終えてから、もう一度、同じところを均した。

 

 「……へえ」

 

 顔は、上げないままだった。

 

 「打ちますよ。──俺の名より、よっぽど重てえのを」

 

 工房で持ち上げた荒地の重さが、まだ掌に残っている気がした。あの厚い板が刃になり、峠を越え、いずれは海を渡る。渡った先で誰かが裏返し、幹と枝の刻みを見る。見た者は、どこから来た鉄かを知る。

 

 (知られる。……知られに、行くんだ)

 

 ミナが新しい行を立てた。炭の筆が短く走る。

 

 「輪の外──ヨイチ。鉈、十。小刀、二十。鍬の刃、三。この冬かぎり」

 

 書き終えると、ミナは次の行の頭を空けたまま、筆を置かずに止めた。

 

 「炭が、足りない」

 

 「幾つ足りん」

 

 「この割り振りで、銃身が四つ分の炭が飛ぶ。窯をもうひとつ焚いても、春までには追いつかない」

 

 カニタが低く唸った。

 

 「そいつは、俺の腕じゃどうにもならねえ話でさあ」

 

 ペカンクㇽは答えなかった。炉の熾がひとつ、灰の中へ音もなく沈む。

 

 「銃身が、四つ」

 

 長はそう繰り返してから、炉の縁の手を離さずに言った。

 

 「──それでも、出せ」

 

 奥で、モノクテが低く笑った。

 

 「鮭が六十本だった頃は、こちらから鉄を出すなどと、誰も考えなんだ」

 

 それから、笑いを収めた。

 

 「……矢の印と、同じか」

 

 誰も、すぐには答えなかった。

 

 「矢は、獣に刺さってから、誰のものかを名乗る。……鉄も、そうなるな」

 

 

 

 

 

 

 人が引けると、チセは急に広くなった。

 

 母トゥレㇷ゚が、仕立て上がった冬の上着をハルコルの肩に当てている。袖口と裾の縁に、なめしたばかりの鹿革が細く縫い込まれていた。

 

 「……また、袖が足りない」

 

 「伸びたんだよ。ひと冬で、また」

 

 母は針を咥えたまま目で笑い、袖の先を解いて、革の縁を継ぎ足しにかかった。

 

 囲炉裏の向こうで、ペカンクㇽが薪を一本、火に足した。何も言わない。ただ、炎の照り返しの中で息子の肩の高さを測るように、一度だけ目を上げた。

 

 ハルコルは、継ぎ足された袖に腕を通した。革の縁が、手首に硬く触れた。

 

 戸口の筵を上げて、雪の上に出た。

 

 晴れている。沙流川(サㇽ川)を白く縁取る岸の氷の上に、星が低く降りていた。蔵の影。工房の煙は細く、まっすぐだ。板戸の隙から漏れる赤い明かりが、雪の上へ短く伸びている。今夜も炉は落とさないらしい。軒下では、干し上がった革が板のように並んで、星明かりを鈍く返している。遠くのチセで犬が短く鳴き、すぐにやんだ。川のほうで、みし、とかすかに氷が鳴る。西の峠の向こうの、あの岸辺でも、いま同じ音が鳴っているはずだった。

 

 (次の春からは、村の名を負った鉄が、輪の外へ渡っていく)

 

 吐いた息が、白く立ち昇って消えた。




第46話をお読みいただき、ありがとうございます!

おまけの解説コーナーです。

【アイヌと毛皮・皮革】
アイヌの暮らしでは、動物の皮や毛皮も重要な資源でした。
クマ、シカ、キツネ、タヌキ、ウサギ、アザラシ、オットセイなど、さまざまな動物の毛皮が利用され、防寒着などに加工されています。

ただし、現代の製革のように薬品を用いるのではなく、用途に応じて比較的素朴な方法で皮を柔らかくしていました。

毛を残して毛皮として使う場合は、まず剥いだ皮の裏側に残った肉や脂肪、皮下組織を削ぎ落とします。その後、木枠などに張って乾燥させ、生乾きのうちに粗い砥石や軽石などで擦り、手で揉みながら乾かすことで柔らかくしました。また、腐った木を粉にして皮へ振りかけ、油分を吸わせる方法も伝えられています。
一方、毛を抜いた鹿革も利用されていました。平取地方の伝承には、鹿皮を沼へ漬けておくと毛が抜け、皮が白くなって柔らかくなり、それを衣服にしたという記録があります。

つまり大まかには、
皮を剥ぐ → 裏の肉や脂を取り除く → 必要なら水や沼に漬けて脱毛する → 擦る・揉む → 乾燥させながら柔らかく仕上げる
という流れです。

ただし、アイヌ文化は地域による違いが大きく、毛を残すか抜くか、何に使うかによって加工法も異なりました。「アイヌの皮なめし」に一つの決まった製法があったわけではありません。



【アイシロシ――矢が持ち主を名乗る印】
アイヌ社会では、男性が父、あるいは父の兄弟から受け継ぐ印があり、その一つがアイシロシでした。
アイシロシは矢柄や鏃などに刻まれます。
信仰上は、動物の神がその印を見て「どの家の矢に当たるか」を決めるという意味を持ち、複数人で狩りをした場合には、獲物に刺さった矢が誰のものなのかを判別する実用的な役割もありました。
つまり単なる所有者マークではなく、父系の家筋と結びついた重要な印だったのです。



【イトㇰパとの違い】
似た印として「イトㇰパ」もあります。
こちらも父系の家筋を示すものですが、主にイナウなど祭祀に使うものへ刻まれ、祭祀を行う人間がどの系譜に属するのかを神々に示す意味を持っていました。

つまり大まかにいえば、
アイシロシは矢などに刻まれる家筋の印。
イトㇰパは祭祀具などに刻まれる家筋の印。
という違いがあります。
どちらも家系を示すこと自体に重要な意味があり、簡単に変更できるような印ではありませんでした。



【鵡川の名物・スサㇺ】
スサㇺは、現在のシシャモです。

アイヌ語では「スサㇺ(susam)」と呼ばれています。
「柳の葉」を意味する「スス・ハㇺ(susu-ham)」から変化したという説があり、柳の葉が魚になったという伝承も残っています。現在でもシシャモを漢字で「柳葉魚」と書くのは、この由来によるものです。

シシャモは日本固有の魚で、北海道の太平洋沿岸にだけ分布しています。秋になると産卵のため川へ遡上し、鵡川では現在でも10月下旬から11月下旬ごろに群れが川へ入り、河口からおよそ1~10kmほど上流の砂礫地で産卵します。

鵡川とスサㇺの結びつきは古く、シシャモ漁の季節になると鵡川方面に漁小屋を建てて人々が集まったことが伝えられています。また、獲ったスサㇺを魚乾棚に並べて干したことも記録されています。

現在でも「鵡川ししゃも」はむかわ町を代表する名物で、秋の「ししゃものすだれ干し」は地域の風物詩となっています。






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