オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
サルの地を覆っていた分厚い雪が、ついにその重みを解き始めた。
ピキピキと音を立てて沙流川の分厚い氷が割れ、雪解け水が轟音を立てて濁流と共に海へ流れ出していく。長く、過酷な冬がようやく終わりを告げたのだ。
コタンの広場では、村人たちが久々の温かい日差しを浴びながら、深い安堵の息を吐いていた。
この冬、サルのコタンからは餓死者が一人も出なかった。それは決して「カムイの気まぐれ」ではない。六歳のハルコルが毎日、吹雪の中で高床式倉庫(プー)へ通い、冷たく凍りついた木札を握りしめながら、誰にどれだけの食料を配分するか、徹底的に計算し尽くした結果だった。
村の大人たちも、最初は子供の言うことだと半信半疑だったが、ハルコルの指示通りにしていれば不思議と食料が底を突かないことに気づき、今では誰もがこの小さな跡継ぎに畏敬の念を抱き始めていた。
(……なんとか、最初の全滅の危機は乗り越えた)
チセの前に立ち、泥濘(ぬかるみ)の広がる村を見渡しながら、ハルコルは密かに胸を撫で下ろした。
だが、前世の経理担当としての冷徹な視点は、まだ警戒を解いていない。アイヌモシㇼにおいて、実は最も餓死者が出やすいのは「真冬」ではなく、備蓄が完全に底を突き、かつ森の動物たちがまだ冬眠から目覚めきっていない「早春」なのだ。
村の女たちが雪の下からプクサ(行者ニンニク)などの山菜を必死に掘り起こして汁物(オハウ)の具にしているが、それだけで五十人の腹を満たすことは到底できない。今年の冬を「耐え凌いだ」だけであり、村の貧しい資本状況が根本的に解決したわけではないのだ。
◆
数日後。
「ハルコル、来たぞ!」
川辺で見張りをしていた若者が、泥を跳ね上げながら息を切らせて走ってきた。
「和人の船だ! あの、秋にやって来た松前の商人の船だ!」
ハルコルは息を呑んだ。
約束の時だ。彼は小刀(マキリ)と、幾重にも布で包んだ「あの一枚の極上のクロテンの毛皮」を懐に忍ばせ、父や村の大人たちと共に川岸へと向かった。
雪解けの濁流を遡り、ずんぐりとした弁才船(べざいせん)が横付けされる。
ギイ、と重い板が渡され、真っ先に降りてきたのは、分厚い外套を着込んだあの厚かましい悪徳商人・勝右衛門だった。
「いやあ、約束通り一番船で参りましたぞ! ご所望の通り、ジャガタライモとやらも船の底に乗るだけ積んできた!」
勝右衛門が下卑た笑いを浮かべながら、下働きたちに指示を出す。
その下働きの中には、やはりあの小柄な少女・おみねの姿があった。
彼女は自分の身体よりも大きな麻袋を背負わされ、足元の泥に足を取られながらも黙々と荷を下ろしている。ハルコルと目が合うと、彼女はほんの一瞬だけ、鋭く顎を引いてみせた。
広場の泥の上に、ドサリ、ドサリと麻袋が乱暴に積まれていく。
勝右衛門がその一つの口を開けると、中には土にまみれ、気味が悪いほどに芽(目)を吹き出した大量のイモが入っていた。
「ほれ、ご覧の通りだ。和人地では豚でも食わんような草の根だが、約束だからな。さあ、これで満足だろう、物好きなお世継ぎ殿」
勝右衛門が和語で鼻で笑う。村の大人たちは、その醜い土塊を見て「本当にこんなもののために、あんな見事な毛皮を渡すのか……」と不安げな顔を見合わせた。狩猟採集で生きる彼らにとって、泥にまみれた植物の根など、到底価値のあるものには見えないのだ。
だが、ハルコルは泥の上に膝をつき、麻袋から土にまみれたイモを一つ手に取った。
前世のスーパーで見た綺麗に洗われたそれとは違う、無骨で生命力に溢れた土塊。その表面から力強く伸びる芽の感触を確かめると、ハルコルは深く頷いた。
腐っているものは少ない。船底の暗く冷たい環境が、幸いして過度な発芽を防いだのだろう。厳しい寒さの中でも確実に命を繋ぎ、爆発的なカロリーを生み出す「最強の資本(種芋)」が、ついに手に入ったのだ。
「約束通りだ。はい、これ」
ハルコルは立ち上がり、懐から取り出した布を解き、惜しげもなく最後の一枚のクロテンの毛皮を勝右衛門に投げ渡した。
「おお……! これだ、これだ! なんと見事な艶だ!」
商人は狂喜して毛皮を頬にすり寄せた。ただの泥イモを船底の隙間に積んで運んできただけで、松前や江戸で莫大な富を生む極上品が手に入ったのだ。勝右衛門の顔には「アイヌの阿呆どもを騙してやった」という優越感がこれでもかと張り付いていた。
「見事な商談成立ですな。それでは、我々はこれで失礼する。秋にまた、鮭と毛皮をたっぷり用意しておくことですな! わっはっは!」
勝右衛門が毛皮を大事そうに抱え、船へ戻ろうと踵を返した、その時だった。
船の方から、鈍い音と、鋭い怒声が響いた。
「このどんくさいガキが! イモの袋一つろくに運べねえのか!」
ハルコルが視線をやると、通詞のおみねが、護衛の男に顔面を殴り飛ばされ、春の泥濘の中に派手に倒れ込んでいた。彼女の足元には、麻袋からこぼれ落ちたイモが無残に転がっている。
男が「売り物に泥がついただろうが!」とさらに蹴り上げようとするのを、勝右衛門は止めるどころか、ひどく冷たい目で見下ろした。
「まったく……言葉が通じるからと松前で拾ってやった孤児だが、肝心の荷運び一つできんとはな。飯を食わせるだけ無駄だ。お前ら、そいつはもう船に乗せるな。こんな蝦夷地の泥の中で、野垂れ死ぬのがお似合いだ」
「旦那様、それはいけません! どうか、どうかお慈悲を……!」
おみねは泥だらけになりながら、必死に這いずって勝右衛門の足首にすがりついた。だが、商人は汚い虫を見るような目で彼女を無慈悲に蹴り飛ばした。
「触るな、薄汚い! 次から通詞など、他の奴を安く買えばいい。行くぞ!」
用済みとして、いとも簡単に人間を切り捨てる。
ハルコルは、黙ってその光景を見つめていた。それは前世のブラック企業で嫌というほど見てきた、冷酷な資本の論理そのものだった。歯車が少しでも錆びつけば、替えの部品はいくらでもあると嘯(うそぶ)き、切り捨てる。
勝右衛門は村人たちの戸惑う視線を気にも留めず、クロテンの毛皮を汚さないように抱え直し、船へと乗り込んでいった。
やがて、重い和船が川を下り、岬の向こうへと見えなくなる。
村の広場には、呆然とするアイヌの大人たちと、大量のイモの入った麻袋、そして、泥まみれでうずくまるおみねだけが取り残された。
「……可哀想に。和人の商人に捨てられるなんて」
心優しいハルコルの母親が駆け寄り、少女の背中を撫でようとした。
だが、その手をハルコルがスッと制した。
ハルコルは無言で少女の前に歩み寄り、しゃがみ込む。
「痛む?」
ハルコルがアイヌ語で短く問いかけると。
うずくまっていたおみねの肩が、くくっ、と震えた。
泣いているのではない。彼女は泥だらけの顔をゆっくりと上げ——ひどく不敵な、ギラギラとした笑みを浮かべていた。
「……これくらい、いつものことよ」
少女は口元の血を乱暴に袖で拭いながら、流暢なアイヌ語で堂々と答えた。先ほどまでの、商人にすがりついて命乞いをする哀れな孤児の姿は、そこには微塵もなかった。
「和人の商人が、孤児をあのまま大人になるまで養い続けるわけがない。いつか捨てられる、あるいは別の商人に売り飛ばされることは分かってた。……だから、あの船を降りるなら『ここ』だって決めてたのよ」
村の大人たちが、少女の豹変にざわめく。
だが、ハルコルだけは納得したように深く頷いた。
彼女は、わざと荷運びを失敗して見せたのだ。勝右衛門が極上の毛皮を手に入れて機嫌が良く、これ以上自分(通詞)を連れ歩くコストを「無駄だ」と判断しやすい、この絶好のタイミングを意図的に狙って。
「秋の取引の時、あんたが言葉を理解していると気づいて、確信したわ」
少女は泥だらけのまま立ち上がり、真っ直ぐにハルコルの目を見据えた。
「このコタンには、他のアイヌにはない『計算』がある。あんたの隣にいれば、私はただの薄汚い下働きじゃなく、もっと面白いことができるってね。……どう? 私を拾ってみない?」
ハルコルは、口角が上がるのを抑えきれなかった。
前世でも見たことがない。これほどまでに肝が据わり、絶望的な状況を逆手にとって己を高く売り込む、最高の営業担当(パートナー)の資質を。
「あの時のあんたの機転のおかげで、約束通りイモは手に入った。畑仕事の下働きなんてさせる気はないよ。あんたの頭の回転の速さと、和人相手に堂々と渡り合える度胸……このコタンには、絶対にそれが必要なんだ」
ハルコルは、自らの小さな手を差し出した。
「僕の名前はハルコル。一緒に、誰にも見捨てられない、搾取されない場所を創ろう」
少女は差し出された小さな手をじっと見つめ、やがて、その手を力強く握り返した。
「……私の本当の親は、アイヌの女だったの。だから和人からは忌み嫌われ、アイヌからも浮いて育ったわ」
少女は泥だらけの顔で、からりと言い放った。
「私の名前は、ミナ。アイヌの言葉で、『笑う』っていう意味よ」
◆
数日後。サルの広葉樹林を切り開いた日当たりの良い斜面に、コタンの総動員で鍬(くわ)が入っていた。
ハルコルは、冬の間に緻密に削り上げた「作付け計画の木簡」を片手に、大人たちへ指示を出していた。
「畝(うね)の間隔は、足の裏三つ分開けて! 水はけを良くしないと、根が腐ってしまうから!」
「切った種芋の切り口には、必ずアペオイ(囲炉裏)の灰をまぶして! 灰が悪い虫や病気を防いでくれるんだ!」
アイヌの男たちは、最初は土を掘り返すという見慣れない作業に戸惑っていた。「なぜ森へ鹿を獲りに行かず、こんな泥まみれの作業をしなければならないのか」と不満を漏らす者もいた。
だが、ハルコルは彼らをこう説得したのだ。
『狩猟で得た恵みは、食べれば消える。だが、このイモは、土という巨大なプー(倉庫)に預けておくことで、秋には何倍にも増えて返ってくる。これはカムイの恵みを待つのではなく、自ら恵みを増やすための「祈り」の形なんだ』と。
現代の農業知識(カリウムの補給や防腐効果としての草木灰の利用など)をアイヌの文化に噛み砕いて伝えるハルコルだが、六歳の子供の声では、広い畑の隅々にまで指示を徹底させるのは難しい。
「ほら、そこのおじさん! 畝の高さが足りないわよ! ハルコルの言う通りに深く土を盛らないと、秋にでっかいイモが獲れないわよ!」
そこへ、甲高い、しかしよく響く声が飛んだ。ミナだった。
彼女は持ち前の要領の良さと、和人商人の下で怒鳴られながら鍛えられた「現場監督(マネジメント)」の素質をいかんなく発揮し、ハルコルの意図を瞬時に汲み取っては、大人たちをテキパキと動かしていた。
「すごいな、ミナ。もう完全に現場を仕切ってる」
切り株の上に立ち、汗を拭うハルコルが感心して呟くと、泥だらけになったミナが隣にやってきて胸を張って笑った。
「当然でしょ。私はあんたの相棒なんだから。……それにしても、本当にこの気味の悪い根っこが、冬を越すための宝に化けるの?」
「化けるよ。秋になれば、嫌でも分かる」
ハルコルは、黒い土の中に植え付けられ、灰をまぶされた種芋を見つめた。
狩猟という「運」に頼る日々からの脱却。
自分たちの手で食料(エネルギー)を生み出し、計画的に蓄えるという、絶対的な内部留保(資本)の形成。
極寒の地での過酷な「事業再生」を成し遂げるための最初の種が、今、アイヌモシㇼの大地に深く根を下ろしたのだった。
第4話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの用語解説コーナーです。
【アイヌ文化・歴史用語】
ハルコル(主人公の名前)
アイヌ語で「ハル」は食料(特に植物の恵み)、「コル」は持つ・領有するという意味があります。つまり「食料を持つ者」「豊かな恵みを持つ者」。
ミナ
アイヌ語で「笑う」という意味を持つ言葉です。アイヌの母親と和人の父のことして生まれましたが孤児となり和人の商人に通訳として拾われました。勝右衛門からは「おみね」と呼ばていました。
シサㇺ / シャモ(和人)
アイヌ語で和人(本州の日本人)を指す言葉です。元々は「隣人(良き隣人)」を意味する美しい言葉でしたが、不平等な交易や搾取が続く歴史の中で、アイヌの人々にとって徐々に複雑な感情を伴う呼称へと変わっていきました。
プクサ(行者ニンニク)
早春の北海道で、雪解けと共に顔を出す山菜。強烈な匂いと高い栄養価を持ち、冬の終わりの備蓄が尽きかけた時期のアイヌの人々にとって、命を繋ぐ貴重なビタミン・カロリー源でした。