オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第47話:固める杭と、回る輪【1666年 春】

 カントが、囲炉裏の灰に枝の先を突き立てた。

 

 灰の面を、太い線が一本走る。鵡川(ムカ・ペッ)の流れだ。線の脇に小さな四角をひとつ。段の上の蔵。四角を囲んで、点々と杭の柵。そこまで描いて、カントは枝を持ち替え、柵の外側にぐるりと二重の線を足した。

 

 「土塁と、空堀だ」

 

 枝の先が、外側の線をなぞっていく。

 

 「柵の外に堀を掘る。出た土を、内に積む。物見は蔵の脇に一本、高いのを立てる。──造りはサルバのチャシと同じでいい。あの土の按配なら、俺の手が覚えてるぜ」

 

 囲炉裏を、五つの顔が囲んでいた。ハルコルとミナ。峠越えの便に混ざって来ていた、似湾の長イッケウ。灰の図を挟んで、カントとペカンクㇽ。外はまだ根雪が残っているが、軒から落ちる雫の音は、朝から絶えなくなっていた。雪が緩めば、峠の道はいっとき重くなる。イッケウが今度の便に自分で加わってきたのは、この話を持って来るためだった。

 

 カントの図は、手際がよかった。堀の幅、土塁の高さ、物見の足場の組み方。問われる前に寸法が出てくる。森の砦をひと冬で建てた男の頭の中には、杭の一本までがもう立っているらしかった。

 

 ハルコルは、その図を黙って見ていた。

 

 「言い出したのは、俺だ」

 

 イッケウが、膝の上で手を組み直した。

 

 「この冬、あそこで三度、荷を数えた。数えるたびに、蔵が重くなってる。シムカㇷ(占冠)の白い石。ユーパㇽ(夕張)越えの塩。砂鉄の袋。……雪の間も、荷は止まらなかった」

 

 言葉を切って、灰の四角を見た。

 

 「峠を越える道と、川を下る道が、あそこで交わっている。山向こうから来る荷も、川上から下る荷も、いまはあの洲を通る。──去年の今頃は、ただの砂利洲だった」

 

 「柵一枚と、寝ずの番が二人だ」

 

 カントが枝の先で、杭の点々を叩いた。

 

 「蔵の中身に、釣り合ってねえ。……それにな。河口の連中が川を上ってくるなら、真っ先に足を掛けるのがあそこだぜ。抜かれりゃ次は峠道、その先はニプタイだ。今のうちなら、まだ蔵の外で止められる」

 

 二人は雪のうちに、幾度か話したのだろう。カントの寸法が澱みないのは、この場の思いつきで描いているからではなかった。

 

 ミナが、膝の帳簿を開いた。

 

 「掘る手は、飯を食う」

 

 指が、頁の数字を辿っていく。

 

 「ニワン(似湾)の若い衆に、こちらから幾人。雪解けから種蒔きまでの間なら、畑の手は空く。……蔵の干し肉と干し魚で、賄いは足りる。スサㇺの干したのが、まだ山ほどある」

 

 勘定は、それで済んだ。人手と食い扶持の裏付けが、図の線に重さを与えていく。イッケウがわずかに頭を下げたのは、賄いの中身が去年の冬の、自分の村の魚だったからかもしれなかった。

 

 ペカンクㇽは、灰の図を長いこと見ていた。

 

 「固めるのはいい」

 

 枝の先が、止まった。

 

 「だが、櫓が立てば、守る物には見えん。川を下るための足場に見える。……こちらが足場を組めば、向こうも組む」

 

 囲炉裏の火が、ぱち、と爆ぜた。カントは何か言いかけて口を閉じ、灰の上の二重の線を目だけで辿り直している。

 

 口を開いたのは、イッケウだった。

 

 「川下の者は、春になれば上ってくる。魚と、噂を追って。柵の中身までは見えなくとも……櫓が立てば、山ひとつ向こうからでも見える」

 

 低く抑えた声だった。長年、川下の顔色を読んで生きてきた者の声だ。

 

 カントが舌を鳴らし、枝の先で外側の二重線を掻き消した。

 

 「なら、堀は川下側には掘らねえ。山側だけ、浅くだ。材木を曳き込む溝に見える。土塁は柵の内側に低く積む。外から見えるのは、今まで通りの柵一枚。──物見は櫓を立てねえ。蔵の屋根に段を載せる。火を見る足場だ、と言っときゃいい」

 

 灰の図が、描き直されていく。堀は山側に一本きり。土は柵の内へ。蔵の四角の上に、小さな段がひとつ載った。外から見れば、去年と同じ船着き場だ。中に入った者だけが、土の厚みを知る。

 

 ハルコルは、描き直された図を見つめた。

 

 ペカンクㇽが、イッケウを見た。

 

 「ニワンの川だ。決めるのは、お前だ」

 

 イッケウは灰の図から目を上げなかった。杭の点々を、ひとつずつ数えるような間があった。

 

 「掘ってくれ。……三度呼んで、三度捨てられた川だ。今度は、自分らの手で固めた柵の内で、冬を越す」

 

 ペカンクㇽは頷きもしなかった。ただ、灰の図を、上から下まで一度だけ目でなぞった。

 

 「固めろ」

 

 軒の雫が、変わらず鳴っていた。灰の上ではもう、杭の柵が川を抱いていた。

 

 

 

◆

 

 

 

 便の帰りに、ハルコルも峠を越えた。

 

 みし、みし、と夜通し鳴いていた音が、明け方、別の音に変わった。

 

 割れる音だった。ハルコルが似湾の若い衆と岸へ駆けつけたとき、鵡川はもう動き出していた。ひと冬かけて両岸から迫り出していた氷が、縁から根こそぎ剥がれ、板になって流れ出している。上流から下ってきた板も混じり、押し合いながら瀬を抜けていく。板と板がぶつかるたび、ごん、と腹に響く音が谷を渡った。

 

 岸には、村中が出ていた。子供らが歓声を上げ、犬が流れる氷を追って土手を駆ける。年寄がひとり、杖にすがって目を細めていた。昨日の夕、氷の色を見て「明日だ」と言い当てた年寄だった。誰も驚かなかった。この川と七十年付き合った目だ、と若い衆が笑った。

 

 半日で、川は川に戻った。

 

 濁った雪解け水が、岸の残り氷を割っては呑み込んでいく。去年打ち込んだ杭の列が、根元に泡を巻かせて、また水を受け始めていた。氷に持っていかれた杭は、数えるほどしかない。曳き込みの淀みも、砂利で埋まってはいなかった。水の道は、最初の冬を越えたのだ。

 

 岸で見ていた若い衆が、誰からともなく声を上げた。祝いというほどのものではない。ただ、川が戻ったことと、杭が残ったことへの、短い声だった。

 

 

 

 

 

 ざくり、と鍬が土を噛んだ。

 

 普請は、川が戻った次の日から始まった。

 

 堀といっても、深くはない。山側の裾に沿って、材木を曳き込む溝の体で、若い衆が列になって掘り進む。出た土は背負い籠で柵の内へ運ばれ、女たちの足に踏み固められて、低い土塁に育っていく。子供らが土塁の斜面を駆け上がっては転げ落ち、そのたび土が締まると言って、誰も叱らなかった。イッケウも鍬を握っていた。長の手が真っ先に泥に汚れているのを、村の者は横目で見て、何も言わずに手を早めた。

 

 どすん、と掛矢が新しい杭の頭を打つ。

 

 どすん。どすん。打音が川面を渡って、対岸の林で鳥を立たせた。

 

 昼になると、女たちが土塁の陰に筵を延べ、鍋と干し魚を運んでくる。泥だらけの手が椀を回し、湯気の向こうで誰かが冬の氷滑りの話をして笑わせた。掘って、食って、また掘る。普請というより、村がもうひとつ増えていくような日々だった。

 

 ハルコルの隣に、椀を持ったイッケウが腰を下ろした。しばらく黙って食い、川を見たまま、低く言った。

 

 「囲いの内で食う飯は、味が違うな」

 

 それきり、また黙って食った。ハルコルは何も返さず、同じ川を見て椀を空けた。

 

 その日の夕刻、カントが川へ入った。

 

 膝から腰まで、雪解けの水に浸かっていく。流れの真ん中あたりで止まり、岸を振り返った。しばらく、そうしていた。若い衆が二人、掛矢を置いて土手から眺めている。

 

 戻ってきたカントは、腿から水を滴らせながら、顎で岸を示した。

 

 「材木置き場だな」

 

 「材木置き場ですか」

 

 「舟で上ってきた奴の目には、そう映る。堀は材の陰だ。土は柵の内だ。屋根の段は、まだ骨もねえ。──杭と、蔵と、丸太の山。それだけだぜ」

 

 カントは掛矢を担ぎ直し、次の杭へ歩いていった。濡れた足跡が、土塁の裾に点々と残った。打音がまた、川面を渡り始めた。

 

 

 

 

 

 アエトモは、その槌音の中にいた。

 

 新しい杭ではない。去年打った杭の列の前にしゃがみ、一本ずつ、手斧の峰で叩いて回っている。こん、こん、と乾いた音が続き──一本だけ、音が濁った。

 

 水際の杭だった。アエトモは小刀を抜き、根元の、土と水の境のあたりを削った。白いはずの木肌が、土色に変わっている。刃を寝かせて押すと、上の材より、わずかに深く沈んだ。

 

 「もう始まってる」

 

 アエトモは削り屑を指で潰した。繊維の締まりが、上のほうとは違う。

 

 「地に埋めた柱は、数年で根が腐る。森のチャシでも、何度か立て替えた。土と水の境から、木は必ず死ぬ。……打って一年で、もうこれだ。ここは水が近い。森より、早い」

 

 ハルコルはしゃがんで根元に触れた。爪を立てると、跡が残った。上のほうは今も掛矢を撥ね返す硬さのままだ。それなのに、地面と水面の境の手の幅ほどのところだけが、色を変えている。

 

 「水際は、木を替える」

 

 アエトモが立ち上がり、材の山を顎で示した。積まれた丸太の中から、若い衆が言われるままに数本を曳き出してくる。他より色の沈んだ、目の詰んだ材だった。

 

 「ヤチダモだ。粘りがある。真っ直ぐで、杭にも向く。……それでも腐るときは腐る。だから、これだ」

 

 焚き火の脇に、埋める前の杭が並べられていく。根元だけを火に転がし、木肌が黒く泡立つまで炙る。焦げた木の匂いが、川風に流れた。若い衆のひとりが炙りを浅く上げようとして、アエトモの手に杭ごと押し戻された。皮一枚の焦げでは足りない。黒が木肌の下へ一分、喰い込むまで。手が、加減を教えていた。

 

 「炭にしたところは、腐りにくい。外側だけでも炭にしておけば、幾らか稼げる。……それでも、いずれ立て替えだ。柵とは、そういうものだと思え」

 

 (空気と水の境目が、いちばん喰われる。焼けば、少しは保つ。だが──トカプチの黒い石を蒸したときに出た、あの粘る黒い液なら)

 

 黒く焦げた杭が、次々と土に立てられていった。ハルコルは削り屑を掌に載せたまま、しばらくそれを見ていた。木を選び、火で鎧わせ、それでも立て替えを織り込む。答えの半分は、もうこの手際の中にある。残りの半分は、名も使い道も知れていて、ただ手が届かない。

 

 

 

 

 

 蔵の屋根に、段が載った。

 

 梯子を上がると、屋根のわずかな出っ張りほどの床に、腰の高さの囲いがあるだけだ。火を見る足場、とカントは言った。呼び名まで、囲いの内に土を隠すのと同じ造りになっている。だがそこからは、川が見えた。

 

 杭の列が上流から下流へと水を割って並び、曳き込みの淀みが静かに口を開けている。溝と土塁は柵の陰で、ここからでも土の色しか見えない。そして川は砂利洲を回り込み、山裾を縫って、下流の曲がりの向こうへ消えていく。

 

 ハルコルは、その曲がりを見ていた。

 

 川面を、雪解けの水が音を立てて下っていく。水は皆、知っている。どの瀬が浅く、どの淀みが深く、その果てにどんな浜が待つのか。知らないのは、水の道を描いた当の自分だけだった。

 

 

 

◆

 

 

 

 数日後、ニプタイへ戻った。

 

 水は、畑の段の下で止まっていた。

 

 沙流川(サㇽ川)から引いた溝は、三つの池を巡って空堀へ落ちていく。溝は、下へしか流れない。段の上へは、一滴も届かなかった。

 

 その段のひとつ上も、平らだった。日当たりもいい。石も少ない。畝も、何本かはもう伸びている。ただ、その根元を濡らしているのは、みな人の肩が運び上げた水だった。

 

 女たちの列が、池から段を上がってくる。天秤の桶が肩で揺れ、上がりきったところで畝の脇に下ろされ、柄杓が水を掬っては根元へ回していく。水を汲みに百歩を歩いていた頃に比べれば、道は十分の一に縮んだ。それでも、汲む手はひとつも減っていない。

 

 畑をどこまで広げられるかは、土でも日当たりでもない。桶を担ぐ肩がいくつあるかで、決まる。

 

 ミナが帳簿から目を上げずに言った。

 

 「上を拓くなら、桶がもう十要る」

 

 指が頁を辿る。

 

 「桶が十なら、担ぐ手も十。種蒔きと、砦の普請と、炭焼きと。……手は、もうどこにも余っていない」

 

 沢の口では、炭焼きの窯が煙を上げていた。冬のあいだに、こちらもひとつ増えている。増やしてなお、炉のほうが早く食う。

 

 冬の炉が吐き出したのは、村の印を負った刃の束と、その分だけ痩せた炭の山だった。窯を足しても、伐って、運んで、玉切りして、割る手が追いつかない。ハルコルは煙の細さを、しばらく見ていた。

 

 工房の隅には、その刃が束ねて積んであった。ハルコルは一本を抜いて、裏を返した。

 

 刃の根に、幹と枝。鏨の跡はまだ新しく、縁が銀色に光っている。

 

 

 

 

 その日の夕刻、炉端に座って、ハルコルは灰に指を入れた。

 

 輪をひとつ描き、その中心を通して、まっすぐ横に一本。

 

 「なんですかい、そりゃあ」

 

 カニタが鑢の手を止めた。

 

 「水に、押させる」

 

 輪の下に、波の線を引いた。

 

 「輪の縁に、板を並べて立てます。溝の水を、その板に当てる。輪が回る。……回る心棒を、どこへ繋ぐか」

 

 (水車、知識だけ持っていた)

 

 (軸を支える金具に回せる鉄がなかった。人手は炉と砦に取られていた。畑は、池の水で足りていた。……足りなくなったのは、今年からだ)

 

 カニタが灰の前に膝を落とした。輪の線を指でなぞる。なぞる指が途中で止まり、また戻った。

 

 「輪の縁に腕を生やして……上から水を落としたほうが、力は出やしませんかね」

 

 「出る。ただ、落とす高さが要る」

 

 「溝の落ち口でさあ。あそこなら、人の背ほどは落ちてまさあ」

 

 カニタは急に黙った。それから、低く言った。

 

 「回る力で、穴の中を──」

 

 言いかけて、口を閉じた。炉の火を掻き、話を戻す。

 

 「……いや。まずは水でさあ。小せえ輪からでさあ。でかい輪をいきなり組んで心棒を折りゃ、二度と誰も作らせちゃくれねえ」

 

 戸口に、ペカンクㇽが立っていた。いつからそこにいたのかは分からない。灰の輪を、一度だけ見た。

 

 「砦が先だ」

 

 「はい」

 

 「──だが、消すな」

 

 ハルコルは灰の図をそのままにして、炉の前を離れた。夜のうちに炉は熾され、灰は掻かれるはずだった。

 

 翌朝、灰の上には同じ輪がまた描かれていた。線を引いた指の太さが、昨日とは違っていた。

 

 

 

◆

 

 

 

 その夜、ニプタイのチセの囲炉裏は、いつもより人が多かった。

 

 春の便の割り振りが終わり、帳簿が閉じられ、それでも誰も立たなかった。ハルコルが口を開くのを待たれている──そんな気配が、火の周りに満ちていた。奥では母のトゥレㇷ゚が、繕い物の針を進めている。話は峠越えの便より早く、もう家の中を回っていた。

 

 「父さん。願いがあります」

 

 ペカンクㇽは火を見たまま、動かなかった。

 

 「東へ、行かせてください。トカプチ(十勝)の長に、直に頼みに」

 

 奥で、針の音が止まった。

 

 薪が一本崩れて、火の粉を上げた。ペカンクㇽは動かない。火明かりの中で、目だけがゆっくりと息子に向いた。

 

 「何を、頼む」

 

 「黄色い石を、掘ってくださいと」

 

 ハルコルは膝の上で指を組んだ。

 

 「ウタが去年持ち帰ったのは、あてはある、という返事です。ただし山が遠く、採るのも運ぶのも難儀だと。……難儀なことを人に頼むなら、その難儀を見た者が頼まなければ、言葉が軽い」

 

 「見た者が」

 

 「はい。使いの口では、届きません。……こればかりは、ソウカでも」

 

 壁際のソウカは、否とも応とも言わなかった。ただ、わずかに顎を引いた。

 

 「村を、空けるのか」

 

 「木の葉が濃くなる頃には、戻ります」

 

 ハルコルは火を見た。言い訳に聞こえないように、順に並べるほかなかった。

 

 「船着き場をどう固めるかは、カントとイッケウさんが、僕のいないところで決めていました。杭の腐りを見つけたのはアエトモです。畑の水と手の数はミナが数えていて、輪は……たぶん、カニタのほうが僕より早く組みます」

 

 「……だから、僕でなければ決まらないことに、僕を使いたい」

 

 薪が、低く息をした。

 

 「足りない物を、長と長のあいだで決めること。硫黄も、あの重い石も、代わりが利きません」

 

 「他にもありそうだな」

 

 問われて、ハルコルは少し言い淀んだ。

 

 「……外を、見ておきたいのです」

 

 「見て、どうする」

 

 「分かりません」

 

 正直に言うほかなかった。

 

 「僕はトカプチも、ヨイチも、話の上でしか知りません。どこの村がどれだけの畑を持って、峠をどれだけの荷が越えているのか。数を知らないまま、来年の勘定を組んでいます。……いつか、それでは足りなくなる気がします」

 

 「出すのは」

 

 「鉄の道具を。……ヨイチと同じ数にはしません。輪の外は、その都度と決めていただいたので」

 

 ミナの指が、頁の上で止まった。

 

 「冬に打った分は、ヨイチへ行く。トカプチへ出す鉄は、この夏に作るしかない」

 

 「承知しています」

 

 「炭も、いまの窯では足りない」

 

 「……はい」

 

 答えは、それだけしか出てこなかった。ミナは頁を繰り、何も書かずに閉じた。

 

 「西も、行きます」

 

 ハルコルは続けた。

 

 「ヨイチの、あの重い石を。見本ひとつでは、どれだけ集まるのか、どう運ぶのかまでは決められません。……東から戻ってから、日の落ちる側へ」

 

 「二度、出るのか」

 

 「二度に分けます。東は、雪解けの水が引くうちに」

 

 ペカンクㇽの目が、また火に戻った。長かった。だが、拒む間ではない。秤の皿が釣り合う場所を、探している間だった。

 

 「なら五人付けよう」

 

 カントだった。

 

 「足の速い若いのを選んどく。弓の立つやつと、川に慣れたやつを──」

 

 「多い」

 

 ペカンクㇽの声は低かった。

 

 「五人で歩けば、物見に見える。二人なら、旅人だ」

 

 カントは口をへの字に曲げ、それでも引き下がった。

 

 「ソウカ」

 

 壁際で、ソウカが顔を上げた。

 

 「連れて行け。道と、商人の顔は、こいつが知っている」

 

 「はい」

 

 返事は、それきりだった。ソウカは膝の上で手を組み直し、もう頭の中で道順を繰り始めている。やがて短く、確かめるように言った。

 

 「シムカㇷから、峠を東へ。トカプチの長の村まで、行きだけで十日。……石の山は、そこからさらに東だ。長の手の者を借りねば、道が分からん」

 

 「寝る場所は」

 

 問うたのはミナだった。ソウカは荷の目録でも読み上げるように答えた。

 

 「村々で、借りる。手土産に針と、小さな錐をいくつか。嵩張らず、どこの村でも喜ばれる。……客人の作法さえ守れば、この大地で野宿はいらん。屋根は、道の先々に立っている」

 

 カントが、火の向こうから身を乗り出した。

 

 「二人だ。押し込まれるような場所には、はなから入るんじゃねえぞ。……逃げろ。足も、備えのうちだ」

 

 「肝に銘じます」

 

 「それとな、ハルコル。留守は心配するんじゃねえぜ。ムカ・ペッの土塁は、夏のあいだも育てとく。──お前が戻る頃には、見違えてらあ」

 

 「アエトモの杭の見立ても、頼みます」

 

 「言われなくても、あの爺さんが放っておかねえよ」

 

 ハルコルは、戸口寄りに座っていたカニタへ顔を向けた。

 

 「カニタ。……初めてトカプチの黒い石を蒸し焼きにしたとき、土鍋の穴から滲み出た液を、覚えてるか」

 

 カニタの眉が動いた。

 

 「べっとりした、臭えやつでさあ。椀に半分ばかり受けて、棚の隅に置いたきりでさあ。──捨ててはいませんぜ」

 

 「あれを、アエトモに見せてください」

 

 「爺さんに」

 

 「杭の根が腐ります。焼いても、いずれ腐る。……あのとき僕は、木に塗れば腐りにくくなるかもしれない、と言いました。言っただけです」

 

 カニタは炉の火を掻いた。掻きながら、しばらく黙っていた。

 

 「量が要りまさあ。椀に半分じゃ、杭の一本も塗れねえ」

 

 「ユーパㇽには、石も川で送ってもらうようにと」

 

 火掻き棒が、止まった。

 

 「……蒸すのは俺の仕事だ。塗るのがどの木で、どの厚さかは、爺さんの仕事でさあ」

 

 カニタは笑って、膝を叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 人が引け、火が落ち着いた頃、ペカンクㇽが立った。

 

 長押に、手が伸びる。

 

 黒鞘の脇差が、そこに掛かっていた。ペカンクㇽが若い頃、南から流れてきた和人の品を交易で手に入れたという一振り。以来、人へ向けて抜かれることなく長押にあり、一度だけ工房に降りて、五つの鉄の物差しになった。カニタが両手で抱え、布の上にだけ寝かせた、あの刃だ。

 

 ペカンクㇽは、それを火の前で差し出した。

 

 「カニタには、以前に二日、貸した」

 

 「お前には、雪の消えている間じゅう、預ける」

 

 ハルコルは、両手で受け取った。鞘の漆は所々剥げて、下の木地が飴色に覗いている。重い。腰に差すための拵えが、掌の中で確かに重かった。

 

 「和人は、人ではなく、腰を見る。アイヌの長とて、同じだ。──問われたら、ニプタイの長、ペカンクㇽの名代だと言え」

 

 ハルコルは帯を解き、脇差を腰に落とした。重さが、左の腰骨の上に据わる。歩けば触れ、座れば触れる重さだ。

 

 (一度も人へ向けられないまま、鉄の物差しになった刃だ。今度は鞘のまま、東へ行き、西へ行く)

 

 「抜くな」

 

 ペカンクㇽは火に向き直っていた。

 

 「抜けば、名代の旅ではなくなる。……重いか」

 

 「重いです」

 

 「その重さが、口の軽さを締める。持たせるのは、そのためだ」

 

 ハルコルは座り直した。腰の物が、胡座の膝にこつりと当たる。座る形まで、変えてくる。父はもう何も言わず、火の中の熾きを、火箸でひとつ奥へ押しやった。

 

 奥で、母が革袋の口を締め直した。旅の携行の干し肉は、もう幾日も前から、少しずつ分けられていたらしい。仕立てたばかりの上着の袖口を、革の縁ごと指でつまんで確かめ、何も言わずに畳み直す。針を入れる場所は、もうなかった。

 

 

 

◆

 

 

 

 出立の朝は、霜が薄かった。

 

 沙流川の川面から春の霧が立ち、対岸の木立を白く沈めている。畑ではもう女たちが屈んで、種芋を植え始めていた。

 

 ソウカは背負子を締め、弓を袋ごと荷の脇に差していた。ハルコルの荷は干し肉と帳面と、着替えがわずか。腰の脇差だけが、荷のどれよりも重い。

 

 霧の中から、カニタが駆けてきた。夜通し炉の前にいたのだろう、目の縁が赤い。差し出されたのは、掌に載るほどの革の小袋だった。口を開けると、乳色の石と、輪の形に打った鉄が入っていた。ヨイチの瑪瑙と、火打金だ。

 

 「昨日の晩、打ったんでさあ。輪の形なら、指を通して打ちやすい。──どこの山ん中でも、これで火にゃ困らねえ」

 

 カニタはもうひとつ、腰から布の細巻きを抜いて寄越した。解くと、柄を挿げた鑿が一本、朝の霧の中で鈍く光った。刃先には脂が薄く引いてある。

 

 「鑿、ですか」

 

 「細けえ仕事用に打った一本でさあ。あると何かと便利なもので」

 

 カニタはハルコルの肩をひとつ叩いて、もう工房のほうへ戻っていった。革袋は、握ると角が掌に当たった。鑿は布ごと荷の奥へ差した。村の炉の火と刃が、この小さな鉄の中で眠って、道連れになる。

 

 見送りは、多くなかった。段の上にペカンクㇽが立ち、カントとミナがその脇にいた。ミナは帳簿を抱えていた。今朝の出立も、もう書き入れられているのだろう。誰も手を振らず、ハルコルも振り返るのは一度だけにした。その一度で、父が顎をわずかに引くのが見えた。それで足りた。

 

 二人は、川沿いの道を上流へ歩き出した。

 

 岸の道には荷の往来が踏み固めた跡が、占冠へ向かってまっすぐ延びている。雪解けの川が、脇を音を立てて下っていった。水は海へ急ぎ、人は源へ遡る。すれ違うたび、川音が挨拶のように高くなった。

 

 道端の残雪の際に、フキノトウが割れて頭を出している。日の当たる斜面では土が黒く息をして、腐った葉と芽吹きの、甘いような苦いような匂いが立ち昇っていた。ソウカの足は、速くも遅くもない。日暮れまでにどこへ着くかを、足の裏で数えている。

 

 

 村の煙が、木立の向こうに細くなる。

 

 瀬を回り込むと、腰で、鞘がかた、と小さく鳴った。

 

 しまわれたままの音では、なかった。




第47話をお読みいただき、ありがとうございます!

おまけの解説コーナーです。
今回は、江戸時代の水車と林業について。


【水車】
水車と聞くと、水辺の小屋で大きな輪が回り、中で米を搗いたり、粉を挽いたりしている風景を思い浮かべる方も多いと思います。

水車には、役割の違いがあります。

一つは、低い場所の水を高い場所へ運ぶ「揚水用」の水車です。
代表的な仕組みでは、輪の周囲に筒などを取り付け、回転に合わせて水を汲み上げます。高い位置まで来たところで樋へ水を落とし、そこから田畑へ導きます。

もう一つは、水の力で臼や杵などを動かす「動力用」の水車です。
輪の回転を軸や歯車などで伝え、穀物を挽いたり、杵を持ち上げて落としたりします。水車が回る力を、別の仕事へ使うわけです。


水車そのものは、江戸時代より前から日本にありました。
ただし、「昔からあった」ことと、「どの村にも普及していた」ことは同じではありません。
例えば、武蔵野地方で水車が村々に普及し始めたのは、18世紀ごろからとされています。



【17世紀の林業】
城、屋敷、橋、船。江戸時代初期には、さまざまな場所で大量の木材が必要とされました。
江戸時代において、建材や燃料と木材の需要が豊富だったため、都市近郊の山は次々と禿山となっていきました。

木曽などの奥地でも、17世紀初めから大規模な伐採が進み、尾張徳川家の領有となった1615年以降も、築城や造船、土木工事のために木が伐り出されました。1657年の明暦の大火の後には、江戸の復興用材も供給しています。

しかし、山に木が多く見えても、使いやすい場所に、必要な太さや質の木が、いつまでも残っているとは限りません。

木曽では伐採がさらに奥地へ進み、17世紀半ばには、ヒノキなどを伐り尽くした「尽き山」が広がったとされています。そして1665年、伐採を禁じる区域である「留山」が設けられました。
今話の、ちょうど前年です。


【材木の輸送】
木は、伐っただけでは使う場所へ届きません。

重くて長い材木を運ぶうえで、大きな役割を果たしたのが川でした。運び方には、木を一本ずつ流す「管流し」と、木を組み合わせて人が乗る「筏流し」があります。

管流しは、材木をばらばらに流して下流へ送る方法。
筏流しは、組んだ材木に乗り込み、棹などで向きを調整しながら下る方法です。

ただ流れに任せればよいわけではなく、狭い岩間や急流を抜けるには、川を読む技量が必要でした。

また、山から目的地まで、ずっと同じ形で流すとも限りません。
木曽川や飛騨川では、上流から流れてきた材木を途中でせき止め、筏に組んで、さらに下流へ送っていました。江戸時代に尾張藩の支配下で、こうした輸送が組織的に行われるようになったとされています。

川で運べば、重い材木を人が全区間担ぐ必要はありません。しかし、水量によって運べる時期が限られ、途中で材が傷んだり、流失したりする問題もありました。流れた木を回収するにも、人手が要ります。



水車も、筏も、水の力を借りる仕組みです。
けれど、その力を仕事に変えるためには、木を扱う手と、川を見る目が欠かせません。






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