オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~   作:サウス

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第48話:果てない畝と、まだ見えぬ山【1666年 春】

 登るにつれて、風から木の匂いが抜けていった。

 

 占冠(シムカㇷ)を発って二日目の昼だった。雪は日陰の窪みにだけ残り、踏み抜くと、ざく、と脛まで沈む。先を行くソウカの背負子が、木の根を選んで右へ左へ揺れていた。芽吹いたばかりの梢が低くなり、まばらになり、やがて笹だけが残った。

 

 最後の急坂を登り詰めたところで、風が正面からぶつかってきた。

 

 顔を上げたところで、足が止まった。

 

 足もとから山の裾が長く落ちて、その先で、地面が平らになっている。平らなまま、どこまでも続いていた。靄の底に、川が幾筋も光っている。寄っては離れ、離れては寄り、東へ向かって網の目をほどいていた。

 

 北には、雪を残した山なみが壁になって連なっている。南の端にも山がある。東には、何もない。土と空が靄の中で寄り合い、その境目は見分けられなかった。

 

 雲がひとつ日を隠し、その影が平野へ落ちて東へ渡り始めた。ハルコルは荷を背負い直し、足もとの石を確かめてから、もう一度目を上げた。影はまだ、野の半ばにも届いていなかった。

 

 (前世での十勝は、色の違う四角で埋まっていた)

 

 その四角が、ひとつもない。川は曲がり、林の縁はほつれ、丘の背は波を打っている。刃を当てて引いたような線は、この眺めのどこにも入っていなかった。

 

 煙も、なかった。端から端まで、目で探した。人が煮炊きをすれば、煙は立つ。その細い一本すら、この広さのどこにも上がっていない。

 

 「トカプチ(十勝)です」

 

 ソウカが、風上へ顔を向けたまま言った。鼻から深く息を吸い、短く付け足す。

 

 「海の匂いが、しません」

 

 ハルコルも吸ってみた。雪解けの水と、起きかけの土と、去年の枯れ草が日に蒸れる匂い。潮の気配は、どこにもなかった。

 

 「……広い」

 

 「果てまで、ずっとこれです。海に突き当たるまで、山はないと聞いています」

 

 「ソウカは来たことは、何度目だったか」

 

 「四度目です」

 

 「この土地に、人はどれほど」

 

 「シリテシという長のもとには、千ほどと聞いています」

 

 「千」

 

 口の中で、その数を転がした。谷ひとつに詰め込めそうな数だった。それが、この広さに散っている。

 

 ソウカが、靄の底の銀色を指した。

 

 「あれがトカプチの川です。川に沿って、コタンが点々と。長の村は、川が三筋寄り合うところにあります」

 

 指の先を、ハルコルは目で追った。追って、途中で見失った。

 

 「……人の気配がない」

 

 「川の縁には、います」

 

 ソウカは目を細めた。

 

 「あとは、鹿のものです」

 

 

 

 下りにかかると雪はすぐに途切れ、道は乾いた笹原に変わった。坂が緩んだあたりで、笹の根の抜けた土が黒く覗いている。ハルコルは屈んで、ひとつかみ掬った。

 

 指で揉むと、ほろりと崩れた。軽い。沙流川(サㇽ川)の畑の、握れば指の跡が残る土とは、手の中の重さが違った。

 

 (灰の土だ。水がよく抜ける。……芋に向く)

 

 掌をはたいても、黒い粉が指の皺に残った。

 

 笹原を抜けた窪地で、鹿の群れが若草に鼻を沈めていた。三十は下らない。一頭が首を上げると、群れはゆっくり波打って丘の向こうへ流れ、蹄の音だけが地面を伝って腹に届いた。

 

 裾野を歩き出した朝、行く手に柏の丘がひとつ見えた。昼過ぎには着くと、ハルコルは踏んだ。

 

 着かなかった。

 

 日が落ちても、丘は同じ大きさでそこにあった。麓を過ぎたのは、翌日の昼だった。沙流の谷なら、見えた場所には半日で着く。

 

 その晩は、丘の陰で火を焚いた。屋根は道の先々に立っている、とソウカはニプタイを発つ前に言っていた。峠のこちらでは、その道がまだ始まってもいない。

 

 梢に切り取られない空が、地平から地平まで頭の上にかぶさっている。遠くで狼がひと声上げ、もっと遠くで別の声が応えた。ソウカは火に枝を足し、闇の東へ耳を向けたまま、何も言わなかった。

 

 火の爆ぜる音だけが、近かった。

 

 

 

◆

 

 

 

 平地へ下りて最初に聞いたのは、杭を打つ音だった。

 

 こん、こん、と鈍い音が水の上を渡ってくる。雪解けで嵩の増した流れを横切って、川幅いっぱいに杭が並んでいた。岸寄りではひとりが木の槌で新しい杭を打ち込み、腰まで水に浸かった男たちが、立った杭へ柳の枝を編みつけている。テシ(簗)だった。

 

 男たちが手を止め、川の中からこちらを見た。ソウカは両の掌を見せてから、岸へ下りた。名を告げ、来た道と行く先を告げる。それから背負子を下ろし、岸の石の上に小さな包みを置いた。針が三本と、小さな錐がひとつ。

 

 年嵩の男が水から上がって包みを開き、針を一本、日にかざした。細い鉄が、春の光をまっすぐに返す。男は仲間と短く言い交わし、いちばん若いのを顎で呼んだ。

 

 「こいつが、次の村まで送る」

 

 岸の日だまりに、黄色い花がいくつも開いていた。ハルコルの目がそれを追うと、年嵩の男が顎をしゃくった。

 

 「チライムン(イトウの草)だ。あれが咲けば、チライ(イトウ)が上ってくる」

 

 男は川へ戻っていった。こん、とまた杭が鳴った。

 

 

 

 それから幾日も、二人は大きな川に沿って東へ歩いた。

 

 十勝川(トカプチ)は沙流川より太く、ゆったりと流れる。岸ぎわにはハルニレとヤチダモが深く茂り、一段上の台地へ上がると、柏と水楢に変わった。柏は去年の枯れ葉を枝に残したまま冬を越していて、風が渡るたびに、からからと乾いた音を立てた。空の高いところでは、雲雀が鳴きやまない。

 

 歩くうちに、日の当たり方が違うことに気づいた。沙流の谷では、朝は向かいの尾根が畑に影を落とし、夕方は日が早々と山の裏へ回る。畑にまともな日が差すのは、一日の真ん中だけだった。ここには、日を隠す尾根がない。日は地平から上がって空を渡りきり、遠い西の山なみへ沈んでいく。朝は顔を、昼を過ぎれば背中を、日が焼いた。

 

 林の切れ目に、澄んだ水を湛えた丸い池があった。底の砂が、ふつ、ふつ、と絶え間なく躍っている。

 

 「メㇺ(湧き壺)だ。冬も、凍らん」

 

 案内の若者は掌で水をすくって見せ、その手で、木立の向こうの一段高い土地を指した。

 

 「チセは、あの上のような高い土地に建てる。春の水は、あそこまでは来ん」

 

 口に含んだ水は、歯の根に染みるほど冷たかった。

 

 水からは離れない。だが、河原には下りない。背に湧き水を置き、雪解けの川がひと息には届かない高さを選ぶ。若者の言葉を、ハルコルは頭の中で組み直した。

 

 (……これから見る村も、そうなのか)

 

 葦の原にかかったとき、高い声が渡ってきた。

 

 細く尾を引いて、少し遅れて、もう一羽が応える。枯れ残った葦の間に、白い鳥が二羽立っていた。首も脚も長く、頭の天辺だけが赤い。

 

 「サロルンカムイ(葦原にいる神)だ」

 

 若者は、弓に手をやらなかった。

 

 「あれは、今は獲らん」

 

 「なぜです」

 

 「子を育てている」

 

 二羽は、三人が通り過ぎるまで、脚を組み替えもしなかった。

 

 

 

 二つ目の村のはずれで、ハルコルは足を止めた。

 

 南へ傾いた斜面に、土を盛った畝が幾筋も延びている。畝の肩を、縮れた若葉が押し上げていた。

 

 (エモだ)

 

 見間違えようがなかった。葉の縮れ方も、畝の高さも、ニプタイの畑と同じだ。ただ、一筋が長い。端まで追うのに、首をひと振りしなければならなかった。谷では、木を伐った分しか畑は延びない。ここでは笹を焼けば、焼いただけ先へ延びる。

 

 「長が、畑を広げろと言うたそうだ」

 

 若者は畝を見もせずに言った。自分の村にも、去年から二筋あるという。

 

 次の村にも、畝があった。その次にも、その次にも。川筋に村がある限り、村はずれの日だまりには、掘り返した黒い土が並んでいた。

 

 案内は、村ごとに替わった。前の村の若者が次の村まで送り、次の村の若者がまた先へ送る。頼んだ覚えはない。発つ朝には、弓を提げた男が、もう戸口の外で待っている。

 

 「ニプタイのペカンクㇽの子と、聞いた」

 

 ある村の若者は、歩きながらそう言ったきり、あとは黙って先を行った。

 

 名は、荷より速く歩く。

 

 ソウカは村を過ぎるたびに、目だけを動かしていた。高床の蔵の柱に打ちつけた、鼠返しの板。軒に掛かる干し鮭の束。囲炉裏端に伏せた鍋の数。何も言わず、何も書かない。数は、この男の頭の中へ積まれていく。

 

 

 

◆

 

 

 

 女の手は、迷わなかった。

 

 左の掌に芋を載せ、右の小刀を入れる。ひと刃、ふた刃。切り落とされた欠片は、どれも芽の窪みをふたつずつ抱えていた。白い断面が、傍らの籠に溜まっていく。

 

 チセ八棟ほどの村だった。川の枝と湧き水に挟まれた高みにあり、村はずれの日だまりには、ここでも黒い土が掻き上げてある。

 

 掻き上げた土は、峠の下で掬ったのと同じ、ほろりと軽い黒だった。芋に向く、とあのとき思った。向くと思った土には、もう植わっていた。

 

 籠の脇に、まだ切っていない芋が転がっている。ひとつは、掌に載せれば縁から余りそうに大きい。

 

 「その切り方は、どなたに習ったんですか」

 

 女は顔を上げ、見知らぬ旅人と、その腰の刃とを順に見た。それから、手の中の欠片を持ち上げてみせた。

 

 「芽をふたつ、残して切る。……種と一緒に、切り方も来た」

 

 「種は、どこから」

 

 「隣の村から」

 

 「その隣は」

 

 「そのまた隣から、と聞いた」

 

 女は欠片を土へ埋めた。埋める指に、ためらいがない。畝の列は柏の木立の際まで延び、その先の、まだ見ぬ隣の村へ続いているはずだった。

 

 

 

 その晩は、村の空きチセに泊めてもらった。

 

 炉の向こうに、村の老婆が座っていた。鍋から椀へ、ヒエの粥が盛られる。脇に、茹でたエモがふたつ。割れた皮から、白い湯気が立っていた。

 

 「植え始めて、三年になる」

 

 老婆は、問われる前に話し始めた。

 

 「はじめの年は、ふた畝。次の年は、村じゅうの分。去年は、隣へ分けた」

 

 皺の寄った顎が、戸口の闇を指した。畝のあるほうだった。

 

 「一昨年の冬、この村は三人を送った。年寄りと、乳飲み子を。……去年の冬は、誰も送っておらん」

 

 火が、ぱちりと爆ぜた。

 

 ハルコルはエモを割った。ずしりと指に来る。湯気ごと口へ運ぶと、熱く、ほのかに甘かった。ニプタイの土室から出したものと、変わらない味がした。

 

 大きさだけが、違っていた。

 

 「ただ、ここの霜は、春の後ろから噛みついてくる。芽が出たあとに、ひと晩で畝を黒くする」

 

 「……どうしているんです」

 

 「霜の来る晩は、分かる。風が落ちて、星がやけに近くなる。そういう晩のうちに、畝へ刈り草をかぶせる。朝、日が差す前に、はぐ」

 

 ハルコルは、椀を置いた。

 

 「それは、どなたに」

 

 「誰にも」

 

 老婆は、湯気の向こうで口の端だけで笑った。

 

 「霜にだ」

 

 その夜、ハルコルは寝床で帳面を開いた。炉の熾きを頼りに、書きつけていく。霜の晩の見分け方。刈り草をかぶせる刻限と、はぐ刻限。芽をふたつ残す切り方が、種と一緒に旅をしていること。その頁は、渡した種を記す頁とは分けて、帳面の後ろから書き始めた。

 

 

 

◆

 

 

 

 川が三筋寄り合って一本になる、その少し下の高みに、長の村はあった。

 

 千を束ねる長の村だ。ニプタイの本村には四十を超えるチセが肩を寄せているが、それより大きいかもしれないと、ハルコルは踏んでいた。

 

 数えて、十だった。

 

 湧き水を背にして、チセが十棟。それだけの村に高床の蔵がいくつも並び、岸には丸木舟が七艘、腹を上にして引き上げてある。住む人の数より、通る荷の数のほうが多い村に見えた。

 

 男がひとり、川べりの平たい石に腰を据えて、杭を削っていた。足もとには、削り終えた杭が十本ほど揃えて寝かせてある。ひと削りごとに、白い木屑が水際へ落ちた。

 

 案内の若者が名を告げても、男はしばらく刃を止めなかった。杭の先が尖りきってから、ようやく膝から下ろした。年はペカンクㇽと同じか、少し上。背は高くない。杭を置いた手の甲に、古い傷が幾筋も白く走っていた。

 

 「シリテシだ」

 

 名乗りは、それきりだった。男が村へ短く声を投げると、奥のチセから女がひとり出てきて、二人を空きチセへ通した。

 

 炉には、もう火が入っていた。梁の干し鮭は掛け直され、土間には敷き替えたばかりの寝藁が匂っている。

 

 宴の気配は、どこにもなかった。歌も、手拍子も、集まってくる足音もない。それでいて、炉だけが熱い。知らせは、先に着いていたらしい。

 

 

 

 夜、シリテシのチセで炉を挟んだ。村のどのチセよりも小さな家だった。川上を向いた神窓の脇に弓が二張り掛かり、その下に、和人の焼き物の徳利がひとつ置いてある。

 

 女が椀を運んできた。干し鮭を裂いて浮かせた汁と、茹でた山菜がわずか。

 

 シリテシは徳利を傾け、小ぶりの椀へ、底が隠れるほどだけ注いだ。指先を浸し、炉の火へ、三度弾く。

 

 じ、と小さな音がした。

 

 沙流なら、ここからが長い。イナウが立ち、長の言葉が続く。椀が輪を回り、やがて歌になる。日が二度暮れることもある。

 

 シリテシは指を拭い、椀を炉縁へ置いた。誰も、それに口をつけなかった。

 

 「食え」

 

 それで、終わりだった。

 

 (短い。……けれど、省いてはいない)

 

 火のカムイへ渡すものは渡し、客の腹も空けさせず、それ以上はひとつも足さない。川べりで杭を削っていた刃の運びと、同じだった。

 

 汁を終えると、ソウカがニプタイの名を述べ、道々の村から受けた送りの礼を述べた。それから、目だけでハルコルに渡した。

 

 ハルコルは、膝の上の手を一度握って、開いた。

 

 「東の山の、黄色い石を分けていただきたいのです」

 

 シリテシは火を見たままだった。

 

 「あれは、山の上にある」

 

 「伺っています。川をふた筋、森を三日、裸の岩を半日と」

 

 「登った者は、この村に一人しかおらん。わしの父だ。若い頃に、一度きり」

 

 火の粉がひとつ上がって、梁の闇に消えた。何に使うのかと問われたら、薬と、皮の燻しに、と答えるつもりだった。道々、そう決めてあった。

 

 「何に使うかは、訊かん」

 

 シリテシの目は、火から動かなかった。

 

 「訊けば、値になる」

 

 用意していた答えが、喉の奥で行き場をなくした。

 

 「……掘って、麓まで下ろしていただきたいのです。背負子ひと袋を、ひと夏に、五つ」

 

 ハルコルは、膝の手に力を込めた。

 

 「引き換えに、うちの村で打った鉄を。鉈と、小刀と、鍬の刃を」

 

 火箸を動かしていた手が、止まった。シリテシが、初めてハルコルのほうへ顔を向けた。

 

 「鉄を、出すと言うたか」

 

 「はい」

 

 シリテシはしばらく、ハルコルの顔から目を離さなかった。

 

 「この川筋で鉈が一挺、鮭の何本と換わるか。知っておるか」

 

 「……いえ」

 

 「知らんでいい。──浜で買うのか」

 

 「買いません」

 

 「では、どこから来る」

 

 「作っています。うちの村で」

 

 「打つ、ではなくか」

 

 「はい」

 

 シリテシの目が、わずかに細くなった。

 

 「何から」

 

 「川の黒い砂からです」

 

 男は答えなかった。炉の向こうで、組んだ指をほどき、また組んだ。

 

 「……この川にも、黒い砂はある」

 

 「黒ければいい、というものでもありません。川によります」

 

 「見て分かるか」

 

 「川を遡れば、分かります」

 

 「今日の話ではないな」

 

 そこで、話は切られた。

 

 

 

 

 

 

 ソウカが荷から布包みを出し、炉の脇に置いた。解くと、小刀が一振り現れた。刃は薄く、地肌に細かな波が寝ている。

 

 シリテシは刃を取り、爪に当ててから、炉の明かりへ裏返した。刃の根に、鏨の刻みがある。幹が一本立ち、そこから枝が張っていた。

 

 「印だな」

 

 「ニプタイの印です」

 

 シリテシは、刻みを親指の腹でなぞった。

 

 「十年使って刃が残っておれば、次もお前らに頼む。折れたら、この印を持って川を上る。……そういう物には、値のつけようがある」

 

 燃えさしが一本、崩れた。シリテシは薪を足さず、燃えていない尻のほうをつまんで、燃えさしを横へ寝かせた。火が、低くなる。

 

 「うちは、十軒だ。夏に山へ人をやれば、テシが空く。……それに、あの山は、うちの川筋ではない」

 

 「では、どなたの」

 

 「ラワン(螺湾)の衆の川だ。同じトカプチの衆だが、川が違う」

 

 シリテシは火の上へ掌を出し、横へ払った。

 

 「山へ登るなら、あの衆に頼む話になる。……わしが、口をきく」

 

 「お願いします」

 

 「まだ、頼んでおらん」

 

 男は、指を一本立てた。

 

 「あの衆に頼めば、あの衆に借りができる。借りは、わしが背負う。背負うだけのものか、わしはまだ知らん」

 

 「一人が、どれだけ運べるか……ということですか」

 

 「誰も、運んだことがない。知らんものに、値はつけられん」

 

 

 

 

 

 

 火箸が、灰をならした。

 

 「南の浜の和人は去年の秋から、同じ鍋ひとつと換えるのに、前より多く鮭を出せと言うてくる」

 

 灰の上に、筋が一本引かれた。

 

 「……今年は、数え方まで変えるらしい」

 

 ハルコルは、灰に引かれた一本を見た。

 

 「浜の小屋も、増えたそうだ。板葺きの、角ばったのが二つ三つ。去年の秋には、なかったものだ」

 

 「……どなたが、それを」

 

 「うちの者だ。今年出す鮭のことで、春の末に浜へ出た。戻ってきて、妙な話をした」

 

 シリテシは、筋の横にもう一本引いた。

 

 「浜に居合わせた川筋の者らが、砂の上へ呼び集められたそうだ。それが半日、座らされたままだったと」

 

 「何の、用で」

 

 「用は、言わなんだ。ただ、そこにおれ、と」

 

 火箸が、灰に立てられた。

 

 「日が傾いてから、和人が船から小さな箱を担ぎ下ろした。浜の高みの小屋へ納めて、それきりだ。箱の中身は、木を彫った人の形だったそうだ」

 

 「……どれほどの」

 

 シリテシは片手を火の上へ出し、指を少し曲げた。

 

 「掌に載るほどだ、と言うておった。指の長さほどの」

 

 ハルコルは、火に照らされたその指を見ていた。

 

 (指の長さのものを、船で運んで。……板一枚の向こうへ、納めるために)

 

 「幾つ出せとも言われず、何を取られもせん。扉の閉まる音を聞いて、帰されただけだ」

 

 手が、火の上から引かれた。

 

 「そちらは、ひと夏に五袋か」

 

 「はい」

 

 「鉄は、幾つ出す」

 

 膝の上で、ハルコルの指が一本ずつ折れかけた。

 

 (鉈を五。小刀を十。鍬の刃を三)

 

 道々、頭の中で幾度も置き直した数だった。袋ひとつの重さと、鉈を一挺打つのに要る炭と、ミナの帳面に残っていた余り。

 

 ハルコルは、息を吸った。

 

 「言うな」

 

 シリテシは、火の向こうからまっすぐにこちらを見ていた。

 

 「見てからでいい」

 

 「……山を、ですか」

 

 「山を見ろ。裸の岩を、下から仰いでこい。──見て、それでもと言うなら、ラワンへ口をきく。鉄の数は、その時に聞く」

 

 折りかけた指を、ハルコルはゆっくりとほどいた。

 

 「案内を、つけていただけますか」

 

 「わしが行く」

 

 ソウカの目が、わずかに動いた。

 

 「長が、じきじきに」

 

 「杭は、若い者でも削れる」

 

 シリテシは寝かせた燃えさしを起こし、火を戻した。

 

 「鉄を出すと言った者を、人の目で見せる気にはならん。……わしの目で見る」

 

 

 

◆

 

 

 

 発ったのは、二日後の朝だった。

 

 シリテシは削りかけの杭を若い者に渡し、自分の荷を自分で背負った。

 

 道は、はじめ川を下った。丸木舟の艫には、村の若い者がひとり乗って棹を握った。

 

 雪解けの水が、舟を東へ運んでいく。棹はほとんど水を突かず、向きを直すときにだけ、ちゃぷ、と鳴った。岸の柏が、ゆっくりと後ろへ流れていく。

 

 北から太い流れが落ちてくる合わせ目で、舟は岸に寄った。ここからは、ずっと川上へ向かうのだという。

 

 舟べりを跨いで砂利を踏むと、自分の重さが足の裏へ急に戻ってきた。背負子の紐が、肩に食い込む。

 

 (下りは軽く、上りは重い。……荷が東へ流れるようにできているから、種も東へ歩いたのか)

 

 振り返ると、若い者が舳先に綱を掛け、空の舟を曳いて岸を上り始めていた。シリテシは、もう先を歩いている。

 

 行く手に、低い山なみが幾重にも重なっている。その向こうに、もっと高いものがあるはずだった。

 

 山は、まだ見えない。




第48話をお読みいただき、ありがとうございます!

おまけの解説コーナーです。


【メㇺ――湧き水のある場所】

 「メㇺ」は、アイヌ語で泉や湧き水を表す言葉です。十勝の「芽室」という地名も、湧き水に関係するアイヌ語に由来すると考えられています。地名には、そこに暮らした人々が見ていた土地の特徴が残っています。

 川のそばで暮らすにも、水に近ければどこでもよいわけではありません。飲み水を得やすく、魚を獲る場所や移動する道にも近い。それでいて、増水のたびに家が流されては困ります。十勝の内陸のコタンは、大きな川から少し入った支流沿いなどの、小高い場所に設けられることが多かったようです。


【十勝平野と、十勝のアイヌの暮らし】

 現在の十勝を思い浮かべると、広い畑と、まっすぐな防風林が目に浮かぶかもしれません。しかし、一七世紀には、別の景色が広がっていました。
 台地にはカシワやミズナラの森林が、川沿いにはハルニレやヤチダモなどの深い林がありました。川は大きく曲がり、枝分かれし、洪水によって流れを変えることもありました。下流の低地には湿原が広がっていました。

 その土地で、川は食べ物を得る場所であると同時に、人と荷物を運ぶ道でもありました。川を遡れば内陸へ、下れば海へ。支流へ入れば、また別の土地へつながります。村々を結んでいる川筋は、人々の暮らしを結ぶ道筋でもあります。

 また、「チライムン」はフクジュソウのこと。十勝では、その開花がイトウの遡上と結びつけられ、漁を始める目印になっていました。花の名前ひとつにも、川とともに暮らしてきた経験が刻まれています。



【広尾の十勝神社と、小さな観音像】

 今回、浜の出来事として語られた小さな木像には、実在するモデルがあります。

 広尾の十勝神社は、かつて戸賀知明神社と呼ばれていました。物語と同じ寛文六年(一六六六)、松前藩家老の蠣崎蔵人広林が、藩主・松前矩広の安泰を祈願し、円空作の観音像を奉納したと伝えられています。広尾町の解説によれば、円空自身が十勝を訪れたのではなく、蠣崎蔵人が部下に命じて奉納させたものです。

 この像は、台座などを含む総高が十一・一センチ、像そのものの高さは七・三センチ。背面には、寛文六年六月の銘も残されています。
 神社に観音像が納められていたことには、神と仏をともに祀った神仏習合の時代が映っています。この像は明治期に神社から移され、現在は広尾町の禅林寺が管理しています。




次の49話ですが、長くなった48話を分割したものです。早めに投稿できるかと。

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