オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
舟を降りた合わせ目から、道は北へ向いた。
北から落ちてくる流れは、十勝川(トカプチ)のようには寝ていない。川幅はあるのに、水が速い。岸の砂利を踏むたび、じゃり、と足の下で鳴った。シリテシが先を歩き、ソウカが続き、ハルコルが最後になった。
三日目の朝、瀬の脇の砂溜まりで、ハルコルはしゃがみ込んだ。
砂を浅く掬って、掌の中で水を回す。軽い砂が縁からこぼれ、重いものが底に残る。──残らなかった。灰と、白と、薄茶。黒い粒は、ひと粒も沈まなかった。
場所を変えて、二度。三度。
沙流の川原なら、この掬い方で、黒い筋が指の腹に残る。鵡川でも残る。ここでは残らない。砂の色からして違った。あちらの砂は黒みを帯び、こちらの砂は白っぽい。山が違えば、川の運ぶものも違う。
いつのまにか、シリテシが上から見ていた。
「無いのか」
「……ここでは、見つかりません」
シリテシが訊いたのは、それだけだった。笑いもしなければ、慰めもしなかった。ハルコルは濡れた手を腿で拭き、立ち上がって荷を背負い直した。
川筋を遡るにつれて、土地の暮らしが少しずつ形を変えた。弓が強くなり、軒に干すものは鮭から鹿の肉へ変わっていく。それでも、芋を植える村は、ここにもあった。エモ。種の来た道を訊けば、皆が川下を指した。
川が大きく曲がるところで、ハルコルは対岸の段丘に目を留めた。
縁が、人の手で削り取られている。半円に窪みが走り、その内側に土が盛られていた。盛り土の上には、朽ちた杭がまばらに残っている。──チャシだ。
ニプタイを囲むものとは、造りが違った。折れ曲がっていない。川を見下ろす高みを、ただ半円に切り取っただけのものだ。空堀の底からは、若い柏が何本も伸びていた。
「シリテシさん」
「なんだ」
「この川筋には、チャシが多いようですが」
シリテシは振り返らなかった。
「多い。この曲がりから山までに、まだ幾つもある」
「祀りに使うものも、ありますか」
「ある。長どうしが集まって、談判もする」
シリテシは、そこで一度切った。
「──籠もるために建てたものも、ある」
ハルコルは、対岸の窪みをもう一度見上げた。
「誰に向けたものですか」
「決まっておらん」
「決まって、いない」
「年によって、変わる」
シリテシは、そこで足を止めた。
「広い土地に見えるだろう」
「はい。……歩いても、歩いても、原が続きます」
「広い。だが、川が寝返りを打てば、狭くなる」
「寝返り」
「大水だ。トカプチは、決まった道を流れておらん。ひと夏で瀬が移る。鮭の上っていた瀬が、翌年には別の川筋へ寄る。簗を据えていた村の前から、魚が消える」
「……消えた村は」
「村ごと移る」
それで、話は足りた。
「鹿も同じだ。原が水を被れば、鹿は場所を変える。──境に杭を打っても、鹿は杭を見ん」
「東とも、長く揉めてきた」
「東」
「クスリ(釧路)の衆だ」
シリテシは、顎で川上を示した。
「わしの爺の、そのまた爺の頃だという。夏の日に、上から蕗の葉が幾枚も流れてきた。誰も気に留めなかった」
シリテシは、そこで言葉を切った。
「葉の下を、クスリの衆が来ていた」
「……蕗の」
「茎だ。中が、筒になっている。あれを咥えて、水に潜って下ってきた」
ハルコルは、息を詰めた。
「その日、この曲がりの村は焼けた。語り継いだのは、逃げた者だ」
ソウカが、対岸から目を離さずにいた。
風が段丘を渡り、草が、ざ、と一斉に伏せた。
「わしが若い頃は、こういうものが、まだ建った」
シリテシは、朽ちた杭の列から目を離さない。
「今後は、建てることは少なくなるだろう」
「……なぜですか」
シリテシは、すぐには答えなかった。代わりに、歩いてきた方を振り返った。芋の畝を持つ村を、いくつも抜けてきた方角だ。
「去年の夏、大水が出た。下の村は、畑を半分持っていかれた」
「はい」
「それでも、誰も隣の簗を取りに来なかった。……わしが覚えている限り、初めてだ」
「なぜですか」
「エモだ」
シリテシは、そこで初めてハルコルを見た。
「腹が減れば、人は隣の杭を抜きに行く。減らねば、行かん。──それだけのことだ」
「……はい」
「だが、エモが来てからの冬は、まだ指で数えられる」
シリテシは、また前を向いた。
「畝のある村と、無い村がある」
「はい」
対岸の空堀へ、日が傾いて影が落ちていった。朽ちた杭の列が、光を受けて赤く見える。
シリテシは、もう先を歩いていた。
川がふた筋に分かれるところで、シリテシが足を止めた。
東へ入る流れは白く濁って、手を浸すと痛いほど冷たい。両岸には、人の背丈を越える蕗が群れて立っていた。葉の傘の下は昼でも暗く、茎を分けて進むと、青い匂いが顔にまとわりついた。
「ここからは、ラワン(螺湾)の衆の川だ」
シリテシは荷から干し魚の束をひとつ出し、小刀を一振り抜いた。ニプタイの鉄ではない。柄の擦り切れた、使い込んだ古い刃のほうだった。
「トカプチの長でも、ここから先は、断りを入れて通る」
「……村でも、そう伺いました」
「同じトカプチでも、川筋が違えば、別の衆だ。……わしの顔は、この分かれ目までしか歩かん」
半日ほど遡ったところに、五軒の村があった。
シリテシは村の外で足を止め、呼ばれるまで、木立の際から動かなかった。
挨拶は長くなかった。誰が、どこから、何をしに、何日で戻るか。それを述べて、干し魚と刃を置く。相手も、長くは訊かなかった。
「山の上のものは、誰のものでもない。だが、通る道は、うちの道だ」
螺湾(ラワン)の長は、シリテシより若かった。頬に、爪で裂いたような古い傷がある。三十半ばか、それより下か。名を、ヌプリケシといった。
「通るだけか」
「今日は、通るだけだ」
シリテシは、そう答えた。
「帰りに、話がある。……聞いてから、話によっては断ってくれていい」
ヌプリケシは、ハルコルを見た。それから、腰の黒鞘を見た。何も訊かず、若い男をひとり、途中まで送りにつけた。
◆
夜のうちに雨が通り、朝には上がった。
螺湾の村を発ってしばらくすると、川筋はさらに山側へ入り込んだ。空気は、洗い立ての布のように澄んでいた。川霧が退いていく。先を行くシリテシが、ふと足を止め、東の空を指した。
「見える日だ」
地平の靄が薄れた先に、山があった。
青い、裾の長い山だった。頂きは森を抜けて裸のまま空へ出て、残り雪を白い筋に光らせている。そしてその肩から、細い煙がひとすじ、まっすぐに立ち昇っていた。
「マチネシㇼ(雌阿寒岳)」
シリテシが言った。
「女の山だ。いつも、ああして煙を上げている。風の向きによっては、ここまで山の匂いが降りてくる日がある」
ハルコルは、目を離せなかった。
囲炉裏の火に照らされた黄色い欠片。つんと鼻を突く匂い。ミナの筆が書き付けた、帳簿の一行。硫黄──トカプチ。
「あの山の石を」
ソウカが訊いた。
「運んだ者の話は、どこまで聞いておられる」
「父の話だけだ」
シリテシは山を見たまま答えた。
「頂きの近くに、煙の噴く裂け目がある。そのまわりの岩に、黄色いのが吹きついていると。剥がすというより、掻くのだそうだ。……背負子で、ひと袋。それより積めば、森で潰れる。父は、鼻の奥がいつまでも焼けていたと言っていた」
ソウカは頷いて、それきり問いを重ねなかった。
ハルコルは山と自分の間に横たわる土地を、目で測った。
森が幾重にも波打って続いている。川筋が光り、また森に呑まれる。人の歩く速さで、あの煙の根元までを思い描いた。ふた筋の川。三日の森。半日の裸岩。ひと袋の背負子。夏のあいだの、幾往復か。
(細い。……硫黄の道は、あると言えばある。だが、綱じゃない。糸だ)
目を細める。煙は乱れもせず、空の高いところで、ようやく薄れて消えていた。地の底の火が、あの一本を、休みなく吐き続けている。
シリテシが、山の日の沈む側へ顎をしゃくった。
「頂きへは、この季節はまだ登れん。雪が道を塞いでいる。……だが、裾なら回れる。大きな沼がある。刻ごとに水の色が変わる、化けた沼だ」
「そこから、山は見えますか」
「裸の岩を、下から仰げる。──見てからでいい、とわしは言った」
「……お願いします」
シリテシは背負子を揺すり上げ、それから思い出したように付け足した。
「その先の森に、湯の落ちる滝がある。岩がみな黒い。触れば、手が黒く染まる」
ハルコルの足が、止まった。
(黒い……岩)
「その黒いのは」
思わず、割って入っていた。
「もとから黒いんですか。それとも──後から、黒くなる」
シリテシは妙なことを訊く子だという目でハルコルを見た。
「湯の落ちるところから、黒くなる。上の岩は、そうでもない」
ソウカが、ハルコルの横顔をちらと見た。何も言わなかった。
◆
沼は、森の底に、不意に開けた。
三日、川を離れて登ってきた。アカエゾマツの原生林は、下生えまで苔に覆われている。足を置くたびに、みしり、と緑が沈んだ。倒木も岩も、みな厚い苔の衣を着ている。日の光は梢で漉されて、水の底のように青い。その青を抜けた先に、沼はあった。
「化けた沼、と言ったな」
ソウカが呟いた。
沼の面は、山を映して静まっている。だが、その色が尋常ではなかった。岸辺は澄んだ緑、沖へ向かうにつれて藍へ、深みは吸い込まれるような青。雲が動くと、水の色までゆっくりと移ろう。底のどこかから、時おり、こぽ、と泡がひとつ上がって、輪を広げた。地の底の息が、水を透かして届いている。
その水面の向こうに、山がふたつ立っていた。ひとつは裾を長く引いた、螺湾を発った朝に遠望したあの山。もうひとつはその肩に寄り添う、きれいな円錐。どちらも上のほうは森を抜けて、灰と赤茶の裸の岩を晒していた。
「あの上だ」
シリテシが言った。
ハルコルは首を反らせ、岩の壁を目で登った。木の生えぬ斜面は、遠目にはなだらかに見える。だが、崩れた岩屑が扇のように広がっている場所が、幾つもあった。踏めば足の下から流れる斜面だ。掴む木も、身を寄せる岩陰もない。風の当たり方が、ここからでも見て取れた。
(あそこを、背負子を負って半日。煙の噴く裂け目の際で、黄色いのを掻き集める。素手と、木の箆で)
指の先が、いつのまにか、掌の中で何かの柄を握る形になっていた。
沼を回り込み、南の森へ分け入ると、湯の匂いが立ち始めた。苔むした岩の間を、湯気を上げる細い流れが下っていく。裸足で入った水は、生ぬるかった。
流れをさらに遡ると、木立が切れ、目の前に岩の斜面が立ち上がった。
滝だった。
高い岩肌を、二条の湯が、湯気を噴きながら滑り落ちている。水量は多くない。だが、その岩肌が──黒かった。
濡れた黒。艶のある、深い黒。滝の落ち口から、湯の伝う筋のすべてが、墨を流したように黒く染まっている。黒は岩の上を厚く覆い、ところどころ、ぬめる泥となって盛り上がっていた。滝壺の底も、周りの石も、黒い。湯気の向こうで、その黒が、生き物の背のように鈍く光っていた。
ハルコルはしばらく動けなかった。
(……黒い石)
ハルコルはそろそろと岩へ近づいた。滝の脇、湯の垂れる岩肌へ、指を伸ばす。触れた。黒い膜は、指の腹にぬるりと絡んだ。引くと、指が黒く染まっている。爪の際まで、真っ黒だった。
膜の際の岩を覗き込む。湯の当たらない乾いた岩は、ただの灰色の石だった。湯の落ちる筋だけが、黒い。境目は、はっきりしていた。湯が触れたところから、黒くなっている。
ハルコルは滝の落ち口から、湯壺までを目でたどった。落ち口の近くの黒は、まだ薄い。下るほど、黒は厚く、盛り上がっていく。
背筋を、ぞくりとしたものが這い上がった。
(育っている。……この黒は、湯から、生えている)
膝をつき、湯壺の縁の黒い泥に、もう一度触れた。指ですくうと、泥は糸を引いた。すくった跡を、薄く湯が覆った。黒が戻るところまでは、見えない。だが、この湯が流れ続ける限り、また黒くなるのだろう。
湯気が頬を撫でて流れた。黒い岩肌を、二条の湯が変わらず滑り落ちていく。
シリテシは、滝壺の下手にいた。湯のぬるい溜まりに腰を下ろし、脛まで足を浸けて、目を細めている。黒い岩には、目もくれなかった。見飽きた岩なのだろう。
少し離れた岩に、ソウカが座っていた。
「その黒は、村の、あの黒い石と同じですか」
ハルコルは黒く染まった指を見つめた。
「……同じ、だと思います。姿は、まるで違うけれど」
「運びますか」
「いいえ」
迷いは、なかった。
「村の鋼の石は、掘れば足りています。これは──運ぶものじゃない。このままでいい」
ソウカは、それ以上は訊かなかった。ハルコルの黒い指を一瞥し、それから自分も黒い泥に指を触れ、湯でこすった。黒は、なかなか落ちなかった。
湯の溜まりのほうで、シリテシが足を組み替えた。湯気が、二人とシリテシの間を白く流れていく。話は、届いていないようだった。
◆
帰りの道は、行きより速かった。
登りが下りに変わっただけで、森は同じ森だった。それでも、足は軽かった。見たものは、重い。だが、見えないものよりは、ずっと軽い。
二日目の夕、螺湾の五軒の村へ戻った。
ヌプリケシは、村の外まで出てきていた。断るなら早いほうがいい、という足の運びだった。
囲炉裏を囲んだのは、四人だった。
シリテシが先に口を開いた。取り次ぐ側の声で、余計なことは何も言わなかった。
「この子が、山の黄色い石を欲しがっている。頂きの近くの、煙の噴く裂け目のまわりのやつだ。掘って、麓まで下ろす者が要る。……お前の川筋の者に頼みたい」
「うちの川筋は、人手は常に不足している」
「知っている。知っていて、口をきいている」
シリテシは火を挟んで若い長を見た。
「足りぬ分は、わしの川筋から人を出す。下ろす道は、うちの舟が受ける。……借りは、わしが背負う」
若い長は答えずにハルコルを見た。
「言え」
ハルコルは膝の上で手を組み直した。
「背負子ひと袋を、ひと夏に、五つ」
そこで一度、息を継いだ。
「引き換えに、鉄を」
鉈、小刀、鍬の刃。ハルコルは品ごとに数を告げた。シリテシとヌプリケシは黙って聞いていた。
「それから」
ハルコルは、指を折りながら続けた。
「岩を剥がす鏨。掻き落とす箆。──箆は、木ではなく、鉄で。刃を薄く、幅を広く打たせます。それと、背負子の枠を締める輪を用意します」
シリテシが、顔を上げた。
ソウカは、黙って火を見ていた。
火が、ぱち、と爆ぜた。
それきり、ハルコルは黙った。
ヌプリケシが、眉を寄せた。
沈黙が長くなって、それを破ったのはシリテシだった。
「……鉄だけかと、思っていた」
若い長が、シリテシを見た。
「この子は、何を言っている」
「山を見たんだ」
シリテシは、そう言って火に手をかざした。
「沼の際まで連れていった。裸の岩を、下から仰がせた。……仰いだ子が、道具まで足している」
若い長は、火を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて傷のある頬を一度掻いて、口を開いた。
「木の箆じゃ、掻けない」
「──はい」
「うちの年寄りが、同じことを言っていた。あの岩は硬いんじゃない。脆いんだ。掻けば崩れて、崩れた粒が木の先を丸める。……それを、お前は誰に聞いた」
「聞いていません」
「では、なぜ」
「必要だと思ったのです」
ヌプリケシの目が、初めて少しだけ緩んだ。
「……二人、出す」
膝の上で、指を二本立てる。
「道具が届いたら登る。雪が来る前に下ろす。麓の、川の分かれ目まで運ぶ。そこから先は、トカプチの舟が持っていけ」
「──ありがとうございます」
「礼はいい。……鉄を、先に寄越せとは言わない。石が下りてから、持ってこい」
「よろしいのですか」
「先に貰えば、こっちが借りになる」
「では、ひとつだけ」
ハルコルは、膝を進めた。
「道具だけは、先に届けさせてください。──あれは、対価ではありません。掘るための道具です」
相手が、片方の眉を上げた。
「道具は、対価ではないと」
「木の箆で掻けば、日が暮れます。日が暮れれば、あの斜面は降りられません。……登る人の手に先に渡っていなければ、意味のない物です」
若い長は、しばらくハルコルを見ていた。
「……道具だけだ」
「はい」
「先に貰えば、こっちが急ぐことになる。それでいいなら」
「──ありがたく」
ヌプリケシは、シリテシのほうを見ずに言った。
「借りは、この人ひとりで足りる」
翌日の道々、ハルコルは鉄の勘定をした。鏨は鋼を食う。箆には地金が要る。輪には鍛接の手間がかかる。行き着く先は、どれも炭だった。
(品目は、父が決めた。数は、その場で決めろと言われた。……ミナの帳面には、余りが一行あるだけだ)
◆
川を下る三日目だった。
昼を回って、道が流れから離れ、葦と菅の茂る低みを回り込んだ。湧き水の集まる湿地で、足元が柔らかい。案内の若者が、乾いた縁を選んで先を行く。
ハルコルは、その足元に目を落としていた。
浅い水溜まりの面に、薄い膜が張っている。油を零したような、虹色の膜。風が渡ると、膜は薄氷のように割れた。割れたまま、寄り合わない。
(……油じゃない)
膝をついた。膜の下の水は澄んでいる。底に、赤茶けた泥が沈んでいた。指を入れると、ぬるりと絡む。引き上げた指が、赤い。
泥の下を探ると、固いものが指に当たった。
掘り出す。
拳ほどの塊だった。表は赤錆色で、ところどころ黒ずんでいる。持ち重りがした。土くれにしては、明らかに重い。
腰から小刀を抜き、峰で叩いた。かつん、と乾いた音がして、粉が落ちた。割れ口を覗くと、内側は層になっていて、薄い黄褐色と濃い茶が交互に重なっている。
湧き水の口まで辿った。地から染み出す水は、澄んで、冷たい。だが、流れ出した先の石が、ことごとく赤い。湧いたばかりの水は透き通り、少し流れると赤くなる。
背筋に、あの日と同じものが走った。
(……黒が鋼の石なら、赤は)
ハルコルは塊を両手で持ち直した。赤錆の色。鉄が錆びたときの、あの色。
(鉄だ。……鉄の、元だ)
砂鉄なら、掌で回せば底に黒が残る。板と溝に流せば、重い黒だけが溝に沈む。──これは、砂ですらない。塊のまま、泥の下に転がっているだけだ。
立ち上がりかけて、もう一度、腰を落とした。
砂鉄を詰めすぎると、今の炉では風の通りが悪くなる。木炭と砂の入れ加減は、カニタが何度も焼いて覚えたものだ。──この塊なら、間に隙間が残るだろうか。
(……あの黒い石でも、焼けるかもしれない)
夕張(ユーパㇽ)の沢で拾った、蒸せば黒い液の滲む石。炭の代わりになると分かっていながら、砂鉄を焼くには合わず、川を流して運ぶ算段だけが立っていた石。
顔を上げると、シリテシが立っていた。
「その赤いのが、どうかしたか」
「……これは、鉄の元だと思います」
シリテシは、片方の眉を上げた。
「その泥がか。川の黒い砂ではなかったか」
「泥ではなく、この塊です。炭と一緒に焼けば……砂鉄と、同じ道筋のはずです」
「取れるのか」
「……どれだけ取れるかは、焼いてみなければ分かりません」
言ってから、ハルコルは自分の声が低くなったのに気づいた。
「ただ、試すだけの値はあります。重すぎるんです、これは。土なら、こうは重くならない」
そこで、ハルコルは一度言葉を切った。
「……砂とは、違います」
「砂」
「うちが鉄にしているのは、川の砂です。掌で回せば底に沈む、黒い粉。これは、粉ではありません」
「違うと、どうなる」
「同じ火では、同じようには焼けません。焼き方から、覚え直すことになります。……一度では、済みません」
シリテシは、眉ひとつ動かさなかった。
「今日ここで鉄になると、申し上げるわけにはいきません」
「……分かった」
シリテシは塊を受け取り、掌で転がした。長いこと、そうしていた。
「……この辺りの湿地には、こういうのが埋まっている」
「どのくらい」
「歩いた範囲で、幾つも」
ハルコルの喉が鳴った。
「集めていただけませんか」
シリテシが、顔を上げた。
「集めて、川まで下ろしていただければ、うちの炉で試します。鉄が出れば、出た分を分けます。出なければ、出なかったと知らせに来ます。……黄色い石の話とは、別の話として」
シリテシは答えなかった。塊をもう一度持ち上げ、重さを量るように上下させた。
「これは」
シリテシは、足元の湿地へ顎をしゃくった。
「拾えばいい。秋に、道具を届けに来るのだろう」
「はい」
「帰りに、これを持っていけるように集めておく。どれほど要るか」
シリテシは、塊をハルコルの手へ戻した。
ハルコルは、受け取った手を下ろさなかった。
「炉は、ひと焚きに袋を三つ食います。それで出なければ、積み方を変えて、もう一度」
塊の重さが、掌の中で下へ引いた。
「一度で当たるとは、思っていません。外れた回数だけ、分かることがあります。……一度きりの火で出た出ないを、知らせに来ても、それは知らせになりません」
シリテシは、すぐには答えなかった。
「幾つだ」
「十ほど」
シリテシは、足元の湿地へもう一度目をやった。
「拾うのは、造作もない。……だが、十となれば、人を出して集める話だ」
「はい」
「それでも、十と言うか」
「言います」
シリテシは、短く鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
「……十だ」
「試して、知らせろ。折れる鉄なら、要らん」
「──必ず」
「もうひとつ、申し上げておきます」
ハルコルは、塊を包みかけた布を膝に置いた。
「黄色い石のようには、数を約束できません。ひと夏に幾つ、とは言えません」
「言えんのか」
「鉄になるかどうかが、まだ分かりません。なったとして、うちの炉がどれだけ食うかも分かりません。……決めた数を毎年出せと言えば、出せない年に、お互い困ります」
シリテシは、湿地の縁へ目をやったままだった。
「では、どうする」
「試しの間は、足りなくなったら、取りに来ます。それまでに、手の空いた者が、拾える日に拾っておいてもらえませんか。──仕事を止めてまで集めるものでは、ありません」
シリテシは、しばらく黙っていた。
「鉄になったら、どうする」
「鉄が取れて、要る量も分かったら、黄色い石と同じにします。数を決めて、値を決めて、きちんとした品として」
「……覚えておく」
ハルコルは塊を布に包み、それから、湿地の縁へ目をやった。
塊が幾つも転がっていた。拳ほどのもの、それより小さいもの。赤錆の肌が、湧き水に濡れて光っている。
背負子を下ろし、荷を解いた。干し肉の包みを底へ寄せ、替えの衣を丸めて隙間へ押し込む。空いたところへ、塊をひとつずつ詰めていった。
ソウカが、黙って自分の背負子を下ろした。
二人分の空きが埋まっても、袋ひとつに届くかどうかだった。炉のひと焚きには、まるで足りない。布に包んだ最初の塊を、いちばん上へ縛った。
担ぎ上げると、膝に来た。
シリテシが、それを見ていた。
「……秋まで、待てんのか」
「火に当ててみます。炉に入れる前に、崩れないかどうかだけ」
シリテシは答えず、残った塊へ顎をしゃくった。
◆
別れは、三筋の寄り合う村の外だった。
シリテシは見送りに立たず、また川べりで杭を削っていた。揃えて寝かせた杭の列は、行きに見たときより、いくらか長くなっている。
「秋だ」
「取りに来ます」
「来い」
シリテシは杭に目を戻した。話は、終わっていた。
西へ戻る道でも、案内は村ごとに替わった。行きに顔を見た若者が、また戸口の外に立っていることもあった。二人が来た道は、もう道の側に覚えられていた。
日が沈むと、風が止んだ。
木立の間から、遠く平野が見えた。柏の林の陰。川の曲がりの内側。湧き水のほとり。暮れかけた大地のそこここに、夕餉の煙が細く立ち上っている。
その中に、畝を見なかった村もあった。行きも帰りも、ハルコルはその村で畝の話をしなかった。
西の空の低いところに、越えてきた峠の山なみが、青い一列になって並んでいた。
ハルコルは、指を見た。湯の滝の黒は、爪の際にまだ残っている。その上に、湿地の赤が薄く重なっていた。
それから、その手で背負子の紐を締め直した。行きにはなかった重さが、肩に食い込んだ。
第49話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの解説コーナーです。
【雌阿寒岳とオンネトー】
「マチネシㇼ」と呼んでいた山は、現在の雌阿寒岳です。
アイヌ語の「マチネシリ」は「女の山」の意味で、対になる雄阿寒岳は「ピンネシリ(男の山)」と呼ばれていました。現在の雌阿寒岳は標高1,499メートル。ひとつの単純な円錐火山ではなく、ポンマチネシリや中マチネシリ、阿寒富士など複数の火山体からなる活火山です。
その西麓にあるのが、オンネトー。
アイヌ語で「年老いた沼」または「大きな湖(沼)」を意味するとされ、周囲約2.5キロメートルの小さな湖です。見る場所や天候、時間によって湖面が青、緑、濃い藍色などに変わって見えるため、現在では「五色沼」とも呼ばれています。湖越しに雌阿寒岳と阿寒富士を望むことができます。
実際、雌阿寒岳では後世に硫黄鉱床が利用されています。
【オンネトー湯の滝】
オンネトーから森へ入ったところに、実在する「オンネトー湯の滝」があります。
名前の通り温泉が流れ落ちる滝なのですが、最大の特徴は、真っ黒な岩と泥です。
その正体は、主としてマンガン酸化物。
温泉水にはマンガンイオンが含まれており、マンガン酸化細菌などの微生物の働きによってマンガンが酸化・沈殿し、黒い「マンガン泥」となって滝の斜面に蓄積していきます。
しかもこれは過去にできた鉱床が露出しているだけではありません。現在もマンガン鉱物の形成が続いています。 年間1トン以上の沈殿物が生成するとされ、陸上で現在進行形のマンガン鉱床形成を観察できる、世界的にも非常に珍しい場所です。昭和20年代には、この周辺でマンガン鉱石が採掘されたこともあり、現在は「オンネトー湯の滝マンガン酸化物生成地」として国の天然記念物に指定されています。
【沼鉄鉱――水が作る鉄】
赤茶色に染まった水と地面。
こちらはマンガンではなく、鉄です。
地下水や鉱泉に溶けていた鉄分が地表へ出て酸素に触れると、鉄が酸化して赤褐色の水酸化鉄などとして沈殿します。そこには鉄バクテリアなどの微生物が関与する場合もあり、沈殿物が長い時間をかけて蓄積すると、沼鉄鉱(Bog iron ore)と呼ばれる鉱石になります。
普通の鉱山というと、地下にある鉱脈を掘る姿を想像します。
ところが沼鉄鉱は、条件さえ整えば、鉄を含んだ水が流れ出る湿地や泉の周囲で地表に鉄が沈殿し続けるという、少し変わった鉱床です。
雌阿寒岳周辺には実際にこうした褐鉄鉱鉱床が多く、地質調査でも、湿地などで現在も水酸化鉄が沈殿している場所が確認されています。
最後まで迷ってたタイトルの没案として【黄の山、黒い湯、赤い沼】がありました。
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