オホーツクの暁鐘 ~アイヌと極寒の諸民族を導き巨大連邦国家を創る~ 作:サウス
長く、そしてすべてを白く閉ざしていた冬が終わり、アイヌモシㇼに一気に生命の季節が到来した。
雪解け水を含んで黒く湿った大地からは、競い合うように緑が芽吹き始めている。春の訪れとともに、コタン(村)の風景は一変した。
「ほらハルコル、ぼやぼやしてないで手を動かす! 根元から素早くちぎらないと、プクサ(行者ニンニク)の強い匂いが飛んじゃうわよ!」
「分かってるよ。でもミナ、少し採るペースが早すぎないか? 後ろのおばさんたちが追いつけてないぞ」
「何言ってんの。春の恵みは早い者勝ちよ! おばさんたち! 採ったそばからそっちの籠に放り投げるから、選別と泥落としだけやって! 立ち止まらない!」
コタンの裏山で、女たちや子供たちに混ざって、ハルコルとミナは夢中で山菜を摘んでいた。
春のアイヌの暮らしは、冬の静寂が嘘のように驚くほど活気に満ちている。雪の下でたっぷりと甘みを蓄えたプクサや、プクサキナ(ニリンソウ)などの山菜を背負い籠(タㇻ)いっぱいに採り、川では産卵のために遡上してくる春の魚を獲る。
男たちは、冬眠から目覚めたばかりの熊(キムンカムイ)を追って残雪の春山へ入り、女たちは白樺(シラカバ)の幹に傷をつけて、甘く澄んだ樹液(タㇰニ・ワッカ)を水筒いっぱいに集める。
それは、厳しい冬を生き延びた者だけが味わえる、カムイからのご褒美のような季節だった。
ミナはすっかりコタンの生活に馴染んでいた。持ち前の要領の良さと、孤児として泥水をすすってきたバイタリティで、誰よりも手際よく山菜の群生地を見つけ出しては、女たちに的確な指示を飛ばして処理していく。
その顔には、和人の商人に虐げられ、泥にまみれて命乞いをしていた頃の暗い影はない。名が示す通りの不敵な「笑み(ミナ)」が常にあった。ハルコルにとって彼女は、単なる通詞(通訳)の枠を超え、もはや村の労働力を最適化する優秀な「現場監督(マネージャー)」になっていた。
日中は、豊かで忙しい狩猟採集の春。
そしてその合間を縫って、ハルコルとミナが指揮を執る「ジャガタライモの第一圃場(畑)」の作付け作業も、村の総動員によって着々と進められていた。
◆
その日の夜。
山菜と干し肉の入った温かいオハウ(汁物)で腹を満たした後、ハルコルは囲炉裏(アペオイ)の向かいで、狩りに使う弓の手入れをしている父に声をかけた。
「父さん。少し、教えてほしいことがあるんだ」
「なんだ、改まって」
父は小刀(マキリ)を動かす手を休め、不思議そうに息子を見た。
「このコタンの外のことだよ。……和人の商人との交易は僕が計算して絶対に勝つ。でも、他のアイヌのコタンが今どうなっているのか、僕はまだよく知らないんだ。秋にイモが大量に獲れて村が豊かになった時、周りの状況を知らないと、思わぬところから足元をすくわれる対策が打てない」
父の顔つきが、少しだけ険しくなった。
六歳の子供に聞かせるような話ではない。だが、この小さな息子がただの子供ではないこと、そして彼の頭脳がこの村の未来を握っていることを、父は冬の商談と備蓄管理ですでに痛いほど悟っていた。
「……お前の言う通りだ。我々のサルの地は、今は平穏に春を迎えているが、いつ外から火の粉が飛んできてもおかしくない、極めて危うい状況にある」
父は手元の弓を置き、囲炉裏の灰に小枝でスッと線を引いた。
「我々サルの東、シベチャリ(静内)の地を束ねる、荒々しく強い首長がいる。名は、シャクシャイン。お前も名前は聞いたことがあるな」
「うん。時々、物々しい身なりの使者が父さんのところに来てるよね」
「そうだ。そして、そのシャクシャインと激しく対立しているのが、我々の西、ハエ(門別)の地を束ねる首長、オニビシだ」
父は灰の上に、二つの大きな丸を描き、その間に深い線を引いた。
「シャクシャインとオニビシ。この二つの巨大な勢力は、豊かな狩場と、和人との交易の権利を巡って、もう何年も血で血を洗う争いを続けている。一昨年にも大きな戦があり、オニビシの陣営がシャクシャイン側の長を討ち取った。怨恨は深い。……そして、我々サルのコタンは、奇しくもその二つの巨大勢力に挟まれた『境界』の場所にあるんだ」
ハルコルの脳内に、現代の「市場力学」と「地政学」の図式がサッと展開された。
(なるほど。アイヌモシㇼという一つの巨大な市場の中で、二つの巨大な派閥が血みどろのシェア争いをしている状態か。しかも、僕らの村はそのど真ん中、緩衝地帯(バッファー・ゾーン)に位置している。どちらの勢力が動くにしても、必ずこの沙流川流域を通らなければならない……)
「数年前に、松前の和人が間に入って無理やり和睦(休戦)をさせた。だから今は表立って戦ってはいない。だが、両者とも腹の底では激しく憎み合っている。シャクシャインもオニビシも、次の戦いに備えて、少しでも味方のコタンを増やし、武器となる和人の刀、そして戦うための『食料』を集めようと血眼になっているはずだ」
父の言葉に、ハルコルは息を呑んだ。
「……松前藩が、仲裁に入った?」
「ああ。和人から見れば、我々アイヌが争って毛皮や鮭を獲らなくなるのは商売上がったりだからな。和人は『自分たちの許可なく争うな。言うことを聞かなければ米も鉄も売らない』と脅して、強引に戦を止めさせたのだ」
違う、とハルコルは心の中で鋭く直感した。
前世の歴史知識と、冷徹なビジネスの視点が、松前藩の本当の、そしてあまりにも狡猾な狙いを浮き彫りにする。
(松前藩の狙いは平和なんかじゃない。アイヌ同士を決定的に団結させないための『分断統治(ディバイド・アンド・ルール)』だ。二つの勢力を競い合わせて消耗させ、松前藩が『調停者(親会社)』としての絶対的な立場を固定化しようとしているんだ)
和人は、アイヌ同士の争いを裏で煽り、双方に武器を高く売りつけ、獲れた毛皮を安く買い叩く。アイヌが互いに憎み合い、殺し合っている限り、決して和人へ反逆の矛先が向くことはない。「商場知行制」という理不尽な搾取システムを維持するための、最もえげつない政治手法だ。
「ハルコル。お前がジャガタライモでこのコタンを豊かにしようとしているのは分かっている。だが、もしこの村に大量の食料(富)があると知れ渡れば、シャクシャインか、オニビシか……どちらかの陣営に力で飲み込まれるかもしれんぞ。豊かな備蓄は、戦の格好の的になる」
父は、村を守る長として、最も恐れている懸念を口にした。武力を持たないサルのコタンが、力ずくで食料を奪われる未来。
だが、ハルコルの目には、怯えではなく、奇妙なほど冴え渡った光が宿っていた。
「飲み込まれはしないよ、父さん」
「なに?」
「逆に考えるんだ。両方の陣営が『どうしても戦のための食料が欲しい』と飢えている今の状況は、僕らにとって最大のチャンス(売り手市場)なんだ。どちらか一方に肩入れして軍門に降るんじゃない。争っている両方の陣営に、僕らのジャガタライモを『貸し付ける(融資する)』んだ」
六歳の少年の口から出た突拍子もない言葉に、歴戦の狩人である父は絶句した。
「彼らにとって、僕らの村は『潰して一度だけ食料を奪うより、生かして永続的に食料を供給させた方が圧倒的に得だ』と思わせるんだ。武力じゃ絶対に勝てない。でも、彼らの胃袋(兵站)を僕らが完全に握ってしまえば……このアイヌモシㇼで、僕らサルのコタンに手出しできる奴は誰もいなくなる。僕らは、絶対に不可侵の『銀行』になるんだよ」
囲炉裏の火が、ハルコルの野心的な瞳を赤く照らした。
さらに、ハルコルの脳内では、前世の歴史知識が激しくスパークしていた。
(……待てよ。シャクシャインの戦いが1669年。今はたしか、和人の暦で1657年の春のはず。1657年の初めといえば……『明暦の大火』だ!)
江戸の街の大半が焼け落ち、数万人規模の死者を出す、日本歴史上最大級の大火災。
それを再建するため、日本全国で途方もない量の木材や食糧、さらには復興作業に耐えうる頑丈な獣の革(鹿皮など)の需要が、異常なまでに跳ね上がる「復興特需」が必ず起きる。当然、松前藩の勝右衛門ら商人たちも、血眼になって蝦夷地の物資を買い漁りに来るはずだ。狂ったような超インフレの波が、海を越えてここまで波及してくる。
(今年は、和人相手にもかつてないほどの高値で売りつけられる、百年に一度のボーナスタイムだ。ジャガタライモだけじゃない、毛皮も干し肉も、いくらあっても足りないくらい売れる。ここで圧倒的な『資本』を作れば、東西のアイヌ陣営への貸し付け(レバレッジ)も一気に加速できる……!)
もちろん、「数ヶ月前に江戸が燃えたから」などという未来の知識を父に話すわけにはいかない。まだその凶報は、この北の果てには届いていないのだ。
ハルコルは表情を引き締め、父に向き直った。
「父さん。だから今年は、ジャガタライモ作りと並行して、猟も例年以上に徹底して頑張ってほしいんだ。他のコタンへの貸し付け用にも、そして秋に来る松前の商人へ売りつけるためにもね。理由は言えないけど、今年の秋は絶対に、今までの何倍も高く売れるから」
「……無理を言うな、ハルコル」
父は渋い顔で首を振った。
「春から秋にかけては、お前の言うジャガタライモの世話で村の女や子供の手がごっそり取られる。男たちだけで山に入っても、獲れる鹿や熊の数には限界がある。畑と狩り、両方は追えない」
「だから、『やり方』を根底から変えるんだ。これまでみたいな、猟師それぞれの『勘』に頼る属人的な猟はやめる」
「やり方を変える? アイヌの誇り高き狩りを愚弄する気か」
「違うよ。先人たちの尊い知恵を、もっと『効率化』するんだ」
ハルコルは灰の上に、サルの周辺の山々を示す地図のような線を引いた。
「まず、アマッポ(毒矢を仕掛けた自動弓の罠)の配置だ。これまで父さんたちは、各自の長年の勘でバラバラに仕掛けて、毎日広い山を歩き回って見回りをしてただろ? それだと移動の無駄(タイムロス)が多すぎる」
ハルコルは懐から、冬の間に削りためた数枚の木札を取り出した。
「冬の間に、村の古老や猟師たち全員から『過去にどこで一番獲物が獲れたか』を聞き出して、この木札に記録しておいた。見てよ。見事に場所が偏ってる。獣道(ルート)には明確な法則があるんだ」
「これは……」
父は驚いて身を乗り出した。それは現代の言葉で言えば、過去のデータを元にした「ヒートマップ(猟獲の集中域の可視化)」だった。
「罠を仕掛ける場所を、この一番確率の高いエリアだけに絞り込む。そして、見回りの当番を日替わりで決めるんだ(シフト制)。そうすれば、他の男たちは畑の開墾や、他の猟に専念できる」
「……なるほど。確かに、無駄に山を歩き回る時間は劇的に減るな」
「それだけじゃない。獲物が獲れた後の『解体』も完全に分業(ライン化工法)するんだ。これまでは獲った者が自分で解体して、肉を切り分け、毛皮をなめしていたけど、それじゃボトルネックになって遅すぎる」
ハルコルは灰の上の図をトントンと叩いた。
「弓を引くのが得意な者は、森から戻らずにずっと獲り続ける。村に残った女たちや高齢の者たちを『毛皮を剥ぐ係』『肉を切り分ける係』『燻製にする係』に完全に分けるんだ。一つの作業だけを永遠と繰り返せば、熟練度が格段に上がって、作業時間は今の半分以下になる」
それは、前世のブラック企業で、少ない人員で無茶な納期を乗り切るためにハルコルが編み出した「徹底した工程管理と分業制」だった。自然の恵みに感謝し、最初から最後まで己の手で完結させるアイヌの伝統的な狩猟文化に、冷徹な「工場(ファクトリー)」の概念を持ち込んだのだ。
「勘と誇りだけじゃ、この理不尽な世界では生き残れない。集めた『記録(データ)』で無駄を省き、村の全員が一つの大きな歯車のように噛み合って働く。そうすれば、ジャガタライモを育てながらでも、例年の倍以上の毛皮と干し肉が作れるはずだ」
父は、ハルコルの引いた図と木札を、穴のあくほど見つめていた。
もはや目の前の六歳の息子を「無知な子供」として見てはいなかった。そこにあるのは、圧倒的な結果を出す未知の「指導者」への畏敬だった。伝統を重んじる心と、村を存続させるための冷徹な合理性の間で、父の心は激しく揺れ動いたが——やがて、深く息を吐き出した。
「……分かった。猟師たちには、村長(コタンコㇿクㇽ)である私が命じよう。今年の猟は、すべてお前のその『木札の記録』に従って動くとな」
父が深く頷いたのを見て、ハルコルは密かに拳を強く握った。
(よし。これで『食料(エゾイモ)』と『特需用の交易品(毛皮・肉)』の両輪が回る。ミナという有能な現場監督もいる。最大のインフレ相場を迎え撃つ、最高の布陣だ)
雪解けの泥の匂いと共に、サルのコタンは、これまでの歴史上どのアイヌも成し遂げたことのない、壮大で劇的な「経済成長」の夏を迎えようとしていた。
第5話をお読みいただき、ありがとうございます!
おまけの用語解説コーナーです。
【アイヌ文化・歴史用語】
タㇰニ・ワッカ(白樺の樹液)
春先のわずかな期間だけ採れる、白樺の樹液。ほんのりと甘く、水筒に入れて飲み水にしたり、料理に使ったりと、春の訪れを告げる貴重な水分でした。
アマッポ
獣道に仕掛ける自動弓の罠。獲物が糸に触れると、トリカブトの毒(スルク)を塗った矢が自動で発射される仕組みです。ヒグマやエゾシカなどの大型獣を狩るための、アイヌの非常に高度な伝統猟法でした。