最大限かつ最大級 作:萩の月
駅前からのバスには、昼下がりの陽光が差し込んでいた。まだ紅葉には遠く、それでいながら日を追うごとにもう日差しは柔らかくなってきている。
最後部の座席には初老の婦人と、その息子とおぼしき青年、更に隅の窓際席には、青年の恋人か婚約者らしき若い女性とが、3人並んで腰かけている。郊外へ向かう車内は、今日が平日であること、さらに時間帯も相俟って、他に乗客は三人程という閑散とした空間となっていた。
青年が、母親に声を潜めて問いかける。
「何でまた前の家に」
婦人は軽く呆れた声色で応える。
「あなた、いつまでもお嫁さんを社員寮に置いておくわけにいかないでしょう。入籍は済んだんだから、もうちゃんと夫婦として暮らしなさい」
今度は青年が呟くように返す。
「あの家の固定資産税や諸々の基本料金とかずっと払い続けてたってこと? 使う予定もなかったのに」
「いいのよ。母さんはそれも含めて、働いていたようなものよ。大体、大した金額じゃないわ。それに」
婦人は微笑むと、青年を挟んで隣の座席で、所在なさげに膝を揃え、窓の外をなぜか注意深く眺めている「お嫁さん」に軽く視線を移し
「こんな日が来るのを待っていたのよ」
若夫婦のどちらにともなく語りかけた。
突然会話の輪に入れられたことに、虚を突かれた「お嫁さん」は、「あ――はい、そうなんですね!」と返事になっているような、なっていないような反応しかできず、軽く俯いた。
「もう次よ」
母親はブザーを鳴らし、
「バス停からは、歩いて五分くらいだから。ゆっくり行きましょう」
と、今度ははっきり「義理の娘」に向けて、声をかけた。
青年は、新妻の様子が明らかにおかしいことに気付いていたが、問いかける機を作れずにいた。 降車すると、母に連れられるまま、夫婦は並んで歩く。
妙に遅い足取りで、いつになく口を噤んで、注意深げに周囲を眺めてまわる妻。青年は流石に声を投げ掛けた。
「さっきから、どうしたの? 気になることでも?」
声色こそ優しいが、夫が心底訝しんでいるのを察した妻は、
「いや、いやいや、何かね、こう、見たことがある景色だなぁって。
あれだあれ、デジャヴってやつかね」
一気に早口で応えると、苦笑を浮かべた。
夫は小さく肩をすくめる。とり立てて特徴のない住宅街だ。何がそんなに彼女を不思議がらせるのか、まるでわからない。
彼のそんな違和感が、言葉となり喉元まで上がりかけた時だった。母が振り向きざま、左ひとさし指を挙げてみせる。
「ホラ見える?、あの家よ。
曲がってすぐだからここから二階の出窓が見えるでしょう」
妻の耳に届くように、少しボリュームを上げて呼び掛けてきた。青年も、改めて母の指す先を見上げる。――懐かしい、旧家の横顔が他の家の間に、のぞいていた。
生まれてから16年間、過ごした家だ。思い出深いなどという薄い言葉では、あまりにも大きく根強い郷愁――何から話そうかと、青年は妻を振り返った。
しかし目に入ったのは、予想だにしない妻の姿だった。
彼女は足を止め、丸い目を更に大きく見開いて、旧家の横顔を見つめたまま、微動だにしなくなっている。
青年は、ますます戸惑い、言葉を失う。
互いの絶句の間に、彼女の両腕は祈るような形をつくり、震える両手はその口を覆う――まるで、慟哭を抑え込むような仕草。
「ちょっと、一体どう――」
ようやく夫が声を出せたとほぼ同時に、弾かれたように彼女は駆け出した。
「どうしたのいきなり! そんな、走って――」
追い抜かれた母は、突然横を走り抜けた嫁へつい声を上げる。あまりの変化に困惑しつつ、後から小走りに、角を左に曲がる。旧家の、小ぶりな観音開きの金属門を前に、彼女が声を張り上げる。
「お義母さん、ここの鍵と玄関の鍵、貸していただけますか!?」
――今まで聞いたことのない、真剣で切迫した妻の声が響く。青年も慌てて駆け寄る。
「何? どうしたの? そんなに」
鍵を差し出す義母の問いさえも意に介さず、門を開くと、短いポーチの先の、本宅の扉ももどかしそうに鍵を回し、開ける。着脱の簡単なパンプスを、乱暴に玄関に脱ぎ棄て無言のままたたきを越えると、迷いなく正面の階段を駆け上がっていく。
茫然としている母の肩に、青年は静かに手を置いた。
「オレがみてくるから、母さんはリビングで休んでて」
「え、でも」
「いいから」
青年は母をリビングのソファに座らせると、2階へ向かった。
3つある2階の部屋のうち、出窓がある部屋の扉だけが、開いている。妻は、扉の真正面にある出窓を開け放ち、空を見上げていた。
背後の夫の気配に気付き、躊躇いつつ彼女は、俯いたまま振り向いた。その大きなふたつの瞳からは、大粒の涙が溢れては零れ落ちている。
中秋の微風を、透け感のあるホワイトベージュの襟と背で受けながら、はらはらと落ちる涙の雫もそのままに、彼女は顎を上げる。
夫の瞳を真っ直ぐに見つめ、遂にハッキリと、言葉を放った。
「・・・間違いない。思い出したよ。
――あんたのお父さん、送ったの、あたしだよ」