最大限かつ最大級 作:萩の月
退院し、あっという間に二週間が経った。新生児検診を終え、志保利は自宅に戻ると、息子をベッドへ寝かせた。まだ生き物として成立しきっていない赤子を連れて、外に出るのは消耗する。流石に、心身共に、疲れた。
その上実のところ、息子の育児に相対して以来、どうにもしっくりこないような、手ごたえのない気持ちを持て余し、彼女は呆然と床に座り込んでいた。
――この子、一体何なのかしら。
「何にも問題なく育ってますよ。いい子ですね」と担当医は言ってくれた。
事実そうなのだろうが、何かが、おかしい。
入院中から、そうだった。
わんわん泣き続けたり、全然ミルクや母乳を受け付けなかったりと、自分以外の新米ママは皆、もれなく悪戦苦闘していた。
ところがそれを横目に、息子は軽く声を上げるだけで済んでしまう。与えたミルクは、もちろん平らげる。
あまりにも、手がかからない。
贅沢な悩みだ、と思うものの、本当にこんなものなのかと、正直薄気味悪さすらある。
そろそろ、市役所に出生届を出す期限だ。
しかし――自分が生んだにも関わらず――赤子らしさを一片も感じさせない、この息子に「名づける」イメージが、まるで湧かない。
どうしよう――洋二さん。どうしたらいいの?
私はこの子を、どう育てればいいの?
助けてよ・・・!!
私には、無理!!
志保理の眦から、一筋の涙が、左頬に零れ落ちた。
その時だった。
閉め切ってあるはずの窓ごしに、柔らかく春風が、彼女の頬の涙を、撫ぜた。
(大丈夫。しゅういちは優しい、いい子だ。心配ないよ)
――・・・しゅういち?
志保利は左頬をぼんやりとおさえると、すぐさま飛び上がるように階段を駆け上がる。
亡き夫の、書き物机の上にあった命名用の台紙を、手に取る。
黒々とした墨字で、はっきりと書かれている文字を確認し、彼女はその場にへたり込んだ。
そこには
「秀一」
見慣れた字体の二文字と、もういないはずの夫の署名。
なぜ。
いつ。
どうして。
志保利は、混乱の渦に巻き込まれた。
と同時に、あの絶望的な夜以来、輪郭の覚束なかった感情が、はっきりと溢れ出てくるのを感じた。
彼女は「命名」を抱きしめ、あの悍ましい日以来、初めて何にも憚らず、慟哭した。
顔をぐしゃぐしゃにし、しゃくりあげながら、震える人差し指で太い墨字をなぞってみる。
「そう、そうなのね、あの子は『秀一』・・・!
そう、私はあの子を『秀一』として、育てるのね。
分かったわ。
ありがとう・・・ありがとう洋二さん・・・」
ふと、出窓から空を見上げる。再び涙がこみ上げる――その時、階下から「ふにゃあ」という微かな訴えを、母親の耳が捉えた。瞬時に立ち上がり、志保利はすでに速足で部屋を後にしていた。
「はいはい、今行くから! なぁに、秀一・・・」