最大限かつ最大級   作:萩の月

10 / 11
置き土産


終章

 退院し、あっという間に二週間が経った。新生児検診を終え、志保利は自宅に戻ると、息子をベッドへ寝かせた。まだ生き物として成立しきっていない赤子を連れて、外に出るのは消耗する。流石に、心身共に、疲れた。

その上実のところ、息子の育児に相対して以来、どうにもしっくりこないような、手ごたえのない気持ちを持て余し、彼女は呆然と床に座り込んでいた。

 

――この子、一体何なのかしら。

 

「何にも問題なく育ってますよ。いい子ですね」と担当医は言ってくれた。

 

事実そうなのだろうが、何かが、おかしい。

 

 入院中から、そうだった。

 わんわん泣き続けたり、全然ミルクや母乳を受け付けなかったりと、自分以外の新米ママは皆、もれなく悪戦苦闘していた。

ところがそれを横目に、息子は軽く声を上げるだけで済んでしまう。与えたミルクは、もちろん平らげる。

あまりにも、手がかからない。

 

 贅沢な悩みだ、と思うものの、本当にこんなものなのかと、正直薄気味悪さすらある。

 

 

 そろそろ、市役所に出生届を出す期限だ。

 しかし――自分が生んだにも関わらず――赤子らしさを一片も感じさせない、この息子に「名づける」イメージが、まるで湧かない。

 

 

 どうしよう――洋二さん。どうしたらいいの?

 私はこの子を、どう育てればいいの?

 

 助けてよ・・・!!

 

 私には、無理!!

 

 

 志保理の眦から、一筋の涙が、左頬に零れ落ちた。

 

 

 その時だった。

 閉め切ってあるはずの窓ごしに、柔らかく春風が、彼女の頬の涙を、撫ぜた。

 

 

(大丈夫。しゅういちは優しい、いい子だ。心配ないよ)

 

 

――・・・しゅういち?

 

 志保利は左頬をぼんやりとおさえると、すぐさま飛び上がるように階段を駆け上がる。

亡き夫の、書き物机の上にあった命名用の台紙を、手に取る。

黒々とした墨字で、はっきりと書かれている文字を確認し、彼女はその場にへたり込んだ。

 

 そこには

 

 「秀一」

 

 見慣れた字体の二文字と、もういないはずの夫の署名。

 

なぜ。

いつ。

どうして。

 

 志保利は、混乱の渦に巻き込まれた。

と同時に、あの絶望的な夜以来、輪郭の覚束なかった感情が、はっきりと溢れ出てくるのを感じた。

 

 

 彼女は「命名」を抱きしめ、あの悍ましい日以来、初めて何にも憚らず、慟哭した。

 

 顔をぐしゃぐしゃにし、しゃくりあげながら、震える人差し指で太い墨字をなぞってみる。

 

「そう、そうなのね、あの子は『秀一』・・・!

 

 そう、私はあの子を『秀一』として、育てるのね。

 分かったわ。

 ありがとう・・・ありがとう洋二さん・・・」

 

 ふと、出窓から空を見上げる。再び涙がこみ上げる――その時、階下から「ふにゃあ」という微かな訴えを、母親の耳が捉えた。瞬時に立ち上がり、志保利はすでに速足で部屋を後にしていた。

 

「はいはい、今行くから! なぁに、秀一・・・」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。