最大限かつ最大級 作:萩の月
自宅の書斎には、二つ机がある。
一つは仕事用の大きなもの。資料と文献が山積みになっている。
窓際横にある、もう一つの小さな書き物机に洋二は向かい、腰かけた。
斜陽のさす机の上には、水天宮のお参りに行った時にもらった、名づけ台紙がずっと置きっぱなしになっていた。
台紙には柔らかなタッチで、中央上部から結び目のある紅白のリボンが、全体を囲むように描かれている。囲いの中右上に、これもかわいらしく飛び立つ鶴が印刷され、結び目の真下に「命名」と筆文字がある。
しばし洋二は眺めてから、ぼたんに声をかける。
「何か、書けるもの、あるかい?」
袂から一本の筆を取り出すと、彼女は自分にも言い聞かせるように、切り出した。
「これはね――ホントに、どうしてもって時にしか使わないんだ。霊界以外の者にも、見えてしまう墨汁だから。
でも、あたしは、今がその時だと思ってる。
ああ、筆ペンみたいなもんだから、スイスイ書けるよ!」
「――恩に着るよ」
台紙を机に置き、そっと筆をつける。
肩に力が入って、線が細かくブレる。
洋二は一画一画、その度に息を吸いなおしながら筆を動かし、二つの漢字を完成させた。
「・・・できた・・・」
はあっと大きく息を吐くと、椅子の背にもたれた。
「ふむふむ。
南野さん、こちらは、どういう想いでつけられたんで?」
インタビュアーよろしく、ぼたんがおどける。
「僕の名前が、洋二だろ?
二つの大海を跨ぐようって想いがあったって聞いたんだ。・・・正直、そこまで大仰じゃなくてもって、思ってた。
でも、やっぱり父親は、息子に自分を越えてほしいもんなんだな。
顔を見たら、そう、実感したんだ」
そう答えると、もう一度洋二は台紙を手に取った。
「細筆あるかい?」
「はいよー」
完成させた二つの文字の横に、また少し緊張しながらも、平仮名で「しゅういち」と加えた。
「――何でもいいんだ。人から見たら、大したことじゃなくても。
何でもいいから、自分こそ秀でていると誇れるような、胸を張れるような、一つのことを持つ人に、なって欲しいんだ。
・・・僕の『二』を超えた、『一』の人に」
最後に、台紙の左下に縦書きで署名を入れる。
「実印欲しいな・・・」
「それはムリです」
はは、と洋二は思わず破顔すると、しみじみとこぼした。
「――このためだったんだね。
きみがずっと、僕をこの世に留め置いてくれていたのは」
「へへへ、・・・まぁどうでしょうかねぇ」
ずっと窓の外で浮遊していたぼたんの目を見て、改まって言葉をかける。
「ぼたんさん、ありがとう。約束を果たさせてくれて」
洋二は、この時初めて、心からぼたんに向き合った気がした。
「いいえー、なんのこれしきでさぁ」
ぼたんは不意にこみ上げる涙を、軽い言葉と笑顔でいなす。
「・・・本当は、怖かったんだ。名前を付けるっていう行為が。
その子が元々持っている、全方位への可能性を定義して、自分のエゴで、方向づけてしまうことだから。
でも、母親が命を懸けて産むんだったら、父親はその分、同じくらいの覚悟で、子どもに向き合わないとフェアじゃない。
全身全霊で、誕生に祝福を示して、人生の方向に責任をもってあげないと。
そう思って、『名前は僕がつける』って約束したんだ、志保利と」
洋二はもう一度、名づけの紙を手に取ると
「果たせて、よかった」
満足げにつぶやき、ふっと細く息を吐く。
心を整えると、ぼたんにふたたび顔を向け、洋二は問うた。
「最後にもう一度、二人の顔を見ても、いいかな」
ぼたんは、両掌を叩くように合わせながら、応じる。
「ええ、ええ! もちろんそうしましょ。聞こえなくても、ちゃんと想いを伝えてあげましょ。
短いメッセージの方が、確実に、伝わるかもでっせ!」
「・・・伝わる?」
「まぁ、あくまでも! 気持ちの問題ですけどねぇ!」
――確かに、今の自分はもう『気持ち』しか、ないもんな。
台紙を机に置いて、小さめの文鎮で抑える。
もう二度と訪れないこの部屋を、静かに見回すと
「じゃあ、頼む」
二人は再び空へと上がっていった。