さほど長くはない滞在の後、連れだって出かける真美と芦花を見送る。
二人はこれから映画を見に行くらしい。
元々彩葉も誘われていたけれど、仕事がね、と断っていた。今日はそんな彼女を心配して顔を見に来たということなのだろう。
黙々と、コードを眺めキーボードを叩いては首を掻く彩葉をただ黙って眺める。
『少し休みなさいよ、彩葉』
そう言えたらよかったのだけど、彼女の努力が私のためであり――かぐやのためであり、彩葉自身のためでもあることを知っている。
だから言えない。
私のためだけならきっと言えた。私はずっと待てるよって。待つのは得意なんだよって。
けれど。
先ほどまで皆が見ていた一束の紙を、傍にあるWebカメラの眼を通じて眺める。
端には小さくKG型と記されている。
大きく開かれた眼。
どこかに飛び出していきそうな、エネルギーを感じさせる立ち姿。
そして、金に輝く髪。
私によく似ていて、けれど確かに
羨望でもなく悲嘆でもなく、ましてや嫉妬でもない。
ただ、それを私だとは思えなかった。
仮に、大人になった自分と子供だった自分が互いを見た時に、自分自身だと思える人間はそうはいないだろう。
姿かたちだけの話じゃない。
生きているということは、変わることと無縁ではいられない。たとえ心だけの生だったとしても。
――多くのものを見た。
輝かしいものがあった。凄惨なものがあった。友達と呼んだ人がいた。憎いと思える人がいた。
その全てが私の前から去っていき、けれど私の中に今も残っている。積もり、風に吹かれ、波にさらわれ、摩耗して。それでも積み重なっていく地層の様に、
だから、私はかぐやじゃない。
かぐやだった時間はとっくの昔に終わっていたのだ。
それでも、彼女が私の向こう側に見るのがかぐやなのであれば。
私に出来ることが一つある。一つしか、ない。
「ヤチヨ。ちょっといい?」
私の名前が呼ばれる。
少しだけ硬い声音に、その時が来たのだと悟った。私たちがもっと早くに話すべきだったことを、話しあう時が。
「んー?勿論だよ。どうしたどうしたー?」
笑顔を作り、声を張る。
たとえこの先がどんな結末だったとしても、それを寂しいものだとは思ってほしくない。
人の何倍も何倍も頑張った彼女の行く先は、手放しのハッピーエンド以外あってはいけないのだから。
だけど
「これ、見て欲しい」
彩葉が差し出したものは、私の予想したどんな展開とも違っていた。
ツクヨミ上、私の手元に浮かび上がってきたのはいくつかの画像データだった。
少し細まった眼。
色素の薄い肌。
それよりもなお、白い髪。
記載された文字にはYC型とある。
足の色を除けば、あるいは鏡映しにさえ見えたかもしれない。
「これはヤチヨのためのアバターボディ。かぐやのための物とは違う、ヤチヨのための」
彩葉の声がどこか遠くに響く。
私は、揺れてしまった。
「ごめん、もっと早くにきちんと言うべきだった。色々考えてて、でも全部言い訳になる」
分かってるよ、と言おうとした。
かぐやの体を作り始める時、私に何か言おうとして言えなかったこととか。
私を見る時、かぐやと同じところ、かぐやと違うところをつい探してしまって、それを悟らせまいとしていた事とか。
ちゃんと私たちの事考えてくれてたの、知ってたよ。
そういう事を、軽く、明るく、ちょっと茶化したりして言おうって思ってたのに。
喉が重い。まるで窒息するかのように締まって動かない。
「私は、ヤチヨとかぐやのことを違う人だって思ってる」
そうだ、違う。
それは知っている。私自身がそう思っている。
彩葉がそう思っているってことを知っている。
彩葉は普段私のことを、かぐやとは呼ばないから。
だから私はそれでいいと思った。
彼女のエンディングに
「そのあたり、ずっと曖昧にしてた。どうしたいのか本当は最初から決まってたのに、言わなかった。こんなの我儘だって、欲張りだって、身勝手だって嫌われるのが怖かった」
彩葉はどれだけ欲張りになってもいいと言ってあげたかった。
だって、それだけのことをしてくれたから。
私は、私たちは、彩葉がいなければ生まれてくることさえ出来なかったのだ。
「それでも。私は二人ともにいて欲しい。二人の傍に私が居たい」
「――無理だよ」
ようやく動いた口に、しかし。
しまったと思う。
いつか来る会話を、どう切り出されだとしても笑顔で結ぶことが出来るという自信があった。
ヤチヨはかぐやじゃないって。かぐやに会いたいんだ、って。
どんな風に優しく切り出されたとしても、泣かずに笑える自信があった。
彩葉に影を落とさないために、私は上手くやると決めていた。
けれどきっとかぐやなら、待ったりなんかせず自分から切り出していただろう。それこそとっくの昔に。
こんな部分ですら、私とかぐやは違うんだって念押しされてしまう。
だから、無理なのだ。
「無理だよ、彩葉。私はもうかぐやとは違っちゃったし、たぶん真似すら上手くできないよ。分身体を作ることが出来ても、きっとヘタクソなかぐやのマネっこになるだけだからさ」
分身体は結局のところ、ただ一人の月見ヤチヨから分かれたものに過ぎない。複製ではなく分割。
月見ヤチヨが
「でも。
……ああ、最悪だ。こんな言い方で彩葉が笑えるはずなんてないのわかってる。こんな風には終わりたくなくて、色んな受け答えを考えていたはずなのに。
『みんな抑えてもいるんだよね、自分の気持ち』
ごめん、
あの時感じた気持ち、ずっと覚えていたのに。8000年あってもみんなみたいには上手に出来なかった。
それでも、もっと大事なもののために、私は。
「そうすればヤチヨはかぐやに戻れるからさ。だからかぐやを連れてってあげて」
彩葉のハッピーエンドに、と。
せめて声だけは揺らさずに言えただろうか。
俯きはしない。
笑顔に見えるよう目だけ閉じて、彩葉の顔を見ないようにした。
彩葉がこんな時、どんな顔するかくらい分かるよ。ずっとずっと見てたんだから。
瞼を閉じても彼女の顔が見える気がする。生まれて初めて、今だけは彼女の顔を見たくないとさえ思った。
それでもせめて声だけは聞かなければいけない。
それは、上手に出来なかった私の責任だ。
声を待つ。
一拍、二拍、三拍。
僅かに息を吸う音が聞こえる。
どんな言葉だろうともう揺れたりしない。
楽しくて、余裕があって、もう十分に幸せ過ぎた私。
エンディングまでそんな
彩葉は息を吸い、そして。
「一つだけ、他に方法があるよね」
右手を掲げる。
微かに玲瓏な音を鳴らしたその腕には、かつて送った腕輪が嵌められている。
あの日からずっと、彼女が肌身離さなかった腕輪が。
「ヤチヨの魂とかぐやの魂を分けられたなら」
――たとえそのルートに、どれだけの時間がかかったとしても。
どんな言葉だろうともう揺れたりしない、そう思ったのに。
今度こそ私は、どうしようもなく失敗したのだ。
◇◇◇◇◇◇
出会った頃のアパート――仮想だが――で再会したあの日。
私はFUSHIの助けを借りて、彼女の8000年を垣間見た。
それは何十万分の一、何百万分の一にも圧縮されたものであり、それでさえ私の心はその全てを余さず受け止めることはできなかった。
欠損だらけの記憶だが、それでも彼女に関する幾つかの事を私は覚えている。
彼女の孤独、出会った人たち、得たもの、失ったもの。
そして、彼女が8000年間挑んだ月の技術、その幾ばくか。
月に帰ったかぐやは宇宙船に乗って再度地球に向かい、そして事故にあった。
宇宙船『もと光る竹』は月の技術の塊だ。
時々忘れそうになるが、かぐや自身も高度なテクノロジーを駆使出来る。なにせ冗談半分とは言え、ウォレットを改ざんしかねなかったくらいだ。
とはいえ、そんなかぐやでも宇宙船は解析も修復もしきれなかった。
それはそうだ。仮に私が100年前にタイムスリップしたのであれば、私の知識はその時代の人たちよりも100年分進んでいる。持っているスマホで音楽を流すことだって出来るだろう。
だからといってスマホを作ることは出来ないし、壊れたスマホを直すことだって無理だ。
僅かに生き残った機能をFUSHIを介して利用することは出来る。
私自身が体験したように記憶を相手に共有したり、あるいは消去したり。
だがそこまでだった。
壊れた宇宙船に出来ることはそれが限界、彼女はそう判断した。
しかしこの世界にはもう一つ、オーパーツが存在する。
8000年前の時点では存在しなかったもの。
だけど2030年に持ち込まれ、それ以降壊れも失われもせずに残り続けるものがある。
ソレは私の右手に嵌っている。
この腕輪は、言うなれば宇宙船から宙を飛ぶ機能をオミットしたものだ。
より正確には、月のインフラと接続することで宇宙船が持っていた機能群を呼び出すためのコンソール、それがこの腕輪の本質だ。
月から地球に降りたかぐや姫はいずれ月人が乗ってきた車に乗って共に去っていく。
その帰り道に宙を行く船は必要ない。
だがかぐや姫に何かあった時のために彼女を護り、助けるものがある。
それがこの腕輪だ。
月との通信や、幾つかの機能。記憶や魂そのものを保護し、操作する機能もある。
それが彼女の知る腕輪の全て。月の技術はこれ以上解析も再現も出来ない。
それが、彼女の8000年における結論だった。
「……簡単だなんて、勿論思ってはないんだけどね」
帰宅後、ヤチヨの部屋の前に立っている。
部屋に鍵がかかっているわけではない。そも、今この部屋の中にヤチヨはいない。
彼女はツクヨミに閉じこもってしまった。
私の決断は、それほどまで彼女にとって受け入れがたいものだったらしい。
間違えたのだろうか。
何を間違えたのか、あまりに多くの心当たりがあってどれの事かさえよく分からない。
けれど一つ確かなことがある。
「後悔は、してないや」
我儘だと、欲張りだと、自分勝手だと自覚はある。無茶で無謀かもしれない。
それでも一度定めた気持ちは、僅かなりとも揺れていなかった。
待つしかないか。
天岩戸の前に立つ心持ちでそう呟く。
隠れたのは
それにしても。
「ヤチヨと喧嘩したの、初めてだな」
それは、そんなに悪い気分ではなかった。
◇◇◇◇◇◇
独り、抱えた膝の隙間から床を見ている。
ツクヨミに作った自分の部屋、いつもは明け放している襖も全て閉じ切っている。
怒っているわけでも、拗ねているわけでもない。
それでも今は彩葉に会いたくなかった。
彼女に会いたくないなんてこと、これが初めて――ではない。
かぐやが去った後にも一度、私は彼女から逃げた。合わせる顔がなかった。
ごめんなさい、とそう思った。あの時も、そして今も。
『ヤチヨの魂とかぐやの魂を分ける』
彩葉は、腕輪の機能に解決を求めた。
私とかぐやを分け、同時に存在させることも可能なはずだ、と。
その推測はおそらく正しい。
私とかぐやが今同時に存在出来ないのは、宇宙船からその機能が失われているからだ。
壊れかけの船では魂を分割することは出来ても複製をすることは出来ない。結果出来るのは、あくまで私の模倣をする分身体でしかない。
だが傷一つない腕輪の機能を解析し、利用することが出来たなら魂の複製すら叶うだろう。
地上に降りたかぐや姫にたとえ不測の事態が起きたとしても、その魂を保護するための機能があの腕輪には備わっている。
けれど、私は8000年を費やしてなお月の技術に届くことは出来なかった。
彩葉が凄い人だってことは私が一番知っている。
けれどその彼女を以てしても、文字通り異次元にある月の技術は遠すぎて、人の一生は短すぎる。
100年、いや100年が200年になり300年になったとして、人が月に届くことはないだろう。
けれど彩葉は一生を費やして、それに向かおうとしている。
これまでのように、頑張りすぎるほどに頑張って。他ならぬ私のために。
私はそれが許せない。
彼女の幸せに影を落とす私自身が許せず、申し訳なく思う。
彩葉の隣にかぐやがいれば、それが彼女のハッピーエンドだったはずなのに。
だから彼女を説得しようとしてそれすらうまく出来ず、こうして膝を抱えている。
何もかもうまくいかない。
……私はただ、彩葉に幸せになって欲しいだけなのに。
私はまた何かを間違えているんだろうか。
鬱々と沈んでいく意識の中、どれくらいそうしていただろうか。
ふとメッセージの着信があった。
芦花からだった。
◇◇◇◇◇◇
ちょっと相談したいことあるんだけど、という芦花のメッセージ。
芦花や真美と彩葉抜きで話す機会は、実のところあまり多くない。
これはひとえに私に原因があるのだが、その芦花からこのタイミングで連絡が来る事に少し疑問を感じて、そう感じたことに自己嫌悪を覚えた。大事な友達なのに。
いつも通りの自分を意識して演じつつ、返信。
いつでもいいよ、というメッセージにはすぐに既読がつき「5分後にここで」ということになった。
芦花にだけ部屋の入出権限を付与し、待つこときっかり5分。芦花がやって来た。
「ごめんねー、こんな時間に」
「全然いいよ!映画どうだった?」
映画の感想とか、最近の仕事がとか、簡単な近況を暫く聞いた後、本題を促す。
「それで、相談事って?」
芦花の顔を見るが、何か困っていたり心配事があるようには見えない。
どちらかというとこちらを気遣うような、そんな彼女の優しさが漏れ出ているような表情だった。
彼女は少し逡巡した後
「ヤチヨが元気かな、って思って」
そう答えた。
「……彩葉に何か聞いた?」
彩葉に頼まれて様子を見に来たのだろうか。
そう思ったのだが、彼女の表情には訝しさが浮かんでいた。
「……違った?」
「うん、別に彩葉からは何も。なにかあったんだ?」
なんと答えたものだろうか、そう迷っていると芦花の方から言葉が続けられた。
「私は、ヤチヨがここんとこどこか遠慮しているように見えたのが気になったから、かな」
聞くに、芦花は今日研究所を訪れた時に、だけではなくKG型のアバターボディを彩葉と共にデザインしている時から私の様子を気にかけていたらしい。
自分では隠し事もだいぶ上手くなったつもりだったのだけれど、そうでもなかったのだろうか。
いや、これは芦花が特別聡いのだろう。彼女は昔から人の機微や距離感を図るのが上手かった。
しかしどこまで話したものか。
私と彩葉二人だけの問題と言う気はない。
芦花だけではなく、沢山の人が私たちのために手を貸してくれている。ずっと心を砕いてくれているのだと知っている。
けれど私の気持ちは口に出すべきものなのだろうか。
そんな私の沈黙を気にする風でもなく、私はさ、と芦花が話し始めた。
「……私はさ、大事な人が悩んでたり大変だったりするのに気づくことは出来ても、踏み込むことが上手くできなくて。
でもやっぱり、そういうのって寂しいなって後から思っちゃうんだ。私が居なくても、余計なおせっかいをしなくてもうまく行くのだとしてもさ。
私は、私がしたいと思ったことを、踏み込みたいと思った相手のことを、もっと知りたいって」
私ももう大人だからね、とはにかむような表情で彼女は締めた。
当たり前だけれど、彩葉も芦花も皆が成長し変わっていっている。
私は自分が変わってしまったことをどこか悪いことの様に思っていたけれど、本来変わるのは当たり前で、良いことでも悪いことでもないんだ。
そんな当たり前のことを――元から大人びていたけれど――大人になった芦花の言葉に思う。
余分なことは考えず素直に相談してみよう。愚痴だって吐いてみよう。ただ友達にそうしたいから。そう、思った。
「何から話そうかなあ……。ちょっと長くなるんだけど、聞いてくれる?」
私からの問いに彼女は、勿論と頷く。それを聞いた私も、きっと彼女と同じくらい自然に笑えていたはずだ。
そうして、私は話始めた。
彩葉が、彼女の人生さえ賭けた高すぎるゴールに向かおうとしていること。
彼女の幸せの邪魔になりたくないこと。私はかぐやじゃないこと。
そしてもう一つ、私がずっと悩み、負い目に思っていること。
それなり以上に長くなってしまった話だったけど、最後まで遮らず聞いた芦花は一つだけ尋ねてきた。
答えたくなかったらいいんだけど、と前置きされた上で聞かれたのはシンプルな疑問。
「ヤチヨは、どれくらい私たちとのこと覚えてるの?」
私たちとのこととは、月見ヤチヨとして彼女たちと過ごした時間の事ではないだろう。
それはきっと、ここ何年も彼女たちが聞きたくて、けれど聞かないようにしていた事なのだと思う。
芦花の声には少しの緊張と、どんな答えでも受け入れるような穏やかさが混在していた。
その気づかいに誠実であろうと、私は正直に、ありのままを伝えることにした。
「全部覚えてるよ」
「パンケーキ食べたこと、一緒に海に行ったこと、ゲームを教えてくれたこと、メイクもしてくれたし、一緒に制服で遊びにいったりもしたよね」
全部覚えてる。けど。
「でも私にはずっと遠い昔のことで、確かにあったことだって知っているのに、本当にあったことなのか時々自信がなくなるんだ。あれは本当に私の思い出だったのかなって」
長い時間の中で忘れないように何回も再生した想い出は、古いテープが擦り切れるように細かな部分がノイズ塗れになっていた。
あの時私は確かにいたんだろうか。
そういう思い出があってほしいと寂しさの中で産み出した幻じゃないんだろうか。
何度も不安に思ううちに、ますます想い出は確かさを失っていった。
「それに、沢山の人と出会ったり分かれたりを繰り返す中で、色んな思い出が増えていっていつの間にか混ざっていっちゃう。一生忘れられないと思ったはずの光景さえ、いつの間にか曖昧になってるんだよ」
沢山の人に出会った。
芦花に似てる人もいた、真美を思わせる人もいた、他の誰とも似ていない人もいた。
その中で交わした会話が、1000年前だったか、8000年前より更に前だったか、あるいは本当はなかったのか時に朧気だ。
私の魂は限りなくデジタルで、どれだけ記憶が溢れかえっても本当の意味で忘れることはない。
けれどあまりに長くなりすぎた記憶はその整理を難しくしている。
詰まるところ私の8000年が、私が人として生きることへの障害となり、私が私のままかぐやに戻ることを不可能にしている。
芦花はそっか、と短く頷いて
「ヤチヨには大事な思い出が沢山出来たんだね」
と呟いた。
「そうだね。――本当に、そうなんだ」
思い出したくないような悲しいこともあった。楽しかったはずなのにもうはっきりと思い出せないこともあった。
それら全部ひっくるめて私の8000年、消してしまいたいものなんかじゃなかった。
けれど、それと天秤にかけてもなお、もっと大事な人が確かにいる。
……なんだけどなあ。
「私は大事な思い出が沢山になりすぎちゃって、上手く気持ち、隠せなくなっちゃったのかも」
もっと大事なもののために、隠せる自分になりたかった。みんなの様に。
上手くいかないなあという自分に対する落胆だけがある。
悲しいわけではないはずなのに、気付けば視界は滲んでいた。
そうしていると、芦花の手に頭を撫でられた。誰かに撫でられるのはいつぶりだろう。
「誰かのためとか、何かのためとか。色んな気持ち隠して、飲み込んだりすることあるよね」
小さく、私も、と付け足す声。
「でもそうやって隠した気持ちが、相手にとっての大事なものだってことだってあるのかも知れないね」
だから踏み込んでみて。
きっと上手くいくはずだから。
そうして、頭を撫でていた手にそっと背中を押される。
この岩戸から、明るい方へ連れ出すように。
◇◇◇◇◇◇
スマホにメッセージ着信の通知が来る。
目に入った時計はちょうど日付が変わった事を知らせてくる。
一度も忘れたことのない、かぐやが月に帰った日。その日がちょうど終わったらしい。
奇しくも、今日の空にはあの日と同じ満月が浮かぶ。
もしも空に浮かぶ月がかぐやの帰った場所と同じだったならば、今日は一番かぐやとの距離が近い日だ。
スマホには、ツクヨミに来て欲しいというヤチヨからのメッセージが表示されていた。
目の前にあるヤチヨの部屋の扉に手をかけ、スマートコンタクトを起動する。
暗転の後、光に引っ張られるように浮遊していき、現実から
そうして数瞬。目を開くと行燈の優しい光が飛び込んできた。ヤチヨの部屋だ。
「こんばんは、彩葉」
迎えてくれたヤチヨはいつものように優しい笑顔だった。
ツクヨミにおける私のアバターには、完全な形ではないが触覚が再現されている。
だが直接触れたオブジェクトから暖かさを感じることは出来てもそれ以外、たとえば部屋の中の熱の名残みたいなものまではまだ感じ取ることが出来ない。
なのだが。なぜかヤチヨの部屋にはさっきまで誰かがいたような、人の暖かさが残っているような気がした。
ちょっとした錯覚に首を傾げていると
「さっきはごめんね。彩葉が一生懸命考えてくれてるの分かってたのに、私、困らせちゃったよね」
頭を下げられる。
「いや……、ヤチヨは悪くない。私が――」
悪い、と思わず言いかけて止まる。
大事な話を後回しにしたこと、ヤチヨの気持ちを分かりきれていないこと、我儘な私の願い、申し訳ないと思うことは沢山ある。
けれど私の気持ち、私の決断は何一つ変わっていない。であれば、ここで謝るのはきっと違うだろう。
伏せた頭を上げたヤチヨの目は、まっすぐにこちらを見ていた。
「私は、彩葉が私たちのことを考えてくれているのが嬉しい。本当に幸せだって思う」
その言葉はただの優しさや感謝ではなく、その裏にある強い意思を思わせるような明瞭な響きを伴っていた。
「彩葉が凄いことを私は知ってる。きっと誰よりも私が。私に出来なくても、誰に出来なくても、彩葉ならいつかどんなことだって実現出来ちゃうかもしれない」
けれど、と一度言葉を切って彼女は続ける。
「それでも月の技術に届くには100年、200年でもきっと足りない。たとえそうじゃなくても、彩葉のこれからの人生を大きく奪うことになる。
――かぐやとの時間を失うことになる」
かぐやとやりたいこと、かぐやと行きたい場所、二人での人生。
手が届くはずのハッピーエンドを拒絶して、その更に先を目指そうとすれば、どこにもたどり着けないまま打ちきりエンドになるかもしれない、とヤチヨが言う。
「だから彩葉にはかぐやを、かぐやだけを選んで欲しい。私の記憶を消して、私じゃなくかぐやを迎えてあげて欲しい」
そう告げるヤチヨの声は、欠片も震えていなかった。
怒るところだろうか、泣くところだろうか。
一瞬だけそう考えた後、その考えを打ち消す。
怒ったり泣いたり、そんなの意識して選択するようなことじゃない。
ヤチヨは自分の気持ちを明確に伝えてくれた。であれば私がやることは、自分の気持ちをきちんと口にして、お互いの合意点を見つけることだ。
「ヤチヨが私のために言ってくれてるって分かる。けど、それは受け入れらない。それは、私の目指したいハッピーエンドじゃない」
自分の意思を明確に形にする。思えば私とヤチヨの間に喧嘩や衝突はなかった。推しだったから、というのもある。
それ以上に私はヤチヨに、ヤチヨは私にどこか遠慮をしていた。
ヤチヨとかぐやが同じじゃないということにお互いがどこか引け目を感じていた。
そこから目を逸らしたまま、ただお互いを一生懸命大事にしていた。
「私はかぐやに会いたい。沢山かぐやとしたいことがある。
けれどヤチヨとだってそうだよ。私、ヤチヨとまだ全然思い出作れてない。ヤチヨとしたいこと、何にも出来てない。
私のハッピーエンドには私と、かぐやと、ヤチヨの全員がいないとダメなんだ。一人でもいなかったら、そんなの私は受け入れられない」
彼女の提示した懸念点、どう実現するのかの方法論、なにも答えられていないただの願望であり我儘だ。
試験なら0点の回答だ。
けれど、これが私にとって何一つ偽りない気持ちだった。
「私のためじゃない、ヤチヨの、ヤチヨ自身が幸せになる方法を一緒に考えさせてよ」
本当に身勝手だな、とつくづく思う。
怒られても仕方ない、とも思ったけれどヤチヨは怒りはしなかった。
ただ、ほんの少しだけ寂しそうに眉をひそめた。
息を吸う音がした。静かな部屋の中長い呼吸音が続き、止まる。
そして
「ヤチヨはあの日から、ううん、その前からずっと心残りがあったんだ。
あの日、かぐやが月に帰ることを知ってた。彩葉たちが頑張っても結果が変わらないって知ってた。
――かぐやがもう一度地球に来ようとして失敗すること、ずっと寂しい思いをするって知ってたのに止めなかった」
吐き出されたのは、彼女の告解だった。
「運命ってそういうものなんだって、私たちはその輪から外れることが出来ないって分かっていた。けど彩葉に、かぐやに、皆に伝えれば何か変わる可能性は0じゃなかったかもしれない。
例え変わらなくても選ぶことは出来た。
それを私は、きっとこれが一番のエンディングのはず、って思って誰にも言わず選ばせなかった。選ぶことを、奪った」
ヤチヨは、かつて問うたかぐやの居場所を「今も輪廻の中にいる」と言っていた。
かぐやがやがてヤチヨになり、そしてまたかぐやと出会うというなら、ヤチヨは全てを知っていたなんてのは当然のことだ。
「かぐやに何も言ってあげられなかった。犬DOGEにも。彩葉にも、皆にも。だからその分私は、かぐやと彩葉にこの続きを見て欲しい」
それが私の幸せなんだよ。
そう言ったヤチヨは、本当だと念押すように笑っていた。
「それにね、彩葉たちがいつか居なくなっても私の時間は続いていく。
今度はもうどれだけ待っても彩葉たちと再会出来ない、私だけの時間が。
きっとそれさえもそんなに長い時間じゃないと思うけどね」
私はきっと、あと200年もしたら眠りっぱなしになっちゃうから、と。
「お願いだよ、彩葉。どうかハッピーエンドに連れて行って。私のこの気持ちも」
ヤチヨが感じていた負い目。
いずれ一人残されるヤチヨ。
私では届かない、遥か彼方の技術。
「私は――」
私は、この問いに対する回答を持っていなかった。
解決策がない。思いつきもしない。
もっとも頼れる眼前の彼女が、それは無理だと宣告している。
必死に走ってきたつもりだったのに、私の努力も時間も月に届くにはまるで足りていない。
それほどまでに彼女の8000年は遠くて、重い。
いま、私の目の前に三つの選択肢がある。
一つは、ヤチヨの言う通りかぐやだけの手を取ること。
もう一つは、かぐやを諦める事。
そして最後に、ただひたすらゴールに向かって走り続ける事。
そうすればきっと、いつか叶うかもしれない夢が追えるだろう。
かぐやと再会し、ヤチヨとも一緒に居続けられる。
私がいずれ去るその時までは、そんな夢を見続けられる。
目の前にヤチヨがいる。
かぐやに似ているけど、かぐやではない。
私を救ってくれた人。私を待っていてくれた人。
私の、大事な人。
3つの選択肢。私が選ぶのは――。
◇◇◇◇◇◇
さて。遠い昔話はこんなところで。
その後は、それはもう色々あったとさ。
復活ライブもした。海も行ったし、温泉も行った。富士山にだって上った。
綺麗な日の出で終わっておけばよかったのに、山を下りたその足で直行した喫茶店での事、かぐやはパンケーキの食べすぎでやらかした結果、彩葉にガチ説教されるし。
やらかしの内容は割愛。
100年の恋も冷める、なんてならなくてよかったねほんと。
ああ、本当に。
夢のような日々だった。
毎日ふわふわな夢身心地で、甘く、幸せだった。
8000年にだって吊り合うくらいギュウギュウに、宝箱を詰め込んだような日々。
名残惜しくはあるけれどそろそろ想い出からは覚める時間だ。
ふと手元に目を落とせばカップは空になっていた。
喉はもう十分に潤っていたけれど、新しくお湯を沸かそうかな。
だって。
「ただいま―。ハーブティー?いい匂いだね」
「おかえりイロハ。今新しいの淹れるよ」
―――そろそろ彼女が帰ってくる頃だから。
こと、彼女の事に関しては私の読みは完璧だ。
イロハのことくらいなんだってわかってるよ、なんてね。