薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
コラボイベント「安らかな譫言」非公式続編
BanG Dream! It's MyGO!!!!! / Ave Mujica の履修を前提としています。
アークナイツ本編は未読でも読めるよう書いていますが、第9章「暴風眺望」以降を履修済みだとより深く楽しめます。
※戦闘・負傷・Ave Mujicaメンバー以外の死亡描写があります。
◇前日譚:アークナイツ × BanG Dream! Ave Mujica コラボイベント「安らかな譫言」
交差点の信号で、Ave Mujicaの五人はテラに迷い込んだ。
五人は妖精モーフィアスによって「夢のお城」に囚われる。それぞれが望む完璧な夢——にゃむは大人気タレント、海鈴は孤高のヒットマン、初華は大切な人を待つ別荘管理人、睦は優しい母のいる穏やかな暮らし。祥子は四人の夢に飛び込んで全員に拒まれ、自らも亡き母が生きている夢に落ちた。
母に別れを告げて覚醒した祥子は、ピアノのアーツで四人の心に語りかけ、全員を連れ戻した。
夢から覚めた五人は、元の世界に帰る方法が見つかるまで、製薬会社にして傭兵組織「ロドス・アイランド」のオペレーターとして生きていくことを選んだ。
第1話「簡単な任務」
フロントガラスの向こうが、白く光った。
腹の底を殴りつけられたような衝撃のあと、世界がまるごとひっくり返った。
シートベルトが鎖骨に食い込んで、全体重がそこにぶら下がっていた。砕けたガラスの粒が頬を擦った。
輸送車両の助手席で、豊川祥子は逆さまに吊られていた。
敵襲だった。
耳の奥でキーン、という音が鳴っている。
音という音が、水の底を通したように遠い。
砕けたガラス片が頭の下に散らばって、暗い車内で鈍く光っていた。
右隣の運転席には、先任オペレーターのマルゴがいた、はずだった。
運転席の右半分が、外側から赤黒く焼け落ちている。ハンドルのフレームが飴のように歪んで、シートの合皮が泡立って溶けて、金属骨格が露出していた。マルゴの右腕があったはずの場所に、焦げた布の切れ端と白いものが見えた。骨だ。肘から先が炭化して、フェリーンの耳のあいだの毛皮だけが不自然に残り、くすぶっている。
甘く香ばしい匂いがした。
人肉の焦げた匂いだった。
視界の隅に、茶色い紙袋が転がっていた。中身がはみ出している。バノフィーパイ。ジェニーのパイだ。タフィーの甘さと、鉄と、焦げた肉の匂いが鼻腔の奥で重なって、やがて区別がつかなくなった。
胃液が喉元までせり上がった。息が上がる。呼吸が上手くできない。
指先が震えている。バックルを探しているのに、指が金具を掴めない。何度やっても滑る。
後部座席から声が響く。にゃむが叫んでいる。初華が名前を呼んでいる。睦は——海鈴は——。
口を開いた。声が出ない。喉が痙攣するだけだった。
——指揮を。わたくしが。
声が出ない。
鉄と甘い匂いの中で、祥子の手だけが震えていた。
***
二日前、ロドス本艦。
ブリーフィングルームの天井は低い。排気口から微かに油の匂いが降りてくる。テラに来てひと月。この油じみた空気に、祥子の鼻はもう反応しなくなっていた。長机の向こうで、教官のウィスラッシュが地図を広げた。ヴィクトリア南東部。等高線がまばらに散る平坦な農地に、赤いマーカーで小さな円がひとつ。数センチ四方の領域を赤で囲んだだけの簡素なマーキングで、それがヒロックという町だった。
「ヒロック郡。農業と軽工業が主産業の中型移動都市。ロドスの事務所がある。何もない田舎ね」
ウィスラッシュの指先が地図をなぞる。
「任務は定期補給物資の輸送。医薬品、食料、通信機器。車両一台、先任オペレーターを一人つける。往路一日、現地半日、復路一日。二日半で帰ってきなさい。個人携行品は教練規定通り。サバイバルナイフ、救急パック、発煙筒。それ以外は持たなくていいわ」
祥子は地図に目を落としていた。ルート上の起伏は少ない。川を二本渡る以外は農道が続く。頭の中で座席配置と見張りのシフトが組み上がっていく。教練で叩き込まれた手順が、鍵盤を押す指のように、勝手に動く。
「簡単な任務よ。だからこそ、教練の基本を一つ残らず実行しなさい。無線プロトコル、遭遇時の規範。手順をひとつでも省略したら——」
「鞭が飛んでくるやつだ」
にゃむが小声で呟いた。
「聞こえてるわよ、祐天寺」
にゃむが首をすくめた。が、口元は笑っている。怒られ慣れた子どもの顔だ。ウィスラッシュも口の端が動きかけたが、すぐに戻した。
「事務所にはOutcastが着任してるわ。ロドスのエリートオペレーターよ。何かあったら彼女の指示に従いなさい」
一拍置いて。
「——それと。ヒロック郡は今、少しきな臭い。ターラー系住民と駐屯軍の折り合いが悪いの。駐屯軍とは距離を取る。現地住民にも深入りしない。荷物を届けて、確認を取って、帰ってくる。それだけ。わかった?」
祥子は頷いた。「きな臭い」が対処項目に変換された。駐屯軍との接触手順。住民対応の範囲。リスクは把握した。手順でリスクは回避できる。
「サキコ、張り切りすぎじゃない?」
にゃむが覗き込んだ。祥子のメモ帳には、もう座席配置図とシフト表が書き上がっている。先任オペレーターの隣、助手席に自分。後部座席に海鈴、にゃむ、睦。初華は後部の荷台側。見張りは二時間交代。無線チェックは一時間ごと。
「当然ですわ」
祥子はペンを置いた。
「わたくしたちの、初めての外勤任務ですもの」
口にした瞬間、胸の内側がぴんと張った。鍵盤を押して、正しい音が鳴ったときの手応え。あの夢のお城で、四人の夢に入って、拒まれて、それでも全員を連れ戻した。あのとき掴んだものは本物だった。夢のルールに助けられたのは事実だ。だからこそ教練を積んだ。現実のルールで同じことが「できる」と証明するために。
にゃむが「はいはい」と笑った。隣で海鈴が戦術端末の画面を指で叩いている。補給リストのチェック項目が並んでいた。覗き込もうとしたら、海鈴が端末を僅かに傾けて隠した。いつもの距離感だった。
初華が祥子の顔をちらりと見て、嬉しそうに目を細めた。小さく頷く。さきちゃんが大丈夫って言うなら大丈夫、という顔だった。
睦は、ビニール袋を持っていた。
「ムーコ、何それ」
にゃむが身を乗り出した。
「……おみやげ」
「誰に?」
「……事務所の人」
「へー、ムーコそういうのやるんだ」
感心でも冷やかしでもない声だった。睦は何も答えなかった。袋の中にきゅうりの種が詰まっている。丁寧に数えて分けたのだろう。
ウィスラッシュが腕を組んで五人を見ていた。教官の顔の奥に、一瞬だけ別のものが見えた気がした。目が少し細くなって、それから何かを堪えるように口を引き結ぶ。祥子にはそれが何なのか、わからなかった。
***
車両の振動が、腰骨に響いている。
ロドスの輸送車両は六輪駆動のトラックで、正式名称を知る者はおそらく整備部にしかいない。ロドスのオペレーターの間では、単に「箱」などと呼ばれていた。箱の助手席に座ると、フロントガラスの下端がちょうど祥子の目の高さに来る。座面の調整機構は壊れていて、何かの工具で固定したまま放置されている。
支給されている野戦服は灰白色の防刃ジャケットに同色のカーゴパンツ、膝下までのタクティカルブーツ。ナイフや発煙筒を収める腰のポーチベルトのみ。教練規定の最低装備だ。ジャケットの左襟に縫い付けられた小さな所属標識だけが、AveMujicaの五人をロドスのオペレーターだと証明している。助手席のシートベルトが防刃繊維の上を滑る感触に、祥子はまだ慣れていなかった。
助手席の窓を、ヴィクトリアの冬枯れの農地が流れていた。灰色の空。刈り取られた麦の切り株が畑一面に残り、その合間に黄色い雑草の穂が揺れている。石垣で仕切られた牧草地に、羊が四、五頭固まっていた。冬毛で丸く膨らんだ体が、遠目には灰色の石ころに見えた。
空気が違う。ロドス本艦の油と金属と消毒液の匂いではない。土。枯草。石垣の苔。それらに混ざって鉄と硫黄を薄めたような匂いがある。源石だ。テラの大地にはどこにでも源石が息をしている。
ハンドルを握るマルゴの猫科の耳が、時折ぴくりと動く。フェリーンの女性突撃兵。右目の下に古い刀傷がある。戦闘歴は長く、歳は祥子たちの倍近い。祥子が「次の分岐を左」と言えば「了解」とだけ返して黙る。最初は間を埋めなければと思ったが、途中でやめた。沈黙を不快に思わないタイプの人間だ。運転中のマルゴの片腕は常にハンドルの十時の位置にあり、もう片腕はギアレバーのそばで微かに浮いている。いつでも腰の武器に届く位置。これも癖なのだろう。
「ロドス本艦通信室、こちらAM小隊、定時連絡。時刻一四三〇。現在ルートA−7、第三チェックポイント通過。車両状態良好、人員異常なし。次回連絡一五三〇。受信確認を」
後部座席から海鈴の声が聞こえた。通信機のPTTボタンを押し、復唱を待ち、周波数を戻す。一連の動作に淀みがない。教練で教わった手順を違わず実行している。正確で、冷静で、完璧。で、その正確さの中に体温がない。海鈴はいつもそうだった。求められたことを求められた精度でこなし、それ以上は出さない。まるで業務用の計測器みたいなオペレーターだと、マルゴあたりは思っているかもしれなかった。
にゃむが窓に肘をついていた。右手の人差し指と親指でフレームを切っている。
「なんかこの景色、ピーターラビットみたいじゃない?」
祥子は窓の外に視線を戻した。灰色の石垣。もこもこの羊。なだらかな丘の稜線に一本だけ立つ痩せた木。確かに、ビアトリクス・ポターの水彩画みたいだった。どこかにマグレガーさんの畑がありそうな景色だった。
「……確かに」
「え、サキコわかるの?」
「母が好きでしたの」
言ってから、口をつぐんだ。母のことは話さないと決めている。夢の中で再会し、別れを告げた母のことは、自分の胸の中に仕舞っておくと決めていたのだ。
にゃむは「へー」と言って、窓に息を吹きかけた。指で兎の絵を描いている。にゃむ本人は満足そうだったが、どう見てもネズミだった。
マルゴの耳が動いた。ハンドルを握ったまま、口を開いた。
「ここの農地の石垣はな、羊が越えられない高さに積んである。千年も前から同じ積み方だ」
祥子はマルゴを見た。喋ったのは「了解」以外では初めてだった。
「悪くない土地だよ」
それきり黙った。
「マルゴさんが喋った!」
にゃむが身を乗り出した。マルゴは答えなかった。耳だけがぴくりと動いて、また前を向いた。だが祥子は、マルゴの口の端が一瞬だけ動いたのを見ていた。笑ったのかどうかは断定できない。
「ロドスに帰ったらさー、次どっかに停泊したとき、五人で街に食べに行かない?」
にゃむが話題を変えた。
「外出許可が必要ですよ」
海鈴が即座に言った。
「ウミコ、そういうとこー」
「事実を申し上げただけですが」
「じゃあ許可もらえたら行くってことで、いい?」
「構いませんよ」
にゃむが「やったー!」と言った。祥子が振り返ると、海鈴が通信機を膝に置いたまま窓の外を見ている。その横顔の端に、ほんのわずかな、緩みとは呼べない、けれど硬さが一瞬だけ抜けたような何かがあった。にゃむのペースに巻き込まれたことに気づいていないのか、気づいた上で放置しているのか。きっと後者だろうと祥子は思う。
後部座席の奥。荷台寄りの席で、睦が後方の窓を見ていた。
「ムーコ寝てる?」
にゃむが覗き込んだ。
「……起きてる」
「見張り当番だもんねー。何か見える?」
「……羊」
「それはわかるー」
にゃむが笑った。睦の口が動いた気がする。笑ったのかどうかは断定できない。睦の表情の変化は、遠くの星の等級の違いを肉眼で見分けるようなもので、観測できたかどうかは観測者の思い込みによるところが大きい。
初華は荷台に近い位置で、クロスボウの弦を調べていた。ウィスラッシュ教官から支給されたクロスボウは、ロドスの標準装備から二回り小さい軽量型で、初華の体格に合わせて調整してある。弦のテンションを指で確かめ、照準器の歪みがないか光に透かす。一つ一つの動作が丁寧で迷いがない。
その手つきだけが、普段の初華と噛み合わない。クロスボウの手入れをしている初華の目は、アイドルの笑顔を作るときの目ではなかった。ウィスラッシュが言っていた。「一番怖いのは三角よ。あの子は躊躇いのスイッチを切れる」。祥子はその言葉の意味を、理解できてはいなかった。
視線に気づいた初華が顔を上げた。途端に、いつもの柔らかい笑み。切り替わるまで〇・五秒もかからない。
「さきちゃん、どうしたの?」
「いいえ。きちんと手入れしていますわね」
「うん。教わった通りにやってるよ」
嬉しそうに言って、初華はまたクロスボウに目を落とした。手の動きが少し弾んだ。褒められたからだ。それだけで弾む。このあたりは、どうしようもなく初華だった。
祥子は前に向き直った。フロントガラスの向こうに、冬枯れの丘陵がどこまでも続いている。灰色の空。石垣。羊。ヴィクトリアの片田舎だ。マルゴの耳が動いた。
「ヒロックまであと一時間だ」
祥子は頷いた。メモ帳のシフト表に目を落とし、次の定時連絡の時刻を確かめた。車窓の外で、羊の群れが丘の上で草を食んでいた。枯葉が一枚、フロントガラスに当たって滑り落ちた。
穏やかな風景だった。
***
ヒロックの市街地に入ると、振動の質が変わった。農道の凹凸が消えて、タイヤが石畳の目地を拾い始める。舗装路だ。フロントガラスの向こうに低い屋根の建物が現れた。移動都市としての規模は小さい。二階建ての煉瓦造りが並ぶ通り。龍門やロンディニウムの高層建築を見慣れた目には、玩具のように映るだろう。
祥子の目を引いたのは窓だった。通り沿いの建物の、いくつかの窓が板で塞がれている。釘の頭が錆びている。一軒なら修繕中で済む。二軒、三軒と続けば別の意味になる。
四軒目の窓板には何か文字が書かれていたが、車速では読み取れなかった。赤いペンキらしきもので、殴り書きされている。読めなくてよかったのかもしれない。
「現地の軍人には逆らうな」
マルゴだった。
「何があっても揉めるな。ウィスラッシュからの伝言だ」
それだけだった。
祥子は窓の外に目を戻した。街に人通りは少なかったが、人影が皆無なわけではなかった。石畳の端を老人がひとり歩いている。建物の影に子どもがふたり固まっている。だが十二月の、日がまだ高い市街地にしては少なすぎる。商店の扉が閉まっている。開いている店にも客の姿がない。
ブリーフィングのウィスラッシュの言葉が頭をよぎった。「きな臭い」。あの一言が指していたものが、マルゴの警告と、窓板の列と人気のない通りの間に横たわっている。ヴィクトリアの国内事情を、ロドスに来てひと月の祥子が理解できるはずもない。わかっているのに胸の底が冷える。
にゃむが窓の兎の絵を消して、黙って外を見ていた。海鈴の横顔から、さっきの緩みが消えていた。後部座席の奥で、睦がきゅうりの種のビニール袋を握っている。指に力が入っていた。
初華が座席の隙間から顔を覗かせた。
「さきちゃん」
「……なに」
「あの建物、お花屋さんだよ。看板に花の絵がある」
板の打たれた窓の隣に、確かに色褪せた花の看板があった。冬だから花はない。鉢植えの台だけが歩道に残されて、空っぽ。
「……そう」
初華は頷いて、座席に戻った。きっと、緊張を解きほぐそうとしてくれたのだろうと思う。ありがとう、とは言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか、自分でもわからない。
事務所は市街地の外れにあった。通りから一本入った路地の奥。二階建ての煉瓦造り。壁にロドスの社章が小さく掲げてあるが、塗装が剥げてかすれている。窓に板は打たれていない。カーテンの向こうに灯りが見えた。
マルゴが車両を停めた。エンジンが切れると、風の音が戻ってくる。祥子たちは降車した。冬の風に混ざって、甘い匂いが漂っている。焼き菓子の匂いだ。
「荷下ろしの前に、まず事務所への挨拶を——」
言いかけたとき、事務所の扉が開いた。
「あー! もしかしてロドスのひと? やっぱりそうだ! いらっしゃい!」
金髪の若い女性が飛び出してきた。青い目と、長い髪。ヴィクトリア軍の制服。「現地の軍人には逆らうな」というマルゴの警告が頭をよぎった。が、その軍服の上からエプロンを着ている。両手にオーブンミトン。右の頬に粉がついている。
「あたしジェーン! ジェーン・ウィローっていうの。あ、ジェニーでいいよ。荷物? 荷物あるんだよね? 重いやつはウィルとフレッドに運ばせるから、先に中入って! お茶淹れたばっかりだし、パイも焼けたとこ!」
金髪の間からヴイーヴル族の角が覗いている。整った顔立ちだった。こんな辺境の駐屯地にいるような容貌ではない。軍人にしては距離が近い。声が大きい。板の打たれた窓の並ぶ街で、花が咲いたように笑っている。
「あの」
「バノフィーパイっていうんだけどね、タフィーがちょっと焦げちゃって。でもまあ味は大丈夫だと思う! ショートブレッドもあるよ!」
「あの——」
「あ、ごめん、あたしばっかり喋ってる! えーっと、あなたがリーダーさん?」
祥子は目を瞬いた。五線譜にフォルティッシモの記号が三つ並んでいたとしても、この人の声量には足りないだろう。
「……豊川祥子ですわ。AM小隊の隊長を務めております」
「サキコ! かわいい名前! 中入って入って、寒いでしょ!」
掴まれた。オーブンミトン越しに腕を引かれて、事務所の中に押し込まれる。ミトンの布越しに、焼きたてのパイの熱が伝わった。
〈つづく〉