薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編   作:渡辺零

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※投稿ミスにより更新が遅れました。申し訳ありません
◇前回までのあらすじ
病室に閉じこもり続ける祥子の元に、海鈴が事後報告を持ってきた。ヒロック郡は陥落。事務所のオリバー、フレッド、シュレッダーは生存。Outcastは戦死。——そして、儀仗兵だったジェニーがロドスにオペレーターとして加入し、「サイラッハ」を名乗っていると。八日ぶりに部屋を出た祥子に、サイラッハは自分の経験を重ねて語った。旗を引き裂いたのも、Outcastが六発目を撃ったのも、それぞれが自分の意志で選んだこと。「その言葉は祥子の中に沈んだが、まだ底に着いた音は聞こえない。


第10話「新しい芽」

 サイラッハのスコーンは温かかった。

 広いカフェテリアのテーブルで、祥子はスコーンを半分に割った。

 クロテッドクリームが断面から溢れて、レモンカードの黄色が混ざった。

 甘い匂い。バターの匂い。

 バノフィーパイとはまた違う匂いだった。だが、同じ手が焼いたものだった。

 サイラッハは向かいの席で暖かいエバミルク入りの紅茶を啜りながら、ヒロックとは関係のない話をしていた。

 ロドスのカフェテリアのメニューがどうの、グムの料理愛好会に入ったら課題が多すぎるだの。

 軽い話。他愛のない話が止まらない。ジェニー・ウィローを名乗っていた頃と同じように。

 祥子はスコーンを食べた。胃に暖かい食べ物が入ったのは、いつぶりだろう。

 ガヴィルに「飯、食えてるか」と訊かれて「少しは」と答えた日から、まともに食べていなかった。

 スコーンの温度が胃に届いた。体が、思い出したように温まった。

「ごちそうさまでした」

「今度はみんなにも食べさせてあげてよ」

 サイラッハが笑った。祥子は笑えなかった。「ええ」とだけ答えた。

 カフェテリアを出て、病室に戻った。

 扉を閉めて、ベッドに座る。

 何も変わっていない。何も解決していない。

 サイラッハの問いが、頭の中で回っている。

 ——初華ちゃんと、睦ちゃんは、祥子が何も命じなかったら、何もしなかったと思う?

 わからない。

 同時に、頭ではわかっている。

 初華はきっと撃つだろう。

 祥子が指示を出さなくても、祥子が危険にさらされたら、初華は撃つ。だって初華は。

 そこで思考を止めようとしたが、止まらなかった。

 睦は。あの状況で、睦は。

 ——あたしたちはそれぞれ、自分の分を選んだの。

 頭ではわかる。だが、気持ちが全く追いつかない。

 固く閉じていた何かに、薄いひびが入っていた。

 

   ***

 

 その夜。

 病室にノックの音が響いた。一回。ドン。短くて硬い音。

「サキコ」

 にゃむだった。

 祥子の背中が強張った。にゃむの声を聞くのは久々だった。

 あの夜、農機具小屋でにゃむは祥子を責めた。それきりだった。

「——あのさ」

 にゃむの声に、いつもの軽さがなかった。

「あの夜、言ったこと。全部が間違ってたとは思ってないけど」

 間があった。

「でも……言い方は、最悪だった」

 扉一枚の向こうで、にゃむの息遣いが聞こえた気がした。

「——怖かったんだよ」

 にゃむはそれ以上言わなかった。謝罪の言葉は出なかった。

 にゃむはそういう人間だ。正面から「ごめん」とは言えない。

 でも、「怖かった」が出た。仮面の裏側が一瞬だけ見えた。

 祥子は扉を開けなかった。だが、返事をした。

「……にゃむ」

 扉越しの、掠れた声。

「……わたくしも、怖かったですわ」

 沈黙が落ちた。

 扉の向こうで、にゃむが何をしているのかわからなかった。

 泣いているかもしれない。泣いていないかもしれない。

 拳を握っているかもしれない。扉に額を押し当てているかもしれない。

 音は聞こえなかったので、わからなかった。

 足音が聞こえた。遠ざかっていった。

 和解ではなかった。だが、あの夜に途切れた線が、一箇所だけ繋がった。

 

   ***

 

 翌朝。

 祥子はベッドから足を下ろして床に立った。

 ——療養庭園。

 初華が言っていた、睦がきゅうりを育てている場所。

 顔を洗った。鏡の中の自分の顔は酷かった。頬がこけている。唇が乾いている。

 髪を梳かした。八日間分の絡まりを、丁寧に解いた。時間がかかった。

 内勤用の制服に着替えた。ボタンを一つ一つ留めた。襟を正した。

 海鈴が袖口のボタンまで全部留めていたのを思い出した。

 病室から廊下に出た。二度目だった。昨日は右に曲がってカフェテリアへ向かった。

 今日は左。艦内の案内表示に従って、医療区画を抜け、さらに奥へ。

 療養庭園は医療部門の奥にあった。パフューマーが管理する自然療法区画。

 自動扉が開いた瞬間、空気が変わった。

 消毒液の匂いが消えた。

 土の匂い。湿った葉の青い香り。天井がガラス張りで、源石ランプが不足分の太陽光を補っている。

 冬のヴィクトリアの曇り空の下、ここだけが別の季節だった。

 薬草の区画。花の鉢植え。奥にポデンコが管理する温室のガラスが光っている。

 通路の脇に小さなプランターが並び、名札が刺してある。知っているオペレーターの名前が書かれたものもあった。

 祥子は歩いた。土を踏んだ。靴底に柔らかい感触が伝わった。通路の硬い床とも、甲板の金属板とも違う感触だった。

 奥のほうに、人影があった。

 小さな栽培区画の前にしゃがんでいる。手が土で汚れている。

 睦だった。

 隣に丸いものがいた。Lancet-2。六輪の医療用ドローン。ずんぐりした円形の車体が、睦のすぐ横にいる。

 睦が土を掘るたびに、少しだけ位置を調整して、邪魔にならない距離を保っている。睦の傍を離れない。

 Lancet-2が先に反応した。車体がくるりと回って、祥子のほうを向いた。センサーが点滅していた。

《治療が必要ですか?》

 控えめで、丁寧な声色だった。スピーカーの出力が低い。

「……いえ」

《そうですか……お顔の色があまりよくないように見えますが》

 祥子は少し驚いた。ロボットに顔色を読まれている。

《よろしければ、こちらでお休みになってください。ここは空気がいいですから》

 睦が顔を上げた。驚かなかった。

「……来た」

 たった一言、それだけだった。

 祥子は睦の隣にしゃがんだ。膝に土がついた。制服が汚れたが、構わなかった。

 きゅうりの苗が植えてあった。小さなプランターの土から、緑の芽が出ている。

 まだ三センチほどの双葉だった。

「フレッドさんにあげた種とは、違うのですの?」

「……うん。新しいの」

「フレッドさんは——」

「……生きてるって。海鈴が教えてくれた」

 祥子は芽を見た。小さな緑。土の中から、わずかだが、まっすぐ天に向かって伸びている。

 睦がプランターの縁を指で撫でた。

「……フレッドさんにあげた種、どうなったかは、わかんない」

 祥子は黙った。あの事務所の庭。フレッドが「うわ、すっげえ綺麗に分けてある」と笑った。あの庭がまだあるのかどうか。

「……だから、新しいの」

 睦が土のついた手で、祥子に小さなビニール袋を差し出した。

 袋の中に、小さな種が五粒ほど入っていた。

 手を伸ばし、受け取った。軽かった。ほとんど重さがない。植物の種なのだから、当たり前だ。

 睦は何も訊かなかった。なぜ来たのか。大丈夫なのか。何も。

「……植え方、教えてくれますの?」

「……うん」

 睦がプランターの横に空いたスペースを指さした。

「……ここ。指で穴あけて。一センチくらい」

 祥子は右手の人差し指を土に差し込んだ。冷たくて、湿っている。爪の間に土が入った。

 一センチの、小さな穴。

 種を一粒、穴に落とした。指で土を被せた。

 睦がじょうろを渡した。水をかけた。土が黒く湿った。

 Lancet-2が少しだけ近づいて、水のかかり具合を測るようにセンサーを点滅させた。

 祥子は土のついた指を見た。

 Lancet-2が器用にじょうろを回収して、元の位置に戻していた。

 睦はもう次の区画の土をいじっている。祥子が来たときと同じように。

 祥子がいてもいなくても、睦はここで土を触っている。明日も、きっと明後日も。

 

   ***

 

 庭園の出口で足を止めた。

 膝の土を払い、靴底を段差の縁でこすった。爪の間の土は取れなかった。

 廊下に出た。医療区画を歩いて、自分の病室の前まで来た。

 人影があった。

 初華だった。

 扉の横の壁に背を預けて立っている。いつものノックの時間だった。

 来たら部屋が空だったから、ここで待っていたのだろう。

 初華が祥子を見た。

 祥子の靴。膝。指。どれも土がついている。

 初華は何も言わなかった。ただ、微笑んだ。

「おかえり、さきちゃん」

 おかえり。

 その一言が、祥子の足を止めた。どこかへ行って、帰ってきた人間に言う言葉。

 初華はそう言った。八日間閉じこもっていた人間に。

 祥子は初華の顔を見た。

 土のついた祥子を見て、嬉しそうに笑っている。

 報告書の文字が重なった。「三角初華がクロスボウにて一名を射殺」。

 あの農道で、祥子のハンドシグナルを見て、クロスボウを構えた。引き金を引いた。人を殺した。

 その人間が、祥子のことを想って、笑っている。

 ——祥子が何も命じなかったら、何もしなかったと思う?

 初華は毎日、この病室の扉をノックした。

 祥子が何も返さなくても。扉が開かなくても。

 声が聞こえているかどうかもわからないのに、ノックと、短い言葉を、毎日のように置いていった。

 誰に命じられたわけでもなく、初華が自分で選んで、それをやった。

 ——あなたが嘘をついていないということですわ。

 アイリスの言葉が、不意に輪郭を持った。

 輪郭だけだった。中身はまだ、全部は見えない。

 だが——退くことが正しいのではないと、それだけはわかった。

 退いたところで、四人は止まらなかった。

 初華はノックを続け、にゃむは扉の前に来て、睦は種を植え、海鈴は報告書を持ってきた。

 バラバラだった。

 それでも、と思う。

 ともにいたい。皆と。Ave Mujicaの五人として。

「さきちゃん? 大丈夫?」

 駆け寄ってきた手が、祥子の肩に触れた。

 初華の笑顔がぼやけた。気づけば、視界が滲んでいた。

「……大丈夫ですわ」

 涙を手の甲で拭った。指に土がついていて、頬に茶色い筋がついた。

「——初音」

 その名前を呼んだ瞬間、初華の肩がぴくりと揺れた。

 二人きりのときだけ呼ぶ、初華の本当の名前。祥子だけが知っている名前。

「……明日から、教練に出ますわ」

 初音が息を呑んだ。何か言おうとして、声にならなくて、唇が震えていた。

「……うんっ」

 声が震えていた。泣きそうに見えたが、笑っていた。

「それより……わたくし、顔がひどいことになっていませんこと?」

「なってる。土、すごいついてるよ、さきちゃん」

「……取ってくださいまし」

 初華がポケットからハンカチを出して、祥子の頬を拭いた。白い布に茶色い筋がついた。

「さきちゃん、庭園で何してたの」

「……きゅうりを植えましたの」

 初華が笑った。

「睦ちゃんと?」

「ええ」

「いいなあ。私もやりたい」

「……明日。教練の後に」

「うん!」

 祥子は病室の扉に手をかけて、初華のほうを振り返った。

「……お茶、ありますの。ガヴィルさんが置いていったものですけれど」

 初華の目が丸くなった。それから、嬉しそうに頷いた。

「入っていいの!?」

 八日間、祥子しかいなかった部屋に、初華の足音が入ってきた。

 何も解決していなかった。

 だが、扉は開いていた。

 指先に、きゅうりの種の感触が、まだ残っていた。

 

〈つづく〉

 




次回更新:2026/3/1(日) 21時

◇次回予告
六切れ。糖質と脂質の暴力。
大型犬が家に上がり込んできたとき、人間にできることは限られている。
幕間一「はちみつクッキー」
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