薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編   作:渡辺零

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◇前回までのあらすじ
療養庭園で睦と並んできゅうりの種を植えた祥子は、病室の前で待っていた初華に「明日から教練に出ますわ」と告げる。八日間閉じた扉が開いた。何も解決していない。だが、五人はそれぞれの足で動き始めている。


幕間一「はちみつクッキー」

 古いジムには誰も来ない。

 ロドス・アイランド本艦のオペレーターが使う正規の訓練室は、居住区画の近くにあって、設備も新しい。

 こちらは整備区画の奥、配管が天井を這う、薄暗い一角にあるジムだった。

 照明の蛍光管が二本、切れている。

 八幡海鈴は、切れた蛍光管の下でダンベルを上げていた。

 まだ療養期間中だった。ヒロックから戻って八日。

 医療部からは「段階的な復帰」を指示されている。

 後方支援業務には戻ったが、外勤はまだ許可されていない。

 本来なら大人しくしているべきタイミングだ。

 それが夜のジムにいる。プロテインのボトルを床に置いて、ダンベルを握っている。

 理由は単純で、ケオベのはちみつクッキーのせいだった。

 

   ***

 

 夕食の時間帯、海鈴は医療区画の病室にいた。

 療養中は行動範囲が限られる。居場所が読まれやすい。

 案の定だった。

 廊下の向こうから足音が駆けてきた。獣が走るような足音だった。

 ドアがどんどんと叩かれた。ノックではない。叩いている。

「海鈴さん! 海鈴さん! いる!?」

 ケオベの声だった。

 ドアを開けると、ケオベが両手でトレイを掲げていた。額に汗が光っている。走ってきたのだ。

 トレイの上に、はちみつクッキーが山盛りになっていた。

 パイ生地が何層にも重なっていて、表面が黄金色に焼き上がっている。

 蜂蜜のシロップが染み込んで、照りが出ていた。

 はちみつ「クッキー」とは名ばかりで、実質パイだ。

 薄い生地の層の間にローストされたナッツ類が敷き詰められていて、上からたっぷりとシロップがかけてある。

 元の世界でいうところのバクラヴァに似ている。トルコやギリシャの菓子だ。

 あちらは生地にバターを塗り重ねて焼き上げていたが、これはそれよりさらに甘い。

 蜂蜜の匂いが、直接鼻に届いてくる。

 後ろからサンクタのオペレーターが二人、息を切らしてついてきていた。

「マッターホルンが新しいの焼いてくれたんだよ! 今日のはちみつ、前と違うの! すっごく美味しいの!」

 ケオベが目を輝かせている。尻尾を千切れるほど振っている。

 ペッローの犬耳が、ぴんと真っ直ぐ立っていた。

「海鈴さんも前に美味しいって言ってくれたでしょ! だから持ってきた!」

 ケオベの大好きなはちみつクッキー。

 ラヴァとヴァルカンとマッターホルンが焼いたものしか彼女は食べない。

 その大事なクッキーを、海鈴のために持ってきている。

 前回、海鈴は「美味しいですね」と言った。礼儀として。

 ケオベが嬉しそうにしていたから、もう一枚食べた。

 確かに美味しかったのは事実だが、それも礼儀としてだった。

 その「礼儀」が、今こうして「おいらの大事なクッキーを分けてあげる!」という大型犬の全力の好意として返ってきている。

「……ありがとうございます」

 海鈴はトレイを受け取った。

 こういうとき、断る選択肢は海鈴の辞書にない。正確には、あるが使えない。

 断れば相手の好意を否定することになる。否定すれば距離が変わる。

 距離が変わることを海鈴は恐れる。

 ただし、海鈴自身はそれを「恐れ」とは呼んでいない。「適切な距離の管理」と呼んでいた。

 ケオベがにかっと笑った。

「おいらも一緒に食べていい?」

「……どうぞ」

 ケオベが海鈴の部屋に上がり込んだ。サンクタの二人も「私たちも〜」と続いた。

 椅子が足りないので、ケオベは床に座った。あぐらをかいて、クッキーを両手で持って、一口で半分食べた。

 パイ生地の欠片が唇の端からぱらぱらと落ちている。

 頬が膨らんで、犬が骨を噛んでいるときの表情に似ていた。

「んー! やっぱりおいしー!」

 海鈴ははちみつクッキーを一切れ手に取った。一口かじった。

 確かに美味しかった。パイ生地がさくりと割れて、ローストされたナッツの香ばしさと蜂蜜の甘さが一緒に来る。

 前回よりもシロップの風味が濃い。かなり甘い。

 そして、胃に溜まる。

 ケオベが次々と食べる。サンクタの二人が持参したポットでお茶を入れ始めた。

 海鈴の病室で、勝手に茶会が開かれている。海鈴はそれを制止しなかった。

 というより、制止する手段を持っていなかった。

 大型犬が家に上がり込んできたとき、人間にできることは限られている。

 結局、六切れ食べた。

 ケオベが「もっと食べて!」と勧めるたびに一切れずつ、淡々と。

 はちみつクッキーはひし形にカットされていて、一切れが小さく見える。見た目の罠だ。

 薄いパイ生地とナッツの層にシロップが染み込んでいるから、一切れあたりの糖質と脂質が見た目の三倍はある。

 六切れを食べ終えた時点で、海鈴の胃はかなり重たくなっていた。

 夕食はプロテインドリンクだけの予定だったのに、実質バクラヴァ六切れ分のカロリーが加算された。

 パイ生地、ナッツ、バター、蜂蜜シロップ。脂質と糖質の暴力的な合算だ。

 海鈴の頭の中で、摂取カロリーと消費カロリーの帳簿が大幅な赤字に転落した。

 だから真顔でジムにいる。療養中なのに。

 

   ***

 

 ダンベルを下ろして、壁の時計を見た。二十二時十分。いつもなら、ここからあと一時間は動く。

 床のプロテインのボトルに目が行った。ぬるくなっている。飲む気が起きない。

 クッキーの甘さがまだ舌の奥に残っていて、プロテインの味を想像するだけで胃が抗議する。

 ジムのドアが開いた。

「あ、八幡さんだ。今日もいるね」

 ヴィグナだった。Tシャツにジャージのパンツ。タオルを首にかけている。

 海鈴がこのジムを使い始めてから、ヴィグナと鉢合わせるのは四回目だった。

 古いジムは不人気で、常連は海鈴とヴィグナくらいしかいない。

 最初の一回は互いに会釈だけで終わった。二回目に名前を交わした。

 三回目にヴィグナがライブに誘ってきて、海鈴は「検討します」と答えた。

「こんばんは」

「——なんか今日、お菓子の匂いしない?」

 海鈴は一瞬だけ目を伏せた。

「……気のせいでしょう」

「いや絶対するって。甘いやつ。はちみつの」

 ヴィグナの鼻は正確だった。海鈴のジャージに、ケオベの茶会の残り香が染みついている。

 ヴィグナはストレッチマットを引っ張り出して、床に広げた。

 立ったまま片足を掴んで後ろに引く。いつもの柔軟。海鈴はダンベルに戻った。

 数分、黙って体を動かした。蛍光管のジー、という低い音だけが響いている。

「ねえ八幡さん」

「はい」

「前に言ったライブの話、覚えてる?」

「ええ。覚えていますよ」

「来週やるんだけど、来ない?」

 海鈴はダンベルを下ろした。

「……今は療養中ですので」

「療養中なのにジムいるじゃん」

「……これは、体力維持のためです」

「ライブ観るのも気分転換になるよ?」

 反論の余地がない。ヴィグナが正しい。海鈴は「療養中」を盾にしたが、ジムにいる時点でその盾は穴だらけだった。

「……検討します」

 いつもの返答。検討します。距離を保つための定型文だ。

 海鈴という壁の表面に貼り付いた、付箋のような言葉だった。

 ヴィグナは深追いしなかった。ストレッチを続けながら、自分の話にスライドした。

「あたし今、新しい曲やっててさ。リズムセクションが全然足りないんだよね。ドラムはフィノがいるからいいんだけど、ベースがいないの」

 ベース。

 海鈴の指がダンベルの上で微かに強張った。

「ロドスにベース弾ける人、ほんっとにいなくてさ。困ってるのよ」

 ヴィグナの声は軽い。愚痴に近い。だが「弾いてよ」とは言わない。

 海鈴はヴィグナの横顔をちらりと見た。ストレッチしながら、天井を見上げている。

 蛍光管の薄い光がサルカズの角の先端を白く照らしている。

「まあ、治ったらでいいけどさ」

 ヴィグナが言った。それだけだった。

 治ったらでいい。

 ベース弾ける人いないんだよね——足りないパーツを求めているように聞こえる。

 だが「治ったらでいい」の「いい」の響きが、業務の発注的なものではなかった。

 ヴィグナが立ち上がった。タオルで首の汗を拭く。

「じゃ、あたし戻るね。お互い体は大事にしようね」

「ええ。お疲れ様です」

「おつかれー」

 ジムのドアが閉まった。足音が遠ざかる。

 

   ***

 

 海鈴は一人になった。

 ダンベルを握り直した。肩甲骨を寄せて、胸を張る。

 肘の角度に気をつけながらゆっくり上げて、トップで一秒止めて、倍の時間をかけて下ろす。

 ネガティブ動作で筋繊維に負荷をかける。

 最後のレップを終えて、ダンベルをゆっくり床に置いた。

 インターバル。壁の時計を見た。

 元の世界で、三〇のバンドを掛け持ちしていた頃のことを思い出した。

 どのバンドでも海鈴は重宝された。スケジュールを完璧に管理し、求められたベースラインを求められた精度で提供した。

 リハーサルに遅刻しない。譜面を間違えない。音を外さない。穴を埋める。完璧なサポートベーシスト。

 三〇のバンドの、誰ひとりとして「八幡さんのベースが聴きたい」とは言わなかった。

 言われたのは「この曲のベースライン、こういうアレンジでお願いできる?」だった。「来週のライブ、サポート入ってくれない?」だった。

 機能への依頼。海鈴という「装置」に対する発注。

 海鈴はそれを不満に思ったことがない。本音だった。

 プロフェッショナルとはそういうものだ。求められた仕事を、求められた品質で提供する。

 それ以上を出す必要はないし、出すべきでもない。出したら壊れる。

 最初のバンドで学んだ。出しすぎたら、全員に捨てられる。トラウマになる。

 だからヴィグナの「治ったらでいいけどさ」が、海鈴の中で処理できずに残っている。

 あれは発注ではなかった。

 では、何だったのか。

 ベース弾ける人いないんだよね。それは事実の陳述であり、遠回しなオファーだ。

 治ったらでいい。それはオファーに対する条件の提示だ。

 だがその二つを繋ぐ接続詞が見つからない。

 ヴィグナは海鈴に仕事を頼んだのではなかった。海鈴という人間に、一緒に音を出すことを提案した。

 それを「信用」と呼ぶのかどうか、海鈴にはわからなかった。呼び方を知らなかった。

 ケオベのクッキーが脳裏をよぎった。

 海鈴がクッキーを「美味しい」と言ったから、新しいクッキーを持ってきた。

 どれも、三〇のバンドにはなかったものだ。

 床のプロテインのボトルを拾い上げて、キャップを開け、口をつけた。

 ぬるい。不味い。人工的な甘さが舌に貼りつく。いつもの味。

 ——はちみつクッキーの方が、美味しかったですね。

 自分の頭の中に浮かんだ言葉に、海鈴は少しだけ驚いた。

 プロテインはタンパク質を効率的に摂取するための手段であり、はちみつクッキーは脂質と糖質の塊である。

 比較する意味がない。合理的に考えれば、プロテインのほうが正しい選択だ。

 正しい選択は、不味い。

 脂質と糖質の塊は、美味しかった。

「…………」

 ボトルのキャップを閉めて、ダンベルを拭い、ジムを出た。

 廊下の照明が白く長く伸びている。海鈴はポケットから端末を取り出した。

 ヴィグナの連絡先を開いた。三回目の鉢合わせのときに交換して、一度も使っていなかった。

 短いメッセージを打った。

『ライブの日時と場所を教えていただけますか。検討します』

 三度目の「検討します」。

 だが今回は、定型文と一緒に日時と場所の確認がついている。

 送信し、端末をポケットに戻した。

 廊下を歩いた。海鈴の足音だけが響いている。

 

〈つづく〉

 




次回更新:2026/3/2(月) 21時

◇次回予告
源石ランプの淡い光。枯れかけたプランター。
何日も水をあげていなかった。
ロボット二体と、しゃがんだ少女。
幕間二「きゅうりの種」
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