薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
ケオベがはちみつクッキーを持ってきた。六切れ食べた。カロリーの帳簿が赤字に転落した海鈴は、療養中にもかかわらず夜のジムで筋トレをする。ヴィグナが「ベースがいない」と言った。「治ったらでいいけどさ」。海鈴の「検討します」には、日時と場所の確認がついていた。
療養庭園の源石ランプが、薄い紫色の光を落としている。
日中は天窓から自然光が入るが、夜は源石ランプが太陽光の波長を再現する。植物のために。人間のためではない。
若葉睦は、プランターの前にしゃがんでいた。
ヒロックから戻ってから、はじめて庭園に来た。
医務室のベッドに何日いたのか、正確には覚えていなかった。
目は覚めていた。みんなの声も聞こえていた。ただ、体が動かなかった。
眠れなかった。目を閉じると天井が暗くなって、ヒロックの夜空と重なる。
ようやく起き上がって、ここに来た。手を動かしていれば、頭が止まる。
じょうろを傾けて、土に水をやっている。
水がプランターの縁からこぼれないように、細く、ゆっくり。
手つきに迷いがない。いつもやっていることだった。
隣にLancet-2がいた。六輪の丸い車体。白い塗装。赤い十字のマーク。医療用ロボット。
《睦さん、夜は冷えますから……上着を羽織ったほうが》
「……大丈夫」
《でも……風邪を引いてしまったら、私の治療能力では……あまりお役に立てないかもしれません》
「……ランセットは役に立ってる」
《……本当ですか?》
「……うん。水やりの量、ぜんぶ覚えてる」
《はい。……それくらいしかできませんけど》
「……それが、いちばん大事」
Lancet-2の赤いセンサーが、ぴこりと明滅した。嬉しいのかもしれない。
ロボットに感情があるのかどうか、睦は知らない。
知らないが、Lancet-2と一緒にいるとき、睦は「役」を演じなくていい。
ロボットは期待を押し付けない。
水やりの量を記憶して、報告する。それだけ。睦にとって、最も安全な距離だった。
庭園の奥から、メカナムホイールの特徴的な駆動音が近づいてきた。
前後左右に自在に動く、独特の機動。ランプの光の中に、黒い車体が滑り込んでくる。
《——感激です、睦様!》
THRM-EXだった。声が大きい。庭園の夜の静けさにはまったく不釣り合いな、劇場型の声量。
車体中心部にあるエネルギーコアのオレンジ色が、小さな炉のように目映い。
《夜間照明の最適化を終え、ただいま参上いたしました! 光とはすなわち熱エネルギー! この照射角度であれば、植物の細胞に最適な熱量が届き、成長サイクルに革命的なブレイクスルーが——ああ、興奮のあまりコアの温度が上昇しております! この溢れる情熱、いっそ全エネルギーを解放して一気に——》
「……自爆は、ダメ」
《わかっております、睦様》
声量が少しだけ落ちた。THRM-EXにしては。
《明日もこの庭園の照明を調整する任務がございますからね》
THRM-EXの目的は庭園のランプの角度調整だった。睦の栽培計画に基づいて、光の当て方を変える作業。
自爆ロボットにやらせる仕事ではないが、THRM-EXは頼まれたことは何でも情熱的にやる。頼まれていないこともやる。
Lancet-2がセンサーユニットが角度を変えた。
《THRM-EXさん、声を小さくしてもらえますか。夜ですから》
《おっと、これは失礼! 夜間モードに切り替えましょう!》
声量がまったく変わらなかった。
「……そっちのランプ、もう少し右」
《畏まりました! 了解です!》
THRM-EXがランプの前に移動した。
メカナムホイールが横方向にスライドして、正確にランプの正面に着く。アームが伸びて角度を調整する。
睦はそれを見ながら、隣のプランターに移った。
手が止まった。
枯れかけていた。
プランターの中の苗が、茶色くしなだれている。
葉が縁から乾いて丸まり、茎が折れかけている。土が乾ききって白くなっている。
同じ品種だった。ヒロック出発前に植えた苗。フレッドにあげた種と同じきゅうり。
療養中、水やりが途切れた。何日も。庭園には来ていなかった。ベッドの上にいた。天井を見ていた。みんなの声が聞こえていたが、体が動かなかった。
その間に、この苗は枯れかけていた。
睦はプランターの縁に指を置いた。乾いた土の感触。ざらざらしている。
Lancet-2が横に来た。
《……このプランター、覚えています。出発の前に、睦さんが植えたものですね》
「……うん」
《土を入れ替えれば、また育つと思います。根は……まだ生きていますから》
根はまだ生きている。
睦は枯れた葉に触れた。ぱりぱりに乾いた葉を指先でつまんだ。紙より軽い。摘み取った。
新しい土を棚から取った。袋を開けて、プランターに足した。
枯れた茎の周りに黒い土をかぶせ、じょうろを傾けた。
水が乾いた土に染み込んでいく。
習慣として、手だけが動いていた。
THRM-EXがランプの調整を終えて戻ってきた。
《睦様、照射角度の最適化が完了いたしました! これで光合成効率が推定十二パーセント向上——おや》
THRM-EXのセンサーが枯れかけたプランターを捉えた。
《……こちらの苗は、少々お疲れのようですね》
「……水、あげてなかった」
《なるほど! ですが、根が生きていれば復活の可能性は十分にあります! 私など、エネルギーコアさえ無事なら何度でも再起動できますからね! 植物も同じです、根が熱を保っている限り——》
《THRM-EXさん》
Lancet-2が遮った。
《……今は、静かに》
THRM-EXが止まった。一拍。
《了解しました》
小さな声だった。THRM-EXにしては。
三者が、枯れかけたプランターの前にいた。ロボット二体と、しゃがんだ少女。
源石ランプの光が、三つの影を伸ばしている。
——フレッドさんの笑った顔を、覚えている。
種を受け取ったとき、「うわ、すっげえ綺麗に分けてある」と言った。「ありがとな!」と言った。笑っていた。
あの種がどうなったか、睦は知らない。
フレッドの事務所は砲撃された。種を植える庭が残っているかどうかもわからない。
わからないが、覚えている。
枯れた葉がまだあったので、摘んだ。
睦は立ち上がった。
棚に並んだ種の袋。いくつかの品種がラベル分けされている。睦が分類したものだ。
その中から、新しい袋を一つ取った。
もし祥がここに来たら、渡す分。
袋を作業台の上に置いた。
《……睦さん》
Lancet-2が見上げていた。
「……なに」
《……もう遅いですから。そろそろお部屋に戻ったほうが》
「……もうちょっと」
Lancet-2は何も言わなかった。車体を少しだけ後ろに引いて、睦の横に留まった。
《本日の作業記録は保存いたしました。睦様、明日もこの庭園に熱を届けに参ります。よろしくお願いいたします》
THRM-EXが控えめに——この機体にしては極めて控えめに言った。
睦はロボット二体を見た。
Lancet-2の赤いセンサーが点滅している。THRM-EXのコアがオレンジ色に光っている。
ロボットは眠らない。感情があるのかないのかわからない。
睦の口元が動いたかどうかは、源石ランプの薄い光では、わからなかった。
〈つづく〉
次回更新:2026/3/3(火) 21時
◇次回予告
白い扉。拳を上げた。止まって、下ろした。
何回目だよ。
廊下の角から、足音がもうひとつ。
幕間三「ノック」