薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
療養庭園。ロボット二体と夜の水やり。ヒロックの間に枯れかけたきゅうりの苗。根は、まだ生きていた。
ロドス・アイランド医療区画。
祐天寺にゃむは、祥子の病室の前に立っていた。
白い扉。番号のプレート。取手。それだけの扉が、どうしようもなく重い。
右手を上げた。拳を作って、扉に向けた。
ノックする。叩けばいい。コンコン。それだけのことだ。
拳が扉の手前で止まった。下ろした。
息を吐いた。消毒液の匂いが鼻の奥に張りついている。
もう一度、右手を上げた。止まった。下ろした。
——何回目だよ。
右腕が疼いた。傷そのものはもう塞がっている。
だがノックしようと拳を握ると、あの小屋の壁に自分の声がぶつかった感触が腕に戻ってくる。
——CRYCHICんときと同じじゃん。
あの言葉は本音だった。間違ったことを言ったとは思っていない。
だが、あの怒りは祥子だけに向いていたわけでもなかった。
化膿した腕。血と煙の匂い。頭上のドローンの音。死ぬかもしれないと思ったこと。
全部がごちゃ混ぜになって、いちばん近くにいた人間にぶちまけた。
八つ当たりだった。その中の一部は。
八つ当たりだったわけではない。その中の一部は。
どこからが正当な怒りで、どこからが八つ当たりだったのか。
にゃむの中でまだ仕分けが終わっていない。
仕分けが終わらないまま「ごめん」は言えない。
嘘の謝罪を口にするくらいなら、黙っているほうがましだ。
黙っているから、ノックできない。
もう一度手を上げようとしたとき、廊下の奥で足音がした。
軽い。柔らかい。スニーカーの音。
廊下の角から、三角初華が現れた。
にゃむと初華の目が合った。
胸のあたりに、冷たいものがよぎった。
思い出す。クロスボウの鋭い先端。
あの農機具小屋で祥子に詰め寄ったときの、初華の目。
澄んでいて、迷いがなくて、照準がにゃむの胸に向けられていた。
殺されると思った。一瞬だけ。
初華が立ち止まった。動かない。にゃむも動かない。
にゃむが先に口を開いた。謝罪ではない。
「——ウイコ、サキコのとこ?」
初華が少し目を伏せた。
「……うん。さきちゃんに、ごはんちゃんと食べてるか聞きたくて……でもノックしたら、返事なくて」
にゃむは壁に背をつけた。ずるずると滑って、しゃがみ込んだ。
「……アタシも、ノックしようと思ったんだけど」
自分の右手を見た。何回も上げて、何回も下ろした手。
「……できなかった」
初華は向かいの壁に背をもたれた。廊下の幅がそのまま二人の距離になった。
にゃむは初華を見た。初華はにゃむを見ていなかった。祥子の扉を見ていた。
「……にゃむちゃん」
「なに」
「……にゃむちゃんが言ったこと」
初華の声が小さくなった。
「……全部間違ってたとは、思ってない」
にゃむの目が上がった。
初華の目は伏せたままだった。何かを言い終えた顔をしていた。考えて、選んで、出した言葉の後の顔。
「……」
にゃむは何か言おうとした。口が開いて、ややあって閉じた。
クロスボウのことを言うべきだと思った。あのとき初華が何をしたか。
にゃむに照準が向けられたこと。あれについて何か言わないといけない。
だが言葉が見つからない。「許す」は嘘だ。「怒ってる」も違う。
実際、殺されると思った。
あのときのことを、にゃむはまだ何と呼べばいいかわかっていない。
初華も黙っていた。自分の手を見ていた。あの夜、クロスボウを持っていた手だ。
二人とも、仕分けが終わっていなかった。
「……アタシさ」
にゃむの声が出た。掠れていた。
「アンタにクロスボウ向けられたとき、死ぬかと思った」
初華の肩が揺れた。
「……うん」
「——で」
にゃむの口が動いた。次の言葉を探していた。見つからなかった。
「……で、なに。ごはん食べたかって聞きに来たの。サキコに」
「……うん」
「……アンタ、自分は食べた?」
初華が少し首を傾げた。意味がわからないという顔ではなかった。聞かれると思っていなかった、という顔だった。
「……食べてない」
「……アタシも」
にゃむが立ち上がった。膝を伸ばす。体が重い。右腕を壁について体を支えた。
袖口が少しずれて、縫合痕が覗いた。赤黒い線が、肘の内側から手首まで走っている。
袖を引いて隠した。
「……帰るわ」
歩き出した。一歩、二歩、三歩。
立ち止まる。振り返らない。
「……ウイコ」
「うん?」
「……アンタ、射撃上手だよね」
初華が黙った。
「……練習したから」
「ふーん」
にゃむは廊下を歩いていった。
***
にゃむの足音が遠ざかっていく。
初華はその場に残った。壁にもたれたまま、にゃむの背中が角を曲がるのを見ていた。
白い蛍光灯。白い廊下。にゃむが消えると、廊下はまた静かになった。
初華は祥子の扉に向き直った。
手を上げた。拳を作った。
ノックした。三回。こんこんこん。
「……さきちゃん」
返事はなかった。
初華は少しだけ扉の前に立って、それから踵を返した。
スニーカーの足音が遠ざかって、消えた。
扉の向こう側で、豊川祥子の目が開いていた。
天井の暗がりを見ている。ノックの音は聞こえていた。
祥子は何も応えなかった。
だが、目は開いていた。
〈つづく〉
次回更新:2026/3/4(水) 21時
◇次回予告
バー「ワン・モア・グラス」。教官と医者。
泣いてるガキの頭くらい撫でろ、と言われた。
幕間四「左手」