薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編   作:渡辺零

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◇前回までのあらすじ
祥子の病室の前。にゃむはノックできなかった。初華もいた。「全部間違ってたとは、思ってない」。二人とも仕分けが終わっていない。初華だけがノックした。返事はなかった。だが、扉の向こうで祥子の目は開いていた。


幕間四「左手」

 「ワン・モア・グラス」は午後九時からアルコールを出す。

 それ以前は茶とソフトドリンクだけの穏やかな社交場だが、九時を過ぎるとカウンターの奥から酒瓶が並び、空気が変わる。客層も変わる。日中の若いオペレーターたちは引き上げて、残るのは大人たちだ。

 ウィスラッシュがカウンターに座ったのは二十一時十五分だった。

 カジミエーシュの蒸留酒を頼んだ。

 ストレート、チェイサーなし。麦焦がしの匂い。琥珀色。

 隣にガヴィルがいた。

 ガヴィルは何か強いやつ、としか言わなかった。

 バーテンダーのラ・プルマが黙って透明な液体を注いだ。

 ガヴィルはそれを一口で半分飲んだ。

「——まっず」

「注文を具体的にしないからよ」

「酒は強けりゃいいんだよ」

「自分の味覚は治せないの?」

「やかましい」

 ガヴィルが残りを流し込んだ。ラ・プルマが無言でおかわりを注ぐ。慣れた対応だった。

 カウンターの向こうで、別のオペレーターが二人、低い声で何か話している。

 BGMはない。グラスが当たる音。氷が鳴る音。バーの夜。

 ウィスラッシュは蒸留酒を一口含んだ。

 麦の甘みが舌の奥に広がって、喉を焼く。良い酒だ。

 ロドスの酒の品揃えは悪くない。誰が仕入れているのか知らないが、センスがある。

「最近の新人さ」

 ガヴィルが二杯目のグラスを持ったまま言った。

「アタシの治療を怖がりすぎなんだよ」

「あなたの治療法は怖がられて当然でしょう」

「ちゃんとした医療行為だろうが。骨折にはまず整復が必要で、整復にはある程度の力が——」

「ハンマー持って近づいてくる医者を怖がらない患者がいたら、そっちのほうが心配ね」

 ガヴィルが口を開けて、閉じた。

「……否定できねぇ」

「でしょう」

「お前だって鞭持って新人シバく教官だろうが。オペレーターに怖がられてないのか」

「怖がられているわ。計画通りにね」

「性格わりぃな」

「お互い様よ」

 ウィスラッシュが杯を傾けた。ガヴィルが肩をすくめた。

 二杯目。

 話題が変わった。訓練の話。ドーベルマンとの方針の擦り合わせ。

「ドーベルマンは身体負荷を先に積むのよ。荷重行軍、組み手、限界までの反復。疲労状態でも動ける体を作ってから技術を載せる、って考え方」

「まっとうじゃねぇか」

「まっとうよ。でもね、近接戦で型が崩れたら死ぬの。疲労困憊で剣を振ったとき、肘の角度がずれていたら手首が折れる。体力があっても型がなければ、自分で自分を壊すのよ」

「で、いつもぶつかるんだろ」

「ぶつかるというか、議論するのよ。建設的に」

「怒鳴り合ってるって聞いたけど」

「……声が大きいだけよ。お互い」

 ガヴィルが笑った。低い、喉の奥から響く笑いだった。

「お前ら仲いいよな」

「仲がいいんじゃないわ。互いの仕事を認めてるだけよ。プロとしてね」

「それを仲がいいって言うんだよ」

 ウィスラッシュは返答に詰まった。

 ガヴィルの言い方には身も蓋もない正確さがある。

「……この前、ドクターに小切手を送ったのよ。訓練装備を更新したかったから」

「は? 小切手?」

「金額欄を白紙にしたの。必要な分だけ書いてもらえばと思って」

「……お前それ本気で言ってんのか」

「ケルシーに怒られたわ。経理を通せって」

「当たり前だろ」

「カジミエーシュでは普通のやり方よ。パトロンが騎士団に白紙小切手を渡すの」

「ここはカジミエーシュじゃねぇよ」

 三杯目。

 ウィスラッシュの頬がほんのり赤くなっていた。「千杯」ゾフィアの異名を持つ女にしては、早い。

 ガヴィルが気づいた。横目で見た。

「今日、ペース早くねぇか」

 ウィスラッシュはグラスを置いた。

 カウンターの上で琥珀色の液体が揺れて、止まった。

「——ガヴィル、あなた患者の頭を撫でたことある?」

 唐突だった。

 ガヴィルが目を向けた。眉が片方上がっている。

「あん? アタシの患者は撫でるより先にぶん殴って大人しくさせるほうが多いが」

「真面目に聞いてるのよ」

 ウィスラッシュの声のトーンが変わった。ほんの少しだけ。

 バーの喧噪に紛れるくらいの変化だが、ガヴィルは聞き逃さなかった。

 元傭兵の耳は声の変化に敏感だ。

 ガヴィルがグラスを置いた。

「……そうだな。ガキの患者が泣いてるときは、まあ、頭くらい触ってやることもある」

「そのとき、何を考える?」

「何も考えねぇよ。泣いてるから撫でる。それだけだろ」

 ウィスラッシュの左手がカウンターの上にあった。

 右手でグラスを持っている。左手は何も持っていない。

 五本の指がカウンターの木目の上に広がっている。

 薬指と小指が、微かに動いた。意識的な動きではない。

「……わたしはね、止めたの」

 ガヴィルは黙った。酒を飲む手を止めて、聞いている。

「泣いてる子の頭に手が行きかけて、止めた。教官だから」

 ほんの少しの間、沈黙があった。

「で、後悔してんのか」

「……わからないわ。後悔してるのか、正しかったのか」

 ガヴィルが鼻で笑った。嘲笑ではなかった。

 彼女の笑い方には種類がいくつかあって、これは呆れと親しみが混ざった笑いだと感じた。

「お前、考えすぎだよ。次泣いたら撫でてやれ。教官だろうが何だろうが、泣いてるガキの頭くらい撫でろ」

「あなたに言われたくないわ。患者を殴る医者に」

「殴るのと治すのは両立すんだよ」

 ウィスラッシュはグラスを空にした。カウンターに音を立てて置いた。

 ガヴィルが「おかわり」と手を上げた。

「もう一杯だけだよ」

 カウンターの向こうのラ・プルマが言った。

「はいはい」

 四杯目が注がれた。ウィスラッシュは今度はゆっくり飲んだ。焦がし麦の匂いが鼻腔を抜ける。

 ガヴィルが自分のグラスを回しながら言った。

「アタシもさ」

「なに」

「助けられなかったヤツのこと、たまに思い出すよ。夜中にさ。目の前で逝かれたヤツ。間に合わなかったヤツ。血が止まらなかったヤツ」

「……」

「そういう夜は、こうやって飲むしかねぇんだよ。考えたって答えは出ねぇから」

「……あなたにしては、まともなことを言うわね」

「いつもまともだろうが」

「ハンマーで患者を殴る医者がまともなわけないでしょう」

「あれは治療だって言ってるだろ」

 二人の間に、笑いが漏れた。声を上げて笑ったわけではない。

 口元が緩んだだけだ。

 だがその緩みの中に、互いの夜を知っている者どうしの了解があった。

 四杯目を飲み終えた。

 ウィスラッシュが立ち上がった。

 ほろ酔いだが、足元はしっかりしている。「千杯」ゾフィアの異名は伊達ではない。

「先に上がるわ」

「おう。あたしはもう一杯だけ」

「飲み過ぎないでね。明日も患者がいるでしょう」

「お前もな。明日も教練あるだろ」

 龍門幣の硬貨をカウンターに三枚置いた。

 金属が木に当たる小さな音が三つ。

 ラ・プルマが指で滑らせるように回収した。

 バーを出た。

 

   ***

 

 廊下を歩いた。

 ロドス艦内の廊下は夜間照明に切り替わっていて、蛍光灯が半分消えている。

 足元に自分の影が伸びる。ブーツの底が床を叩く音が、規則的に響いている。

 左手をポケットに入れていた。

 医療区画の近くを通った。白い廊下が交差する角。消毒液の匂い。

 祥子の病室は通り道にはない。通る必要がないので、通らなかった。

 自室に向かって歩いた。教練メニューのことを頭の中で整理した。

 明日のスケジュール。午前に基礎訓練。午後にフォーム修正。

 AM小隊の五人は療養中だから、通常のオペレーターが対象だ。

 五人が訓練に復帰するのはもう少し先。

 それまでに、カリキュラムを組み直す必要がある。

 あの五人は他のオペレーターとは前提が違う。

 戦闘経験がゼロの状態から始めて、一度だけ実戦を経験した。

 その一度で何を学び、何を壊されたかを見極めてから、次の訓練を組まなければならない。

 教官の仕事。教官としての思考。いつもの回路。

「……撫でてやれ、か」

 呟いた。声は廊下の空気に溶けて消えた。

 ガヴィルの乱暴な処方箋。

 ——何も考えねぇよ、泣いてるから撫でる、それだけだろ。

 ガヴィルにとってはそれだけのことだ。泣いてる患者の頭を撫でる。

 それは医者としてではなく、人間としての自然な動作に過ぎない。

 ウィスラッシュにとっては、そうではなかった。

 教官が生徒の頭を撫でたら、教官でなくなる。

 教官でなくなったら、あの五人は支えを失う。

 送り出す側の人間は、情を挟んではいけない。

 情を挟んだ瞬間に、いちばん大事なものが崩れてしまう。

 だから止めた。あのとき。

 あの子の——祥子の頭に、左手が行きかけて、止めた。

 左手。

 かつて剣を握っていた手。競技騎士としてメジャーの十六強まで上り詰めた手。

 八強をかけた試合で壊れた手。後遺症で二度と元に戻らない手。

 あの手が、泣いている十六歳の女の子の髪に触れようとして、止まった。

 教官だから止めたのか。左手が動かないから止めたのか。

 触れて、何かが壊れるのが怖かったから止めたのか。

 どれが本当かは、酒を飲んでも、わからなかった。

 自室の前に着いた。カードキーを通す。ドアが開く。

 中に入った。靴を脱いで、上着を椅子の背にかけた。

 シャワーを浴びた。

 熱い湯が肩から背中に流れる。筋肉の強張りが、少しだけ緩んだ。

 左手で髪を梳こうとして、指が引っかかった。

 薬指と小指が毛束を掴みきれない。濡れた髪が指の間からするりと落ちる。

 右手に替えた。そちらなら問題ない。

 シャワーを止めた。タオルで体を拭いて、薄手のシャツを被った。

 鏡の中に自分がいた。湯気で曇った鏡を手で拭う。

 濡れた髪が首筋に張りついている。

 制服を脱いだ肩は、女にしては筋が太い。競技騎士の体だった。

 剣はまだ握れる。教練で型を見せるくらいはできる。

 ただ、八強をかけた試合で打った一撃。あの速度と精度は、もう二度と出ない。

 体だけがあの頃の形を残している。

 机の上の端末をスリープモードから復帰させた。明日のスケジュールが表示される。

 ベッドの端に座った。

 左手を見た。五本の指を広げた。薬指と小指の動きが鈍い。

 シャワーの湯気で温まっても、変わらない。

 左手を握った。開いた。握った。

 グラスを持つのとは違う。剣を握るのとも違う。髪を梳くのとも違う。

 誰かの頭を撫でる動作を、ウィスラッシュは想像した。

 想像しただけだった。

 明日のスケジュール表に目をやった。

 午前、基礎訓練。午後、剣技指導。夕方、ドーベルマンとの方針会議。

 教官の一日が、明日も始まる。

 ウィスラッシュは照明を消した。

 

〈つづく〉

 




次回更新:2026/3/5(木) 21時

◇次回予告
紙コップの乾杯。模擬戦。教官の問い。
先遣隊報告。感染者救護作戦。不完全な合意。
通信中継地点。押し寄せる難民。終わらない十二時間。
泣き止まない赤子。調律の狂ったピアノ。
五人は選ばされる。
第2部「コナー」
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