薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編   作:渡辺零

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※本編の続きではありません。二次創作の制作過程についての読み物です。第一部(第1話〜第10話+幕間)のネタバレを含みます。


第一部あとがき(怪文書)

■はじめに

「薄明譫言」を読んでくれている方に向けて、第一部あとがきがわりに、この作品がどういう設計思想で書かれているかの話をする。

ネタバレは第一部(第1話〜第10話+幕間4本)の範囲にとどめる。第二部についてはネタバレなしで少しだけ触れる。

まず自己紹介を短く。ぼくは漫画原作者・シナリオライターをやっている渡辺零という人間で、2010年頃から2020年頃までコミケなどで二次創作の同人小説を書いていた。その後は商業媒体に行って、シナリオを書いたり漫画原作を書く仕事をしている。「薄明譫言」は丸6年ぶりの二次創作で、趣味100%。誰にも頼まれていないし、締め切りもない。好きで書いている。

だからこそ、普段の仕事ではできないことをやりたかった。

 

■出発点——コラボシナリオの感想と、そこから始まった問い

コラボイベント「安らかな譫言」のシナリオは、もの凄く良かった。

祥子が4人の夢を渡り歩き、全員に拒絶され、自分も「亡き母が生きている完璧な夢」に落ちる。そこから自力で覚醒し、アーツとピアノで仲間を引き戻す。「5人とともにいたい」という祥子の願いが、インセプションのような入れ子の夢構造の中で試され、最後に叶えられる。

これは救いの物語として成立している。ぼくはそこを否定するつもりはまったくない。

ただ、ひとつだけ不満があった。

アークナイツの文体特性だ。キャラが喋りすぎる。演説しすぎる。自分の感情を言語化しすぎる。アークナイツ本編はその傾向がきわめて強いストーリーテリングだが、コラボシナリオではそれがAve Mujicaの5人に適用されてしまった。

Ave Mujica原作アニメの面白さは「何を書いて何を書かないか」の精緻なコントロールにある。祥子が本心を言わない。睦が黙る。初華が笑顔の裏に何かを隠す。言葉にされないものが、表情と沈黙と行動の隙間から滲む。それが積み上がって、あるとき、致命的なズレとなってドラマが動く。ぼくが「人間ドラマの玉突き事故」と呼んでる手法だ。

コラボシナリオでは、この設計思想がアークナイツの文体に上書きされてしまった。

一例を挙げる。コラボシナリオ最終盤、アイリスと対話する祥子の台詞、ローカライズされた日本語テキストの原文ママだ。よく読んで欲しい。

 

祥子「実は彼女のおっしゃる通り、Ave Mujicaは固い絆で結ばれたバンドではありませんわ。最初にモーフィアスの勝負を受けたのは眠っているメンバーを一刻も早く助けたかったから。冷静な判断とは言えませんでした。ですが夢の中に入り一人一人から拒絶された時、私は皆さんの心の内を何も分かっていなかったことにようやく気がついたのです。モーフィアスの夢の中で私たちは表面的な幸福に溺れ、心の中の弱い部分は見ないようにしておりました。私はこれまで共に過ごしてきた仲間を理解しようとしたことがあったのでしょうか。本当に誰かの人生を預かる覚悟はあったのでしょうか。夢なき境界の深淵に落ちていく途中で私は何度も自分に問いかけましたわ。ようやく迷いを断ち切り、皆さんを一人ずつ夢から覚まして、もう一度モーフィアスの前に立った時、最初に浮かんだのは怒りでしたわ。それと同時に言葉にできない感情も湧いてきたのです。心の底から込み上げる悲しみのような感情が。モーフィアスと再会した時ふと気づきました。私はもう弱い人間ではなく、そばには仲間がいるのだと。ですが、今でも彼女のそばにいるのは自分の意のままに動く作られた存在だけ。夢の作り手である彼女なら夢に出てくるものが全て偽りであることは誰よりもよく分かっているはず……分かっているはずですのに、それでも夢を作り続けてその中に自ら溺れていったのです。きっと彼女なりの理由があるのでしょう」

 

お分かりのことと思うが、原作の祥子はこんな長台詞を絶対に言わない。

内容そのものがおかしいわけじゃない。祥子が経験したことの要約としては正確だ。問題は、それが全部「台詞」として出てきていることだ。祥子は自分の至らなさを完璧に分析し、仲間への理解の欠如を論理的に整理し、感情の変遷を時系列に沿って淀みなく語っている。まるで自分の精神分析レポートを音読しているようなこの喋り方は、Ave Mujicaの祥子じゃない。

これはコラボシナリオの瑕疵というより、アークナイツというゲームの根本的なシナリオ設計思想から来ている。

アークナイツにおいて、言語化は力だ。自分が何を考えているか、世界をどう認識しているかを、隙のない論理で語れること。思想を言葉にして相手にぶつけられること。それがキャラクターの知性と格の証になる。「深く考えている」ことと「それを言語化できる」ことがイコールで結ばれていて、雄弁であること自体がキャラクターの強さとして機能する。だから主要キャラクターは皆「演説」する。そしてアークナイツの物語は、その演説同士の衝突——キャラAの思想がキャラBに論破され、その応酬を通じてシナリオが次の段階に進むという弁証法的な構造——で駆動している。これはアークナイツのストーリーテリングの設計思想そのものだ。

この設計思想の背景に、中国発のゲームシナリオやSF、ネット文学の文法の影響があるのかどうかは、ぼくは詳しくないので断言できない。ただ、日本のソシャゲシナリオとは明確に毛色が違う。「自らの思想を演説すること」を「キャラ見せ」として扱う作品を、ぼくは日本のソシャゲではあまり見ない。というか、ぼくの職務上の経験からすると、日本の漫画やシナリオの現場でこれをやると100%「喋らせすぎ」「キャラに思想を演説させるな」と強いリテイク要請がくる。アークナイツはそのリテイクが来ない世界で書かれている。それ自体は作品の美点であり、あの作風はこの設計思想なしには成立しない

 

一方、Ave Mujicaのシナリオ設計思想はまったく逆だ。

Ave Mujicaは「言語化に失敗し続ける」物語だ。本当の感情は喉の奥につっかえて言葉にならず、代わりに棘や沈黙や嘘が出力される。祥子はリーダーとして完璧に振る舞おうとして空回りし、挙げ句傷ついて「忘却」に走り、海鈴は本音を敬語で隠し、初華は笑顔で全部飲み込み、睦は言葉自体を持っていない。言葉を尽くして理解し合うことなどできない。だからドラマが動く。他では味わえない味がする。

「言語化することで世界と対峙する」物語と、「言語化に失敗することで人間が壊れていく」物語。どちらが優れているという話じゃない。設計思想が根本から違う。

コラボシナリオでは、その二つが衝突した。アークナイツの舞台に立った以上、アークナイツの文法が適用される。だから祥子は雄弁になった。自分の弱さを完璧に分析し、仲間への思いを隙のない言葉で宣言できてしまった。そうすることで、コラボシナリオとしてのカタルシスは成立した。あのシナリオを読んで「良かった」と思える背景には、Ave Mujica原作で奪われた言葉を、「アークナイツの文法が適用されることで」祥子が再獲得したという背景がある。ここは結構重要な視点だとぼくは思う。

同時に、ぼくの中には「じゃあ、あの5人をアークナイツの文体から引きずり戻したら何が起きるのか」という問いが残った。

テラという世界を舞台にしたまま、5人に「言えない・伝わらない」Ave Mujicaの文法を取り戻させる。テラの民が殺され、仲間が傷つき、判断を間違えれば人が死ぬ極限状態で、それでも5人は雄弁になれない。言葉にならない。自分の思想を演説する余裕なんかない。本心は喉の奥で詰まって、代わりに怒号や沈黙や八つ当たりが出てくる。

 

そしてもうひとつ、考えたことがあった。

コラボシナリオは夢の中の話だ。夢のルールがあり、アイリスのネックレスがあり、「思い描く通りの姿になれる」という法則がある。祥子が5人を救えたのは、夢の条件が整っていたからだ。

じゃあ夢の外では?

コラボシナリオが美しく閉じたものを、こじ開けたくなった。アークナイツの文法と、夢の条件。その両方を剥がして、テラという物理的な地獄に5人を置いたとき、「5人とともにいたい」は本物なのか。

そこが出発点だった。

 

■テラにいる方が幸せそうな5人

プレイアブルキャラとしての5人のプロファイルを読むと、奇妙なことに気づく。

テラにいる方が幸せそうなのだ。

祥子。豊川家の血筋、父の失墜、ボロアパートでの困窮生活、CRYCHIC崩壊で負った傷、Ave Mujicaの5人の人生を預かる重責。テラではそのすべてが消える。「何者でもない新人オペレーター」として肉体労働をして汗を流して、匿名のメモで見知らぬバイオリン弾きと心を通わせている。ロドスの業務制度を褒めて、ドリンクバーの混ぜ方を知っていて、ブリッジで叫ぶと気持ちいいと笑う。そう、祥子が笑っている。

海鈴。プロファイルにはこう書かれている。「任務を共にしたオペレーターは時折、距離を感じる」。でもそのストイックさは「有能なパートナー」として評価されている。30バンド掛け持ち時代と同じ他者との距離の取り方が、テラでは「頼れる仲間」に変換されている。やっていることは現代日本と同じなのに、テラではそれが長所になっている。

にゃむ。ゴールデングローの美容室でメイクを手伝い、鉱石病の子供たちに「麦は踏まれてもどんどん強くなる」と励ます。配信環境がなくても人と繋がれている。にゃむの才能は、カメラの向こうじゃなくて目の前の人間に向けたとき一番輝く。動画配信者としての計算やタレントとしての野心を全部剥がしたとき、残るのは熊本の大家族で弟や妹の面倒を見て育った女の子の地金だ。テラにはカメラもフォロワー数もないから、その地金がそのまま出ている。

初華。「初音」という本当の名前を知っているのが祥子だけの世界。それだけ聞くと祥子への依存が強まりそうなものだが、プロファイルを読むと逆のことが起きている。アステシアと星を見て、占星術を学んで、祥子のいない場所で自分の時間を持っている。もちろん祥子と甲板で夜空を眺めて「二人で見る星空はこの上なく美しい」と言う初華はいる。でもそれは、祥子しか見えていない初華じゃない。祥子以外の人間と関係を結んだ上で、それでも祥子のそばにいることを選んでいる初華だ。原作では祥子への実存レベルの依存がこの子の行動原理のすべてだった。テラではその依存が、ほんの少しだけ解けている。

睦。ロボットと友達になった。Lancet-2、THRM-EX、Castle-3、Friston-3。期待を押し付けてこない存在とだけ心を開ける。「みなみちゃんやたぁくんを知らない」世界で、誰にも芸能人の娘として見られない世界で、野菜を育てて、ロボットと話して、巨大きゅうりの栽培に成功して栽培禁止になる。

5人ともテラの方が幸せそうだ。

でも、その「幸せ」の正体は何か。

テラは5人の傷を癒していない。テラは5人の歪みを「歪み」として認識しない世界なのだ。

睦の多重人格は、現代日本では精神疾患だ。テラでは傀儡師の戦闘適性になる。海鈴の回避的な対人パターンは、現代日本ではトラウマ反応だ。テラでは潜伏者の特性になる。初華の依存的な献身は、現代日本では共依存だ。テラでは吟遊者のサポートスキルになる。

ゲーム設計者はこれをわかってやっている。性能設計がキャラクターの精神構造の翻訳になっている。5人の壊れ方がそのまま戦闘能力に変換されている。だからプレイアブルキャラとしての5人はテラに「適応」しているように見える。

ぼくは実際にゲームをやったとき(ぼくは2020年のリリース日からやっている重課金プレイヤーだ)、まず祥子が☆6前衛として普通に強いことに笑った。AveMujicaだけの編成でボスステージをクリアできる。このお嬢様は戦場の中央で5人を率いて戦い、S3発動中は全員に不死効果を与える。バンドのリーダーが、そのまま戦場の指揮者になっている。

そして睦のレベルアップボイスに食らった。

「わかってる……これはパフォーマンスじゃない。この人たち、本当に死んだんだ。」

戦術記録を見せてレベルを上げたとき、睦はそう言う。

戦闘中のボイスを並べると背筋が冷える。「ここの敵、そんなに怖くない」「何も、考えなければ……」「訓練通りにやるだけ」。この子は「殺す役」を演じることで殺し合いに適応している。人生で無数の「役」を演じ分けて自分を摩耗させてきた子が、テラでもう一つ「役」を増やしただけだ。母親に「バケモノ」と言われた能力が、戦場では最高の生存装置として機能する。

ゲームボイスを聴く限り、5人の中で殺し合いにいちばん適応しているのは睦だ。海鈴は潜伏者として冷静に動ける。初華は祥子を優先して回復する。そこはどうしようもなく初華だ。にゃむは安定してFeverを供給する。祥子は全体を指揮する。5人はテラに適応している。

でも、コラボシナリオの終了時点で彼女たちは、テラの世界にやってきたばかりの女子高生だった。

間に何があったのか。

睦が「この人たち、本当に死んだんだ」と静かに言える子になるまでに、何があったのか。

 

■掘り方の話——戦記モノにした理由

ここで問題になるのは二次創作としての掘り方だ。

コラボシナリオの終わりから、プレイアブルキャラの状態に至るまでの過程を描く。それ自体は二次創作のテーマとして自然だ。でも、描き方を間違えると、ただのパワーアップ物語になる。「女子高生が異世界で訓練して強くなって大活躍する話」。分かりやすく「無双」系の「異世界転生」で、分かりやすく「気持ち良い」。そうじゃない。

ぼくがやりたかったのは、極限状態で5人の仮面を剥いで、5人の関係性を問い直す話だった。

Ave Mujicaの5人には全員「仮面」がある。祥子は完璧なリーダーを演じる。海鈴は距離を取ることで自分を守る。初華は「初華」を演じ続ける。睦は求められた「役」を演じる。アニメでは、その仮面が剥がれていく過程がドラマだった。

テラの戦場は、仮面を剥ぐのに最適な環境だ。砲弾が降り、仲間が傷つき、判断を間違えれば人が死ぬ。そこでは演じる余裕がない。5人の素顔が、望むと望まざるとにかかわらず出てくる。

 

だから戦記にした。戦記という形式を借りることで、カタルシスを極限まで遅延させられる。人が死ぬ。判断を間違える。怪我をする。恐怖でフリーズする。読者に「気持ちいい」を返さないまま、ずっと負荷をかけ続ける。そうしないと5人の仮面は剥がれない。日常の延長では、祥子は完璧なリーダーを演じ続けられるし、初華は「初華」として笑い続けられる。仮面を剥ぐには、演じる余裕を奪うしかない。趣味で書いているからこそ、その遅延が実現できる。締め切りも打ち切りもない(1→2話で離脱読者が大量に出るだろうなと思ったら案の定そうなった)。5人の仮面が本当に剥がれるまで、必要なだけ負荷をかけられる。これは、「気持ちよさ」をどう提供し続けるかが求められる商業の仕事では絶対に許されない行為だ。だからやっていて気持ち良かった。「趣味で書いている」と胸を張って言えるのはここが理由だ。

 

■制作ルール——何をしないか

この作品には、書き始める前に決めたルールがいくつかある。

その話をする前に、ぼくの普段の仕事の話を少しだけさせてほしい。

 

ぼくはいわゆるIPの仕事でシナリオを書いている。権利元が持っているキャラクターを、物語の上で動かす仕事だ。一見してやっていることは二次創作と変わらない。他人が作ったキャラクターを預かって、そのキャラクターに喋らせ、行動させ、物語を作る。ただ、商業の現場では守るべき優先順位がある。

まず、キャラクターの「売り」を把握する。このキャラの魅力は何か、読者やユーザーはこのキャラの何を好きなのか。次に、行動原理を頭に叩き込む。このキャラはどういう生い立ちを持っていて、どういう動機で動くのか、何を欲していて、何を恐れているのか。ここがブレるとキャラがブレる。そしてNG行動の把握。「これをやるとキャラが壊れる」ラインを把握する。言わせてはいけない台詞、取らせてはいけない行動、踏み越えてはいけない一線。最後に、成長譚を書く場合は初期状態の欠落を定義する。そのキャラに何が欠けていて、その欠けがどう埋まっていくかがドラマになる。このドラマを最大化するために、欠落の定義をキャラの根幹に沿うかたちで再解釈する場合もある。

これは二次創作でもまったく同じだとぼくは思っている。他所のキャラクターを預かる以上、そのキャラの行動原理を自分の中にインストールして、NG行動を踏まない範囲でドラマを作る。売りを殺さない。でも売りをなぞるだけじゃなく、原作では見えなかった角度からキャラを照らす。そしてドラマを最大化する。その匙加減がシナリオライティングの醍醐味でもあり、難しさでもある。

 

この仕事の経験から来ている、いちばん大事なルールが以下だ。

「5人の問題は、アークナイツ側のキャラクターに絶対に解決させない」

この題材で最もやりがちで、ぼくが最もつまらないと思うパターンがある。「別作品のキャラが問題を解決してくれる」だ。たとえば、ケルシーが祥子に的確な助言をして祥子が立ち直るとか、ドクターが祥子の心を開くとか。読者としてはそれなりに気持ちいいかもしれない。でも、それをやった瞬間、Ave Mujicaの物語じゃなくなる。

あと、キャラクターの問題を外部の力で解決するのは、単純に面白くならない。ケルシーが正しいことを言って祥子が「そうだったんですね」と気づいて変わる。それはドラマじゃなくてフラグ処理だ。キャラの問題が他人の一言で解決するなら、その問題は最初から大したことなかったということになる。祥子たちが抱えているものは、そんなに軽くない。

祥子の問題は祥子自身が向き合うしかない。5人の問題は5人の関係性の中で向き合うしかない。アークナイツのキャラクターにできるのは、環境を提供することだけだ。訓練の場を与える。医療ケアを提供する。戦場に送り出す。でも、5人の間で起きていることに手を突っ込む権利は、アークナイツ側のキャラクターたちにはない。

だからウィスラッシュは5人を鍛えるが、5人の関係性には口を出さない。ガヴィルは祥子のそばにいるが、医者としての職務以外何もしない。アイリスの夢のアーツは祥子のトラウマを解決しない。サイラッハは当事者としての傷を語るが祥子の傷の核心までは踏み込まない(なので9話はものすごい回数書き直した)。アークナイツ側のキャラクターは、ある種「テラの世界」そのものとして機能する。5人が身を置く環境であり、5人を試す圧力であり、5人を見守る目であり、でも、5人の代わりに答えを出す存在ではない。

 

もうひとつルールがある。

少なくとも第1部までは、分かりやすい「活躍」を書かない。

5人が戦場でカッコよく敵を倒す話は書かない。もちろん戦闘描写はある。でもそれは「活躍」じゃない。生き延びるためにやむを得ず行う暴力であり殺傷行為だ。初華がクロスボウで人の喉を撃つのは、カッコいい場面として書いていない。祥子の命令で、祥子のために、初華が自分の意志でやったことだ。

この作品でなぜか一番PVが跳ねたのが、まさにその回だった。第6話。初華が人を殺す回だ。

 

■初華が人を殺す回のこと

第6話「終わったよ、さきちゃん」。反響を多くいただいた回なので、設計の話をする。ただしここは「どう書いたか」よりも「どう逆算したか」の話だ。

第一部のドラマの設計を考えたとき、つまり5人の仮面を剥がして、5人が5人でいることの意味を問い直させるとき、まず最初に決めたのは「コラボシナリオの救済構造を反転させる」だった。

コラボシナリオで祥子はアーツとピアノで4人を夢から引き戻した。「皆さんの人生を預かる」と宣言して、実際にそれを果たした。夢のお城での成功体験。あの体験を土台にして祥子は外勤を志願し、5人を戦場に連れて行く。

 

ぼくがこの二次創作でやったのは、その土台をへし折ることだ。

祥子に「忘却」を許さない。「4人の人生を預かる」と宣言した人間が、その宣言の帰結として何を引き受けることになるのかを、逃げられない形で突きつける。コラボシナリオが与えた救いを、そのまま自己告発の材料に反転させる。あの宣言が嘘だったのではなく、あの宣言が本物だったからこそ、現実の重さに耐えられなくなる構造にする。

そこからは逆算だ。忘却が許されないほどの罪は何か。その罪から逃げられない構造は何か。報告書だ。事後行動報告書には主語を書かなければならない。誰が命じて、誰が実行したか。消すことは改竄だとウィスラッシュに言わせる。祥子は自分の手で、初華と睦の名前と「射殺」という単語を同じ行に書かなければならない。

ではその報告書に書かれる内容は何か。誰が何をしたのか。

初華が、祥子のハンドシグナルで人を殺せばいい。

 

ここで初華を選んだのは必然だった。Ave Mujicaの初華は、祥子のためだったら山に死体を埋めに行く子だとぼくは思っている。

初華の行動原理は、どこまでいっても「さきちゃん」だ。それはアニメでもコラボシナリオでも変わらない。ただ、その「さきちゃん」の中身は単純な親愛じゃない。初華は祥子に対する親愛と執着と依存と性愛と自罰感情がぐちゃぐちゃに一体化していて、本人にも区別がついていない。原作で「私の人生全部あげる……あげる」とするっと、しかもうっとりした顔で言える子だ。あの台詞の怖さは、嘘じゃないところにある。本当に全部あげるつもりで言っている。愛と、献身と、歪みと、危なさが区別なく同居している。ここまで熱弁したらばれていると思うが、ぼくはこの2人のカップリングが好きだ。理由はあぶないから。

テラの戦場に置かれたとき、その行動原理は「祥子のために人を殺す」に変換される。これはもう間違いない。吟遊者として祥子を回復しサポートするゲーム上の設計が、小説の中では「祥子の殺害命令を忠実に実行する」行動として具現化する。

しかも初華は、この二次創作の6話において、祥子に命じられたから撃ったのではない。祥子が「排除」のハンドシグナルを出す前に、初華はすでにクロスボウを構えている(読み返してみて欲しい)。それはつまり、祥子の判断を先読みして、自分から準備したということだ。命令の前に行動している。作詞家として、バンドメンバーとして、初華は祥子が何を望むかを常に先読みしてきた(彼女なりに、という但し書きがつくだろうが)。テラでは、それが「指揮官が出す前に命令を読む兵士」になる。

この回で初華がやることは、石垣の角から出てきた敵兵の喉にクロスボウのボルトを撃ち込むことだ。胸を狙ったのに手が跳ね上がって喉に刺さる。頸動脈を裂いて、血が脈に合わせて噴く。敢えて生々しい描写にした。初華はそのあと、瀕死の男を無視して、黙々と装填を続ける。睦が二人目ともみ合っている音を聞きながら、8秒かけてクロスボウの弦を引く。教練で何百回もやった動作を、教練と同じ手順で行い、二人目の後頭部にボルトを撃ち込む。

ぼくがこの場面で書きたかったのは、初華の「スイッチが切れる」怖さだ。人を撃った直後に、瀕死の男を視界から消して、黙々と次の装填に入る。そこに躊躇がない。人を殺すことに対する心理的ハードルを、初華は「さきちゃんのために必要な手順」として処理している。

初華は、「さきちゃん」に関わることであれば極限状態でスイッチを切れる子だとぼくは思う。逆に言えば、さきちゃんに関係ないことでは切れない。これは冷酷さじゃないし、訓練された兵士の合理性でもない。祥子のためなら自分の中の何かを躊躇なくオフにできてしまうという、途方もなく歪んだ献身だ。「私の人生全部あげる」の延長線上に人殺しがある。あの台詞と同じ温度で、同じ本気度で、初華はクロスボウの引き金を引いている。それは怖い。でも同時に、どうしようもなく人間臭い。愛と呼ぶには危なすぎるし、狂気と呼ぶには一途すぎる。親愛の裏返しとしての盲信。執着の純化としての殺意。初華という人間のいちばん美しくていちばん危険な部分が、あの石垣のシーンで剥き出しになっている。ぼくはあの子のそういうところが好きで、だからこそ容赦なく書いた。

ただ、誤解してほしくないのは、初華はサイコパスではないということだ。読み方によってはそう見えるかもしれない。スイッチを切って人を殺し、直後に黙々と装填し、また人を殺し、そして帰還後に粛々と剣技訓練をこなす姿は、感情が欠落した人間に見えるかもしれない。でも違う。初華のスイッチは「さきちゃんのため」という回路を通ることでしか切れない。それ以外の場面では、この子はアステシアと星を見て笑い、甲板で祥子と夜空を眺めて「美しい」と言える子だ。感情がないんじゃない。感情の回路が祥子に向かって極端に歪んでいる。そしてヒロックでの経験を通じて、初華は初華なりに壊れ続けている。ただ、その壊れ方が外から見えにくい。祥子にすら見えていない。初華は笑顔で全部飲み込む子だから。壊れていることを祥子に悟らせない。祥子は4人の人生を預かると宣言した人間なのに、いちばん近くにいる初華の壊れ具合の進行が分からない。ここが今後のドラマの種火になる。そう思って書いている。

 

■おわりに

ぼくがこの二次創作を書いている理由は、突き詰めると単純だ。Ave Mujicaの5人が好きで、この5人に幸せになってほしくて、でも「幸せ」を安く描きたくないから、過酷な場所に置いている。テラという世界は5人を本気で殺しにくる。でもそこで5人が5人であり続けることが、ぼくにとっての「幸せ」の描き方だ。

書きながら発見したことがひとつある。にゃむのことがすごく好きになった。

書き始める前のぼくの中で、にゃむは5人の中では比較的「わかりやすい子」だった。停滞しがちな4人のドラマを「動かす」子。キャラクターの「機能面」での輪郭がはっきりしている分、掘り甲斐は他の4人より少ないんじゃないかとさえ思っていた。全然違った。

ヒロックの極限状態を書いていく中で見えてきたのは、この子の地金だ。熊本の大家族で弟や妹の面倒を見て育った芯。「成り上がってやる」と単身上京してきたハングリーさ。プロであることを自分の誇りにできる子。だからこそ芝居ができなくなったとき根底から揺らぐ子。睦(ムーコ)への嫉妬と憧れと愛おしさがぐちゃぐちゃに混ざったまま仕分けできていないけど、それでも負けたくないで突き進める子。仕分けできないことをたくさん抱えたまま逃げない。怒るときは怒る。泣くときは泣く。5人の中で、自分の感情に対していちばん正直でいられるのは、たぶんこの子だ。

いつか5人が十分に成熟したとき、祥子と酒を飲んでいちばん腹を割って話せるのはにゃむなんじゃないかという予感がうっすらある。祥子が完璧なリーダーの仮面を外して、にゃむがプロの武装を外して、ただの人間同士として向き合える日が来るとしたら。その日を書けるかどうかはまだ分からない。第二部はまだ序盤で、5人はまだ壊れている途中だ。でもその先に、そういう時間があると信じて書いている。

この制作ノートを読んで、5人のことを少しでも好きになってくれたなら嬉しい。すでに好きだった人が、本編を読み返したくなってくれたら、もっと嬉しい。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

第二部もご贔屓にしていただけると嬉しいです。

 

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