薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
BanG Dream! It's MyGO!!!!! / Ave Mujica の履修を前提としています。
第11話「生きてることに」
——この手で、もう一度。
第二部「コナー」
ロドス艦内の座学教室。蛍光灯が消えて、壁のスクリーンだけが白く光っている。
プロジェクターに映る録画映像で、祥子たち五人が動いていた。
訓練場の固定カメラから見下ろした俯瞰映像。ヴィクトリアの市街地を模したフィールドに、五つの人影が散っている。
フラッグ争奪戦。フィールド奥に立てられた旗を先に奪ったチームが勝ち。
映像が一時停止される。開始直前のフレームだった。
「開始時の配置を確認するわね」
ウィスラッシュが端末を操作して、画面の中に白い線を引いた。五つの人影を囲む円と、移動経路を示す矢印。教範の図解と同じ記法だ。
自陣フラッグの前に祥子。部隊指揮官兼アーツ射手。
祥子の前方に睦。正面からの攻撃を祥子に通さない盾役。
攻撃組はにゃむと海鈴のツーマンセル。中央通路ににゃむ。戦槌を構えた足止め役。通路の幅は、にゃむが戦槌を振れば端から端まで届く。立っている限り封鎖可能だ。
にゃむの左側、壁沿いの路地入口に海鈴がいて、剣を提げている。にゃむが中央を押さえている間に、左の路地を駆け抜けて敵陣フラッグへ切り込む突破役だ。
そして、後方の支援位置に初華。クロスボウの射角が、中央通路と左路地の両方をカバーしている。
模擬戦前のブリーフィングで祥子が指示した通りの配置だった。
「再生するわ」
映像が動いた。
——八秒目。一時停止。
画面の中で、海鈴が動いていた。壁沿いの路地入口から、右に位置を変えている。
「八幡。開始八秒で配置を離脱。隊長の指示が出る前。なぜ?」
「相手チーム——レンジャーさんの動きが見えました。射線に入ると判断しました」
海鈴の声が聞こえた。祥子の右隣。背筋を伸ばしたまま。
「射線を避けた判断は正しい」
ウィスラッシュが、スクリーンの海鈴を指している。
「けど、あなたの役割は左路地からの突破でしょう? 突破ルートを再確保できない位置に逃げてる。隊長に報告もしていない」
「……はい」
海鈴の声音が固い。指摘が正確だから返す言葉がないという固さだった。
ウィスラッシュが再生した。映像が四秒進む。
——十二秒目。一時停止。
にゃむが右に跳んでいた。位置も後ろに下がっている。中央通路の封鎖位置を離れていた。
「祐天寺。配置離脱。豊川の指示は中央維持。八幡が動いたのを見て、道を空けようとした?」
「……はい」
にゃむの声が左隣から聞こえた。
「仲間を見て動いた。判断としては悪くないわ」
ウィスラッシュが画面を指した。中央通路の白い空白。にゃむの戦槌がカバーしていた幅が消えている。その空白を、敵チームのヤトウが走っていた。にゃむが右に跳んだ瞬間、膝を低く沈めて加速している。目の前の壁が消えたことを察知していた。
「——けど結果はこう。中央が空いて、突破を許した。前衛二人の連携ミス」
にゃむも海鈴も、口つぐむ。
ウィスラッシュが映像を切り替えた。訓練用ドローンの空撮映像。低空からの斜め俯瞰。
甲高い羽音がスピーカーから漏れた。
一瞬、祥子の指先が冷える。ヒロックの夜。牧草地の上空を旋回した偵察ドローンの羽音。
映像。敵チームのヤトウに中央突破を許した直後のタイミング。
——十四秒目。一時停止。
画面の端。初華が動いていた。支援位置を捨て、祥子の前に出ている。ちょうど祥子を庇う位置だ。
「三角。支援位置を放棄」
初華が唇を噛んだ。スクリーンの光が初華の横顔を照らした。小さな動作。祥子にしか見えない角度だった。
「……はい」
「あなたは射手よ。豊川の前に立つ盾じゃない。支援位置からクロスボウを撃てば、ヤトウを足止めできたはず」
初華の指がスカートの上で丸まっていた。
「……その通りです」
ウィスラッシュが映像を固定カメラに戻した。俯瞰。天井から見下ろした五人。
全員がバラバラに動いている。祥子のアーツだけが飛んでいる。追尾弾が三つ。遅い。映像で見ると、練度の浅さがはっきりわかった。
——二十七秒目。
一時停止。
フラッグを奪取され、審判の笛が鳴る直前のフレーム。ウィスラッシュが映像を止めた。
「若葉。ヤトウが突っ込んできた時点で体が止まった。止まった盾は壁にもならないわよ」
「……」
ウィスラッシュの目が、祥子に来た。
「豊川。配置は正しい。構想も正しい。教科書通り」
褒めている声ではなかった。
「けど、連携が全然機能してない。前はもう少し——」
ウィスラッシュが口を閉じた。教鞭の先端が床を一度だけ叩いた。乾いた音が教室に響いた。
「なぜだと思う?」
祥子は考える。映像の中の自分。俯瞰で見た五人。
にゃむと海鈴の連携が崩れた。初華が支援位置を放棄した。睦が止まった。祥子のアーツは使い物にならなかった。
「……わかりませんわ」
「考えなさい。それが隊長の仕事よ」
ウィスラッシュの踵が鳴った。靴底の金具が教室の床を叩いた。
「今日はここまで。明後日、同じ相手ともう一回——いいわね」
足音が教室から遠ざかった。
***
訓練場備えつけのシャワー室。祥子は四番目のブースを使った。ぬるい湯が頭から流れた。排水口に砂が溜まっている。訓練場の土だった。
シャワーの湯の音だけが聞こえていた。薄い壁一枚で隔てられているだけなのに、誰も会話しなかった。
洗面台。曇った鏡が五つ並んでいる。壁付けのドライヤーが二台。蛍光灯の色が青白い。
にゃむが鏡の前で髪を乾かしていた。左手でドライヤーを持ち、右手で毛束を散らしながら根元から風を当てている。その右前腕に、縫合の跡が走っていた。肘から手首まで。ガラスの破片が皮膚を割いた線。ヒロックで負った傷だった。
縫合糸はもう抜いてある。だが、傷跡は赤く盛り上がったまま残っている。シャワーの湯で赤みが増していた。にゃむはその腕を鏡越しにちらりと見て、袖を下ろした。
海鈴はタオルで髪を挟んで水気を取っている。絞らずに挟んで、押して、離す。同じ動作を毛先まで繰り返す。傍らにプロテインのボトル。出たらすぐ飲むためだ。海鈴の一日はすべてこの調子で、動作と動作の間に隙間がない。
睦はタオルで頭をわしわしと拭いて、そのままタオルを首にかけてぼーっとしていた。濡れた前髪が額に張りついている。鏡は空いていたが、睦は素通りした。
初華はもう着替え終わっていた。鏡の前で前髪を指先で直している。その目が、前髪ではなく鏡の奥を見ていた。ドライヤーを持つ祥子の姿。祥子が気づいて顔を上げると、初華はもう自分の前髪に戻っていた。
祥子は髪を乾かしていた。長い髪だから時間がかかる。元の世界で使っていたヘアオイルはテラにない。支給品のドライヤーは風量が足りない。毛先が冷えたまま乾かない。指に絡まった髪を解いていると、脱衣所の入口から声が飛んできた。
「あ、みんなそろってんじゃん!」
ヴィグナだった。赤い瞳に赤い髪。小柄なサルカズ。ギタリストで、槍使いの突撃兵。
訓練着のまま、首にタオルを引っ掛けている。ヴィグナは全身で笑う。人に好かれる笑い方を、体で覚えている子だった。
「ねえねえ、次のマスカレードいつやんの? この前のやつ、すっごい評判よかったんだよ? サンクタのみんなもケオベも、またやってって」
ドライヤーを持つ祥子の手が止まった。鏡の中に全員が映っている。にゃむと海鈴の手が止まっていた。睦のタオルが頭の上で静止していた。初華だけが笑った。いつもの顔で。鏡の中の初華が、ヴィグナに向かって振り返った。
「ありがとう、ヴィグナちゃん。またやるね」
声に温度はあったが、平たかった。笑顔に、声が少しだけ追いついていない。
ヴィグナは気づかなかったようだった。「楽しみにしてるね!」と手を振ってシャワーブースへ入っていった。
初華の笑顔が消えた。消えた、というより、維持する力がなくなったといった方が正確だった。
にゃむがドライヤーを壁に掛けた。祥子を見て、何か言おうとして、やめた。そんな雰囲気だった。
祥子は鏡越しに四人の顔を順に見回した。にゃむ。海鈴。睦。初華。
あのヒロックの夜を生き延びて以降——祥子たち五人は、マスカレードを、やっていない。
ヒロックの前、艦内に急造した手作りのステージで五人が演奏した最後の夜。楽器を弾いて、初華が歌って、音を合わせた。ヴィグナが前列で拳を突き上げていた。ケオベの尻尾が千切れるほど振れていた。あの夜、五人の音は合っていた。
「——ごはん行こ」
にゃむが言った。声が一段低かった。直前までの雰囲気を断ち切るための「ごはん行こ」だった。
***
ロドス艦内のカフェテリア。隅っこのテーブルに祥子たち四人がいた。にゃむだけがいない。食べ終えるなり「購買部行ってくる、すぐ戻る」と言って席を外していた。
海鈴が食器を重ねている。睦が椅子に座ったまま、テーブルの木目を指でなぞっている。初華は空のカップを両手で包んでいる。
祥子は二杯目の紅茶を飲みながら、テーブルを見ていた。
元の世界で、この五人は同じ食卓を囲んだことがなかった。リハーサルが終われば解散した。ライブも同じ。打ち上げはしない。武道館のあとでさえそうだった。
テラに来て初めて、五人がテーブルを囲んでいる。奇妙だった。慣れない。だが、嫌ではなかった。
にゃむが戻ってきた。
紙袋をひとつ抱えている。テーブルの上にそれを置いた。
ドン! と大きな音がしてテーブルが揺れた。中でガラスどうしが当たる重い音が響いていた。
紙袋の口から覗いているのは、琥珀色の瓶だった。三本ある。
「……にゃむ。それは」
「エール」
瓶詰めの、ヴィクトリア産ビールだった。
「……わたくしたち、未成年ですわよ」
「サキコ。ここテラだよ。日本じゃない」
にゃむの口元は笑っている。だが、目が笑っていない。
「あのさ」
声が一段低くなった。
「アタシたち、ヒロックで戦争してきてんだよ。それでビールがダメって、ある?」
にゃむの視線が、一瞬だけ初華と睦に向いた。そして祥子を見た。
「甲板、行かない?」
にゃむがポケットから紙コップを五つ出した。給水器の横にあるやつだった。
***
甲板の風は冷たかった。ロドスはコナー郡付近を移動している。冬だった。息が白い。全員厚着した上で、部屋から毛布を持参してきた。
手すりの向こうにヴィクトリアの夜が広がっている。農地の上に星が出ていた。北斗七星もオリオンもない、テラの星空。元の世界より星が多い。源石粒子のせいか、星の色がどれもわずかに赤い。教練で習った二つの不動星が、冬空の低いところに並んでいた。
にゃむが瓶を手に取った。ポケットから出したサバイバルナイフの背を栓に当てて、手首のスナップでコツンと叩いた。栓が飛んで甲板の床を転がった。一発だった。
「それ、どこで覚えましたの」
「購買部のジュースの瓶。教わったの。コツがあるんだよ。瓶の首じゃなくて、栓の縁を叩くの」
にゃむの手つきに迷いはなかった。ロドスに来てから身につけた技術だった。
甲板の床に、にゃむが紙コップを五つ並べて、エールを注いだ。泡がほとんどなかった。琥珀色の液体が紙コップの中で揺れている。麦の匂い。焦げたカラメルの甘さ。
甘い匂い。
バノフィーパイのタフィーの匂いが重なった。車内に充満した甘い匂い。胃が一瞬きゅっと縮んだが、すぐに戻った。
カラメルとタフィーの匂いは違うと、頭ではわかっている。胃が追いつくまでに二秒かかった。
「何に乾杯する?」
にゃむが聞いた。紙コップを持ち上げている。
「……模擬戦の敗北に?」
海鈴だった。
「暗。暗いよウミコ」
「事実です」
「事実だけどさ。もうちょい何かないの」
「……生きてることに」
初華が言った。
「——いいね。じゃ、生きてることに」
紙コップが五つ、ぶつかった。
紙だから、乾杯の音はしなかった。
最初の一口。苦い。そして渋い。舌の奥と喉の内壁にまとわりつく。
知っている苦さだった。
父と暮らした安アパートの台所。汚れたシンクに空き缶が積まれていた。銀色の缶。朝も夜も同じ缶が転がっていた。あの匂い。
胃に落ちると、腹の底がじんわり温かくなった。
「にっが!」
にゃむが顔をしかめた。
「お酒とはそういうものですわ」
「サキコ飲んだことあるの?」
「……小さい頃に。豊川の正月の席で」
「え、お嬢様んちの正月って何飲むの。日本酒?」
「……お屠蘇ですわ。漆塗りの三段の盃で、年長者から順にいただきますの」
口が勝手に動いていた。エールの一口が、胃の底から記憶を押し上げた。正月の着物に袖を通した、母の横顔。
「——当時は、ひと口飲んで、苦くて、すぐ吐き出しましたわ」
にゃむの目が一瞬止まった。祥子が遠い目をしたことに気づいたのだろう。気づいた上で、わざと別の方向に転がした。
「お嬢様んちの正月、格式高すぎでしょ。てか、お屠蘇って何」
「薬草を浸したお酒ですわ。屠蘇散という——」
「あ、もういい。それ絶対わかんないやつ。アタシ九州だからさ、正月に親戚のおっちゃんが焼酎のお湯割り注いでくんの。断るより飲む方が早いから飲んでた」
「未成年にですの?」
「漆の盃でお酒飲んでた人に言われたくないんだけど」
にゃむの声の音量が上がっていた。空気が重くなりかけたときに、声の音量を一段上げる。配信者の技術だった。にゃむはそれを、テラに来てからも手放していなかった。
海鈴が黙って一口飲んだ。首を傾げて、もう一口。
「……悪くないですね」
「ウミコ、飲み方強い。ペース速くない?」
「味を確かめるには一定量が必要ですから」
睦が紙コップを両手で包んでいた。中身を見ている。琥珀色が甲板の照明を受けて揺れている。口をつけて、小さく飲み込んでいた。
「……あったかい」
「あったかい? 夜風で冷えてるけど」
「……おなかが」
「それアルコールだよムーコ。回ってる。一口で」
睦の頬がうっすら赤くなった。
***
一本目が空いた。にゃむが二本目を取った。
祥子が手を伸ばした。自分でも理由はわからなかった。
「わたくしが開けますわ」
「え、やる? コツあるよ。栓の縁に刃の背を引っ掛けて、上に叩く。瓶の首じゃなくて——」
祥子はにゃむからナイフを受け取った。柄がまだにゃむの手の温度を持っていた。
ナイフの栓に当てた。滑った。栓は微動だにしない。
「角度もうちょい上。もっと手首で」
もう一度やる。ずれた。ナイフの背が栓の横を叩いて、人差し指の付け根がじん、と痺れた。
「サキコ、力入れすぎ。もっと軽く、スナップで」
三度目。栓の縁に刃の背が当たった。手首を返した。飛ばない。栓がずれただけだ。
「……難しいですわね」
「あー、最初はそんなもんだよ。貸して」
にゃむがナイフを受け取って、一発で開けた。
祥子はにゃむの手を見ていた。コツがある。技術がある。にゃむが購買部のジュースの瓶で何度もやった動作。祥子にはまだ、その技術はない。
紙コップにエールを注いだ。琥珀色が紙コップの内側で揺れているのが見える。
「——ねえ。ロドスのごはんでさ、何がいちばん美味いと思った?」
紙コップを傾けながら、にゃむが聞いた。
「アタシ、グムの料理愛好会のカレー」
「わたくしはサイラッハが焼いたスコーンですわね」
「さすがお嬢様。ウイコは?」
「食堂のミートパイ。金曜日に出るやつ」
「あー、あれうまいよね。ムーコは?」
睦はにゃむの肩にもたれかかっていた。頬が赤い。一口半で酔っている。
「……きゅうり」
「自分で育てたやつじゃん」
「……自分で育てたから、おいしい」
「それ反則。ウミコは?」
海鈴のペースが速かった。顔が赤い。目がすわっている。
「……羽獣の胸肉」
「それ食堂のメニューでいちばん味しないやつじゃん」
「高タンパクで低脂質です」
「効率って。美味いやつ聞いてんの」
海鈴が紙コップの中を見ていた。
「……はちみつクッキーは、美味しかったです」
にゃむの手が止まった。海鈴がスイーツの名前を自分から出すのは聞いたことがなかった。
「パイ生地の食感と、蜂蜜の甘さが同時に来て」
海鈴の声のトーンが変わっていた。声帯の緊張が一段階落ちている。酔っているのだ。
「羽獣の胸肉より美味しかったです」
「いや当たり前でしょ。胸肉よりクッキーが美味いのは」
「……当たり前、ですか」
「当たり前。何その顔」
海鈴が黙った。紙コップの中身を見ていた。
「……あと、ロドスのごはん、ではないですけど」
「うん」
「…………お母さんの焼きそばが、食べたいです」
海鈴の声が、掠れていた。
「目玉焼きが載ってるやつです。半熟の。ソースが多めで。紅しょうがが端っこにあって。キャベツが大きくて」
顔を上げた海鈴の目が、赤くなっていた。
「お母さん、キャベツ切るのが雑なんです」
紙コップの中に、ぼろぼろと涙が落ちていた。
「泣いてる!?」
「泣いてません」
「いや完全に泣いてんだけど!?」
意図的に大きな声を上げて、にゃむが笑った。甲板の夜風がその笑い声を持っていった。
海鈴は涙を拭わなかった。拭ったら認めたことになると思っているのだろう。紙コップを両手で包んだまま、鼻を鳴らしている。
睦がにゃむの肩越しに海鈴を見ていた。目が半分閉じている。
「……海鈴、泣いてる」
「泣いてません」
***
模擬戦の話は、にゃむが切った。
「にしても今日。ひどかったね」
「ひどかったですわね」
アルコールが内臓を回っている感覚がある。酔ってはいない。だが体の輪郭が少しだけ曖昧になっている。風が冷たいのに、腹の底だけが暖かい。
「アタシさ、サキコの指示、守ろうとは思ったんだよ」
にゃむの声から、軽さが一段抜けた。酔いが軽さを剥いだのか、軽さが限界に来たのか。
「でも体が先に動いちゃった。ウミコを前に出したほうがいいって、体が」
にゃむの目が祥子を見ていた。
「……前のライブのときは、合ってたのにね」
誰も答えなかった。
紙コップの中のエールが揺れた。琥珀色の中に甲板の照明の光が揺れている。祥子の指が紙コップの縁を無意識に押して、凹んだ。紙は柔らかい。力を入れすぎると潰れる。
「私もさきちゃんの前に出ちゃった」
初華が言った。声が平たかった。廊下でヴィグナに笑った声と同じ平たさ。温度のない声。
「……さきちゃんが危なかったから」
祥子の胸の内側が、ちくりとした。初華がそう言うことはわかっていた。さきちゃんが危なかったから。それが初華の全部で、初華が模擬戦で支援位置を捨てた理由で、初華がいつまでも壊れない理由で、壊れているから壊れない、という種類の頑丈さだった。
「三角さん、あれは支援位置を離れすぎです」
海鈴の声だった。目が赤いままだ。
「……海鈴ちゃんも勝手に動いてたよね?」
「最適な判断でした」
「その『最適な判断』を勝手にやるから合わないんだよ」
にゃむの言い方は軽い。だが芯を食っていた。
「ムーコは?」
睦はにゃむの肩にもたれたまま、目を半分閉じていた。
「……みんなが、どこにいるか、わかんなかった」
「前衛来たとき?」
「……うん。……止まっちゃった」
「あれはアタシたちも悪いよ。誰もフォローしてなかった」
海鈴が紙コップを両手で持ち直した。
「……私は」
全員が聞いていた。祥子の背中に、甲板の手すりの金属が冷たい。
「豊川さんの指示を待っていたら——」
言葉が止まった。
海鈴の目が動いた。自分が何を言おうとしたか遅れて気づいた顔だった。
「……この話は、ここまでにしましょう」
海鈴が壁を作るように言った。
「——ねえ。なんでアタシたち、教練続けてんだろうね」
にゃむの声に、甲板の風が被さった。
「ロドスに世話になってるから、ってのはわかるよ。ごはん食べさせてもらって、寝る場所もらって。……でもさ」
にゃむの目が瓶を見ていた。琥珀色が残り少ない。
「あんな思い、もうしたくないじゃん。正直」
祥子の右手が紙コップの上で微かに動いた。指がハンドシグナルの形を覚えている。すぐに握り直した。紙コップが少し凹んだ。
「……私は」
海鈴が口を開いた。
「教練を受けている間は……考えなくて済みます」
海鈴の紙コップの中身が残り少ないのに気づいて、にゃむが注いだ。
「次の動きが決まっていて。教官の指示があって。体を動かしていれば、考える隙間がない……楽なんです」
楽。海鈴がその言葉を使うのを、記憶にある限り、祥子は聞いたことがなかった。きっと酒の力だろう。だが酒が引き出したものは嘘ではない。そう、祥子は思う。
にゃむが息を吐いた。白い息が夜風に消えた。
「……それ、わかるわ」
「にゃむちゃんも?」
初華の声だった。
「うん。動いてるとさ、頭空っぽになるじゃん。あの時間だけ、ヒロックのことが——遠くなる」
「……わたくしもですわ」
自分の声が出ていた。
右手を見た。紙コップを握っている手。さっき無意識にハンドシグナルを意識した手。殺せの指示を送った手。ヒロックに行くまでは鍵盤を弾いていた手。
五人の間に、妙な空気が流れた。安堵に似た空気だった。そう思っていたのは、自分だけでなかった、という安堵。海鈴が言って、にゃむと初華が同意して、祥子が続いた。それだけのことが、胸の中でつかえていた何かを、少しだけ緩ませた。
「……まあ」
にゃむがエールを一口飲んだ。
「戦争に戻りたい人なんか、いないよね」
睦だけが何も言わなかった。にゃむの肩にもたれたまま、甲板の手すりの向こうを見ていた。手すりの向こう。夜の農地。星明かりの下の暗い大地。
***
三本目はにゃむが開けた。祥子は手を出さなかった。二本目で瓶を開けるのに失敗した手を、膝の上に置いていた。指先にナイフの柄の感触が残っている。にゃむの手にできることが、この手にはまだできない。
「二度目の乾杯しよ。一人ずつ」
にゃむが紙コップを掲げた。にゃむの目が五人を順に見回した。
「ウミコは?」
「……明後日の模擬戦に。次は負けたくないです」
赤い目のまま海鈴が言った。「負けたくない」。さっき「楽」と言っていた口が、「負けたくない」と言った。祥子はそれを聞いていた。
「ウイコは?」
「……さっきと同じ。生きてることに」
初華の声。二度目。同じ言葉。同じ平たさ。
「ムーコは?」
睦はにゃむの肩にもたれたまま。目が半分閉じている。
「……きゅうりの芽が、伸びたから」
「きゅうりに乾杯するんだ」
「する」
「サキコは?」
祥子は紙コップを持ち上げた。底に一センチの琥珀色。
「……この五人に」
それだけ言って、紙コップを上げた。
五つの紙コップが、ぶつかった。音はしなかった。
***
三本目が空いた。
にゃむは声が大きくなっていた。蓋が外れる類の酔い方だった。海鈴は目が充血して甲板に座り込んでいた。背中を手すりに預けている。睦はにゃむの肩で半分寝ていた。
初華は手すりに背を預けて空を見ていた。テラの星空。北斗七星がない。オリオンがない。元いた世界とは、違う星空。さっきから初華は何度も空を見ている。何を探しているのか。あるいは、ないものを確認し続けているのか。
祥子はほとんど酔っていなかった。頭は動く。甲板の床の冷たさが、尻から腰に上がってきている。
「……帰りましょうか」
立ち上がった。膝が冷えて硬かった。
にゃむが睦を引き起こした。海鈴がふらつきながら立った。初華が手すりから背を離した。
甲板の扉が開いた。艦内の暖かい空気。消毒液と金属の匂い。ロドスの匂い。元の世界にいた頃には知らなかった匂い。いまは「戻ってきた」匂いだった。
居住区の廊下が枝分かれする場所で、五人は別れた。海鈴の足元がふらついていたので初華が付き添った。
睦はにゃむに引きずられていった。
「おやすみー。サキコ」
「おやすみなさいまし」
にゃむの声が廊下の角に消えた。
祥子は一人になった。
自室への廊下。足音が自分のものだけになった。金属の壁に蛍光灯が並んでいる。影がひとつだけ、床に伸びている。
ウィスラッシュの問い。
——なぜだと思う。
指示は正しかった。でも合わなかった。
マスカレードのときは合っていた。祥子は鍵盤の前にいた。四人の音を聴いていた。聴いて、合わせて、重ねた。
模擬戦でも指示を出した。
——聴く前に。
曲は聴くことから始まる。
自室の扉の前で立ち止まった。右手を見た。ナイフの柄を握った感触が残っている。にゃむの手首のスナップ。一発で栓を飛ばすコツ。祥子にはまだできない。
この手でハンドシグナルを出した手。殺せと命じた手。紙コップを持った手。五つの紙コップがぶつかった振動が、まだ指に残っている。
この手で、もう一度、鍵盤が弾けるだろうか。
答えは出なかった。
カードキーを通すと扉が開いた。部屋の中は暗かった。
明後日、同じ相手と模擬戦がある。
今度は指示を出す前に、聴く。マスカレードをやっていたときと同じように。
聴いて何が変わるかはわからない。
ベッドに腰を下ろした。右手にまだ、紙コップの感触が残っていた。四つの紙コップがぶつかった、あの音のしない振動。
エールの苦みが、まだ舌の奥にあった。
〈つづく〉
◇次回予告
第二講堂。死者七百四十二名。身元不明の遺体。
行方不明者、千二百人超。
急性感染者四十七名。
治療成功例、ゼロ。
第12話「どちらを選んでも」