薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
ロドス初の外勤任務を受けたAve Mujicaの五人は、教官ウィスラッシュの指示のもと、ヴィクトリア南東部の農業都市ヒロックへ補給物資を届けに向かう。護衛の先任オペレーター・マルゴとともに穏やかな田園地帯を走り、到着したヒロックの街には不穏な空気が漂っていた。事務所で五人を迎えたのは、駐屯軍のジェニーだった。
事務所の中は、外とは別の世界だった。
石造りの壁に木の棚。書類が積まれたデスクが四つ。奥に暖炉があり、火が小さく燃えている。部屋全体に紅茶とバターと焦げた砂糖の匂いが充満していた。デスクの上に並ぶ書類のファイルには、ロドスの書式に則った補給管理票が挟まっている。その隣に、焼き菓子の皿が置いてあった。書類と菓子が同じ机に共存する職場だ。
デスクの一つで男が書類を広げている。首から下げた社員証に「フレッド」。奥のデスクでは「ウィル」が通信機器の半田付けをしていた。手元に基板と半田ごてがある。機器の型番は祥子の知らないものだった。テラの技術は元の世界のそれとは異なるが、半田ごての先端が錫を溶かすときの匂いは同じだ。妙なところで世界が繋がっている。
暖炉の横の椅子に、ひときわ目を引く人物がいた。
老齢の女性。白い髪。サンクタの光輪が暖炉の光を受けて淡く揺れている。左手にトランプのカード。一枚のカードが指の間をするりと滑って消え、次の瞬間にまた現れる。その動作があまりに滑らかで、最初は手品だと気づかなかった。マジシャンの指運びだ。何十年もかけて染みついた指癖。
だが祥子の目は、左手よりも右手に引き寄せられた。腰のホルスターにリボルバー。椅子に深く腰を預けているのに、右手だけがいつでも動ける位置にある。くつろいでいるように見えて、くつろいでいない。この人の佇まいは「生き延びた結果として残ったもの」に見えた。
「これは失礼。支度もなくて申し訳ない。——もっとも、ジェニーのお陰で菓子と紅茶だけは万全のようだが」
立ち上がった。祥子より頭ひとつ分、背が高い。
「私はOutcast。老いぼれの出張員さ。君が隊長かな?」
「豊川祥子と申しますわ」
「よろしく」
握手。掌が乾いていて、硬い。鉄砲の反動を何万回も受け止めてきた手だと、握った瞬間にわかった。
Outcastは祥子の後ろの四人に目を移した。一人ずつ。にゃむ、海鈴、睦、初華。各一秒。だが祥子には、その一秒の中で何かが読まれた気配があった。ウィスラッシュが教練の初日に五人を見たときと同じ——品定めではない。品定めはもっと時間がかかる。これは、戦場で人間を瞬時に値踏みする癖だと感じた。
「五人とも、若いね」
他愛のない感想のように聞こえた。だが祥子の耳は裏側にあるニュアンスを拾っていた。年端もいかぬ人間が、傭兵部隊を抱える製薬企業の下で荷運びをしていることへの、あるいは苦さに近い何か。祥子は微笑を返すだけにとどめた。どう返せば正解かわからなかったのもある。
マルゴが事務所に入ってきた。車両点検を終えたのだろう。ブーツの泥を入口で落として、帽子を脱いだ。
「マルゴ。久しぶりだね」
Outcastの声が変わった。祥子たちに向けた声とは違う。
「ご無沙汰です」
マルゴが短く答えた。だが祥子は見ていた。マルゴの耳が、ぴんと立った。
ジェニーが紅茶を持ってきた。マルゴが受け取った。両手で包むように持って、一口飲んだ。カップの縁に、刀傷のある頬が重なった。
「さあ、まずは座りたまえ。長旅だったろう。ジェニー、紅茶をもう五杯頼めるかな」
「はーい! エバミルク入りでいい?」
「構いませんわ」
祥子がそう答えた瞬間には、もう海鈴が動いていた。
「失礼します。補給物資のリストを先にお渡ししたいのですが、担当の方はどちらに」
ウィルのデスクに歩み寄っている。手にはバインダー。いつ取り出したのか——車内で準備していたのだろう。
「あっ、補給リストか。こっちだ」
ウィルが椅子を回した。海鈴がバインダーを開き、リストを指で追い始める。項目ごとに内容を読み上げ、受領確認のサインを求める。教練で教わった手順ではない。海鈴が自分で調べた段取りだ。外勤時の補給受け渡しプロトコル。業務マニュアルを読んで暗記してきている。
車内で見た海鈴は、求められたことを求められた精度でこなす人間だった。それ以上は出さない。そう思っていた。いま目の前の海鈴は一歩先に出ている。その一歩が「信用されたい」の延長なのか、それとも別の何かなのか——考えかけたところで、ウィルの声が割り込んだ。
「丁寧だな。リスト、見やすい。前任のヤツより全然いいぞ」
海鈴の手が一瞬だけ止まった。
「……どういたしまして」
声はいつもの海鈴。冷静で、距離を保って、丁寧。だが、バインダーを持つ指の力が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「はい、紅茶! 豊川さんの分ね。こっちは——」
「祐天寺にゃむです。ありがとうございます、ジェニーさん」
「えっ、さん付け!? やだやだ、ジェニーでいいよ!」
「あはは、じゃあジェニーで。アタシもにゃむでいいよ」
「にゃむ! いい名前! あ、パイ食べて食べて!」
にゃむが暖炉の前の椅子に座って、バノフィーパイをひと口食べた。
「……うっま。これ、ジェニーが焼いたの!?」
「そう! タフィーちょっと焦がしちゃったんだけど」
「いやいや、この焦げ具合がいいんだって。ほろ苦いとこがさ、甘さを引き立てるっていうか」
「わー、わかる!? あたしもそう思うんだけど、オリバーには甘すぎるって言われるんだよね」
「それ味覚死んでない?」
ジェニーが声を上げて笑った。にゃむも笑っている。暖炉の火が二人の横顔を橙色に染めている。
外の、板で塞がれた窓。人のいない通り。その同じ町の中に、この暖炉がある。パイの匂いが鼻を突くたびに、さっきまでの不安の輪郭が薄れていく。
Outcastが紅茶を啜った。
「年寄りのつまらん感想だがね——若いというのは、それだけで場が温まるものだ。この事務所もここ数日は、どうにも空気が澱んでいたのでな」
「あたしのパイのお陰じゃないんですか?」
「それもある。だが、ここしばらくの事務所は、少々気が滅入る話題が多かったろう?」
Outcastの目が一瞬だけ窓の外を見た。それだけだった。言葉は継がない。だが「気が滅入る話題」の輪郭は、窓の外の板張りの窓と同じ場所を指していた。
「それで、祥子」
名前を呼ばれた。敬称なし。だが不快ではない。ウィスラッシュの「豊川」とも違う。Outcastの声には、人を名前で呼ぶことへの自然な敬意があった。長い年月の中で多くの人間の名前を呼び、そのうちの何割かはもう死んでいるのだろうと、根拠なくそう思った。
「補給物資の受け渡しが主任務と聞いているが、到着報告と受領確認を済ませたら、あとは復路の出発まで自由にしていい。事務所の二階に仮眠室がある。マルゴが休息を必要としているなら、先に休ませてやりなさい」
「承知しましたわ。海鈴、受領確認はどこまで」
「医薬品と食料の確認が完了しました。通信機器はウィルさんが検品中です。あと二十分ほどで全項目終わります」
「了解ですわ。にゃむ、パイは後にして荷下ろしを手伝ってちょうだい」
「えー、もうちょい食べたい」
「後で。初華、にゃむと一緒にお願いできる?」
「わかった」
初華が立ち上がった。にゃむの肩を軽く叩いて「行こう」と言う。にゃむが「はーい」と間延びした返事をして、パイの最後のひと欠片を口に放り込んでから立った。
祥子はメモ帳を開いた。到着時刻。受領確認の進捗。次の定時連絡。復路の出発予定時刻。一つずつ書き込んでいく。ペンの先が紙を引っ掻く音が、暖炉の爆ぜる音に混ざった。
五人がそれぞれ動いている。海鈴が事務手続きをこなし、にゃむと初華が荷下ろしに向かい、睦は——。
祥子が顔を上げた。睦がいない。
一瞬、心臓が跳ねた。視線を巡らせる。事務所の隅、窓際のテーブルに睦が立っていた。フレッドの前。ビニール袋を差し出している。
「……これ」
「え、なにこれ……種?」
「……きゅうり」
「えーと、俺にくれるの?」
「……事務所の、みんなに」
フレッドが袋を受け取って、中を覗いた。
「うわ、すっげえ綺麗に分けてある。うちの庭、何にも植えてないんだよ。オリバーがサボるから。ありがとな!」
睦は何も言わなかった。頷きもしなかった。差し出していた腕がゆっくり下がって、体の横に戻る。表情は変わっていないが、きゅうりの種を受け取ってもらえたことで、睦の纏う空気がほんの僅かだけ緩んだ——ように祥子には見えた。綺麗に分けてある、とフレッドは言った。きっと品種別に小分けにされていたのだろう。
ジェニーが睦に気づいた。
「あなたもパイ食べる? えっと——名前」
「……睦」
「ムツミ! はい! ショートブレッドもあるよ!」
紅茶とショートブレッドが置かれた。睦は黙ってショートブレッドを手に取った。小さくかじる。
「……おいしい」
ジェニーの顔が輝いた。
「ほんと!? やったー!」
Outcastが椅子に座り直して、カップを口に運んだ。カードが指の間をゆっくり回っている。
「いい光景だ」
独り言のような声だった。
外から、にゃむと初華の声が聞こえる。「重い重い重い」とにゃむが叫び、「あと三箱だよ」と初華が答えている。
祥子はメモ帳に目を落とした。全項目に横線を引いた。到着。報告。受領確認。荷下ろし。休息手配。全て手順通り。ひとつも抜けていない。
ペンを握る手に力が入った。五人がそれぞれの持ち場で動いている。海鈴が事務をこなし、にゃむと初華が体を動かし、睦が睦なりの方法で馴染もうとしている。指示を出し、全員が応えた。あの夢のお城から持ち帰った感覚が、いまここで再現されている。
ジェニーが「おかわりいる?」と回ってきた。にゃむが戻ってきて「パイの残り!」と叫んだ。初華が隣に座って、「全部運び終わったよ、さきちゃん」と報告した。その声を聞きながら、祥子は次の定時連絡の文面を書き始めた。
暖炉がパチパチと爆ぜている。紅茶の湯気。エバミルクの匂い。バノフィーパイの焦げた砂糖の匂い。事務所の中は温かかった。板で塞がれた窓のことを、祥子はもう考えていなかった。
Outcastだけが、紅茶を口に運びながら、窓の外を見ていた。
***
出発の支度は三十分で済んだ。受領確認の書類に最後のサインが入り、マルゴが車両の点検を終え、荷台の空になったスペースに五人の装備を積み直した。日が傾き始めている。復路は西日が正面になる。
ジェニーが事務所の扉から飛び出してきた。両手に茶色い紙袋。
「はい! これ! 帰り道に食べてね!」
バノフィーパイの包みとショートブレッド。温かい。焼きたてではないが、暖炉の近くに置いておいたのだろう。紙袋の底がほんのり湿っていた。バターが染みている。
「ありがとうございます、ジェニー」
「またおいでよ! 次はちゃんとタフィー焦がさないから!」
にゃむが窓から手を振った。「ジェニー、また食べにくるー!」。ジェニーが「待ってるからね!」と叫んだ。
「祥子。日が落ちる前にルートA−7を抜けなさい。マルゴはこのルートを何度も走っている。判断に迷ったら彼女に任せること」
Outcastがカップを口元に持ったまま、付け足した。
「それと、ジェニーのパイは温かいうちに食べたほうがいい。冷めるとタフィーが固まる」
祥子は少し笑った。Outcastも笑っていた。目元の皺が深くなって、口元はカップに隠れている。老兵の笑い方だった。
車両がヒロックの市街地を出ると、また農道に戻った。西日がフロントガラスを橙色に染めている。マルゴがダッシュボードの小物入れからサングラスを二つ取り出して、一つを祥子に渡した。
「まぶしい。かけとけ」
使い古しのサングラス。フレームの右上に小さな傷がある。祥子はそれをかけた。世界が琥珀色になった。石垣も羊も枯草も、全部が夕暮れの色に沈んでいく。
後部座席でにゃむが紙袋を開けた。
「パイ食べていい? サキコ」
「構いませんわ。みんなに分けてちょうだい」
「はーい。ウミコ、ムーコ、ウイコ、ほい。——マルゴさんも食べます?」
マルゴが片手をハンドルから離して、後ろに差し出した。にゃむがパイをひとつ載せた。マルゴは前を見たまま、ひと口で半分を食べて「……美味い」と言った。
パイの甘い匂いが車内に広がった。タフィーの焦げた砂糖。事務所の暖炉の暖かい匂いを思い出す。
「……おいしい」
睦が言った。事務所でショートブレッドを食べたときと同じ声。
「ムーコ、パイもいける口じゃん」
にゃむが笑った。
「にゃむ、いくつ残っていますの」
「えーっと、あと三つ」
「ひとつはウィスラッシュ教官に持ち帰りましょう。任務完了の報告と一緒に」
「サキコ、そういうとこ抜かりないよね」
「当然ですわ」
海鈴が通信機に手を伸ばした。
「ロドス本艦通信室、こちらAM小隊、定時連絡。時刻一七〇〇。ヒロック郡事務所を出発、復路に入りました。車両状態良好、人員異常なし。次回連絡一八〇〇。受信確認を」
復唱が返ってくる。海鈴が周波数を戻した。教範通り。一つも抜けていない。
初華が荷台側の窓から外を見ている。クロスボウは膝の上。弦の張りを確認する手つきが、もう無意識の動作になっていた。
「さきちゃん、夕焼けきれい」
初華が言った。祥子はサングラス越しに西の空を見た。灰色だった空が、地平線に近いところだけ橙と赤紫に燃えている。石垣の影が長く伸びて、農道の轍を黒く縁取っていた。
きれいだ、と思った。任務は完了した。手順通りに。五人全員が無事で、パイを食べながら帰路についている。何も起きていない。全てが完璧で、順調だった。
「ねえサキコ、次の補給任務もヒロックがいいな。ジェニーのパイまた食べたいし、Outcastさんのカード手品ちゃんと見たいし」
「任務先は選べませんわ」
「わかってるけどさー。ムーコもまた行きたいでしょ」
「……きゅうりの芽、見たい」
にゃむが「ほら!」と祥子を指差した。祥子は溜め息をつくふりをした。
「……希望は出してみますわ」
初華が小さく笑った。海鈴は何も言わなかったが、通信機を膝に置いたまま、窓の外を見ていた。
西日が少し傾いた。マルゴの耳が動いた。前を向いて、横を向いて、そしてまた前を向いて——そして、止まった。
祥子はマルゴの横顔を見た。刀傷のある頬が、強張っている。
「どうし——」
フロントガラスの向こうに、光が走った。
腹の底を殴りつけられたような衝撃のあと、世界が、ひっくり返った。
〈つづく〉