薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編   作:渡辺零

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◇前回までのあらすじ
ヒロックの事務所でOutcast、ジェニーたちと合流し、補給任務を完了した五人は帰路につく。車内にはジェニーが持たせてくれたバノフィーパイの甘い匂い。穏やかな夕暮れの農道を走っていた。その瞬間、フロントガラスの向こうに閃光が走った。


第3話「応答なし」

 運転席のマルゴが死んだ。

 おそらく、敵のアーツによる遠距離狙撃。

 車両は上下逆さまになっていた。

 シートベルトのバックルが外れたのは、祥子の指が動いたからではなかった。

 にゃむの手だった。

 割れた窓枠の外から、にゃむが腕を突っ込んでいた。片手にナイフ。シートベルトの布が裂ける音がして、祥子の体が輸送車両の天井に落ちた。砕けたガラスの上に、肩から。

「サキコ、掴まって!」

 にゃむの右腕。袖が裂けて、肘から先が赤黒く染まっている。ガラスで切ったのだろう。血まみれの腕が祥子の襟を掴んで、引いた。にゃむの呻きがした。砂利と枯草の上を体が引きずられた。窓枠の金属が背中を擦った。

 外の空気が冷たかった。夕暮れの風が頬を叩いた。焦げた人肉の甘い匂いだけが鼻腔の奥にこびりついて、剥がれなかった。

 にゃむが祥子を車両から二メートルほど離れた石垣の影に降ろした。上下逆さまになった車両が目に入った。運転席側が赤黒く溶け落ちている。アーツの直撃だった。待ち伏せされた。マルゴは死んだ。

「サキコ、動ける?」

 声が出ない。祥子は頷いた。

 ——近くに、まだ敵がいる。

 それだけが頭の中にあった。だが体が動かない。周囲を見渡すことすらできない。

 にゃむが立ち上がって車両に視線を戻した。溶け落ちた運転席を見て、目が見開かれた。四つん這いになって、にゃむは声を出さずに嘔吐した。背中が痙攣している。胃の中のバノフィーパイが枯草の上にこぼれた。タフィーの甘い匂いが漂った。

 マルゴの遺体を見たのだ。数分前まで、祥子たちとパイを分け合って食べていた人間の、尊厳も何もない、無惨な亡骸。

 祥子はにゃむの背中を見ていたが、手を伸ばせなかった。震えていた。自分の手が、自分のものではないように感じた。

 睦と海鈴の姿が見えない。声が聞こえなかった二人。にゃむが叫んでいたのは聞こえた。初華が名前を呼んでいたのも。でも睦は。海鈴は。

「さきちゃん!!」

 初華の声が聞こえた。逆さまになった車両を回り込むように走ってきた。クロスボウを手にしていて、額の右側から血が流れている。祥子の前にしゃがんで、初華は顔を覗き込んだ。

「よかった——さきちゃん、よかった」

 声が震えていた。両手が祥子の頬を挟んだ。温かい。初華の目だけが視界を埋めた。澄んでいて、濡れていた。

「目見せて。——手は? 足は? 動く?」

「——大丈夫、ですわ」

 かろうじて、かすれた声が出た。

「立てる?」

「立て……ますわ」

 初華が祥子の腕を取って立ち上がらせた。クロスボウを構えた初華の体が、自然に祥子と車両外周の間に入った。敵の攻撃を遮ることの出来る位置。

「——ウミコは」

 にゃむが車両を見た。ひっくり返った車体の下から、音が聞こえた。短い、浅い、速い呼吸。

「ウミコ!」

 にゃむが走った。後部座席の窓はフレームごと歪んでいたが、ガラスは砕けて落ちていた。にゃむが膝をついて、潰れた窓の隙間から中を覗いた。

「ウミコ、アタシだよ。にゃむだよ。出よう。ね、出よう」

 返事がない。呼吸音だけ。過呼吸だ。海鈴はシートベルトから落ちた姿勢のまま、天井——いまは床になった鉄板の上にうずくまっていた。通信機を両手で握りしめて、膝を引き寄せて丸まっている。目は開いている。焦点が合っていない。唇が紫がかっている。

「大丈夫、大丈夫だから。手、出して」

 にゃむが窓の隙間から右腕を突っ込んだ。血が垂れている腕だった。海鈴の肩に触れた。海鈴の体が硬直していた。引いても動かない。筋肉が全部固まっている。

「……ウミコ、お願い」

 声が小さくなった。にゃむの唇が震えていた。

 それでも手は離さなかった。にゃむは海鈴の襟を掴んで、窓の隙間から力づくで引きずり出した。歪んだフレームが海鈴の背中を擦った。にゃむの腕から血が垂れて海鈴の制服に赤い筋を引いた。地面に降ろした。海鈴は降ろされた姿勢のまま動かない。膝を抱え、通信機を胸に押しつけて、浅い呼吸を繰り返している。

 祥子はそれを見ていたが、体が動かなかった。

 教練でウィスラッシュから習った。急性ストレス反応。呼吸が勝手に速くなる。手足が言うことを聞かなくなる。視界が狭くなって、頭が同じことしか考えられなくなる。「体が壊れたんじゃないわ。生き延びるために体が勝手にやってるの。恥じてる暇があったら自分の呼吸を数えなさい。吸って、四つ。止めて、四つ。吐いて、四つ。それだけでいいから」

 あの言葉が、目の前で海鈴に起きている。そして自分にも。祥子の手も震えている。視界の端が暗い。海鈴と自分の違いは、海鈴が動けなくなっていて、自分がかろうじて立てていることだけだった。

 吸って、四つ。止めて、四つ。吐いて、四つ。教わった通りにやった。息を吸った。四つ数える前に吐いてしまった。もう一度。吸った。二つで止まった。肺が言うことを聞かない。三度目。吸って、一、二、三——喉が勝手に閉じた。

 手順は頭にある。体が従わない。教練と実戦は違う。

 それでも、呼吸を整えようとしたことで、ほんの少しだけ視界の端の暗さが後退した。頭の中で手順がゆるやかに回りはじめる。一、安全の確保。二、負傷者の確認。三、通信の確立。四、離脱経路の選定。

 一。安全。車両が破壊された。マルゴが死んだ。海鈴が呼吸できていない。にゃむが血を流している。安全とは。確保とは。

 手がポケットを探っていた。メモ帳。チェックリストを書かなければ。ペンを握ろうとした。指が震えて握れない。落ちた。拾った。また落とした。

「さきちゃん」

 初華の声が遠くから聞こえた。違う。初華はすぐそばにいる。クロスボウを構えている。祥子の耳がおかしいのだ。

「さきちゃん、睦ちゃんがいない」

 心臓が跳ねた。

 にゃむが海鈴のそばに座り込んでいる。初華が祥子の横にいる。睦は——。

 ひっくり返った車両の影。荷台が裂けて中身が散乱している。医薬品の箱が割れて、白い錠剤が地面に散らばっている。その中に、睦がいた。しゃがんで、散乱した荷物を漁っている。

 睦が立ち上がり、振り向いた。両手に予備の通信機と医療キット。水のボトルが脇に挟まっている。

 睦の目を見た。

 恐怖がなかった。覚醒しているのに空っぽの目。周囲を見て、必要なものを見つけて、手に取った。それだけ。感情を経由していない。

 睦が歩いてきた。通信機と医療キットを祥子の足元に置いた。

「……これ、必要になると思う」

 声に温度がなかった。

 睦が車両の向こう——農道の西側に顔を向けた。何かの気配を拾っている。

 三秒間、沈黙が流れた。

「……来る」

 にゃむの手が止まった。初華のクロスボウが上がった。

 祥子は睦が見ている方向を見た。農道の向こう。夕暮れの逆光の中に石垣の影が連なっている。その影の一つが、動いた。人影。一つではない。二つ。三つ。石垣に沿って車両に向かっている。

 頭の中で手順が回った。やるべきことは一つしかない。離脱だ。

 だが、声が出ない。

 祥子は右手を上げた。震えている手で、教練で習ったハンドシグナルを切った。移動する。右側方。即時。

 初華が反応した。にゃむも見た。ハンドシグナルの座学をいちばん真面目にやっていたのは初華だ。にゃむはとっさに意味がわからなくても、祥子が示した方向に動けばいいことはわかった。

 初華が祥子の腕を取った。

「ウミコ! 立って!」

 にゃむが海鈴の腕を引いた。海鈴の体が引きずられるように立ち上がった。歩けはする。だが、海鈴は自分の意思で動いていない。にゃむに引かれて動いている。

 睦が通信機と医療キットを抱え直し、水のボトルを拾い上げた。

 農道の右側の石垣。腰の高さの、苔むした石積み。羊が越えられない高さに積んである。千年も前から同じ積み方だ。マルゴの声が頭の中で鳴った。

 祥子は初華に支えられながら手をかけた。石が冷たい。指の力が足りない。初華が下から押し上げた。向こう側に落ちた。枯草がクッションになって膝をついた。

 初華が跳び越えた。にゃむが海鈴を押し上げて反対側に降ろした。にゃむが越えた。片腕で石垣を掴んで、歯を食いしばって体を持ち上げた。切った腕から血が石に垂れた。睦が最後に越えた。荷物を先に向こう側に落としてから、音もなく。

 牧草地だった。冬枯れの草が膝の高さまで伸びている。薄暮が落ちかけていた。西の空に残ったオレンジ色が地平線に吸い込まれようとしていて、牧草地の色が刻一刻と灰色に沈んでいく。視界が開けている。遮るものがない。身を低くしなければ丸見えだ。暗くなれば姿は消える。だが、暗くなれば何も見えなくなる。

 考えだけがぐるぐると回る。いまは動け。祥子は腰を落とした。草の先端が顔を擦った。二つ目の石垣が五〇メートルほど先に見えた。手前に排水溝が黒い線を引いている。

 祥子はハンドシグナルを送った。あの排水溝まで。

 五人が枯草の中を進んだ。腰を折って、膝を曲げて、姿勢を落としたまま。にゃむが海鈴の腕を引いている。海鈴の足がもつれるたびに支えた。睦が荷物を抱えて無言でついてくる。初華が最後尾で、三歩進んでは振り返り、クロスボウを構えてから、また三歩進んで振り返る。教練で習った索敵動作だ。

 排水溝に飛び込んだ。泥水だった。膝までが冷たい水に浸かった。溝の幅は体ひとつ分。深さは腰の下まで。身をかがめれば頭が隠れる。泥と鉄錆の匂い。冬の水の冷たさが骨にまで染みた。

 海鈴の呼吸がまだ速い。車内にいたときよりはましだが、通信機を胸に抱えたまま目をきつく閉じている。

 排水溝に沿って移動した。泥水の中を歩く。靴が沈む。一歩ごとに水音が立つ。二つ目の石垣に着いた。溝が石垣の下をくぐっている。水だけが通る大きさで、人は通れない。石垣を越えた。同じ要領で。次の牧草地。同じ景色。枯草。石垣。排水溝。

 三つ目の石垣は直角に折れていた。角の内側に入れば背中と側面に掩蔽物を確保できる。正面は開けた牧草地。そばに灌木の茂みがある。

「——ここで、停止」

 ようやく、声が出た。掠れて、震えて、自分の声だと思えないほど頼りない。だが、確実に声は出た。

 五人が石垣の角に集まった。にゃむが背を預けて座り込んだ。痛みに顔が歪んでいる。腕の布地が血と泥水で赤茶色に変わっている。海鈴が通信機を胸に抱えたまま、石垣の根元にうずくまった。過呼吸は収まっていなかった。

 睦が石垣の縁に手をかけて、来た方向を覗いた。

「……敵、いない。今のところは」

 初華は周辺警戒のために少し離れた位置でクロスボウを構えていた。祥子のそばを離れたくない体と、警戒しなければならない判断が、ぎりぎりの距離で折り合っていた。三メートル。初華が祥子から離れられる限界だった。

 祥子は予備通信機を手に取った。睦が荷台から引っ張り出したものだ。アンテナは無事。ダイヤルが泥で汚れていた。袖で拭った。手が震えている。ダイヤルを回す指先が滑る。二回目で周波数が合った。

「ヒロック郡事務所、こちらAM小隊。緊急。応答を求む」

 ノイズの中に、何も乗っていなかった。ゲインを上げた。雑音が大きくなっただけだった。五秒。十秒。教範では応答待機は十秒。十秒がひどく長く感じる。

「ヒロック郡事務所、こちらAM小隊。緊急。応答願います」

 雑音。

 予備周波数に二段ずらした。

「ヒロック郡事務所、予備周波数にて送信中。こちらAM小隊。応答願います」

 雑音。

 本艦の周波数に切り替えた。

「ロドス本艦通信室、こちらAM小隊。緊急。車両が攻撃を受け、先任オペレーターが死亡。残り五名、徒歩で離脱中。現在位置はルートA-7付近。応答願います」

 ボタンを離した。雑音の質が変わった。ヒロック事務所の周波数は空だった。本艦の周波数には、雑音の奥に微かな音がある。搬送波の残響か人の声か。判別できない。

 もう一度送信した。同じ文面。声が掠れて、最後の「応答願います」が途切れた。

 応答はなかった。

 海鈴が顔を上げた。膝に額を押しつけたまま、目だけが祥子を見ていた。

「……ダメ、です」

 ひどく力の抜けた声だった。

「……電波状態じゃなくて。向こうが——ヒロック事務所が、応答できない、状態なんだと、思います」

 海鈴の目に、パニックの残骸と、その奥にある冷静な分析が同居していた。壊れかけの精密機械の一部だけが動いている。

「あそこ……」

 海鈴が指さした先。祥子は石垣の上から北の空を見た。

 数時間前に来た道の、その先。ジェニーがパイを焼いていた町の方角だった。

 空が赤く明滅していた。地平線の向こうで何かが燃えている。橙と黒が入り混じった煙が低い雲の底を染めて、断続的に白い光が走る。光が走るたびに、数秒遅れて腹の底を押すような低い音が届いた。

 砲撃だ。

 祥子はダイヤルを回した。別の通信を探した。

 声があった。ヴィクトリア軍の通信。暗号化されていない平文。切れ切れだが単語が拾える。「十七地区」「掃射継続」「砲兵大隊、次弾装填」。

 駐屯軍が撃っている。外の敵にではない。自分たちの街を、自分たちの市民を撃っている。あの窓板の意味が、ようやくわかった。

 ダイヤルを少しずらした。別の声が割り込んできた。聞いたことのない言語だった。低い声が短い符丁を繰り返し、別の声が応答する。三つ以上の声が同じ周波数で飛び交っている。一語も理解できなかった。だが声の調子でわかることがある。部隊行動の通信。命令と応答。

 ヒロック事務所の周波数に戻した。何も聞こえなかった。雑音すらない。搬送波が死んでいた。

 二つの通信と、一つの沈黙。

「ターラー系住民と駐屯軍の折り合いが悪い」。ブリーフィングのあの一言が、これだった。この砲声が。この赤い空が。

 数時間前のことを思った。暖炉。紅茶。バノフィーパイ。ジェニーの「またおいでよ!」。Outcastの「冷めるとタフィーが固まる」。フレッドが睦のきゅうりの種を受け取って笑った顔。マルゴに任せろ、とOutcastは言った。そのマルゴは運転席で死んでいる。

「——ヒロック方面への帰還は不可能と判断します」

 祥子の声は震えていた。

 にゃむが止血に使っていた手を止めて北の空を見た。

「……嘘でしょ」

 普段の調子が消え失せた声だった。

 海鈴は膝に顔を埋めた。睦は石垣の縁から目を離さなかった。北の空の赤を、温度のない瞳で見つめていた。

 初華がクロスボウを下ろさないまま、三メートル先から祥子を見た。

「さきちゃん。どうする」

 四人が祥子を見ていた。

 祥子は予備通信機を膝の上に置いた。泥で汚れたダイヤル。アンテナが薄暮の空を指している。

 教練の手順がまだ頭の中で回っている。一、安全の確保——石垣の角で掩蔽物を得た。二、負傷者の確認——にゃむの腕。初華の額。海鈴の過呼吸。睦は外傷なし。三、通信の確立——失敗。四、離脱経路の選定——。

 東。本艦方向。道のない牧草地を、石垣を越えて、排水溝を渡って、夜の中をひたすら歩く。

 祥子は立ち上がった。膝が震えていた。泥水を吸ったブーツが重い。

「——本艦方向に離脱します。夜間行軍になりますわ。初華、後方の警戒を継続。にゃむ、歩けますか」

「歩ける」

「海鈴」

 海鈴は顔を上げなかった。

「海鈴。立てますか」

「……」

「海鈴。——お願い」

 海鈴の手が膝の上で動いた。通信機を握り直した。

「……立てます」

 声が小さかった。だが海鈴は立った。足元がおぼつかない。にゃむが無言で海鈴の腕に自分の腕を通した。切れた右腕ではなく、左腕を。海鈴は抵抗しなかった。

 睦が荷物を抱え直した。

「……本艦方向って、どっち」

「東ですわ」

 睦が頷いた。東を向いた。

 五人が石垣の角を出た。

 北の空が赤い。西の空は暮れた。東の地平線は暗く、何も見えなかった。

 車両で一日の距離。徒歩なら二日か三日。通信はない。海鈴はまだ震えている。にゃむの腕からは血が滲んでいる。初華の額の傷は止血したが、包帯が足りなかった。睦だけが無傷だった。

 この四人を、生きて帰す。

 祥子は東を向いた。真っ暗な農地に、最初の一歩を踏み出した。

 

〈つづく〉

 

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