薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
車両が襲撃を受け、先任オペレーターのマルゴが死亡。にゃむが祥子を引きずり出し、五人は石垣を越えて牧草地に逃れた。通信を試みるが、ヒロック事務所は応答なし。北の空が赤い。ヒロックが砲撃を受けている。帰る道は断たれた。祥子はロドス本艦方面への夜間行軍を決断する。
暗い。
足元が見えない。枯草を踏む感触だけが、地面がまだそこにあることを教えてくれる。石垣を越えるたびに膝を打ち、排水溝を跨ぐたびに泥水が靴の中に入り込む。ブーツの中がもはや池になっている。ロドスの支給品は防水仕様のはずだったが、縫い目から浸水している。濡れた靴下の感覚が、ひどく不快だった。
もういくつ石垣を越えたか、数えていない。
祥子たちは歩き続けた。
星が出ていた。テラの夜空は元の世界よりも星が多い。大気中の源石粒子が光を散乱するせいか、恒星の色がわずかに赤みを帯びている。教練で習った天測航法。ヴィクトリアの冬空で動かない星を二つ見つけて、その並びからロドス本艦が停泊する東の方角を特定する。海鈴ならば星の配置から現在位置まで割り出せるのだろうが、海鈴はにゃむの腕に掴まって俯いている。
にゃむが歯をガチガチと鳴らしていた。寒さなのか恐怖なのか腕の負傷の痛みなのか、本人にも区別がついていないようだった。右腕のガーゼが暗がりでは黒く見える。止血はしてある。が、布の下がまだ湿っている。睦が巻いた包帯の端から液体がにじんでいた。裂傷は前腕の外側を肘から手首まで走っている。ガラスの破片が皮膚を割いた線が、肉の深さまで届いている箇所が少なくとも二つ。縫合が必要だが、針も糸もここにはない。
海鈴はにゃむの左腕に掴まったまま歩いていた。自分の足で歩いている。だが方向を持っていない。にゃむに引かれる方へ動く。通信機を胸に抱いたまま、俯いている。
睦が隊列の真ん中にいた。荷物を右肩に担いで、無言で歩く。医療キットと予備通信機と水のボトル二本。合わせて四キロ弱。百五十三センチの体には重い荷物。が、睦の足取りに乱れはなかった。ときどき足を止めて後方を振り返る。暗闇の中で何が見えているのか、祥子にはわからない。だが睦が「……敵、いない」と言うたびに、祥子たちは歩き出した。
初華が最後尾にいた。三歩歩いて振り返り、クロスボウを構えて、また三歩歩く。祥子の背中を見て、暗闇を見て、祥子の背中を見る。その繰り返しが何時間も続いていた。
北の砲声が断続的に続いていた。遠いから地面の振動はない。だが閃光が見えた。地平線の向こう、ヒロックの方向から白い光が走るたび、数秒遅れて腹の底を揺さぶる轟音が届く。通常の榴弾砲なのか、それに相当するアーツ増幅砲なのか。祥子には区別がつかない。
だが、確かなことがひとつだけあった。あの砲撃の下に、人がいる。ジェニーが。Outcastが。フレッドが。きゅうりの種を受け取って笑ったフレッドが。
睦がその光を見ているのかいないのか、祥子にはわからなかった。
「——さきちゃん」
初華の声が、暗闇の中から届いた。
「あの音、砲撃じゃない。もっと近い」
祥子は足を止めた。全員が止まった。
耳を澄ませた。風の音。遠い砲声。枯草が揺れる音。その中に、別の音が混じっていた。高い。金属的な。高速で回転する何かの音。モーター音だ。
祥子は空を見上げた。星が見える。雲の切れ間に、何かが動いていた。星が一つ、不規則に明滅しているように見えた。星ではない。点滅している。
手を振った。教練のハンドシグナル。伏せろ。今すぐ。
初華が反応した。にゃむが海鈴を引き倒した。睦が膝を折った。祥子は枯草の中に体を投げた。冬の草が顔を刺した。泥の匂い。胸が地面に押し付けられて、心臓の音が地面を通して聞こえてきた。
甲高い羽音が近づいてきた。虫のような音。だが虫にしては大きすぎる。低い唸りと、高い回転音が重なっている。
ドローンだ。教練で映像を見せられた。偵察型と自爆型がある。自爆型は人間を見つけると急降下する。映像の中でダミー兵の群れに突っ込んだドローンが爆発して、破片が四方に飛び散った。ウィスラッシュは「偵察型か自爆型かは、落ちてくるまでわからない」と言った。「音が聞こえたらすぐ伏せなさい。ドローンは動くものを追う。息を殺して、通り過ぎるのを待ちなさい」とも。
あの音がいま、頭上にある。
祥子は顔を枯草に押し付けたまま、目だけを動かした。
にゃむが海鈴を抱え込むようにして伏せている。にゃむの右腕が不自然な角度で浮いている。痛みで地面につけられないのだ。海鈴は通信機を胸の下に押し込んで、顔を地面に押しつけながら震えている。
睦が一番低い姿勢だった。地面と一体化するように平たく伏せている。荷物を腹の下に入れている。目だけが開いていて、暗闇の中でドローンの気配を追っていた。
初華が祥子のすぐ隣にいた。いつの間にか最後尾から移動していた。祥子の体を覆うように、半身を祥子の上にかぶせている。クロスボウを片手で握ったまま、息を殺している。
羽音が遠ざかって——戻ってきた。このあたりを旋回している。まさか自分たちを見つけたのか。体温。人間の体温は地面より温かい。もし熱を見るサーモカメラを積んでいたら、伏せていても意味がない。
祥子は震えた。地面からの冷気と恐怖が区別できない。初華の体重が半分だけ背中にかかっている。初華だけが温かい。他の全部が冷たかった。
羽音が、また遠ざかった。今度は戻ってこなかった。三十秒。一分。二分。
音が消えた。風の音と、遠い砲声だけが残った。
「……行った」
睦の声だった。
祥子は顔を上げた。枯草が頬に張り付いていた。泥だらけの手で拭った。体の奥から、制御できない震えが込み上げてきた。歯の根が合わない。膝が笑っている。胃が裏返りそうになって、喉の奥に酸っぱいものが広がったが、飲み込んだ。
死ななかった。たったそれだけのことに、体が勝手に反応していた。
にゃむが海鈴を引き起こした。海鈴の目が大きく開いていた。パニックの色ではなかった。もっと深い、凍った水面のような目。何かが海鈴の中で壊れてしまったように見えた。
「——遮蔽が必要ですわ」
祥子の声が掠れていた。牧草地は平たい。石垣は腰の高さしかない。空から見たら丸見えだ。次にドローンが来たら——同じように枯草の中に伏せて、しかし、次もやり過ごせるとは限らない。建物が必要だった。屋根のある場所が。
睦が腰を上げて、目を細めた。暗闇の中で、灌木の茂みの向こうに何かの輪郭を見ているようだった。
「……建物。小さいけど、ある」
「行きますわ」
***
農機具小屋だった。
石とモルタルの壁。スレートの屋根。間口は二メートル半、奥行きは四メートルほど。扉は木製で、錆びた蝶番が軋んだ。中は暗く、干し草と機械油の匂いがした。鋤と鍬が壁に立てかけてある。柄が磨り減って白くなった古い農具。隅に肥料の袋が三つ積まれている。化学肥料の袋に印刷された製造元の名前がターラー語で読めなかった。窓は一つ。小さな四角い開口部に、割れたガラスが半分だけ残っていた。
五人が中に入った。初華が扉を閉めようとしたが、完全には閉まらない。蝶番が歪んでいて、隙間が指二本分残る。そこから外の風が入ってくる。だが屋根がある。壁がある。ドローンからは視認できない。
祥子は壁にもたれて座った。石の壁が冷たかった。背中全体が冷えた。だが風が当たらない。それだけで体が少し楽になった。
にゃむが肥料袋の上に座り込んだ。右腕を膝の上に乗せた。包帯の端が暗がりで黒く見える。止血は効いている。が、睦が巻いた包帯は教練の教本通りの圧迫止血であって、裂傷の縫合ではない。ガーゼの下で傷口が開いたままだ。このまま何時間も持つものではなかった。にゃむの顔が白かった。元々白い肌が、さらに血の気を失っている。
「にゃむ。腕、見せて」
睦の声だった。睦が医療キットを開けていた。キットの中身は消毒液のボトルが一つ、滅菌ガーゼが四枚、包帯が二巻、テーピングテープ、鎮痛剤の錠剤が六錠、それにハサミ。教練で一覧を暗記させられた。睦の手は暗闇の中でも迷わなかった。指先が布を剥がす。にゃむが息を飲んだ。
「……痛い」
「……じっとして」
睦の手が動いた。消毒液をガーゼに染ませて、傷口に押し当てた。にゃむの体が跳ねた。低い唸り声がした。
海鈴が窓の下に座っていた。通信機を膝の上に置いて、ダイヤルに指を触れている。だが回さない。何かを聞いているのか、何も聞いていないのか。海鈴の目が通信機の表面を見つめていたが、焦点が合っていなかった。
初華が扉の隙間から外を見ていた。クロスボウを膝の上に置いて、暗闘の向こうを見ている。
静かだった。砲声は続いていたが、壁が音を遮った。遠い雷のように低く、断続的に響くだけになった。モルタルの壁は厚さ三十センチ以上ある。農機具小屋にしては過剰な造りだ。暴風対策か、雪害対策なのかはわからない。
静かになると、全部が一気に来た。
マルゴの顔。運転席で焼けた遺体。肘から先が炭化して、フェリーンの耳の毛皮だけが不自然に残っていた。ひっくり返った車両の天井。ジェニーの笑顔。バノフィーパイの砂糖の匂い。Outcastの静かな目。「マルゴに任せろ」。フレッドがきゅうりの種を受け取って笑った顔。北の空の赤い光。
「……ねえ」
にゃむの声がした。睦がにゃむの腕に新しいガーゼを巻いている最中だった。にゃむは睦の手を見ていなかった。祥子を見ていた。
「ねえ、サキコ」
祥子はにゃむを見た。
「この任務、誰が志願したんだっけ」
声に、いつもの軽さがなかった。何かを確かめるように、祥子を見ていた。
「わたくしですわ」
「そうだよね。サキコが、やれるって言ったんだよね」
「……ええ」
「アタシさ、信じたんだよ。サキコが言うなら、って。この五人ならやれるって、サキコが言ったから」
にゃむの声が震えていた。
「マルゴが死んだ。ヒロックが燃えてる。アタシの腕はこう。ウミコは……見てよ、ウミコの目。あれが『やれる』目だと思う?」
「——にゃむちゃん」
初華の声が割って入った。
「にゃむちゃん、やめて」
にゃむは初華を見なかった。祥子だけを見ていた。
「だってそうじゃん。サキコが『やれる』って言ったから来たんだよ。アタシはサキコを信じたの。信じて——」
「にゃむちゃん」
「信じて、こうなってんだけど!? マルゴの死体見た!? 運転席で焼け焦げてたんだよ!? あの匂い嗅いだでしょ、サキコも!!」
にゃむの目から涙が落ちていた。
「やめて、にゃむちゃん」
初華が一歩動いた。だが、にゃむの言葉は止まらなかった。
「同じじゃん。前のバンドのときと!!」
空気が凍った。
「CRYCHICのこと、アタシは詳しく知らないよ? でも、聞いた。サキコが昔やってたバンド、サキコが勝手にやめて壊れたって!」
「にゃむちゃん」
「サキコが決めて、サキコが始めて、全部壊れて! 前もそうだったんでしょ?」
「やめて、にゃむちゃん、やめて」
「今度は何? 巻き込まれたアタシたちが死ぬの?」
にゃむの声が上ずっていた。
「あの事務所で——ジェニーちゃんが笑ってて、パイ焼いてくれて、アタシらもう帰るだけだったじゃん。帰るだけだったのに」
立ち上がっていた。いつの間にか。
「なんでマルゴが死んでんの!? なんでアタシの腕こうなってんの!?」
祥子は答えられなかった。志願したのは自分だ。やれると言ったのは自分だ。胸の奥で何かが剥がれていく音がした。
「——なんで黙っとっと!? なんか言いなよ!!!」
にゃむの目から涙がこぼれていた。怒りの顔で泣いていた。
「ウイコはなんでサキコの味方すんの!? ウイコもわかっとるやろ、サキコが——」
「——それ以上言うなァッ!!!」
初華の怒声だった。
にゃむの口が止まった。
海鈴の肩が跳ね上がった。
睦の手がガーゼの上でぴたりと止まった。
小屋の中が、静まり返った。
初華のクロスボウが上がっていた。
にゃむの胸に、向けられていた。
にゃむの顔から血の気が引いた。涙が頬の上で乾いていた。口が開いたまま、声が出ない。目だけが、クロスボウの先端を見つめている。距離は二メートル。この距離で撃てば、ボルトは胸骨を貫く。
祥子が動いた。壁から体を剥がして、初華とにゃむの間に入った。初華の前に立った。クロスボウの照準が、祥子の胸に移る。
「初華」
声が出た。震えていた。
「下ろして」
初華の目が、祥子を見た。照準の先に祥子がいた。トリガーにかかっていた初華の指が、震え始めた。目の色が変わった。混乱。恐怖。理解。澄んで冷たかった目に、それらが一気に戻ってきた。自分が何をしたかを、はじめて理解したような目だった。
初華の腕が力を失って、クロスボウの重さに負けて下がった。矢の先端が地面を指した。
クロスボウが石の床に落ちた。金属が石にぶつかる硬い音が、小屋に響いた。
「——あ」
初華の口から、声とも、ため息ともつかない音が漏れた。膝が折れ、崩れ落ちた。両手が地面について、頭が垂れた。さっきまで「さきちゃん」と呼んでいた口が動かない。
にゃむは壁に張り付いたまま動けなかった。息ができていなかった。膝が笑って、そのまま壁を背にずり落ちた。腰が抜けていた。さっきまで怒鳴っていた喉が、ひゅう、と細い音を立てていた。
海鈴が窓の下で膝を抱えていた。通信機を胸に抱え直した。体が小さく震えていた。
睦が、ガーゼを膝の上に置いたまま、初華を見た。にゃむを見た。祥子を見た。
「……」
睦が口を開いた。
「……このままじゃ、みんな死ぬ」
全員が睦を見た。睦の目には、何も映っていなかった。事実だけが、言葉になって出てきたといった風情だった。
あの目を、祥子は知っている。
教練の日。ウィスラッシュが全員に映像を見せた。実際の作戦記録。源石のアーツで灼かれた人間。血と断末魔。にゃむは途中で席を立った。海鈴は最後まで見たが、あとでトイレで吐いていた。初華は奥歯を噛みしめて画面を見つめていた。
睦だけが、何も変わらなかった。映像が終わったあと、教室を出る足取りが、入るときと同じだった。ウィスラッシュが睦の後ろ姿を見ていた。あのとき教官の目に浮かんでいたものが何だったのか、祥子にはわからなかった。
いまは、わかる。
睦の目が怖かった。だが今この瞬間、睦の冷静さに、どこか寄りかかりたいと思っている自分も確かにいた。
沈黙が長く続いた。誰も動かなかった。
初華は床に崩れたまま動かない。にゃむは壁に張り付いたまま動かない。海鈴は膝を抱えたまま動かない。睦は壁際に座ったまま四人を見ている。
五人がバラバラだった。同じ小屋の中にいるのに、全員が別の方向を向いていた。にゃむは初華から目を逸らしている。初華は自分の手を見ている。海鈴は通信機を見ている。睦は全てを見ていて、同時にどこも見ていない。
祥子は立っていた。初華とにゃむの間に立ったまま。どちらに行けばいいかわからなかった。初華のそばに行けば、にゃむが孤立する。にゃむのそばに行けば、初華が一人になる。海鈴のそばに行ける余裕は、どこにもなかった。
通信機が鳴った。
ノイズだった。海鈴の膝の上で、通信機の小さなスピーカーから雑音が漏れた。それだけだった。ただのノイズ。
だが海鈴の指が動いた。膝の上で通信機を抱えていた手が、ダイヤルに触れた。回した。周波数を変えた。ノイズの質が変わった。もう一度回した。また変わった。
海鈴の目に、何かが戻っていた。パニックの残骸と凍った水面の下に、別のものが灯った。訓練された反射。体が覚えている動作。教練で何度も繰り返した周波数の走査。指がダイヤルを二度刻みでずらしていく。一度にひと目盛。これも教範通りだ。ノイズの中から信号を探す手順。海鈴の手だけが正気を保っている。
海鈴の指が止まった。
ノイズの中に——声が混じった。途切れ途切れの。ノイズに埋もれた。だが、人の声だった。
《——ロドス……艦より……小隊……座標……受信……るか——》
海鈴が通信機を耳に押し当てた。体が起き上がった。膝を抱えていた姿勢から、背筋が伸びた。
全員が海鈴を見た。
《——繰り返す……ロドス本艦通信室より……AM小隊……応答……座標を送信する……受信できるか——》
海鈴の口が動いた。
「こちらAM小隊。受信しています」
声が震えていた。だが言えた。
《——AM小隊、受信を確認。こちらロドス本艦通信室。現在の状態を報告せよ——》
海鈴が祥子を見た。一瞬だけ。祥子が頷いた。
「——車両が攻撃を受け大破。先任オペレーターのマルゴが死亡。残り五名。負傷者一名。現在、ヒロック南東の農地を徒歩で離脱中です」
通信の向こうで、一拍の沈黙があった。
《——了解した。AM小隊に座標を指示する。合流地点、グリッド、チャーリー・スリー・セブン・ナイナー。ルートA-7を東進、灌木に囲まれた窪地。石垣の東側に農道がある。回収車両を〇六三〇に派遣する。現地時間の明朝〇六三〇までに到達せよ》
海鈴が復唱した。声が手順の形をしていた。
「グリッド チャーリー・スリー・セブン・ナイナー。ルートA-7東進、灌木の窪地。石垣東側に農道。〇六三〇」
海鈴の指がポケットを探った。戦術端末がない。メモがない。ペンがない。車の中に置いてきた。あるいはどこかに落としてきた。海鈴は通信機を耳に押し当てたまま、目を閉じた。座標指示の数字を頭の中に刻んだ。教練で鍛えた記憶力。海鈴は数字を忘れない。
《——座標復唱を確認。AM小隊、注意事項。合流地点周辺に敵の活動あり。接近に際しては最大限の警戒を。……それと——》
通信士の声が、一瞬だけ手順から外れた。
《——五人とも、無事に戻ってきてくれ》
通信が切れた。ノイズだけが残った。
海鈴がゆっくりと通信機を膝に降ろした。目を開けた。四人が海鈴を見ていた。
「……進んできた方角は合っています」
海鈴の声は、まだ震えていた。だが言葉の形をしていた。
「座標から計算すると、ここから東北東に約四キロ。現在の時刻は——」
海鈴は窓の外を見た。空は暗い。だが東の地平線に、かすかに灰色が混じり始めていた。
「〇三五六。〇六三〇までに四キロ。二時間半。歩けます」
海鈴の声が「歩けます」の部分で少しだけ強くなった。
歩けます。
その一言が、小屋の中の空気を変えた。にゃむはまだ壁に張り付いていた。初華はまだ床にいた。だが全員の耳が同じ声を聞いた。全員の目が、同じ方向を向いた。東北東。四キロ。
祥子は海鈴を見た。海鈴の目に浮かんでいるもの——パニックの残骸の下に灯ったもの。それは自分に役割が与えられたという事実だった。座標を受信し、復唱し、報告した。それだけのことが、海鈴をかろうじて人間の形に繋ぎ止めた。
祥子は全員を見た。全員がバラバラだった。にゃむと初華の間に入った亀裂は、そのまま残っていた。だが全員の耳に同じ座標が入った。全員の前に同じ時間制限がある。〇六三〇。それまでに回収地点まで辿り着ければ、回収班が来る。助かる。
祥子は口を開いた。
「——出ますわ」
それ以上の言葉が見つからなかった。にゃむに謝るべきかもしれない。初華を起こすべきかもしれない。海鈴を労うべきかもしれない。だが時間がない。四キロ。二時間半。にゃむの負傷。初華の手の震え。海鈴の座標。睦の空っぽの目。全部を抱えて歩くしかない。
睦が立ち上がった。荷物を肩に担いだ。祥子が荷物の半分を肩代わりした。海鈴が立った。通信機を胸に抱えたまま。足元がまだおぼつかない。だが立った。
にゃむが壁から背中を剥がした。負傷した右腕を庇いながら立ち上がった。初華の方を見なかった。
初華が、床からクロスボウを拾い上げた。手が震えていた。さっきまでにゃむに向けていたクロスボウ。指がそれに触れたとき、初華の体が一瞬止まった。だが握った。初華は祥子の後ろについた。にゃむから距離を取った。にゃむも初華に近づかなかった。二人の間に、不自然なほどの隙間ができた。その隙間を埋める者はいなかった。
祥子が扉を押した。蝶番が軋んだ。外の空気が入ってきた。冷たかった。
東の空が、ほんのわずかに白んでいた。
〈つづく〉