薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
夜の牧草地を歩く五人。ドローンの接近を受け、農機具小屋に退避する。にゃむが祥子を責め、初華がクロスボウをにゃむに向けた。全員がバラバラになった小屋の中で、海鈴の通信機にロドス本艦からの声が入る。回収地点の座標、明朝〇六三〇。四キロ先。五人は再び夜の中へ踏み出す。
明るくなると、夜の間は見えなかったものが見えた。
振り返ると、五人の足跡が、泥と枯草を踏み荒らした痕跡となって石垣の向こうまで続いている。にゃむの腕から落ちた血が、石の上に点々と錆色の跡を残している。追跡者がいれば一分で辿れる。
空が白み始めていた。東の地平線が灰色から淡い青に変わり、低い雲が地面すれすれまで降りている。視程は二百メートル。霧ではないが、遠くが霞む。敵にも見つかりにくい代わりに、こちらも周囲が見えない。
祥子たちは歩いていた。石垣を越え、牧草地を横切り、排水溝を跨ぐ。同じ動作の繰り返し。ブーツが泥と水を吸ってひたすらに重く、不快だ。足を上げるたびに泥が靴底を吸い付けて離さない。一歩ごとにぐちゃりと音が鳴る。
海鈴が先頭を歩いていた。いつの間にか行軍の隊列が変わっている。座標を持っている人間が先頭に出るのは合理的だった。通信機を左手に持ち、右手で東北東を指す。時々立ち止まって空を見上げた。雲の切れ間に残る星の位置。教練で習った天測航法を、海鈴は地図もコンパスもなしで実行していた。二つの恒星の角度差から方位を読む。座標が海鈴の頭の中に地図を描いている。
ついさっきまで膝を抱えてうずくまっていた人間が、今は五人の先頭に立っている。座標が海鈴を動かしていた。手順が海鈴を繋ぎ止めていた。回復ではない。海鈴の中のパニックは消えていない。手順の上にパニックを載せて、手順のほうを動かしている。
にゃむが祥子の斜め後ろを歩いていた。右腕を庇って、左手をポケットに突っ込んでいる。歯を噛み締めている。唇にはもう色がない。ガーゼの下の傷が腫れ始めていた。包帯の端から滲んだ血が乾いて赤茶色に変わっている。にゃむの歩幅が小さくなっていた。三〇分前よりも。痛みが歩幅を縮めている。
睦がにゃむの隣を歩いていた。荷物を担いで、無言で。にゃむの歩調に合わせている。にゃむが遅れると睦も遅れた。にゃむが止まると睦が手を差し出した。にゃむはその手を取らなかった。だが睦は手を引っ込めなかった。
初華が最後尾を歩いていた。にゃむから距離を取っていた。五メートル。小屋を出た直後は三メートルだったのが、歩いているうちに広がった。クロスボウを右手に持って、左手が自分の右手首を掴んでいる。震えを止めようとしている。
祥子は振り返るたびに初華を見た。初華は祥子と目を合わせなかった。目を逸らすのではなく、最初から祥子の方を見ていなかった。自分の手を見ていた。クロスボウを持っている手。にゃむの胸に照準を合わせた手をじっと見ていた。
五人の間に会話はなかった。小屋を出てから一言も交わしていない。必要な情報だけが、手振りと視線で伝わった。海鈴が方角を示し、祥子が頷き、全員がそちらへ動く。それだけの連動。壊れかけの歯車どうしが惰性で回っているようだった。
石垣を一つ越えたとき、海鈴が足を止めた。
「——豊川さん」
海鈴の声が低かった。
「見てください」
海鈴が指した方向。東北東。牧草地の先に、農道が見えた。泥道が南北に走っている。その農道の交差点に、車両が停まっていた。二台。幌付きのトラック。荷台に何かが積まれている。靄と距離があって詳細は見えないが、人影があった。三つ。四つ。立っている者と、座っている者がいる。
検問だった。
***
祥子は石垣の影に身を沈めた。全員が倣った。にゃむが膝をついた。祥子と睦が荷物を降ろした。初華が後方を確認してから石垣に背をつけた。
検問まで三〇〇メートル。見えている情報を整理する。車両は二台。荷台に幌を張った中型トラックで、ロドスの輸送車両より一回り大きい。車体に塗装はない。金属の地肌が露出している。正規軍の車両なら塗装とマーキングがある。ないということはダブリンだ。
人員は四名。二名が交差点の中央に立ち、二名がトラックの荷台に腰を下ろしている。立っている二名のうち、一名が盾を背負っている。もう一名は腰に剣。荷台の二名の武装は距離があって判別できない。
農道の交差点は南北の道と東に延びる枝道の丁字路。合流地点は東の枝道の先にあるはずだった。
「回収地点は、あの交差点の向こう側です」
海鈴が言った。声は低い。祥子に聞こえる最低限の音量に絞っている。
「あの検問を越えないと合流地点に辿り着けません」
「海鈴。迂回した場合の距離は」
「八キロ以上です。時間的に不可能です」
即答だった。海鈴の中で計算は終わっている。にゃむの歩行速度、指示された時刻までの残り時間、距離。三つの変数を重ねれば結論は一つしかない。
「ロドスに掛け合って回収時間をずらすのは……論外ですわね」
「ええ、祐天寺さんの腕が持ちません。かなり腫れが進んでいます」
にゃむがガーゼの下の腕を見た。何も言わなかった。包帯の下で前腕が膨れ始めている。組織が炎症を起こしている。消毒はしたが、泥水の中を何時間も歩いた。感染症のリスクもある。
迂回は距離で無理。待機はにゃむの腕で無理。残るのは一つ。
「……突っ切るしかありませんわね」
祥子の声は冷静だった。自分でも驚くほどだった。恐怖が消えたのではない。恐怖の上にもう一層別のものがあった。やらなければ全員が死ぬという事実が、恐怖に強く蓋をしている。
「検問の交代パターンを読みますわ。兵員の動きを観察して、隙間を見つける。検問から視認されにくいルートで農道を横切って、向こう側に入る。海鈴、どう思いますか」
海鈴が石垣の上から検問を覗いた。目を細めて、三〇秒ほど見ていた。
「……交差点の南側に窪地があります。排水溝か、古い用水路か。あそこを使えば農道まで身を隠して接近できます。農道を横切る区間は三〇メートル。走れば十五秒。問題は、検問の兵員がこちら側を見ていない時間を何秒つくれるかです」
「観察しますわ。パターンを読みます」
祥子は石垣に背をつけた。支給品の腕時計を見る。東の空がさらに白んでいる。ちょうど〇五〇〇。〇六三〇まで一時間半。
辛抱強く待って、観察した。石垣の上から、交代で検問を見張る。祥子が見て、海鈴に交代し、海鈴が見て、睦に交代した。にゃむは腕の状態で見張りに立てなかった。初華は最後尾で石垣に背を預けて目を閉じている。眠っているのではない。手首をきつく左手で掴んでいた。
四〇分が過ぎた。
パターンが見えた。検問の兵員は四人。二人が交差点に立ち、二人がトラックの荷台に座っている。二〇分ごとに交代する。交代の瞬間、立哨の二人がトラックに向かって歩き出し、荷台の二人が降りてくる。四人全員がトラック周辺に集まる数秒間、こちら側への注意が途切れる。
祥子は三回の交代を見た。毎回同じだった。交代のタイミングで立哨が背を向けてトラックに歩く。降りてきた交代要員がまだ持ち場に着いていない。その空白が、およそ三〇秒。三〇秒で農道を横切る。五人で。にゃむの腕を庇いながら。
「次の交代を待ちますわ。交代が始まったら、窪地を使って農道まで接近。わたくしが合図を出したら一斉に横切る。農道の向こうの石垣まで走り抜ける。質問は」
にゃむが口を開いた。小屋以来、祥子に向けた初めての言葉だった。
「……走れる。片腕でも走れる」
声に怒りはなかった。疲労と痛みの奥に、もう一つ別の何かがあった。にゃむが祥子の目を見た。祥子が見返した。小屋の言葉がまだ二人の間に残っている。だがにゃむは「走れる」と言った。今のにゃむが出せるものはそれだけで、それが全部だった。
「海鈴。先導を」
「はい」
「睦。にゃむのそばを」
「……わかった」
「初華」
初華が目を開けた。祥子を見た。小屋を出てから初めて、初華が祥子の目を見た。初華の目に浮かんでいたもの。罪悪感。恐怖。自分自身への強烈な嫌悪。その下に、まだ残っているもの。
「——わたくしのそばにいて」
祥子はそれだけ言った。初華の瞳が揺れた。唇が動いた。声にならなかった。だが初華は頷き、クロスボウを握り直した。
窪地は古い用水路の跡だった。石が崩れて泥が溜まっている。深さは腰の下まで。屈めば牧草地の草の高さもあって身を隠せる。
五人が用水路の中を移動した。泥水が膝まで来た。さっきまでの夜間行軍と同じ水の冷たさだが、感覚が麻痺し始めていて、冷たいとすら思わなかった。にゃむが歯を食いしばっている。右腕を胸の前に抱え込んで、左手で用水路の壁を掴みながら進む。にゃむが滑ったとき、睦の手が肘を支えた。にゃむは振り払わなかった。
農道が近づいた。用水路が農道の手前で途切れている。ここから先は遮蔽物がない。三〇メートルの泥道。向こう側に石垣。あそこまで走れば——。
祥子は用水路の縁から顔を出した。検問は北に百メートル。兵員が見えた。二人が立っている。二人がトラックの荷台にいる。
再び、辛抱強く待った。心臓が早鐘を打つ。指先が冷たい。膝が震える。隣に初華がいた。初華のクロスボウが用水路の壁に沿って上を向いている。初華の目は検問を見ていた。あの澄んだ冷たい目。手首を掴む左手が、まだ震えていた。
交代が始まった。立哨の二人がこちら側に背を向けてトラックに向かって歩き出した。荷台の二人が立ち上がった。四人の注意が、どれもこちらを向いていない。
祥子は手で合図を送った。
海鈴が動いた。用水路から這い出て、農道に向かって走った。姿勢を低くして。足音を殺して。海鈴の足が泥道を蹴った。教練で鍛えた走り方——足裏全体で着地し、膝を曲げたまま走る。不格好だが音が出ない。十秒で農道を越えた。向こう側の石垣に飛び込んだ。
睦がにゃむの腕を取った。にゃむが頷いた。二人が同時に這い出た。にゃむが走った。片腕を胸に抱え込んで、歯を食いしばって走った。睦がにゃむのすぐ横を走った。にゃむが躓いた。泥に足を取られた。睦の手がにゃむの背中を押した。にゃむが踏みとどまった。走った。十五秒。二人が石垣の向こうに消えた。
祥子が動いた。初華が同時に動いた。農道の泥が靴を吸い込んだ。一歩ごとに足が取られる。走っているのに遅い。泥が重い。ブーツが重い。体が重い。水を吸った靴がぐぽぐぽと鳴る。十メートル。二〇メートル。石垣が見える。あと十メートル。
初華が祥子の前を走っていた。祥子と検問の間に自分の体を入れている。走りながら盾になっている。
石垣に手が届いた。初華が祥子を押し上げた。祥子が越えた。初華が飛び越えた。向こう側の牧草地に体が落ちた。枯草の中に伏せた。心臓が破裂しそうだった。息ができない。泥の匂い。草の匂い。自分の汗の匂い。
海鈴がすぐそばにいた。
「全員越えました」
囁いた。
祥子は頭を上げて石垣の向こうを見た。検問。兵員が交代を終えていた。新しい二人が交差点に立っている。こちらに気づいた様子はない。
息を吐いた。吐いた息が白かった。冬の朝。体中が冷えている。心臓だけが熱い。キンキンと甲高い耳鳴りがする。
「……行きますわ」
祥子は立ち上がった。膝が笑っていた。手が震えていた。だが立った。
海鈴が東北東を指した。
「あと一キロ半です」
***
回収地点が近づいていた。時間にはまだ、余裕がある。
ロドス本艦から指示された座標は牧草地の中にあった。肩ほどの高さがある石垣と、灌木に囲まれた小さな窪地。車両が入れる幅の農道が東に延びている。回収地点はその農道を進んだ先にあるはずだった。
五人は窪地の手前の石垣に身を寄せた。
声が聞こえたからだった。
石垣の向こう側。回収地点に近い方角から聞こえてくる。男の声が二つ。ターラー語だった。海鈴が反射的に通信機の音量を絞った。祥子が全員に目配せし、息を殺した。
祥子は石垣の縁からわずかに頭を出して、向こう側を覗いた。二人の男が農道を歩いていた。二〇〇メートル先。こちらに向かっている。
武装していた。一人が肩に戦斧を担いでいる。もう一人の腰に剣。ダブリンの兵士だった。
一五〇メートル。足取りは巡回のそれだった。急いでいない。だがまっすぐこちらに向かっている。
一〇〇メートル。二人の顔が見え始めた。先を歩く剣の男が何か言って、斧の男が笑った。笑い声だけが風に乗って届いた。
祥子は石垣の下に頭を戻した。心臓が喉の奥で脈打っている。
足音だけが近づいてくる。枯草を踏む二人分の靴音。声がはっきり聞こえるまで近づいた。ターラー語の抑揚。笑い混じりの雑談。
先を歩いていた男が立ち止まった。
心臓が止まりそうだった。
煙草の匂いが漂ってきた。マッチの硫黄。それからテラの煙草の甘い煙。石垣のそばまで来ている。一〇メートルもないはずだ。
笑い声。何かを言い合っている。一語もわからない。だが声の調子でわかった。日常の声だった。仕事の合間の雑談。煙草休憩。自分たちを殺すかもしれない人間が、雑談を交わし、笑っている。
にゃむがすぐ横にいた。呼吸が速い。目に涙が浮かんでいる。右腕を胸に押し付けて、左手が口を覆っている。
海鈴が石垣の根元にうずくまっていた。通信機を体の下に押し込み、震える背中が小さく丸まっている。
睦は目だけを動かしている。
隣で初華のクロスボウが上がっていた。音を立てずに弦を引いている。
祥子は初華の腕を掴み、首を横に振った。まだ、と目だけで伝えた。初華の指がトリガーの上をさまよって、離れた。
足音が動いた。石垣に沿って歩いている。煙草の匂いが濃くなった。
この石垣の角を回られたら、見つかる。
にゃむが息を止めた。海鈴が体をさらに縮めた。睦が目だけを動かして祥子を見た。
足音が近い。小石を蹴る音。もう一人の足音が少し遅れて続いている。
見つかれば殺される。声を上げられたら他の部隊に伝わる。走って逃げるだけの体力はもうない。回収車両は三〇分もしないうちに到着する。ここで終わるわけにはいかない。
見つかる前に。
見つかる前に、殺すしかない。
その思考が浮かんだとき、祥子の体の奥で何かが軋んだ。十数時間前まで、ジェニーと紅茶を飲んでいた。バノフィーパイを食べていた。その人間が、いま「殺す」ことを考えている。教練のどこにもそんな手順はなかった。ウィスラッシュから教わったのは「安全確保」だ。「殺せ」とは言われなかった。
教練の手順が、ここで途切れていた。その先のページは白紙だった。
足音が、石垣の角まであと五歩分の距離まで来ていた。
祥子は右手を上げた。
教練で習っていないハンドシグナルを、出した。
右手の人差し指と中指を揃えて、自分の喉元を横に引いた。
海鈴の目が見開かれた。にゃむの全身が強張った。
睦は、ただ頷いた。荷物を静かに地面に降ろした。
初華が頷いた。クロスボウを握る手に、僅かな力が込められた。
祥子の手は、まだ自分の喉元にあった。
指先が、細かく震えていた。
もう、取り消せない。
初華と睦が、音を立てずに動き出した。
〈つづく〉