薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
夜明けの牧草地を東へ歩く五人。回収地点の手前でダブリンの検問に遭遇し、交代の隙を突いて農道を走り抜けた。だが回収地点の目前で、巡回する武装兵二人が石垣の向こうから近づいてくる。逃げる体力はない。回収まであと三〇分。祥子の手が、教練にはないハンドシグナルを切った。
石垣は一直線に伸びている。敵が歩いているのは向こう側。祥子たち五人が隠れているのはこちら側。石垣の端を回り込まれたら、見つかる。
初華が石垣の端に寄った。壁に背をつけて腰を屈め、端のすぐ横で息を潜めた。クロスボウを構える。装填済み。ボルトが一本。予備は腰のポーチに三本。この位置なら、端を回り込んできた敵の顔を正面から撃てる。
睦は逆に動いた。石垣に沿って反対の端まで走り、向こう側に出た。敵の背後に回る。初華が正面。睦が背後。石垣の端を挟んだ挟撃になる。
睦の右手にナイフがあった。腰のポーチに入っていたサバイバルナイフ。刃渡り十二センチ。教練で全員に支給された装備で、にゃむが車内でシートベルトを切ったのと同じものだった。
祥子はにゃむと海鈴の前に膝をついていた。二人を石垣の根元に押し込んで、自分の体で隠した。にゃむの目が大きく開いていた。海鈴が通信機を抱えて小刻みに震えていた。
足音が来た。
石垣の角の向こう。あと三歩。二歩。
あと、一歩。
男の影が角から出た。戦斧を背負った男だった。煙草を咥えていた。初華と男の目が合った。
男の口が開いた。声が出る前に、初華がクロスボウを撃った。
距離は一メートル半。教練の射撃場では的を二十メートル先に置く。こんな至近距離で人に向けて撃った訓練はない。照準も何もなかった。腕を上げて、引き金を引いた。
ボルトが男の喉に入った。
胸を狙ったつもりだった。手が跳ね上がったのか、男が屈んだのか。ボルトは喉の左側に刺さって、先端が首の後ろから出た。頸動脈を裂いたのだろう。血が脈に合わせて噴いた。
煙草が口から落ちた。男の手が自分の喉を掴んだ。指の間から血が溢れた。声にならない音がした。何かがブクブクと泡立った音。穴から空気が漏れる音。
男が仰向けに倒れた。噴き出した血が初華のブーツにかかった。
二人目はまだ角を曲がっていない。一人目が角の向こうで倒れる音を聞いて、角の向こうを覗き込もうとした。その背後に、石垣の外を回り込んできた睦がいた。
ナイフを逆手に握って、男の首に突き立てた。
刃が首に入りかけて、止まった。襟元に巻いた布と革の詰め物にナイフの先端が食い込んで、肉の手前で刃が止まっていた。浅い。皮膚を裂いただけだ。百五十三センチの体重では、革ごと押し切る力が足りなかった。
男が叫んだ。首に手をやって、ナイフの刃を掴んだ。睦の手ごとナイフを握り込んだ。大きな手だった。睦の指がナイフの柄から引き剥がされた。ナイフが石の地面に落ちた。金属が石にぶつかる硬い音がした。
男が睦を見た。小さな女が素手で立っている。男の手が腰の剣に手を掛けた。
睦は跳びかかった。男の腕にしがみついた。百五十三センチの体が男の腕にぶら下がった。男の体が前に引き倒される。二人の体が地面に転がった。泥の中で、男の拳が睦の顔を強く打った。睦の頭が揺れた。
だが睦は腕を離さなかった。男の手首を両手で掴んで、剣の柄に触れさせまいとしていた。男の口が開いた。叫ぼうとした。睦は男の手首を離して、両手で男の顔を泥の中に押し込んだ。体重を全部乗せた。男の声が泥に埋まった。くぐもった音と泡が泥の表面に浮いた。男が首を振った。睦の体が揺さぶられた。だが睦は手を離さなかった。睦の顔は変わらなかった。
初華はそのとき、角の横でクロスボウの弦を引いていた。両手で弦を掴み、顎の下に柄を当てて、体重をかけて弦を引き絞る。教練で何百回もやった動作。装填に八秒。
一人目の男がまだ動いていた。喉に刺さったボルトを掴もうとして、指が血で滑っている。ひゅう、ひゅう、と気管の穴から空気が漏れ出る音がしていた。初華は瀕死の男を無視して、黙々と装填を続けた。
石垣の向こうから音が聞こえていた。睦が二人目ともみ合っている。くぐもった声。泥を掻く音。体が地面を転がる音。
初華は弦を引いた。溝にボルトを載せた。金具が噛み合う小さな音がした。装填完了。
初華は立ち上がった。石垣の端を回った。三歩先で、睦と男が泥の中にいた。男の顔が泥に押し込まれていた。睦が両手で男の後頭部を押さえている。体重を全部乗せている。男が首を振って泥から顔を上げようとしていた。体格で勝る男の力が、少しずつ睦を押し返している。
初華が男の頭のすぐそばに立った。クロスボウの先端を、泥に沈んだ後頭部に押し当てた。男の体が強張った。首の後ろに触れた金属の感触で、何が来るかを理解したようだった。
初華が引き金を引いた。
ボルトが後頭部から入り、泥の中へ抜けた。
男の体が一度だけ大きく跳ねて、動かなくなった。
睦が男の後頭部から手を離した。膝をついたまま、男の背中の上から降りた。額から血が出ていた。殴られた場所だ。両手が泥にまみれている。爪の間に泥と、男の髪が挟まっていた。
初華がクロスボウを降ろした。先端から血が垂れていた。男の後頭部を撃ち抜いたとき、返り血の飛沫がかかっていた。
「——終わったよ、さきちゃん」
初華の声は平坦だった。柔らかくも冷たくもなかった。報告。初華はそこに感情を載せなかった。載せる余裕がなかったのか、載せるものがなかったのか。祥子にはわからない。
祥子は石垣の角を回った。
角の手前に一人目が倒れていた。仰向け。喉からボルトが突き出ている。目を開いたまま、空を見ていた。その数歩先に二人目がうつ伏せで横たわっていた。顔が泥に埋まったまま、動かない。後頭部から羽根つきのボルトが生えているようだった。
煙草がまだ燻っていた。一人目の男が落とした煙草が、石の上で細い煙を上げていた。焦げた葉の、甘い匂い。
祥子は煙草を踏んで消した。
手が激しく震えていた。自分は何もしていない。クロスボウを撃っていない。ナイフを突き立てていない。頭蓋にボルトを撃ち込んでいない。自分がしたのは——右手の人差し指と中指を揃えて、自分の喉元を横に引いたこと。たった、それだけ。
それだけで、二人の人間が死んだ。
にゃむが石垣の角から顔を出して、二人の男の亡骸を見た。にゃむが口を両手で覆った。膝をついて、石垣の根元で吐いた。胃の中に何もなかったのか、胃液だけが泥の上に落ちた。
海鈴は石垣の陰から出てこなかった。通信機を抱えて、震えたまま、目を閉じていた。
祥子は初華と睦を見た。
初華が祥子を見返していた。初華の右手が赤い。クロスボウが赤い。ブーツが赤い。その初華が「さきちゃん」と呼んだ。報告の声で。命じたのは祥子だった。初華の手を赤く染めたのは祥子だった。
睦が膝をついたまま動かなかった。両手が泥にまみれている。爪の間に泥と、男の髪が挟まっていた。睦はそれを見ていなかった。額の傷から血が鼻筋を伝っている。殴られた場所だ。
「——睦」
祥子の声が掠れていた。
睦が顔を上げて、祥子を見た。
「……手を」
祥子は医療キットから布を出した。にゃむの止血に使った残りの端切れ。睦の額の傷口を拭い、布で覆った。睦の両手の泥を拭こうとした。爪の間の髪が取れなかった。
睦は何も言わなかった。祥子の手が自分の手を拭くのを、じっと見ていた。
初華が自分の手を服の裾で拭いていた。血の跡が布に移った。取れない。拭いても拭いても取れない。初華は途中で手を止めて、手を下ろした。
「……行きましょう」
祥子は立ち上がった。全員が祥子を見た。にゃむが口元を拭いて立ち上がった。海鈴が石垣の陰から出た。睦が膝を伸ばした。初華が祥子の後ろについた。
二人の男の亡骸が、地面に残った。煙草の煙はもう消えていた。
五人は歩き出した。回収地点まで、あと少しだった。
***
回収地点に到着した。石垣と灌木に囲まれた、農地の一角。車両が一台入れる程度の空間。東に農道が延びている。
五人は石垣の縁で、バラバラになって座っていた。にゃむと初華の間に距離がある。睦が壁際でボトルの水を飲んでいる。海鈴が通信機を抱えてうずくまっている。祥子が真ん中の、誰のそばでもない位置に座った。
待った。
東の空が白い。もう夜ではない。雲が低く垂れて日は出ていないが、世界に光が戻っていた。
光が戻ると、全部が見えた。にゃむの包帯の赤。初華のブーツの赤。睦の頭に巻かれた布の赤。海鈴の顔の白さ。自分の手の泥。先ほどの石垣に残してきたものも、光の中に横たわっているはずだった。
エンジン音が聞こえた。東から。農道の向こうから。低い回転音が近づいてくる。六輪の装甲トラックの音。ロドスの車両だ。タイヤが泥道を踏む音が重なる。
祥子は立ち上がった。膝が震えていた。だが立った。
装甲車が農道の先に見えた。車体の横にロドスの紋章。車両が窪地の手前で停まった。後部ハッチが開いた。最初に出てきたのは、光輪を持った男だった。二人のサンクタが、自動小銃を構えて、農道の両側に散った。左右を確認し、片方が膝をついて銃を構え、もう片方が合図を出した。安全確認が済んだ合図だった。
次に出てきたのは、ヴァルポ族の医療オペレーターだった。救急キットを二つ抱えている。
最後に降りた人物を見て、祥子の背筋が伸びた。
ウィスラッシュ。
鞭剣を腰に提げたクランタの女が、装甲車から降りた。ブーツが泥を踏んだ。右手で車体の縁を掴んで降りた。左手はいつも通り、わずかに不自由そうに体の横にあった。
ウィスラッシュが五人を見た。一人ずつ。祥子はウィスラッシュの目を追った。その目がにゃむの包帯を見て、海鈴の白い顔を見て、睦の額の包帯を見て、初華のブーツの赤を見て、そして祥子に戻ってきた。
ウィスラッシュの足が、一瞬だけ止まった。次の一歩を踏み出すまでの間が、いつもより長かった。祥子は教練で毎日見ていたから知っている。ウィスラッシュの歩幅と歩調。鞭剣を揺らさない滑らかな足取り。その足が一瞬止まった。
ウィスラッシュは祥子の前に来た。祥子は気をつけの姿勢を取り、ウィスラッシュの目を見上げた。百五十五センチの祥子と、百六十五センチのウィスラッシュ。この十センチの差を、訓練場で毎日見上げていた。怒鳴られて、叱られて、もう一度やれと言われて、見上げた目。
「——AM小隊、隊長、豊川祥子。報告します」
声は震えていたが、形を保っていた。
「昨日一七三〇頃、補給輸送任務の帰路においてルートA-7上で待ち伏せを受け、車両が大破。先任オペレーター・マルゴが死亡。残り五名は車両を放棄し、徒歩で離脱しました」
ウィスラッシュはただ、祥子の声を聞いていた。
「本日、〇四〇〇頃。ロドス本艦通信室より座標の指示を受け合流地点へ向かいました。負傷者——祐天寺にゃむ、右前腕裂傷。車両大破時のガラス片による切創。応急処置済み。若葉睦および三角初華、額部裂傷——それと」
次の言葉が喉の奥で詰まった。報告を終えなければならない。隊長として。自分が始めたことだから。
「合流地点への移動経路上で、敵の巡回兵二名と遭遇。排除しました」
初華がクロスボウで喉を撃った。後頭部にボルトを撃ち込んだ。睦が泥の中に押さえ込んだ。命じたのは自分だ。
ウィスラッシュの目が、祥子から動いた。初華のほうへ。祥子にはわかった。ウィスラッシュが何を見ているか。初華のブーツの赤。初華の右手の赤。クロスボウを握っている手。ウィスラッシュがクロスボウの射撃を教えた手。練習場で「飲み込みが早い」と言っていた手。その手が赤く染まっている。
初華はウィスラッシュの視線に気づいていなかった。座ったまま動かない。初華の目に何も映っていなかった。
ウィスラッシュの目が睦に移った。祥子はその視線を追った。睦の額に巻かれた包帯。顔に残った赤黒い飛沫。
睦が、ウィスラッシュを見返していた。普通の目で。何も浮かんでいない目で。教練の映像を見た日と同じ目で。初めて人を殺した日の朝に、ボトルの水を静かに飲む目で。
ウィスラッシュの唇が、わずかに動いた。祥子はそれを見た。何を言おうとしたのかはわからなかった。だがウィスラッシュが睦を見る目に浮かんだものを、祥子は見た。訓練場では一度も見たことのない、何かだった。
祥子は思い出していた。教練の日。人が死ぬ戦術記録を見た日、睦だけが何も変わらなかった。表情が動かなかった。教室を出る足取りが、入るときと同じだった。ウィスラッシュが睦の後ろ姿を見ていた。あのとき教官の目に浮かんでいたものが何だったのか、ずっとわからなかった。
そして、今ようやくわかった。
ウィスラッシュは、睦を恐れていた。人を殺して、何も変わらずに、いつもと同じように水を飲めるということを。
祥子の背中に、幼馴染みに、仲間に向けるべきではない冷たさが走っていた。
医療オペレーターがにゃむに近づいた。
「腕を見せてください」
にゃむは応じなかった。医療オペレーターが膝をついて、にゃむの右腕に触れた。ガーゼを外そうとして、指先が傷口の端に触れた。
にゃむの体が跳ねた。
「触んなッ——!」
叫んだ。声が裏返った。体が壁際に跳び退いた。左手で右腕を抱え込んで、背中を石垣に叩きつけた。目が見開かれていた。医療オペレーターの顔を見ていなかった。別の何かを見ていた。
「さわんな……さわらんで……ッ」
熊本弁が漏れていた。制御できていなかった。にゃむの体が壁際で丸くなっていた。右腕を庇って、膝を抱えて、顔を膝に埋めていた。全身が震えていた。
祥子の耳に、小屋でにゃむが叩きつけた言葉が、まだ残っていた。
医療オペレーターが手を引いて、ウィスラッシュに目配せした。ウィスラッシュが小さく首を振る。今は待ちなさい、と。
海鈴は窪地の隅に座っていた。通信機を胸に抱いている。回収班のサンクタが声をかけた。
「通信機を預けてください」
海鈴の指が動かなかった。祥子は海鈴の手を見た。通信機を握っている指が白くなっていた。力を込めすぎて血が通っていないのだ。海鈴の目は通信機の一点を見つめている。焦点は合っている。理解もしている。だが、指がどうしても開かない。
祥子にはわかった。通信機を手放したら、海鈴をここまで繋ぎ止めていたものが全部なくなる。
サンクタが再度声をかけようとしたが、ウィスラッシュが手で制した。
祥子は報告を終えていた。「以上ですわ」と言ったはずだった。言ったかどうか、自分でもわからなかった。口は動いた。音は出た。
「わたくしは——」
祥子の唇が動いた。
「わたくしは——」
同じ言葉が出た。
「わたくしは——」
ガクン、と膝が折れた。
立てない。足に力が入らない。膝が笑って、体が前に傾いて、徐々に地面が近づいて——。
誰かの手が肩を掴んだ。大きな手。右手。力がある。祥子の体が、倒れる前に止まった。
ウィスラッシュの手だった。
祥子は見上げた。ウィスラッシュの顔があった。教官の顔だった。教練のときと同じ顔。厳格で、隙がない顔。ただ——ウィスラッシュの目の奥に、何かが揺れていた。祥子がその揺れを見たのは初めてだった。あの人の目はいつも定規で引いたように正確で、揺れることがなかった。それが今、揺れている。
ウィスラッシュの右手が祥子の肩を掴んでいた。もう片方の手——左手が、祥子の頭に向かって、ゆっくりと持ち上がっていた。不自由な左手。競技騎士生活で壊れた左手。その手が、祥子の髪に触れようとしていた。
だが、触れなかった。祥子の頭の手前で止まって、下ろされた。ウィスラッシュの左手が、体の横に戻った。指先がかすかに震えていた。
なぜ止めたのか。祥子にはわかった。今この人は教官だから。教官でいなければならないから。髪を撫でたら、教官ではなくなる。教官でなくなったら、この人も崩れる。この人が崩れたら、五人を支える最後の柱がなくなってしまう。だから止めた。
「——報告は聞いたわ」
ウィスラッシュの声は平坦だった。いつもの教官の声。訓練場で「もう一度」と言うときの声と同じ響きだった。
「あなたたちの仕事は終わりよ」
仕事は終わり。仕事は終わった。もう隊長でいなくていい。報告もしなくていい。手順を回さなくていい。全員の位置を把握しなくていい。方角を指さなくていい。ハンドシグナルを出さなくていい。
——ハンドシグナル。
右手の人差し指と中指を揃えて、自分の喉元を横に引いた。あのときの感覚を、鮮明に覚えている。自分の喉を横切る指。指示を出したのは自分。あれで二人死んだ。初華の手を血で染めたのは自分だったし、睦にナイフを振るわせたのも自分だった。
祥子の目から涙が落ちた。
声は出なかった。涙が泥だらけの頬を伝って、顎から落ちた。
ウィスラッシュは肩を支える右手を退けなかった。
にゃむが壁際で丸まっている。
海鈴が通信機を握りしめている。
初華が目を開けたまま、固まっている。
睦がボトルの水を飲んでいる。
祥子が、声を出せずに泣いている。
ウィスラッシュの右手に篭められた力が、祥子の肩の上で、ほんの少しだけ、きつくなった。
〈つづく〉
次回更新:2/25(水) 21時
◇次回予告
報告書には主語を書きなさい、と教官は言った。
誰が命じて、誰が撃ったのか。
第7話「さきちゃん、起きてる?」
それが一番、耐えられなかった。