薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編 作:渡辺零
ヒロックの任務が終わった。ロドス本艦で目覚めた祥子は、事後報告書の記入を命じられる。「誰が撃ったのか」を書かずに済ませようとした祥子に、ウィスラッシュは言った。「主語がないわ」。病室に引き籠もる祥子のもとをアイリスが訪れ、夢の治療を提案する。祥子はその中に「やり直し」の可能性を見た。
夜。
アイリスが約束通りに来た。杖と、小さな蝋燭を一本持っていた。燭台を枕元のテーブルに立てて、火を灯した。炎が揺れた。小さな光が天井に影を作った。病室の蛍光灯とは違う光。柔らかくて、優しくて、温かい。
「横になってくださいな」
祥子はベッドの上で仰向けになった。天井の影が揺れている。蝋燭の炎が呼吸に合わせて動いている。
アイリスが椅子に座った。杖を膝に載せて、目を閉じた。
「私のアーツは、あなたを安らかな眠りに導きますわ。抗わないでくださいね。眠りに落ちたら、あとはあなた自身の記憶が夢を紡ぎますの」
アイリスの手が祥子の額に触れた。小さな手。体温がある。アーツが流れた。熱くも冷たくもない。水に沈むような感覚とも違う。いちばん近い感覚は——母の手。幼い頃、額に手を当てられて眠りに落ちたときの、あの感覚に似ていた。
瞼が重くなった。天井の影がぼやけた。蝋燭の光が遠くなった。
アイリスの声が遠くで聞こえた。
「——大丈夫ですわ。ここにいますから」
***
最初に見えたのは、お城の回廊だった。白い壁。高い天井。ステンドグラスの窓から色とりどりの光が差し込んでいる。アイリスの城。夢のお城。知っている場所。安全な場所。
祥子は回廊を歩いていた。足音が大理石に反響する。
だが、回廊は長く続かなかった。歩くほどに、壁が変わった。白い壁が灰色になった。天井が下がった。ステンドグラスが消えた。代わりに、小さな窓が現れた。板で塞がれた窓。ヒロックの街にあった窓だった。
回廊が消えた。
祥子は夜明け前の農道に立っていた。冬枯れの牧草地。灰色の空。石垣。枯草の匂い。ブーツの下の泥。風が冷たい。合流地点の手前。石垣の角。向こう側から、声が聞こえた。男の声が二つ。ターラー語。笑い声。煙草の匂い。
祥子の心臓が跳ねた。
夢だ。これは夢だ。わかっている。アイリスのアーツの中にいる。安全だ。安全な夢の中で、祥子はあの瞬間に立っている。
全員がいた。にゃむが右腕を胸に押し付けている。海鈴が通信機を体の下に押し込んでいる。睦が目だけを動かしている。初華がクロスボウのトリガーに指をかけている。
足音が近づいてくる。石垣の角。あと二メートル。
今度は違う判断をする。
祥子は「殺せ」のハンドシグナルを出さなかった。代わりに「伏せろ」の合図を出した。五人が石垣の根元に伏せた。枯草に潜んで、息を殺した。向こうがこちらの気配に気づかなければ。視線を向けなければ。このまま通り過ぎてゆけば——。
足音が近い。角を曲がった。兵士がこちらを見た。五人を見下ろしていた。祥子の目と、兵士の目が合った。煙草を咥えたまま、目が丸くなっていた。一秒。互いに動けなかった。
兵士の煙草が唇から落ちた。口が開いた。ターラー語の叫びが農道の空気を裂いた。
「走って!」
五人が枯草を蹴って走った。泥に足を取られる。一歩ごとに足が沈む。にゃむが転んだ。片腕では起き上がれない。襟を掴んで引き起こした。にゃむの口から泥混じりの息が漏れた。追いかけてくる靴音が増えていく。二人。四人。もっと。検問の方角からいくつもの怒号が重なった。
海鈴の呼吸が隣で破裂していた。躓いた祥子の腕を初華が引いた。泥で、その手が滑った。
足音に追いつかれた。背中に衝撃が来た。地面に叩きつけられた。口と鼻に泥が入った。息ができない。重い。屈強な男の全体重が乗っている。腕を捻り上げられた。肩の関節が軋んだ。悲鳴を上げた。
顔を横に向けた。泥の中から、にゃむの顔が見えた。押さえつけられていた。兵士の膝が背中に乗っている。にゃむの右腕、傷のある右腕を、兵士が踏んづけていた。
にゃむの口から、声にならない叫びが迸った——。
暗転。
***
やり直す。
足音が近づいてくる。石垣の角。あと二メートル。
今度は交渉。祥子が石垣の向こう側に出た。両手を上げた。武装していないこと、害意がないことを示した。兵士の目が祥子を捉えた。
斧が落ちてきた。額の中央に衝撃。骨の割れる音が頭蓋の内側から聞こえた。
暗転。
***
やり直す。
今度は自分が盾になる。石垣の角に立って、四人を逃がす。初華にクロスボウを使わせない。睦にナイフを握らせない。祥子が一人で時間を稼ぐ。
立った。兵士と向かい合った。戦斧が振り上げられた。祥子にはアーツがある。夢のお城で使ったピアノのアーツ。具現化した音符が敵を追尾し——。
アーツが、発動しなかった。
夢の中なのに。夢のお城では「思い描く通りの姿になれた」のに。アイリスの言葉が蘇った。
「夢は正直ですの。見たいものを見せてくれるわけではありませんわ」
ここはお城の夢ではない。ヒロックの記憶が映す夢だ。あの日の祥子にアーツで敵兵を止める力はなかった。だから夢の中でも、使えない。
斧が振り下ろされた。再び、骨の割れる音が頭蓋の内側から聞こえた。
暗転。
***
やり直す。
やり直す。
やり直す。
何度やっても——。
逃走は追いつかれる。負傷したにゃむの足が遅い。交渉は成立しない。相手はダブリンの兵士だ。自分が盾になれば自分が死ぬ。自分が死んだら四人はダブリンに囲まれたまま残される。初華は——祥子がいなければ動けない。
何度やっても、結末は同じか、もっと酷い。
やり直す。
足音が近づいてくる。石垣の角。あと二メートル。
他にあるはずだ。何か、まだ試していない選択が。
——なかった。
逃走すればにゃむが捕まる。交渉は成立しない。自分が出れば斧で死ぬ。頭が勝手に条件を並べ始めていた。にゃむの片腕。海鈴のパニック。睦の沈黙。回収車両まで三〇分。二人の武装した兵士。こちらの戦力。
答えが一つしか出ない。
右手を上げた。
人差し指と中指を揃えて、自分の喉元を横に引いた。
初華が動いた。クロスボウが上がった。ボルトが飛んだ。最初の兵士が倒れた。睦が飛び出した。ナイフが光った。二人目の兵士がよろめき、睦と揉み合いになった。初華が二本目のボルトを装填した。撃った。二人目を殺した。
同じだった。
全く同じだった。
何度やり直しても、何度条件を並べ直しても、祥子の手は、同じハンドシグナルを出す。出さざるを得ない。あの状況で、五人全員で助かる方法が、それしかない。
あの判断は、正しかったのかもしれない。
その認識が、祥子を砕いた。
「間違えていた」のなら、楽になれた。だが「正しかったかもしれない」場合、罪悪感の行き場がない。正しい判断の結果として初華がクロスボウを撃った。正しい判断の結果として睦がナイフを振るった。正しい判断の結果として二人の敵兵が死に、初華と睦が人を殺した。
正しさの中に、殺人がある。
夢のお城では、そうではなかった。正しい鍵盤を押せば正しい音が鳴った。誰も傷つかなかった。あのときと同じように、正しくやった。初華が人を殺した。睦が人を刺した。マルゴが死んだ。
祥子は石垣の根元にうずくまった。
夢の中の農道。冬枯れの牧草地。灰色の空。
声を上げて泣いた。
夢のお城のときのように、母が来てくれるかもしれないと、一瞬だけ思った。
だが来なかった。母はもういない。アイリスのネックレスもここにはない。
思い描く通りの姿になれる夢のお城のルールもない。
正直な夢の中で、祥子はただ泣いていた。
***
目が覚めた。
蝋燭の炎が揺れていた。蝋が短くなっている。かなりの時間が経っていた。枕が濡れていた。頬を涙が伝っている。夢の中で泣いた涙が、現実の体にも出ていた。
アイリスが椅子に座っていた。杖を握りしめていた。
白い天井に、蝋燭の炎の影が揺らめいている。
祥子は仰向けのまま、涙が止まらなかった。止めようとしても、止まらない。
呼吸が浅くなった。喉の奥が痙攣して、嗚咽が漏れた。体を起こした。膝を抱えた。額を膝に押し当てた。
声が出た。自分の声だとわからないほど低い、潰れた声だった。毛布を握る指が、爪が、掌に食い込んでいた。
何度やっても同じだった。何度戻っても同じ決断を下した。初華が撃った。睦が刺した。ダブリンの兵士二人が死んだ。全部同じだった。他に方法がなかった。
正しかった。
正しかったのに、初華の手が血に染まる。
正しかったのに、睦の爪に男の髪が挟まっている。
正しかったのに、二人の亡骸が地面に転がっている。
「————っ」
嗚咽が声になった。声が叫びになった。枕に顔を押し当てて、叫んだ。病室の薄い壁の向こうに聞こえているかもしれなかった。にゃむの部屋に。海鈴の部屋に。初華の部屋に。睦の部屋に。
でも、構わなかった。
椅子が動く音がした。小さな手が、祥子の背中に触れた。
アイリスだった。椅子から立ち上がって、ベッドの縁に腰を下ろした。祥子の背中に手を当てて、もう片方の手で祥子の頭を自分の肩に引き寄せた。
小さい体だった。祥子よりもずっと細い。だが手に迷いがなかった。夢のお城の城主は、泣く子どもを何人も抱きしめてきた人だった。
祥子は抵抗しなかった。アイリスの肩に顔を押し当て、声を上げて泣いた。声を殺す余裕などなかった。嗚咽が漏れた。涙がアイリスのドレスの肩を濡らした。水色の布地に染みが広がっていく。
アイリスは何も言わなかった。背中をさすりもしなかった。ただ手を当てて、祥子の頭を支えていた。泣き声が小さくなるまで、動かなかった。
どれくらい経ったかわからない。蝋燭がさらに短くなっていた。祥子の呼吸がようやく整い始めた。嗚咽の間隔が長くなった。肩の震えが小さくなった。
アイリスが口を開いた。
「祥子さん」
「……何度やっても、同じでしたわ」
喉が枯れている。声が、すっかり掠れていた。
「何度戻っても——同じ指示を出しましたの。他に、方法がなかった」
アイリスは黙っていた。
祥子がアイリスの肩から顔を上げた。青いフェリーンの瞳が近くにあった。蝋燭の光が滲んでいた。頬に一筋、細い線が光っていた。
アイリスは夢の内容に直接干渉することができない。だが夢を紡ぐ者として、眠っている人間の心がどれほど激しく波打っているかを感じ取ることはできる。祥子の夢が何度も何度も同じ地点に戻り、何度も何度も壊れたことを、アイリスは外側から感じていた。何が起きたかは見えない。どれほど苦しかったかだけが、伝わっていた。
「何度立ち戻っても、同じところへ辿り着いたのね」
「……ええ」
「そう」
アイリスの手が、祥子の手を取った。小さな手。温かい手。夢に落ちる前、額に触れたのと同じ手だった。
「祥子さん。夢が正直だということは——あなたが嘘をついていないということですわ。ご自身に」
祥子はアイリスの顔を見た。言葉の意味がわからなかった。嘘をついていない。自分に。どういうことだろう。何度やっても同じだった。それは——嘘をついていない?
「……よく、わかりませんわ」
「今はわからなくていいのよ」
アイリスが祥子の手を離した。立ち上がって、蝋燭のそばに戻った。
「今夜はもう眠れると思いますわ。アーツの余韻がありますから。自然な眠りが来ますの」
蝋燭を吹き消した。小さな煙が立ち上る匂いがした。蝋の匂い。柔らかな匂い。
闇の中で、アイリスの足音がした。扉が開いた。
「——おやすみなさい、祥子さん」
扉が閉まった。
祥子は暗い部屋で仰向けになった。枕が濡れている。目が熱い。すっかり喉が枯れている。
「何度やっても同じ判断をする」という事実が、祥子の上に覆いかぶさっていた。
アイリスの言葉が、耳の奥に残っていた。
——あなたが嘘をついていないということですわ。
意味がわからない。わからないのに、アイリスの言葉の響きが、消えない。
〈つづく〉
次回更新:2026/2/27(金) 21時
◇次回予告
八日ぶりに、病室の扉を開ける。
ジェニーはもういない。サイラッハがいる。
同じ人の、違う目がこちらを見ている。
第9話「柳の旗手」