薄明譫言(はくめいせんげん)——安らかな譫言・非公式続編   作:渡辺零

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◇前回までのあらすじ
アイリスの夢の治療を受けた祥子は、あの農道に何度も立ち戻る。逃走、交渉、盾になる。どれを試しても結末は同じか、もっと酷い。何度やり直しても同じ殺害指示を出す自分がいた。「あなたが嘘をついていないということですわ」。アイリスの言葉の意味が、まだわからない。


第9話「柳の旗手」

 朝が来ていた。

 蝋燭はとうに消えている。テーブルの燭台に蝋の塊が残っていて、冷えて白く固まっていた。

 祥子はベッドの上に座っていた。枕が乾いている。泣き疲れて眠ったらしい。

 夢は見なかった。アイリスの言った通り、アーツの余韻が自然な眠りを連れてきたのだろう。

 体は軽い。目の奥がまだ熱いが、頭は動く。

 結論は変わっていなかった。

 何度やっても同じ判断をする。正しくても殺す。

 ならば、判断する立場にいてはいけない。

 端末を開いた。

 四人のスケジュールが並んでいる。昨日と同じ画面。だが、変化があった。

 海鈴の欄。医療部の予定の下に、短い枠が追加されている。

「後方支援部門 ロジスティクス・情報整理 一四〇〇−一五三〇」

 海鈴が業務に復帰し始めている。祥子が知らないところで。

 にゃむの欄。腕のリハビリ。昨日と同じ。

 初華の欄。アステシアとの剣術訓練。午前。

 睦の欄。空白。

 端末を閉じた。

 廊下から足音が聞こえた。スニーカーの足音だった。

 ノックが二回。

「さきちゃん」

 初華だった。

 祥子は答えなかった。

 だが今日は、初華の声が少しだけ違った。

「さきちゃん。——出てこなくてもいいから。ひとつだけ」

 間があった。

「睦ちゃんがね、療養庭園できゅうり育ててるの。フレッドさんにあげたのとは別の、新しい品種」

 祥子の指が、シーツの上で止まった。

「それだけ。——ごはん、食べてね」

 足音が遠ざかった。

 きゅうり。

 フレッドにあげた種。ヒロックの事務所で、睦がビニール袋を差し出した。

 フレッドが「うわ、すっげえ綺麗に分けてある」と笑った。あの種は——あの事務所は——。

 新しい品種。

 別の種の、新しい苗。壊れたものの隣に、睦は新しいものを植えようとしている。

 祥子はそれを、どう受け取ればいいのかわからなかった。

 睦のスケジュールが空白に見えたのは、公式の予定がないだけだった。

 睦は動いている。療養庭園にいる。

 祥子が病室から出なくても。

 四人は動いている。

 ——あなたが嘘をついていないということですわ。

 不意に、アイリスの声が耳の奥で揺れた。

 その言葉が、胸の奥に引っかかり続けている。

 いまだに意味は、分からない。

 

   ***

 

 午後になった。

 病室にノックの音が響いた。二回ではない。三回だった。

 間隔が均等で、力が一定。初華ではなかった。

「豊川さん」

 海鈴だった。

 祥子の体が強張った。海鈴が祥子の病室に来たのは、初めてだった。

「一つ、お伝えしておきたいことがあります」

 業務報告の声だった。通信機を持って定時連絡をするときの、あの声だった。

 祥子は数秒黙った。それからベッドから降りて、扉を開けた。

 海鈴が立っていた。

 髪がきちんと整えられている。

 ロドスの内勤用ジャケット。グレーの詰め襟に、左胸のオペレーター識別タグ。袖口のボタンは全て留まっている。

 目の下に薄い隈があるが、姿勢は崩れていない。手に端末を持っている。

「失礼します」

 海鈴は部屋に入らなかった。廊下に立ったまま、端末の画面に目を落としていた。

「ヒロック郡の事後報告が更新されました。AM小隊の任務に関連する情報ですので、隊長である豊川さんにも共有します」

 隊長。その言葉が祥子の耳を刺した。

「ヒロック郡は、私たちが出発した日の夜に陥落しています。ダブリンの攻撃と、駐屯軍の源石汚染爆弾の投下が重なり、市街地は壊滅状態です」

 海鈴の声は揺れなかった。

「事務所の駐在員について。責任者のオリバー、フレッド、シュレッダー。三名とも生存しています。ただし撤退途中でダブリンの襲撃を受け、オリバーとフレッドが負傷、シュレッダーは重傷。現在は本艦の医療部で治療中です」

 三人とも生きている。フレッドも生きている。きゅうりの種を受け取った人が生きている。

 祥子の喉が動いた。

「……Outcastさんは」

 海鈴の指が端末の縁を一瞬だけ強く握った。

「戦死です」

 沈黙が降りた。

「ダブリンの幹部六名に包囲され、味方の撤退を援護するために単独で足止めを行い……自身の命と引き換えのアーツで、六名全員を道連れにしたとのことです」

 冷めるとタフィーが固まる。

 あの声が聞こえた。カップを口元に持ったまま、目元の皺を深くして。

「……それと」

 海鈴が一度息を吸った。報告の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「事務所にいた儀仗兵のジェニーさん。ジェーン・ウィロー。彼女はヴィクトリア軍を離れ、ロドスにオペレーターとして加入しています。コードネームはサイラッハ」

 ジェニー。パイを焼いてくれた人。「またおいでよ!」と叫んだ人。あの人が、ロドスにいる。

「ジェニーさんが」

 海鈴が端末を下ろした。

「豊川さんに会いたいと言っています。ヒロックの補給路で新人チームが襲撃された報告を読んだそうです」

 祥子は海鈴の目を見た。

 海鈴は端末から顔を上げた。海鈴は海鈴のやり方で、情報を、必要な人に届けている。そう思った。

「……ありがとう、海鈴」

「いえ、仕事ですから」

 海鈴は一礼して、廊下を歩いていった。足音が遠ざかる。

 

   ***

 

 祥子は部屋を出た。

 八日ぶりだった。医務室の扉を開けて、廊下に出て、蛍光灯の下を歩く。

 足元がおぼつかない。少し体力が落ちている。

 ジェニーに——パイを焼いてくれた人に、会いに行く。

 断れなかった。

 あの暖炉の前で「またおいでよ!」と笑った人が、会いたいと言っている。あの町がもうないのに。

 食堂の手前で、人影があった。

 背が高い。一七〇センチに届くかどうか。青い目。長い金髪。整った顔立ち。ヴイーヴルの角。

 振り向いた。

 ジェニーだった。

 確かに、ジェニーの顔だった。艶のある金髪も、手入れされた肌も、ヒロックの事務所で見たときと変わらない。

 だが纏っている空気が違った。

 着ているのはヴィクトリア軍の制服ではなく、ロドスの外勤用ジャケット。袖が少し窮屈そうだった。既製品がまだ体に馴染んでいない。

 そして、左胸の識別タグに目が行った。海鈴のタグと同じ位置。同じ書式。

 サイラッハ。

 ジェニー・ウィローが、自分で選んだコードネーム。

 あの事務所でパイを焼いて、紅茶を入れてくれた儀仗兵——その頃の自分を、ジェニーという本名と一緒に、彼女はヒロックに置いてきたのだろう。

 同じ人間の、違う目がこちらを見ている。

 笑顔は同じだった。人懐こくて、温かい笑顔。

 だがその奥に、祥子が見覚えのあるものがあった。夢から覚めた翌朝、鏡で見た自分の目と同じものだ。

「一週間ぶりだね、祥子」

 ジェニーの頃と同じ口調だった。

 サイラッハが笑った。少しだけ、寂しそうに。

「——ねえ、歩こう。ここじゃ話しにくいから」

 

   ***

 

 甲板に出た。

 風が当たった。冬の風。乾いていて、冷たくて、病室に篭もった八日間にはなかったものだ。

 ロドス本艦の甲板は広い。全長数約八〇〇メートルある移動艦の上面は、端から端まで見通せない。通信アンテナの林と換気塔の列が甲板の中央を背骨のように走り、その向こうは灰色の空に溶けて見えなくなる。足元の鉄板が搭乗員約二千人分の生活を載せて、低く振動している。

 祥子の髪が風に煽られた。八日間、ろくに梳かしていない髪だった。

 サイラッハは手すりに寄りかかった。長い髪が風を受けて、旗のように揺れた。

「事務所のみんなのこと、聞いた?」

「……海鈴から。オリバーさんとフレッドさんとシュレッダーさんが生きていると」

「うん。シュレッダーは危なかった。車の下敷きになって、あたしが引っ張り出したの」

 車の下敷き。祥子はひっくり返った車両のことを思い出した。マルゴは運転席で焼けた。

「あたしたちも襲撃されたんだよ。ヒロックを出た後、ダブリンに。車も通信機器も壊されて、フレッドとオリバーが怪我して。商道まで歩いて、商隊を止めて、トラックを借りて——」

 サイラッハは淡々と話した。感情を排除しているのではない。

 何度も反芻して、一週間かけて言葉にできる場所まで来ている。祥子にはそれがわかった。

「Outcastさんのこと」

 サイラッハの声が少しだけ低くなった。

「聞いてるよね」

「……海鈴から」

「六発目の弾丸、って言ってた?」

「……いえ」

「あの人のリボルバー、普段は五発しか込めないの。六発目は、命と引き換えのアーツ」

 サイラッハが手すりを握った。風が強く吹いた。

「ヒロックの街が燃えたとき、Outcastさんは怪我して倒れてた子を見つけたの。ダブリンの、まだ若い子。組織に利用されてるだけだって、Outcastさんは気づいた。それでロドスに連れて帰ろうとした」

 サイラッハの目が遠くなった。ヒロックの方角を見ているように思えた。

 甲板の遙か向こうに、冬枯れの農地が広がっている。あの街はもうない。

「逃げる途中で囲まれた。ダブリンの幹部が六人。六人だよ。一人一人が、あたしたちなんかよりずっと強い。Outcastさんは、バグパイプさんに託した。助けた子を。あたしも一緒に逃げろって。自分だけ残って、六人の前に立った」

 手すりを握るサイラッハの指に力が篭もった。

「あたしは走った。バグパイプさんに手を引かれて。背中の向こうで光が見えた。すごい光。Outcastさんの、アーツの光」

 沈黙が落ちた。風の音だけが鳴っている。

 祥子はサイラッハの横顔を見ていた。手すりを握る手の甲に、小さな傷痕がある。ヒロックでは見なかった傷だった。

「あたしがもっと強かったら、って何百回も考えた」

 サイラッハの声は低いままだった。祥子に向かって話しているのではなかった。

 手すりの向こうの、もう存在しない町に向かって話していた。

「あたしが足手まといじゃなかったら、Outcastさんは——」

 言葉が途切れた。手すりを握る指に力が入っていた。

「——でもそれ言っちゃうと、あの人が自分で選んだこと全部が、あたしの……」

 サイラッハの声が掠れた。言葉の続きを探しているように見えた。

 あるいは、見つけた言葉を飲み込んでいるようにも見えた。

 ——わたくしが命じなければ。

 祥子の中で、何かが重なった。

 重なっただけで、像を結んだわけではなかった。

「——聞かせてくれない? あなたのこと」

 サイラッハが初めて祥子のほうを向いた。

 祥子は口を開いた。

 言葉が出てこなかった。喉の奥で何かが詰まる。

 サイラッハは待った。急かさなかった。手すりに寄りかかったまま、風に髪を遊ばせていた。

「……復路で、ダブリンの巡回兵と遭遇しましたの」

 声が掠れていた。八日間、ほとんど使っていない喉だった。

「石垣の角で。二人。武装していて。こちらには気づいていなくて。でも確実に近づいていて——」

 言葉が出はじめると、止まらなかった。

「にゃむは腕を怪我していて、海鈴はパニックで動けなくて。睦と初華だけが動ける状態で——」

 髪が風に流される。祥子は髪を押さえなかった。

「逃げられませんでした。交渉もできない相手でしたわ。時間がなくて。回収車両が来るまで三〇分。回収地点は、すぐそこにあった」

 喉が詰まった。唾を飲んだ。飲み込むのに時間がかかった。

「わたくしが——指示を出しましたの」

 右手を見た。あのサイン。人差し指と中指を揃えて、喉元を横に引く。

「初華がクロスボウで一人を撃ちましたわ。睦がナイフでもう一人を。初華が二人目に、とどめを——」

 風が吹いた。祥子の掠れた声が、強い風に削られる。

「わたくしが命じなければ、あの二人は、人を殺さずに済みましたわ」

 サイラッハは遮らなかった。祥子の声を、ただ聞いていた。

「全て、わたくしの、せいですわ」

 聞き終わった後、サイラッハは少しだけ黙った。

 それから、静かに訊いた。

「——初華ちゃんと、睦ちゃんは、祥子が何も命じなかったら、何もしなかったと思う?」

 祥子の思考が止まった。

 何も命じなかったら。

 考えたこともなかった。

 石垣の角。敵兵が角を曲がる。祥子が何も指示を出さない。あるいは出せない。

 初華は、睦は——どうする。危険にさらされたら。命令がなくても。

 サイラッハの声が、祥子の思考を打ち切った。

「ヒロックが燃えたとき、駐屯軍があたしたちの街の人を殺そうとした。子どもも。感染者も」

 甲板の風の音に負けない、軍人の声だった。

「あたしはそれを見て、軍の旗を引き裂いた」

 祥子は息を呑んだ。軍人が、それも儀仗兵が、自軍の旗を破る。それが何を意味するか。

「裏切った。自分の軍を。全部、あたしの判断。Outcastさんもそう。あたしたちはそれぞれ、自分の分を選んだの。自分の意志で」

 祥子をまっすぐに見た。

「あなたの隊の二人も。クロスボウを撃ったのは初華ちゃんで、ナイフを手に取ったのは睦ちゃんでしょう?」

「でも、わたくしが指示しなければ……」

 サイラッハの口が開きかけて、閉じた。

 喉が動いた。出しかけた言葉を飲み込む動きだった。

「——あたしもさ、同じこと思った」

 祥子ではなく、手すりの向こうを見ていた。

「あたしのせいだ、って。あたしが足手まといだったから、Outcastさんは一人で残ったんだ、って」

 風が吹いた。髪が顔にかかったが、払わなかった。

「何百回も思った。でも——それ言っちゃったら、あの人がさ……あたしのために……」

 不意に、言葉が詰まった。

 サイラッハの目が揺れていた。言葉が自分の傷に触れたのだと、祥子にはわかった。

 続くはずの言葉を知っている顔だった。

 何度も自分に言い聞かせて、言葉にはできるところまで来ている。

 でも、人の前で声に出すと、また別の痛みが走る。そういう顔だった。

「——ごめん。あたしの話だね、これ」

 サイラッハは祥子の顔を見て、少し黙った。それから手すりに背中を預けた。

「ずっとサボってたんだよね、あの事務所で、あたし」

 言いすぎた自分を持て余しているような、少し照れた声音だった。

「パイ焼いて、紅茶飲んで、入り浸って。あの街で何が起きてるか、本当は知ってたのに」

 祥子は黙って聞いていた。板で塞がれた窓が脳裡に浮かんだ。

 「きな臭い」を対処項目に変換して、手順でリスクを回避できると思った自分を思った。

「逃げるのをやめたのも、旗を破ったのも、あたしが選んだこと。まぁ……言いたかったのはそれだけ」

 サイラッハが空を見上げた。灰色の雲。風が強く吹いている。

 祥子は何も言えなかった。

 頭の中ではサイラッハの言葉が全部繋がっている。

 繋がっているのに、上手く像を結ばない。

 水面に石を投げたが、底に着いた音が聞こえない。そんな感覚だった。

 サイラッハは祥子の顔を見て、それ以上何も言わなかった。

「スコーン、焼いたんだよね。食べる?」

 声が変わった。ヒロックの事務所にいた、ジェニーの声に戻っていた。

「何でも詰めるのあたしの悪い癖でさ。今日はクロテッドクリームとレモンカード」

 祥子の口元が、ほんの少しだけ動いた。

「……いただきますわ」

「よし。行こう」

 サイラッハが先に歩き出した。

 祥子はその背中を見た。ロドスの外勤ジャケット。まだ体に馴染んでいない袖。

 左胸のタグに「サイラッハ」の文字。

 海鈴の報告を聞いた後、端末で調べた。サイラッハ。ターラー語で「柳」。

 ヴィクトリア人が、虐殺された民の言葉で自分の名前を刻み込んだ。

 軍を捨てた人。仲間を鉄くずの下から引っ張り出した人。

 自分を逃がすために死んだ仲間の記憶を背負って、スコーンを焼く人。

 祥子はその後を歩いた。

 何も解決していなかった。

 だが、閉じた扉の内側にいた八日間が、終わった。

 

〈つづく〉

 




次回更新:2026/2/28(土) 21時

◇次回予告
療養庭園に、小さな芽が出ている。
扉の前に、初華が立っている。
第10話「新しい芽」
指先に、土の感触が残っている。
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