黄前久美子には同い年の妹がいる。ただし、不貞で生まれた腹違いの 作:小林優
入学式からしばらく経ったある日のこと。
あたしは、廊下の曲がり角で壁に張り付き、ジッと誰かの様子を窺っている久美子お姉ちゃんを、少し離れたところからジト目で眺めていた。
(……完全に不審者だ。いや、変質者?)
お姉ちゃんの視線の先には、別のクラスの、黒髪が綺麗な見知らぬ女子生徒がいた。
「ほらほら、何やってんの! 行け行けー!」
「久美子ちゃん、ファイトですっ!」
お姉ちゃんの背中を、葉月ちゃんとみどりちゃんがグイグイと押し出そうとしていた。
「わっ、ちょっと葉月ちゃん……っ!」
ドンッ、と派手に背中を押されたお姉ちゃんは、バランスを崩して廊下に飛び出した。
その物音に気づいて、見知らぬ黒髪の女子生徒が振り返る。
「……あ。どうかしたの? 大丈夫?」
彼女の整った顔が、少しだけ不思議そうに傾いた。
普通の会話のチャンスだ。なのに、お姉ちゃんは引きつった顔で両手を振り回し始めた。
「あはは! だ、大丈夫だよ! 全然大丈夫ー!」
「……そう?」
彼女はそれ以上深くは追求せず、踵を返して歩き去っていった。
その後ろ姿が見えなくなった瞬間、お姉ちゃんは「ほっ……」と、心底安堵したようなため息をついた。
「ちょっと、何ホッとしてんのさ!」
「今日こそ高坂さんとお話しするって言ってたじゃないですかー!」
すかさず葉月ちゃんとみどりちゃんから激しいっっこみが入る。高坂さん。それが、あの黒髪の彼女の名前らしい。
あたしも歩み寄りながら、呆れたように首を傾げた。
「ねえ、久美子お姉ちゃん。さっきから見てると完全にストーキングなんだけど……あの、高坂さん? って人と何かあったの? 仲悪いの?」
あたしがストレートに尋ねると、お姉ちゃんは「あああ……絶対変なヤツだって思われた……」と頭を抱えながら、口を開いた。
「仲が悪いっていうか……私、中学の最後のコンクールで、うっかり口が滑っちゃって」
「口が滑った?」
「うん。「本気で全国に行けると思ってたの?」って……。そしたら高坂さん、本気で悔しがって泣いちゃって。それ以来、なんていうか気まずくて……」
「……ふーん、そうなんだ」
あたしは、極めて平坦な声で相槌を打った。
「私とみどりで間に入ろうか? 昔のことを謝りたいって」
葉月ちゃんが気を利かせて提案する。
「うーーん……私が謝るのかなぁ……」
「違うんですか?」
「いや、確かに言わなくてもいい一言だったとは思うんだけど……でも、あの時、本気で全国に行けるって思ってた子はほとんどいなかったと思うんだよね。泣いて悔しがる方が珍しいっていうか……」
「じゃあ、むしろ気にすることないじゃん!」
「うん、そっか。そうだよね」
「何とかなりそうですね!」
「……でもなー」
「めんどくさっ!」
ウジウジと悩むお姉ちゃんを、葉月ちゃんが一刀両断に切り捨てる。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん! 時間が解決してくれるって!」
◇ ◇ ◇
休み時間。あたしがトイレから教室に戻ってくると、久美子お姉ちゃんの席で、葉月ちゃんがお姉ちゃんに向かって何かを話しているのが見えた。
「ねえ、久美子。白理ってさ、うちら以外に友達いないの?」
そのド直球すぎる言葉が耳に飛び込んできて、あたしは思わず足を止めた。
「えっ!? な、なんで急にそんなこと……!」
久美子お姉ちゃんが、ギクッと肩を揺らして葉月ちゃんを見る。
「いや、だってさ。白理っていつも久美子かうちらと一緒にいるじゃん? クラスの他の子と話してるとこ、あんまり見ないなーって思って」
あっけらかんと言う葉月ちゃんに、久美子お姉ちゃんは視線を泳がせた。
「そ、それは……ほら、白理は茨城から引っ越してきたばっかりだし、まだクラスに馴染んでないだけじゃないかな……?」
「ふーん。まあ、あたしたちが一緒にいるからいっか!」
その会話が一段落したタイミングを見計らって、あたしはスッと二人の席の前に立った。
「なになにー? あたしの話?」
「あ、白理!」
あたしがとびきりの笑顔で覗き込むと、久美子お姉ちゃんは「うわっ、聞かれてた!?」とでも言いたげに、ビクッと身体を強張らせた。
でも、葉月ちゃんは誤魔化すことなく、ニカッと笑って本題を切り出してきた。
「いやさ、二人のこと見ててちょっと気になったんだけど」
「気になったこと?」
「うん。白理は『久美子お姉ちゃん』って呼んでるし、親戚なんだよね? でも、なんというか……二人って、ちょっと距離感あるよねーって」
ピシリ、と。
久美子お姉ちゃんの顔が引きつるのがわかった。
「きょ、距離感って……そんなことないよ! ねっ、白理!」
お姉ちゃんが慌ててあたしに話を振ってくる。親戚だという嘘がバレるんじゃないかと、内心ヒヤヒヤしているのだろう。
「そうだよー、葉月ちゃん。あたしたち、すっごく仲良しだよね?」
あたしはわざとらしく、お姉ちゃんの腕にギュッと抱きついた。
「うわっ、ちょっと白理、くっつきすぎ!」
お姉ちゃんが照れ隠し(というより本気で嫌がりながら)あたしを引き剥がそうとする。その様子を見て、葉月ちゃんはケラケラと笑った。
「あはは! いや、仲悪いって言ってるわけじゃないんだよ! ただ、なんていうか……小さい頃からずっと一緒に育ってきた姉妹!って感じじゃなくて、最近になってから急にくっついた、みたいな? 不思議な空気感があるなーって」
(……鋭い)
あたしは笑顔を貼り付けたまま、内心で舌を巻いた。
実際そうだから。
「あー、それはね! ほら、あたしずっと茨城に住んでたでしょ? だから、小さい頃は遊んでたけど、最近こっちに引っ越してくるまで、ずっと会えてなかったんだよ」
あたしは、お姉ちゃんをフォローするようにすらすらと嘘を重ねた。
「だから、久しぶりに会えたのが嬉しくて、今はあたしがお姉ちゃんにベッタリ引っ付いてる期間なの! ね、お姉ちゃん!」
「えっ……あ、うん。そうそう、そんな感じ」
久美子お姉ちゃんが、引きつった笑顔で頷く。
「なーんだ、そういうことか! 遠距離恋愛のカップルみたいだね!」
葉月ちゃんはあっさりと納得して、また無邪気に笑った。
◇ ◇ ◇
数日後
「じゃじゃーん! 見て見て、これ!」
葉月ちゃんがカバンから小さな箱を取り出して、ドヤ顔で掲げた。随分と気が早い。
「楽器の、吹くところ! お小遣いで買っちゃった!」
箱から出てきたのは、立派なマウスピースだ。
「これでトランペット吹くんだー! えへへ、」
無邪気に笑う葉月ちゃんの手元を見て、あたしは思わず目を丸くした。
「葉月ちゃん、気が早いなぁ。……ん? あれ、それってトランペット用じゃないよ?」
「えっ!?」
葉月ちゃんが素っ頓狂な声を上げる。
隣にいた久美子お姉ちゃんが「あ、やっぱり……」と小さく呟いた。気づいてたなら言ってあげなよ、お姉ちゃん。
「それ、たぶんチューバ用だよ。トランペットのマウスピースは、もっと全然小さいの」
「う、嘘ぉ……! あたし、楽器屋さんで一番強そうなやつ買っちゃった……」
ガックリと肩を落とす葉月ちゃんを見て、あたしは苦笑しながら提案した。
「あたし、家に自分のトランペットあるから明日持ってくるよ。本物、触ってみる?」
「ほんと!? 触る触る!」
葉月ちゃんは一瞬で立ち直り、喜んだ。
◇ ◇ ◇
翌日の昼休み。
あたしは約束通り、お母さんが買ってきたトランペットのケースを学校に持ってきた。お姉ちゃんたちの前の席で、ガチャリとケースを開ける。
中から顔を出した銀色のトランペットを見て、二人が歓声を上げた。
「わぁーっ! かっこいい!」
「ピカピカですね!」
葉月ちゃんとみどりちゃんが、目を輝かせて身を乗り出してくる。
あたしはマウスピースを綺麗に洗って消毒シートで拭き、葉月ちゃんに手渡した。
「はい、これがトランペットのマウスピース。昨日のチューバ用と全然サイズ違うでしょ?」
「ほんとだ! ちっちゃ!」
葉月ちゃんは恐る恐るトランペットを構え、思い切り息を吹き込んだ。
「スーーーー、プゥー……」
見事に、空気の抜ける音しかしない。
「あれっ? 全然音が出ない!」
「ふふっ、最初はそんなもんだよ。ただ息を入れるんじゃなくて、唇をブルブルって震わせるようにして吹くの」
葉月ちゃんが何度か挑戦しているのを、みどりちゃんと久美子お姉ちゃんが面白そうに眺めている。平和な昼休みの光景。
しばらく悪戦苦闘していた葉月ちゃんが、ふうっと息を吐いてトランペットをあたしに返した。
「いやー、難しいね! でもすっごくかっこいい!」
葉月ちゃんはトランペットをケースに戻すあたしの手元をジッと見つめ、ふと呟いた。
「それにしても白理ってすごいよね。トランペットって結構高いでしょ? よく買ってもらえたね!」
「あはは……」
あたしは苦笑しながら、トランペットの表面をそっと撫でた。
「買ってもらったっていうか、お母さんが勝手に買ってきたんだよね」
「えっ、勝手に?」
「うん。うちのお母さん、すっごく人に影響されやすいタイプでさ……。
「こないだ、何年か前の年賀状を見返したんだ。そしたら、黄前家から送られてきた写真入りの年賀状にね……楽器を演奏してる、お姉ちゃんの姿が写ってたの」
「えっ!」「久美子ちゃんの影響だったんですか!?」
二人が純粋な驚きと感動の声を上げる。
「あ……えっと、その……」
三人の視線を一身に浴びた久美子お姉ちゃんは、顔を引きつらせて、ものすごく気まずそうに目を逸らした。
「まあ、きっかけはどうあれ、このトランペット大事に使ってるからいいんだけどね」
重くなりかけた空気を断ち切るように、あたしはニシシと笑ってケースを撫でた。
「そっかー、親戚のお姉ちゃんへの憧れなんだね!」
見事に勘違いしてくれた葉月ちゃんが、一人で納得してウンウンと頷く。そして、ふと不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、白理」
「ん?」
「白理ってさ、こんなにすごい自分のトランペット持ってるのに……吹部、入らないの?」
その真っ直ぐな問いに、あたしはピクリと手を止めた。
「そうですよ!」みどりちゃんも、うんうんと強く頷く。
「白理ちゃんも一緒に入りましょうよ! 久美子ちゃんも入るんですよね?」
話を振られた久美子お姉ちゃんは、「う、うん……まあ」と曖昧に視線を逸らしている。どうやらお姉ちゃんは、入ることは決めたけれど、中学までやっていたユーフォニアムを辞めて別の楽器に逃げようと画策しているらしい。
あたしは、ケースの中の銀色のトランペットを見つめた。
(……音楽室)
ほんの少しだけ、胸の奥がチクリと痛んだ気がした。あの場所に行くのは、まだ少しだけ怖い。
でも、目の前には「一緒に入ろう」と言ってくれる、新しい友達がいる。
あたしはトランペットが好きだ。お母さんが買ってくれた、この大切な楽器を、クローゼットの奥にしまい込んだままになんてしたくない。
あたしは顔を上げ、葉月ちゃんたちに向かってとびきりの笑顔を作った。
「……うん!」
あたしは入部届の紙を机の中から取り出し、勢いよく机に置いた。
「あたしも決めた! 吹奏楽部、入るよ!」
「やったー! これで四人一緒だね!」
葉月ちゃんが両手を上げて喜び、みどりちゃんもパチパチと拍手をしてくれた。
「せっかくだし、久美子お姉ちゃんと同じ楽器にしようかな! トランペット一緒にやろうね、お姉ちゃん!」
「えっ、私はちょっと別の楽器を……」
「あ、でもトランペットは私がやるからダメだよ!」
「みどりは絶対にコントラバスです!」
「じゃあ、今日の放課後、みんなで一緒に白理の入部届出しに行こっか!」
葉月ちゃんの提案に、あたしたちは元気よく頷いた。
◇ ◇ ◇
そして、午後の授業が終わった放課後。
ホームルームが終わるなり、あたしたちは約束通り記入済みの入部届を手に取り、揃って教室を出た。
目指すは音楽室だ。
階段に向かって廊下を歩いている途中、隣を歩いていた久美子お姉ちゃんが、ふと立ち止まって気まずそうに口を開いた。
「あ、あのさ。三人にお願いがあるんだけど……」
「お願い?」
葉月ちゃんが振り返る。
「私、中学でユーフォニアムやってたこと、部活の人には黙っててくれないかな……?」
「えっ、なんで!? せっかく経験者なのに」
「高校では心機一転、トロンボーンとか、他の楽器をやってみたいからさ。経験者ってバレたら、絶対またユーフォに回されちゃうし……」
お姉ちゃんが両手を合わせて懇願してくる。
どうやら本気でユーフォから逃げたいらしい。葉月ちゃんとみどりちゃんは顔を見合わせ、「まあ、久美子がそう言うなら」「わかりました!」とあっさり頷いた。
「じゃあさ」
あたしはピンと閃いて、お姉ちゃんに向かってニシシと笑った。
「お姉ちゃんの秘密を守る代わりに、あたしのお願いも聞いてよ」
「え? 白理の?」
「うん。あたしのあのトランペット、ずっと使ってたマイ楽器じゃなくて、『最近、知り合いから譲ってもらったお下がり』ってことにしてくれない?」
三人が不思議そうに首を傾げた。
「えー? あんなにピカピカだったのに?」
「小5の時から使ってて、大事に磨いてるから綺麗に見えるだけで、本当は結構年季入ってるんだよ。でもさ、最初から『経験者でマイ楽器持ってます!』なんてアピールしたら、先輩に生意気だと思われそうじゃん? 絶対トランペットに回されちゃうし、あたしもお姉ちゃんと同じで、高校では別の楽器やってみたいなーって思ってるから」
あたしが言い訳をすると、葉月ちゃんは「あー、なるほど! 女の園は怖いもんね!」と一人で納得してくれた。
しかし。
音楽室のある階に辿り着き、廊下を進み始めたあたりから、あたしの身体に異変が起き始めた。
ドクン、ドクン。
心臓の音が、やけに耳の奥でうるさく響く。
そして、音楽室の重厚な防音扉――横にスライドさせるタイプの引き戸の前に立った瞬間、あたしは完全に一歩も動けなくなってしまった。
「あれ、白理? どうしたの?」
先頭を歩いていた葉月ちゃんが、扉に手をかけたまま不思議そうに振り返る。扉の向こうからは、活気のある声が扉の隙間から漏れでていた。
「あ、えっと……」
息が、うまく吸えない。指先が微かに震える。
あたしはその震える手を必死に隠し、すぐ隣に立っていた久美子お姉ちゃんの方を向いた。
「ねえ、お姉ちゃん……」
「ん? どうしたの、顔色悪いよ」
「大丈夫……、ちょっとだけ……制服の袖、握ってていい……?」
「え? いいけど……」
お姉ちゃんが怪訝な顔で、ブレザーの袖口を少しだけ差し出してくれた。
あたしは、溺れる者が藁を掴むような勢いで、その袖口を思い切りギュッと握り締めた。
でも、離せなかった。
この袖を掴んでいれば、あたしはあの時の惨めな自分じゃなくて、久美子の妹でいられる気がしたから。
「ほら、開けるよー!」
葉月ちゃんが元気な声と共に、ガララッ!と重い引き戸をスライドさせた。
そうしてあたしは大きく息を吸い込み、音楽室に入った。