黄前久美子には同い年の妹がいる。ただし、不貞で生まれた腹違いの   作:小林優

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第5話

ガララッ! と重い引き戸をスライドさせ、大きく深呼吸をして音楽室へと足を踏み入れる。

 

(……あれ?)

覚悟を決めて入ったはずなのに、拍子抜けするほど、さっきまでの息苦しさや激しい動悸は消えていた。

広々とした教室。北宇治の制服を着た見知らぬ先輩たち。

そこは、茨城の音楽室とは、匂いも空気も全く違う場所だった。

 

「なんだ……。あたし、あの『中学の音楽室』が怖かっただけなんだ」

小声で囁きながら、自分の中でストンと腑に落ちる感覚があった。ここは安全だ。それを認識した瞬間、肩からスッと力が抜けた。あたしはお姉ちゃんの袖から静かに手を離し、「へへっ」と笑ってごまかした。

 

荷物を置き、みどりちゃんの真横に立って待っていると、険しい顔をした女性の先生が入ってきた。担任の松本美智恵先生だ。

先生はピリッとした空気の中で、「高校生として恥ずかしくない、けじめのある行動をするように」と厳しい言葉を並べた。

 

「新しい顧問の滝先生は明日からいらっしゃるので、詳しい話はそちらから聞くように」

そう言って、先生は嵐のように出ていった。

(はあ……美智恵先生、相変わらず厳しい。新しい顧問の先生は、優しい人だといいな……)

 

◇ ◇ ◇

 

先生が去り、いよいよ楽器決めが始まった。

まずは各パートの先輩たちによる楽器紹介だ。

先に小笠原部長が軽く部長としての自己紹介やサックスを希望してくれると嬉しいと話を済ませた後、トランペットパートの紹介が始まった。

 

前に出たのは、中世古香織という綺麗な先輩だった。

「トランペットパートはみんな仲が良いですし、初心者も大歓迎なので、ぜひ希望してくださいね」

女神のような微笑み。その優しそうな雰囲気に、あたしは少しだけ(トランペット、そのまま続けようかな……)と心が揺れた。

でも、さっき葉月ちゃんの前で「高校では別の楽器をやる」と宣言してしまった手前、今更トランペットに行くのは気まずい。

 

その後も、トロンボーン、ホルン、フルート、クラリネット、サックスなど、一通り紹介が続く。

時折、ツッコミどころの多い紹介も混ざっていた。

 

オーボエの鎧塚先輩という無口そうな人は、ぽつりぽつりと短い言葉を発しただけで終わってしまった。

(……いや、あの紹介でオーボエを希望する新入生はいるのかな?)

 

チューバパートの後藤先輩は、簡素だった。「でかいです、重いです」と、なぜかチューバの欠点しか言わない。

 

そして、極め付けはユーフォニアムだった。

赤縁メガネの田中あすか先輩が、まるでウィキペディアの丸暗記のような楽器の歴史をすさまじい早口で語り出し、たまらず小笠原部長に止められていた。漫才みたいで仲は良さそうだけど……ユーフォは重そうだし、久美子お姉ちゃんも変えるって言ってたし、無しかな。

 

そんな中、小笠原部長のコントラバス経験者を募集する声に、みどりちゃんが元気よく手を挙げた。

「はいっ! 聖女でやってました!」

「聖女って、あのお嬢様学校の? 吹奏楽の強豪じゃん……」

お姉ちゃんが葉月ちゃんに耳打ちするのを聞いて、あたしは首を傾げた。

(なんでみどりちゃん、強豪校からわざわざこんな地味で演奏もパッとしない北宇治に……?)

 

そんな疑問を抱く間もなく、あすか先輩がみどりちゃんの手を取り、宝塚の男役みたいな芝居がかった口調で熱烈に口説き落とし始めた。みどりちゃんはそのままコンバスに決定しそうだ。

 

一通りの紹介が終わり、「希望者は各パートに移動してください」という部長の合図で、新入生たちが散らばっていく。

 

◇ ◇ ◇

 

「わたし、トランペット行ってくるね!」

葉月ちゃんが、あの巨大なチューバ用マウスピースを握りしめて駆け出していった。

「行ってらっしゃーい」と、あたしとみどりちゃんが手を振って見送る。

 

「久美子お姉ちゃんは、何にするの?」

「んー……トロンボーンか、サックスにしようかなって」

「そっか。じゃあ、あたしもそれにしようかなー」

あたしが冗談めかして言うと、お姉ちゃんはものすごく嫌そうな顔をした。

「冗談だってば。あたしはパーカッションとか気になってるし、そっち見に__」

 

言いかけた、その時だった。

背後から、得体の知れない強烈な『圧』を感じた。いや、圧というか……呪詛?

 

『うちのパート、サファイアちゃん以外、誰も希望者来てないんだけど……』

 

小声で後ろから話しかけられてる。

 

「えっ?」

『うちのパート、サファイアちゃん以外、誰も希望者来てないんだけど……』

 

耳元で、二度。

振り返るより先に、あたしと久美子お姉ちゃんの肩に向かって、ヌッと手が伸びてきた。

 

「ひっ!」

あたしは反射的に、バッ!と後ろへ飛び退いていた。

肩を掴まれる直前で距離を取る。

 

「あらら、逃げられちゃった。……ねえ、そこのキミたち」

振り返ると、そこには壊れたロボットのように首を傾げた、あすか先輩が立っていた。

さっきまでユーフォを熱く語っていた先輩が、獲物を狙うような目でこちらを見ている。

 

(うわ、絶対面倒なヤツだこれ……!)

あすか先輩が、有無を言わさぬ笑顔で勧誘を仕掛けてきた。

 

「わたし、ユーフォとかやったことなくてー」

久美子お姉ちゃんが、息を吐くようにスムーズな嘘をついた。

 

「あ、わたしもです! 低音って重そうだし……パーカッションとかやりたいなって思ってて!」

あたしもすかさずお姉ちゃんに呼応して嘘を重ねる。

 

「お二人は、希望する楽器をやるのが一番いいと思います!」

みどりちゃんが、天使のような笑顔で完璧な援護射撃をしてくれた。みどりちゃん、最高。

 

なんとかこの場を逃れようとジリジリ後退したその時。

パーンッ、と。

音楽室の空気を切り裂くような、息を呑むほど澄んだトランペットの音が響いた。

 

思わず振り向くと、つい先日お姉ちゃんが廊下でストーキングしていた黒髪の女の子――高坂さんが、一人でトランペットを吹いていた。

(すごい……。綺麗な音)

 

一瞬で惹きつけられる音だった。

しかし、そのすぐ横では、葉月ちゃんが真っ赤な顔をしてトランペットと格闘していた。

 

その様子を、あすか先輩の銀縁メガネがギラリと光を反射して捉えた。

「……サファイアちゃん。あの子、連れてきて」

「みどりですぅ……、はいっ」

 

みどりちゃんに連行されてきた葉月ちゃんの手元を見て、あすか先輩はニヤリと笑った。

「そのマウスピースに合う楽器は、これだよ」

 

あすか先輩が、葉月ちゃんの持っているマウスピースを、傍にあった巨大なチューバの吹き口に差し込むように誘導する。

 

そうして差し込むと

「わあぁっ! すごい!!」

葉月ちゃんが目を輝かせて感動している。

(いや……規格通りに挿しただけなんだけど……)

あたしは内心で冷静にツッコミを入れた。でも、あすか先輩の巧みな話術とテンションに乗せられ、葉月ちゃんはすっかりチューバの虜になってしまったらしい。

 

「よし、キミは今日からチューバだ!」

「はいっ!」

 

あっさりとチューバに吸収されていく葉月ちゃんを見送りながら、あたしは呆然と立ち尽くした。

なんだこれ。

 

◇ ◇ ◇

 

あすか先輩の魔の手から葉月ちゃんがチューバへと連行されていき、残されたあたしと久美子お姉ちゃんは、気を取り直して他のパートを見学しようと歩き出した。

 

その時だった。

「げっ! 秀一」

お姉ちゃんが、露骨に嫌そうな顔をして立ち止まった。

視線の先には、ひょろりと背の高い男子生徒が立っていた。

 

「なんだよその顔。久美子も結局、吹部に入ったのか」

 

秀一と呼ばれた男子は、気安い口調で笑いながらあたしの方を見た。

 

「……そっちは友達か?」

 

「あー……前にちょっと話した、私のことを『お姉ちゃん』って呼ぶ、自称・妹だよ」

 

お姉ちゃんはため息をつきながら、あたしを手で示した。

「白理は知らないよね。こいつは塚本秀一。同じマンションに住む、腐れ縁の幼馴染」

 

お姉ちゃんのナチュラルに見下したような紹介の仕方から、二人の間に壁のない関係性が透けて見える。

あたしは一歩前に出ると、とびきりの愛想笑いを浮かべて頭を下げた。

「黄前久美子の自称・妹の、川治白理です。よろしくお願いします、お兄さん!」

わざとらしく小首を傾げて挨拶してみる。

 

「ゴホッ、ゲホッ!?」

隣で久美子お姉ちゃんが盛大にむせた。

「あっはっは! なんだよ、久美子と違ってめっちゃいい性格してるじゃん! よろしくな!」

彼は気さくに笑って、あたしに手をヒラヒラと振ってきた。

 

(おう……。距離感が近くて、少しやりにくいタイプの人だ……)

 

あたしは笑顔を崩さずに、内心でそっと距離を置いた。

そんなやり取りをしていると、ふいに優しげな声が降ってきた。

 

「久美子ちゃん、秀一くん? 久しぶり」

「あ……葵ちゃん!?」

 

お姉ちゃんと秀一くんが、同時に驚いた声を上げる。

そこに立っていたのは、落ち着いた雰囲気の3年生の先輩だった。どうやら、二人と昔からの知り合いらしい。

 

(知り合いの感動の再会か……お邪魔するのも悪いし、この隙に逃げよっと)

 

「あたし、トランペットの方見てくるね」

二人に小声で告げ、あたしはススッとその場を離脱した。

そして、トランペットパートの教室へ向かって数歩歩いた、その直後だった。

 

『だって久美子ちゃん、小学校の頃からずっとユーフォだもんね!』

 

という、葵先輩の悪気のない無邪気な声が背後から聞こえてきた。

『ユーーフォニアムッ!? キミ、小学校からユーフォ経験者なの!?』

間髪入れずに、どこからともなく飛んできたあすか先輩の歓喜の叫び声が響き渡る。

 

「えっ、あ、ちがっ……! 葵ちゃんっ!」というお姉ちゃんの悲鳴。

 

(あーあ。お姉ちゃん、ユーフォやってたこと見事にバラされて、あすか先輩に捕獲されてる……南無三)

あたしは心の中でそっと手を合わせ、お姉ちゃんの幸運を祈りながら、自分の目的地へと足を向けた。

 

◇ ◇ ◇

 

トランペットパートが固まっているエリアに着くと、あたしは近くにいた先輩に声をかけた。

 

「あの、少しだけ試してみてもいいですか?」

 

先輩から楽器を借り、マウスピースに唇を当てる。

息を吸い込み、少しだけ力を込めて、音を出した。

 

「パーッ!」

 

まっすぐな音が教室の片隅に響いた。

途端に、目の前にいた大きなリボンをつけた小柄な先輩が、カッと目を見開いた。

 

「えっ、ちょっと今の音! あんた、経験者!?」

「あ、はい。そうですけど……」

 

すると、リボンの先輩は我が意を得たりというように、ビシッとあたしを指差した。

 

「やっぱり! さっき荷物置いてる時、あんたが大きな黒いケース持ってるの、私バッチリ見てたんだから! あれ、マイトランペットでしょ!?」

(見られてたか……!)

手ぶらで音楽室に入ったとはいえ、あのサイズの荷物を見逃さないとは。さすが先輩、抜け目がない。

 

隠しても仕方ない。あたしは小さく息を吐いた。

「……はい。トランペット、持ってます」

あたしがそう答えた瞬間。

リボンの先輩はクルッと華麗にターンを決め、少し離れたところにいた香織先輩に向かって、弾んだ声で叫んだ。

「香織先輩っ! 経験者ゲットです!!」

「あら、本当? よかったわね、優子ちゃん」

香織先輩がふわりと微笑む。

 

(あっ、トランペット希望って訳じゃないんですけど……!)

 

喉まで出かかったその言葉を、あたしはスッと飲み込んだ。香織先輩のあの優しい笑顔を裏切るなんて、絶対に無理だ。

 

「私は2年の吉川優子! わからないことがあったら、何でも私に聞いてよね!」

リボンの先輩――吉川優子先輩が、自信たっぷりに胸を張って自己紹介をしてくれた。

 

「川治白理です。よろしくお願いします、吉川先輩。……でもあたし、高校ではパーカッションとか、違う楽器もちょっと気になってて……」

 

せめてもの抵抗でそうこぼすと、優子先輩は呆れたように鼻で笑った。

「はぁ? バカ言ってんじゃないわよ。マイトランペットまで持ってて、わざわざ別の楽器やるとかありえないから。それにね!」

優子先輩は、まるで自分の自慢をするかのように、香織先輩の方をキラキラとした目で見つめた。

「うちのパートには、すっごく優しくて、トランペットも完璧で凄い美人の香織先輩がいるのよ! 他のパートに行くなんて、絶対もったいないから! ねっ!?」

「えっ、あ……はい。そう、ですね」

そのあまりにも真っ直ぐで強引な熱量に、あたしは完全に圧倒されてしまった。

優子先輩のこの「自分の好きな先輩を全力で推す」というピュアな姿は、なんだか少しだけ心地よかった。

 

「ふふっ。優子ちゃん、あんまり無理に引っ張っちゃダメよ。新入生が困ってるじゃない」

「無理になんて引っ張ってませんよぉ! ただ事実を伝えただけで!」

香織先輩にたしなめられて頬を膨らませる優子先輩を見て、あたしは自然と笑みをこぼした。

 

「……ふふっ。わかりました。あたし、トランペットやります。吉川先輩、香織先輩、よろしくお願いします」

「うんっ! 任せといて!」

優子先輩の元気な返事を聞きながら、あたしは「まあ、いっか」と心の中で呟いた。

 

こうしてあたしは、お姉ちゃんと同じように流されるまま、トランペットとして二度目の吹奏楽部に入部することとなったのだ。




勢いで書いたのはここで終わりです。
以降は不定期更新になります。
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