オデュッセウスの物語 作:キルケーは魔女
かの神は破壊と狂気の化身とされ,その存在は数多の戦を呼んだ。
アレスは恵まれし者であり,故に数知れぬ栄光の勝利,汚辱の敗北を神話に刻むのだ。
まこと失敗は成功の母である。
オデュッセウスの家来たちが時ならぬご馳走にうつつをぬかしているあいだに、城市の男たちがそっと逃げ出し、まわりの農園やら村々の人々に警告してまわった。
当然,人々は立ち上がる。
都市は彼らの生活にとっても重要な場所であり,何より飢えた肉食獣なぞ早々に屠り去らねば,この地に更なる厄災と悲劇を呼ぶであろうことは想像に難くない。
警告された者たちは戦装束に身をかため、壁にかかっている槍や剣を手にとると、続々と集結し始めたのである。
ただ問題は彼らは皆離散して住む民であり,志は同じくしたとして面識もない他人である。
旗印が必要であった。誰もが納得する程の旗印が。
そしてそこには次代のアポロン祭司にして,嫡子アナテスが居た。
遂に戦士が十分過ぎる程に集結し,時刻は朝の九時を回った頃。イスマロスにほど近い村は普段とは異なる様相を見せ始めた。
それは、村を埋め尽くすように行き交う戦士。雑多で揃わぬ武具に防具と盾を身につけた人間が入り交じる光景は、村の中に収まらずに村の外にまで続く。
トラキア各地から参戦した戦士達は、意外にもアナテスの差配を文句の一つも垂れず受け入れる。
彼らとしてもいずれ大神アポロンに仕える新しき祭司になるであろう、アナテスが陣頭に立つ聖戦に加わるのだ。
アナテスはやがて自身達の生活にも関わるイスマロスの都市を差配する者として君臨するであろう人物であるし、慎み深く敬虔な戦士達が不満を抱くことはなかった。
アナテスが村で一番高い建物の屋根の上に立ち,群衆の目を集める。
その姿は一般兵の鎧よりも高価な、硬化処理を施した革鎧の上に青銅の追加補強が行われた鎧で、足も鋲を打った革のブーツに近いものを履いていた。
「……心得ろトラキアの兵達よ!
お前達はこれよりイスマロスの守護者になるのではない!
お前達は私に従い我らの敵を討ち滅ぼす者だ!このトラキアの地を簒奪者より守護する者だ。
これより出陣するが、敗走は認めぬ。お前達の背には、お前達の愛する家族共がいることを忘れるな! 負ければ、失う! 命も、尊厳も、宝も……お前達の全てをだ!」
各地より集った戦士達はアナテスの威に気圧された。
吐き出される気炎に呑まれた。
反論する言葉を見つける前に畳みかけられ、更に納得できる理由と守るべきものを提示され、思わずアナテスが口にしたトラキアの守護者という名を受け入れてしまう。
未だオデュッセウスがトラキアの地を侵さんとする邪悪であると判明したのではないというのに。
そして、一旦受け入れさせてしまえば後は簡単だった。
「出陣! 敵はイスマロスに在る、敵の悉くを討ち滅ぼすぞ!」
共に戦えばよい。
戦士は知恵の巡りが良かろうとも、結局は根の部分は単純明快なのだ。
共に戦う戦友となったなら、頭から疑って掛かろうという発想が湧きにくくなる。
それに人は周囲に飲まれやすい生き物である。
イスマロスへの簒奪は周囲に生きる者達にとって大事ではあるが,命を賭すに足る理由ではない。
しかしである。
例え,トラキアの地を侵略する意図がなくとも,敵はトラキアを侵攻する邪悪であると一度受け入れさせてしまえば,彼らの目標を邪悪の排撃に定めて仕舞えば,此度の戦,いかなる勇者が相手になろうと。
この地を知り,士気に勝り,数にも勝る我らが勝つのは容易い。
おう、おう、おう! と叫喚するトラキアの兵達。事が片付き落ち着いた後は、頭の冷め始めるだろう奴らを宴にて労う必要があると頭の片隅で思いつつ、アンアテスは傍らの弟へ囁いた。
「――ボトリュスよ、早急に父に伝えよ。イスマロスを踏み躙った者どもを殺す軍を出す準備が整った故、イスマロスの民にも伝えて欲しいと」
「ああ。兄者の報、早急に伝えるぞ」
「頼むぞ!弟よ!!」
ワクワクしてきたのか、にこやかに、晴れやかに言うボトリュスへ,アナテスはニヤリと一笑する。
ボトリュスはフン、と鼻で笑って背を向け早駆けの準備を進める。
兵を率い出陣していく大きな背中を見ながら、ボトリュスは想いを秘める。
初陣は一人。だが俺は兄者に、すぐに追いついて見せる。
トロイアを落とした勝者なのかも知れぬが,我らがイスマロスに手を出したのは間違いだと。
イスマロスを侵した賊を討伐せんとする戦士達がイスマロスを眼前に捉えた時、アナテスは立ち止まり、くるりと後るに目を向けた。
戦士達が、皆立ち止まり、暫くしてアナテスは大声で淡々と喋り出した。
「このアナテスと共に賊を討伐する戦士達に最後、一つ言うことがある。
かつて,我らが戦神にして戦士の守護神たるアレス神はこのトラキアの地より生まれ出た」
アナテスを見つめる戦士達の眼は誰しも燃え狂う狂炎の様に薄く輝き、敵対する者を冥府に送り込まんと、人殺しをせんと、ドロドロと膿んでいる。
大きく息を吸い。胸を張る。
祭司マロンが嫡子アナテス。それはこの地で最も優れた勇人であり、
「その何たるか、私が教えてやる!」
アレスの如き戦乱の狂気を身に秘めし、猛き若獅子の一人である。
「戦士達よ!私に続け!!」
勇人の咆哮が、トラキアの地に響く。
その言葉が引き金となり、戦士たちの土気は最高潮に達した。
彼の元に集う者たちは、もはや恐れを知らなかった。
アレスの生まれた地に於いて、死を恐れず戦場に立つは名誉であり、彼らにとってそれは生きる証である。
アレス神は武勇に優れた神として知られ、またトラキアの地に住まう者も武勇を尊ぶ異端の民である。
その生まれに於いて、アレス神は戦と破壊を好み、忌み児とされた。
数知れぬ闘いと勝利を糧として、アレスは武神の尊座に至ったのだ。
力とは強さであり,
まさしく力こそ,神たる所以である。
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彼らがイスマロスに進軍を始めた頃,オデュッセウス軍も実に真面目であった。
トロイアの勝利に慢心し,腐っても”知謀湧くが如き“名将オデュッセウス率いる精鋭である。
船達は出航準備を進められ,周囲は警戒の兵士が立てられている。
その上,その兵士達も武器防具をしっかりと装備している。
皆お揃いの防具と兜に,足元は革のサンダルで脛まで革紐を巻きつけたもの。
武器は手にした二メートル半ほどの金属製の穂先に木製の柄を持つ槍と、腰に吊るした青銅制両刃の剣や戦棍だ。
そして、背中には表面を青銅で補強し、木枠に牛革を何層にも重ねて作られ、補強のために青銅板が用いられている大型の丸盾を背負っていた。
更に熟練兵は追加で投げ槍を装備している。
最も昨日の宴と直射日光のお陰ですっかりヘトヘトであり,頭もぼんやりとしていて,情けない醜態をオデュッセウスに晒していたが。
「全く…」
「オデュッセウス様!――西方より武装した一団が接近! 数凡そ4000!イスマロスを奪還しに来たと思われます!」
歩哨に立っていたはずの兵士が慌てた様相で,駆けながら接敵を報せる声を上げた。
「戦車等はあったか?兵士の様子は?」
「はっ!戦車は見当たらず,兵士も雑多な服装に,防具,武器を身につけておりました!」
「ご苦労だった,下がれ」
いくらなんでも翌日に敵が押し寄せるとは。
危惧していたとはいえ,これ程の数を集めれる程の人数が各地に出ていたとは。
奴らは戦車を持っていない以上,夜分遅くに城市を出た人数はどれ程か?,見張りを立ててこれとは,頭が痛くなる。
昨夜戦利品を分配した際に多めの分配を行い,都市の門を見張らせていた見張り役の失態でしかないのだが、それにしてもここまで弛みきっているとは不甲斐ないにも程がある。
「全員集結!陣形を作れ!!」
側近エウリュロコスが口を開き、指示を飛ばす。
歩兵の斥候が戻ってくるまでにかかる時間を考えれば迎撃体勢を整えることができるかどうか,交戦を避けるために撤退することは船の出航準備が整っていない以上厳しいだろう。
こちらの兵数は649人,敵地かつ船乗りも頭数に含まれている以上,無理はできない。
しかし情報を聞く限り,あの集団は烏合の集である。
トラキアの名のある将はトロイアの地で死に果てている以上,名声も勇名もないだろう統率する将は前線に出ざるを得ない。
大将首を討ち取り,腰を据えて耐え凌げば,こちらの数倍とはいえなんとかなるだろう。
迫りくる一団の先頭にいるマロン祭司の家で見かけた戦意に燃える青年を眺めつつオデュッセウスはてきぱきと指揮を取り出した。
盾が壁を築き,槍の穂先が閃き、剣の鋭い一振りが弧を描く。
戦場の只中にあってなおアナテスは輝いていた。
しかしそれは幾人かが獅子奮迅の働きを示しただけであり,戦況は何一つ変わっていない。
ボトリュスは思わず叫んだ。
「兄者、やはり俺が死兵になってでも道を切り開く! 現状を打破するにはこれしかない!」
「ならん、敵は粘り強い!お前が突撃したところで囲まれて死ぬのが関の山だ!」
歯をむきだしに槍を突き込んできた敵をあしらいつつアナテスは歯噛みした。先ほどもボトリュスの突撃を止めさせたばかりであり、自身でも納得したこととはいえ、敵の首魁を確認しながら手出しできないのはもどかしい。
──数でも,士気でも遥かに勝るというのに敵は目前の一際立派な鎧を身につけた男の指揮の元に粘り強く抗戦している。
戦場を一望できる櫂船の甲板の上に陣取った将の指示により、掠奪者達は迅速に防御隊列を構築した。
彼らは押し寄せる敵を相手取る列と、その後ろに控えて休養する列に分かれて守りを固め,時間稼ぎを開始したのである。
当然ながらこちらの人間の大部分は敵よりも貧弱な武器防具だ。敵が崩れない以上,このまま攻め立てても夥しい数の死者が出るのは間違いない。
しかし戦況は見えていないだけで徐々に変化していた。
無尽にも思える程押し寄せる敵の攻撃の前にオデュッセウス軍の継戦能力はその限界へと着々と進んでいた。
「くそっ! キリがない!!」
前の戦友が刺し殺され,強制交代してすぐだと言うのに,槍を突き込む度、何かしらの悲鳴が腕から脳へと上がる。
真正面から組み掛かろうとする馬鹿を槍で突き殺し、遂に槍が動かせなくなるや否や,腰から引き抜いた鋭利な青銅剣で中年男の心臓を突く。ポリテースの手に肉を貫き、臓器を引き裂く感覚が伝わってくる。
剣は継戦能力に優れない。
切れ味は落ち、刃こぼれする。
突き殺す槍とは違い,振り下ろして斬り殺す事を第一に考えて作られた武器は脆い。
倒れた瀕死の中年男の体を更に続く後ろの男たちの足が踏み殺す。
眼前の男を盾をシールドバッシュする事で吹き飛ばす。
「誰でもいい!槍をくれ!」
剣を腰に戻し,いつの間にか補充されていた真後ろの男から槍を受け取り果敢に応戦する。
しかし元よりヘトヘトであった体を更に酷使すれば,どうしても反応が遅れてしまう。立派な大盾を構えた男が死体を器用に踏み付け、正面から剣を片手に迫りくる。ポリテースは身体を沈め、衝撃に備えた。
大盾と剣が擦れ,その衝撃で握力が弱まり、姿勢が逸れ、足元の地面が削れる。
「ぬぅ゛ううう、ぐうッ」
万全であれば間合いに飛び込まれて直ぐに、槍で刺し殺せていただろう。
拮抗状態に陥り決め手が無い。
再び腰の青銅剣を抜こうにも相手は力が強く,片手で盾を保持すれば押し切られる。
おおぉおぉぉ!と叫びながら男はポリテースを押し倒そうとするが、不意に相対していた男の圧が弛緩するのが分かった。
後ろから伸びた槍が男の無防備な下半身に刺さっていた。
拮抗は破れ,怯んだ男に対して,剣を腰で器用に抜いたポリテースは下顎から剣先を突き入れる。
唾液と血潮が地面に撒かれ、男は地に伏せ、痙攣する。
「もう良い,交代だ!」
眼前には新手の敵が迫っていたが、肩が叩かれると同時に槍が顔面を突き刺され,膝から崩れ落ちる。見慣れた声と槍は、戦友ペリクレスのものであった。
「すまんッ」
ポリテースはペリクレスに感謝した。
後ろに下がり,周りに目を向ければ三列あった列も綻び,所々2列になっている。
自分の所など一時期,自分一人で奮戦しており,死にかけていたところに戦友を寄越して貰ったばかりだ。
そして目前で列が食い破られた。
「不味い,手隙の奴はここに来い! 列が破られたぞ!!」
ポリテースは駆け出したが,すでに時遅く敵が溢れて流れ込む。
限界点は直ぐに訪れた。
一箇所が抜けると付近の列も綻び,敵が漏れてくる。
と同時に心が黒く染まりそうになる中に,一筋の光が差し込む。
「皆!出航準備が出来たぞ!とっとと乗り込め,それから戦列が崩れた!」
オデュッセウスが胸を張り,声を叫ぶ。
「5人1組で戦え!とにかく死ぬな!」
おぉおおお!
目前に垂らされた希望の糸に兵士達は奮い立ち,5人一塊になると続々に船の周りに群がった。
そんな中アナテスは声を張り上げる。
「賊を逃すな! 追え!殺せ!!」
アナテスを中心に怒れるトラキアの民達は再突撃を仕掛けようとしたその時,オデュッセウスは動いた。
船から飛び降りると,堂々とした声で名乗り上げる。
「止まれ、不幸な運命に導かれし者よ!
私はアテネの加護を受けしオデュッセウス、誇り高きラーエステールが息子なり。
堅都トロイアを落とせし我が武名はオリンポスの麓まで轟いている。
お前の剣は、今宵、我が戦船の戦利品として飾られることになる事だろう。
さあ、愛する父や妻への遺言があるなら、今のうちに風に呟いておくがいい。
お前の亡骸は、野に満ちる野獣たちの格好の餌食にしてくれよう」
青年は燃え盛る眼をぎろりとオデュッセウスへ向ける。
「臆病者め、ようやく我が剣に殺される準備が整ったと見える!
お前に従う薄汚い賊の血が、まだこの剣を濡らしているぞ!
だが案ずるな、すぐにお前も同じ場所へ送ってやる!!
我らが大神アポロンにかけて誓おう。
祭司マロンの子,アナテスが剣に懸け、この戦場で不名誉を晒すのはお前だ!
お前の妻は、伴侶の帰りを待って無駄に供物を捧げることになるだろう!!
どちらの命を神が求めているか、今すぐ白日の下に晒してやる!!!」
血生臭い風が,若獅子と英傑へ絡みつく。
互いに距離を詰め,オデュッセウスが剣を振り下ろすと、アナテスも受けた。
アナテスは祭司の子であり,そして剣術を修め,殺人に優れた戦士だった。
オデュッセウスが鍔迫り合いの離れ際に、手首目掛けて刀身を擦るが、上手く鍔で防がれる。
「祭司マロンの子よ,親より前に,故郷に屍を晒すか」
オデュッセウスが挑発の一言を浴びせると、アナテスは叫び返した。
「黙れ,下郎めが!!」
重たい盾をオデュッセウスの顔面へと思い切り投げつけると同時に,青銅剣を両手で保持したアナテスがオデュッセウスへと斬りかかる。
態度とは裏腹に足取りは速く、斬り込みも鋭い。
盾は間に合わない。
相手の上段に対し、腰を捻りながらオデュッセウスは剣を下段から繰り出した。
刃は交差し、鉄の交差する甲高い音が響く。剛剣を受け流し,オデュッセウスの刃先が、アナテスの片手首を斬り落とした。
「ぐっぬうううううゥ」
驚いた事に、出血と痛みを物ともせず、残る片手で青銅剣を保持し、オデュッセウスに飛びかかって来る。
オデュッセウスは一歩引くと、盾をアナテスへ叩き付けつつ剣撃を浴びせる。
二撃目までは捌いたアナテスだったが、三撃目がアナテスの喉に滑り込むと、首の過半を両断した。
それでも倒れない。
首からダラダラと血を流しながらもアナテスは両の足で立っていた。
ごほッ……う,ヴゥ
泡立った血を口から流すと、頭から崩れ落ちる。
深く,凍土の如き賢狼の眼が青年の剣を見つめていた。
「口上とはいえ,我が妻を愚弄した事,その命をもって償うがいい」
「ふぅうゔ ヴゥ …た,タルタロスに堕ちろ,このク ソ や ろ」
目の光が消え,力が体からするりと抜け落ちた。
そして
ボトリュスは来なかった。
死んだのだ。
オデュッセウスは死体から剣を回収するとトラキアの地を去った。
備えていたとはいえ,兵は慢心し,オデュッセウスも根本的に楽観をしていたのだ。
彼らが水際から船を押し出して、沖にむかったときには、七十名以上の仲間が浜に死骸となって残されたのも、やむをえないことであった。
獅子の勇人アナテスの戦剣
トラキアの勇人アナテスの青銅剣。
その刀身は傷つき,血の穢れがこびりついている。
勇人は勇者の卵である。
神々の加護を受けず,経験を得ず,才を持つが故にうぬぼれの末,命を落とすこともある。
しかしその輝きは決して凡夫の身で真似できるものではない。
ただ輝きのみを理由に勇人を憧憬の的とする者もいるのだろう。