オデュッセウスの物語   作:キルケーは魔女

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人々の恐るる桃源郷

手痛い損害を被って海上に出たオデュッセウスの一行は、ふたたび風につかまった。

と言うのも,神々の不興はいまだ解けてはいなかったのである。

 

 それは突風というよりも、意志を持った力のようで、帆を叩き、船首を押し流し、進路という進路を奪っていった。

嵐は急激に激しさを増し、やがて大風となって一行を包み込んだ。

櫂は役に立たず、舵は言うことをきかず、オデュッセウス率いる艦隊はただ波のまにまに翻弄された。

 

 

こうして一行は九日間というもの、夜となく昼となく、流されつづけた。

 空が白むのか暗むのかも判然とせず、眠りと覚醒の境は崩れ、数を数えることすら意味を失った。

水夫たちは疲労と恐怖で口数を失い、オデュッセウスですら剣の柄を握る手に力が入らなくなっていた。

 十日目になって、ようやくのことに風は衰えた。

 霧の向こうに陸影が見えた時、誰かが叫んだが、その声には歓喜よりも安堵が混じっていた。

船は慎重に近づき、白い砂浜の上に引き上げられた。そこはとても穏やかそうな、緑に覆われた島だった。海は静まり、雲は高く、風はすでにおさまっていた。

「上陸せよ」

オデュッセウスの枯れた声が響く。

打ち寄せる波音と船が砂を噛む音だけが、世界の静寂を破っていた。そこは、これまでの苦難が嘘のように穏やかな場所だった。

風は凪ぎ、空気には名もなき花の甘い香りが混じっている。

島に上がった一行は、まず水を探した。

 ほどなく、シダや苔のあいだから、ぶくぶくと清水の湧き上がる泉を見つけた。岩肌を伝う水は冷たく澄み、異臭もなかった。

彼らは無言で樽を運び、水を汲み、次々と満たしていった。

喉を潤した者たちの表情には、ようやく人心地ついた安堵が浮かんだ。

 

腹拵えを済ませ,ひと息ついたところで、オデュッセウスは上陸した中で,最も気力が残っていそうな三人の男を呼び寄せた。

 

 

 

「島の様子を探り、住人がいるならば接触せよ。決して事を荒立てるなよ」

 

もし人が見つかったなら、敵意のないことを伝え、食物や旅を続けるための援助を乞う為である。

主人の言葉に三人はうなずき、槍のみを手に島の奥へと消えていった。

 

 しかし、いくら待っても戻ってこなかった。

 

野獣に襲われたのではないか?

 

この島の住人に殺されたのではないか?

どこかに囚われているのではないか?

 

迷い,動けなくなっているのではないか?

 

 

 泉のそばで休んでいた男たちの間に、次第に不安が広がった。

 

時間だけが過ぎ、森からは鳥の声と葉擦れの音しか聞こえない。

 日が天高く登り切り、下がり始めた時だった。

 何度も何度も,男達の囁きが聞こえてくるのに、オデュッセウスは顔をしかめる。

「ポリテース,ペルクリス!このままでは兵達が動揺するばかりだ。それにこのまま此処にいては気が滅入ってしまう。

だからだお前達、戻らぬ奴等を探しに行くぞ」

しびれをきらせたオデュッセウスは今度は自ら島を探索しようと決意した。

その為に自ら剣を持ち,付き従う男達に鎧を纏わせ,槍と剣を持たせた。

オデュッセウスにとって最後が本音だろう。

オデュッセウスにとっての最重要事項は一刻も早く故郷に戻る事である。

 

それこそ可愛い愛息テレマコスと長い間離れて、顔を忘れられてしまった日には、ショックで倒れてしまう。

 

 イライラと怒っている――ように見えるのは側近達にポリテースのみで、他者には極寒の凍てつくかのような怒気を振りまくオデュッセウスへ、ポリテースは穏やかに苦笑した。

 

「……分かりました,オデュッセウス様。では早速行くと致しましょう」

 

「お前達は鎧に槍と剣を持て」

「分かりました」

 

 

そしてオデュッセウスの元、消えた三人の捜索にのりだした。

 

 

 森は、とても明るかった。

 陽光は木々のあいだから差し込み、地面には柔らかな草が生えている。道に迷うほど深くはなく、獣の気配もない。

 

そこには、生命の営みがあるはずなのに、緊張というものが決定的に欠けていた。

 

何かがチグハグで不気味であった。

 

オデュッセウス達は暫く大声を挙げて行方不明の男達を探したが,声が枯れると無言でひたすら島を探索し,行方不明の男達を探した。

 

 やがて視界が開ける。

 森が終わり、円形の空が現れた。そこは草原であった。

 そこには人々がいた。

 親切そうで、穏やかな顔をした島の住人たちが、思い思いの姿で座っていた,寝転がっていた。

彼らは争う様子もなく、いずれも穏やかで、静かで、来訪者を恐れる様子もなく、ただ静かに微笑んでいた。

 

武装し,警戒心を剥き出しにした男達を前に奇妙な事である。

 

オデュッセウスは自らの違和感に気が付いた。

彼らは来訪者を見ていないのではない。見てなお、何も思わぬのである。

 

 その手にあるのは、淡い空色を帯びた蓮の実だった。

 光を含んだような色彩で、果実というより宝石に近い。

だがそれは飾られることもなく、祈られることもなく、ただ淡々と口に運ばれていた。

島民達はそれを噛みしめ、咀嚼し、ゆっくりと嚥下する。

 

そして、それ以上何かを求める様子はなかった。

 この島の民が口にするものは、それだけであった。

 

 

オデュッセウスはそこに悍ましさを感じた。

人が居る。

 畑はない。

  狩具もない。

   保存の壺も、備蓄の倉も見当たらぬ。

生活という概念が、この島から抜け落ちているかのようだった。

 

 

だというのに, 不気味なほど平和だった。

 

一つ話をしよう。

この島はある国にて楽園島と呼ばれている。

この島にのみ自生する蓮の実

それを食べると、誰であれ、昔のこと、この先のことをすべて忘れ、勤勉に働こうという気もまったく失せてしまうのだ。

 

それを食べると、誰であれ、望みは薄れ、焦燥は溶け、恐怖は意味を持たなくなるのだ。

そうして、暖かい日射し、まだらな木陰で永遠の現在にひたりながら、うつらうつらと時を過ごし、世のいっさいを忘れはて、幸せな夢を見つづけるのだ。

 

恐ろしい事だ。

 

人を人たらしめる「差分」が消え、ただ生だけが残るのだ。

島の民は、永遠の今に留まり、眠りと覚醒の境を漂いながら、

苦悩も 苦しみも 飢えも 全ての苦を忘れ,微笑のうちに生を消費していた。

 

 

罪深き罪人どもは緑と清水に満ちた小島にて,人の身に生まれながら名誉なき無名の死を迎え,獣の如く野に還るのだ。

 

 

 

それはさておき

 

 

 

オデュッセウスが行方不明になっていた水夫たちを見つけたとき、三人は、島の者たちに混じって座っていた。

 

うつろな目ににやにやと幸せな笑みをうかべた男たちの心からは、帰ろうという思いがすっかり失せているようだ。

 

こんな光景を見て、オデュッセウスの頭にはここがどんな場所なのかぱっと閃いた。

 

 

 理解は一瞬であった。

 考察の余地はない。水夫たちは蓮の実を食べてしまったのだ!

 

男たちの名を呼んでもむだだった。

ポリテースとペルクリスが待ちわびている家族のことを話しても、故郷のことを話しても、何の役にも立たなかった。

 

ただ言葉は空を切る。

彼らはただ、柔らかな表情のまま、遠くを見ている。

「立て」

オデュッセウスは怒鳴った。

 

「立て!」

 声は低く、短い。

「立てと言っている!」

 なおも反応はない。

 次の瞬間、彼は怒鳴った。

「役立たずな、くらげのぐにゃぐにゃの卵め!」

 罵声はオデュッセウスに付き従う二人の男を驚かせたが、三人は瞬きすらしなかった。

彼らは幸せの世界に踏み入ってしまったのだから。

 オデュッセウスは躊躇しなかった。

 それでも彼らは島民と同じ笑みを浮かべる、同じように蓮の実を手にしていた。

目は焦点を結ばず、口元には恍惚とした笑みが貼りついている。

そこには、船に戻ろうとする意志も、主に従う考えも、家族を思う感情も残っていなかった。

 

 

「此奴を船に連れて行く。立たせろ」

トラキアの地にて貴重な人手を失ったばかりのオデュッセウスに三人の男を捨て置くという選択肢は無かった。

しかし力の入らぬ身体は重い上に容易に崩れ、地に倒れる。

それでも彼は止めなかった。

苛立ちを抑える事なく槍の柄で尻を叩き,ポリテースとペルクリスに叩かせ、三人の男を連れて行く。まるで家畜を導くように。

 

 

思い返せばオデュッセウスという男は故郷で生まれ育って以来、諫言や反抗的な態度は受けど無視されるという極大の無礼を受けた試しはない。

故にそれだけでは心中で怒り狂う程で済んだだろう。

しかし此度は少々事情が異なるのだ。

 

オデュッセウスがこれ程苛立ちを覚えたのも無理はない。

オデュッセウスがトロイアの地に遠路遥々来て一国の王が戦争を指揮するのは良い。

しかしオデュッセウスはその性格と立場から一癖も二癖もある者どもの間を取り持つ仲介人として振る舞わねばならなくなり、心的疲労の連続で気が休まることなんて滅多になかった。

それも特に得る物の無き,望まぬ従軍の結果である。

 

 

なので,それはもうすごくイライラしていた。

 

 

 そのような諸事情で怒れる英雄と屈強な男二人に槍で尻を叩かれながら船に帰るという地獄の様な,恥辱刑の如き状況に三人は抵抗しなかった。

 引きずられ、転び、砂にまみれても、嫌悪も怒りも示さない。

その無抵抗さこそが、この楽園の恐ろしさであった。

 浜辺に戻ると、オデュッセウスは三人の手足を縛りあげーー三人は抵抗心のかけらさえも見せようとはしなかったがーー甲板の上に放りあげた。

 

醜態を晒し,縛られてなお彼らは穏やかな顔を崩さない。

「帆を上げろ」

 その奇妙な様子を見て誰一人、異を唱える者はいなかった。

 それと彼らは理解していた。主人が船に帰還してから益々怒っている事を。

 

 こうしてオデュッセウスの艦隊は、ふたたび海の上にすべりだした。

 楽園の島は、背後で何事もないように穏やかで緑に包まれて横たわっていた。

 船団は静かに離岸する。櫂が水を掻き、船腹が波を割る。誰も振り返らない。

 楽園の島はいつもの如く異常なく穏やかである。

 緑は溢れ、清水に満ち、人々は今日も微笑みながら蓮を食むだろう。

 そこには争いも、悲嘆も、争いもない。

 ただ、幸福だけがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




怠導の果実

太く膨れた種を持つ空色の蓮の実。
ロートスの実とも呼ばれる。

特定の地にのみ自生する珍しい植物。
それは口にした者を法悦の彼方へと導くだろう。
即ち意思を溶かし,知恵を蕩けさせ,怠惰と堕落をもたらす。
怠導の果実は愛でるに留めるべき禁忌であり,決して食すべき物では無かった。

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楽園島ロートス
ある国では最も重い罪は楽園送りと言われる。
楽園に着いた罪人はある実を食べさせられ,その実は恐るべき効能を持つ。

それは人の意思を溶かし,知恵を蕩けさせ,犯した罪をも忘れてゆっくりと死へ導いてしまう禁忌。
罪深き罪人どもは緑と清水に満ちた小島にて,人の身に生まれながら名誉なき無名の死を迎え,獣の如く野に還るのだ。
楽園の土は、そうして永遠の悦夢に呑まれた者たちの骸によって肥えている。
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