きのせい   作:ダート

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前編

 佐々木ユカは暇だった。

 

 暇な文系大学生だった。

 

 向上心も好奇心もなく、なんとなく周りも行くからと大学を受験し、しかし受験勉強に励むこともなかった彼女は、受かりそうなところに当然に苦もなく受かり、生来の人見知りから友人も作ることなく夏休みを迎えていた。

 

 そうなればやることなどなかった彼女は、遊ぶ友人もいないので、実家に帰省して待てば用意される食べ物や風呂のありがたさをしみじみと実感しては、親という存在の便利さに感動するのだった。

 

 1限に追われることもなく、眠りたいときに、眠りたいだけ眠った。

 眠くもないのに、一日中布団から出ることなく、スマートフォンの青白い画面だけに触れてまた眠ることもあった。

 

 体内時間が狂うのに、それほど時間を必要とはしなかった。

 実家に帰省という名の寄生を始めて1週間もすると、もう昼に目覚めるどころでもなくなっていた。

 

「、 ぅ」

 

 今日もまた、目が覚めると夕方だった。

 ユカは重い身体から、しっとり重みを宿した掛け布団を剥がす。

 最近一日がとても短く感じられて、ユカは障子窓から夕暮れ色を瀰漫させる部屋の様子をウンザリと眺める。

 

 体調が悪い気がし、散らかった枕元の色々の用途に使われたティッシュを払いのけて、ゴミに紛れた体温計を汗ばんだ脇に挟み込んだ。

 

 頭が重かった。鉛のようだった。

 蓄のう症にでもなったように思えたが、そもそもユカは蓄のう症の経験もなかったので、もしもなったらこんな具合なのだろうかと、ペタつく前髪を額から引き剥がしながら夢想した。

 

 ぼんやりと天井を眺める。

 立派な梁が、視界を左右に割いていた。

 実家が世間的にはかなり雅な家なのだと知ったのは、一人暮らしを始めて分かったことだった。

 

「ふわ————ぁふ」

 

 ユカの部屋は2階に位置していた。

 2階建の実家には、1階と2階のそれぞれにトイレがついており、ユカの部屋とは廊下を挟んだ正面にそれはあった。

 

 尿意を自覚する。

 しかし、起き上がるのは面倒だった。

 眠い気もする。それでも、一度自覚した尿意は二度寝を許してくれそうになかった。

 

 ふと、自分が腐っていくような気がした。

 たったの1週間で、部屋にはユカというメスの獣臭が染み込んでいた。

 空気が、季節のみによらない湿り気と生ぬるさを含んでいる気がして、もはや親を入室させることすら嫌うようになっていた。

 母には換気しろと言われるだろうし、父など論外だった。

 

 電子音が鳴る。

 三十六度四分。

 ユカは体温計を投げ捨てた。

 平熱であると分かった途端、さっきまでの風邪のような感じは霧散していた。

 

 スマートフォンを起動する。

 SNSを、無意識に指がタップしていた。

 もはや脊髄反射と言えた。

 

「——チッ」

 

 画面に、高校時代の知り合いが映し出される。

 水着だった。

 隣には細くて腹筋の割れた、肌の白い青年が笑顔でポーズをとっていた。

 ユカは虚しさから、スマートフォンを放って身体を丸め、震えながら歯を食いしばった。

 

 人恋しさを自覚する。

 耳を澄ませると、階下から聞こえてくるはずの両親の生活音がないことに気が付く。

 いつもなら、人のいない感覚にはすぐに気が付くのがユカだった。

 なのに今回はどういう訳か、確信が持てない。

 

「————————」

 

 布団から上体を落とし、床に耳を押し当てる。

 埃のザラつきに耐えること数秒。どうやら誰もいないらしい。

 スマートフォンの定位置である枕元を手で弄る。ポスポスとした手応え。スマホが無い。

 

「ああ、もう!」

 

 今日初めてのまともな発声がそれだった。

 放ったスマホを首だけ動かして探す。

 思ったよりも近くにあったそれを、上体を持ち上げて、這うようにして回収し、ドスンと布団に虚脱する。これだけで、少し疲れた。

 

 緑のSNSアプリを開く。

 クーポン情報の未読メッセージに紛れるように、家族用グループにメッセージがあった。

 母からだった。

 

『お父さんとスーパー行くから、夕食は少し待て!』

 

 STOPと手を向けてくる何かのキャラクタースタンプも添えられていた。

 

「はあぁ……」

 

 ため息をつく。

 息はまだ整わない。

 ふと、自身が微かに緊張しているらしいことに思い至った。

 この感覚は、家に来客があり、部屋で大人しくしているときとよく似ていた。

 人がいないのに、いもしない人の気配に緊張するなんて、初めてのことだった。

 

 理由のない不安感と同じくらい、尿意も無視できない程に主張を強めつつあった。

 腹部を指で軽く押す。尿意が跳ね上がる。膀胱は硬かった。

 

「……………………」

 

 ユカは無意識に、音を殺して起き上がった。

 空気が動く。見えない埃が舞うのが、鼻腔の刺激でよく分かる。

 ユカはハウスダストアレルギーだった。

 

 部屋と廊下を仕切る引き戸を、ゆっくりと開いた。

 廊下に顔だけ覗かせる。

 空気が循環を開始する。

 室内の冷やされた空気が廊下へと溢れ、代わりに侵入してくる蒸し暑い空気が鼻頭にうっすらとした汗を浮かばせる。その足と顔の温度差に、ユカの気分は沈むばかりだった。

 自室は24時間冷房を稼働させているが、今現在ユカしかいないはずの家において、快適な室温はユカの部屋のみである。

 

 右を見る。

 無人の廊下である。突き当たりの障子窓までまっすぐ伸びている。

 当然人の姿はない。自室と同じく、障子窓は夕方の色を茫と拡散し、漆喰壁を仄かに染めていた。薄暗い雰囲気だった。

 

 左を見る。

 手洗い場。タオル掛けには、まだ柔らかそうな手拭きタオルが、風も無いのに小さく揺れていた。隙間風だろうかと、ユカは心の中で納得する。木造家屋には付きものだった。

 天窓からは夕陽が差し込み、壁に橙色の線を描いていた。

 ユカはこの天窓から眺める月が好きだったし、満月の夜などは廊下を月光が明るくするのが特別に思えた。

 差し込む夕陽の明るさは、ユカを僅かに励ますようだったがしかし、この天窓からの光が室温を引き上げてもいるのが皮肉だった。

 

 静かに、トイレの引き戸を最低限に開けて、隙間から身体を滑り込ませるように入った。

 音を立てれば、その途端自身の居場所がバレてしまう。そんな妄想に取り憑かれてのことだった。

 

 それでも閉め切り、施錠して閉じ籠ることはしなかった。

 用を足しながら、隙間から廊下を窺い続けた。

 戸を閉めたら、それを機会として戸のすぐ目の前まで、恐怖が迫ってくるようだった。

 だから、視線は常に廊下を見張っておきたかった。

 

 自分で考えてみても、それは異常な精神状態だった。

 しかしそれでも、両親が帰宅するまでトイレを流すつもりは頑としてなかった。

 流さないことを決めたのは自分であるにも拘らず、怒りを覚える。

 なぜ自分はこんなくだらない妄想のために不便を強いられているのか分からなかった。

 

 ユカは自室へ戻り、机の引き出しから、ゲーミングチェアを組み立てる際に1階より持ち出したままのマイナスドライバーを探し当て、それを硬く握りしめた。

 そして誰もいない廊下を、泥棒にでもなった気持ちで静かに進む。

 

 階段近くまでたどり着く。1階と2階は、階段横にある薪ストーブの煙突を屋根まで通す都合で、一部が吹き抜けとなっていた。

 ユカは煙突の見える丸窓から、1階を見下ろす。

 

「…………」

 

 当然、誰もいない。

 ただ玄関扉のガラスから入ったであろう外の光が、真っ黒な薪ストーブを照らしているのみだった。その前に置かれた一人掛けソファも、付属するフットレストも、誰を支えることなく薄い暗さに溶け込んでいる。

 

 静かに階段を下りる。一歩一歩、足音を響かせぬように。

 階段は壁に仕切られてはいない。誰が上り下りしているかは1階リビングから丸見えであるし、つまりユカからも1階リビングは一望できた。

 

 灯り一つ点いていない。テレビ画面には、父が開いたままにしたのであろうY○utubeのホーム画面がそのままになっており、しかしテーブルにもソファにも誰もいない空間が不気味だった。

 時が止まったようだったが、振り子時計だけがカチコチと時間を刻んでおり、ユカはかろうじて現実感を保つことができた。

 

 無垢の手すりに手を滑らせる。

 滑らかな手触りは、ユカの心を一時なだめてくれる。

 途中感じた指先の違和感。連なる2つのそれに目を向けると、「— —」という見た目の傷が付いていた。それは幼かった頃のユカが、無邪気な衝動に任せて前歯を木に押し当てた名残だった。

 新築に初めてついた傷に、激怒した父を思い出す。ユカは記憶に強いられるようにその箇所を擦ったが、湿った指先が立てた高い音に肩を震わせ、両手を胸元に引っ込めるのだった。

 

 両足が、完全に1階の床に下りる。

 裸足の裏が、木の床に吸い付くようにペタつく。

 その「ペタ」がリビングに響くのではないかと、ユカは一層に足裏を湿らせた。

 気配は確実に色濃くなったように感じられたのだ。居ない何かに近づいている。そんな気がした。空気が2階より冷えていることに、ユカは一層確信めいたものを抱きもした。

 だがすぐに、暖かい空気が2階に上がっているだけであることに思い至り、どうにか跳ねた心臓を落ち着けるのだった。

 

 漆喰の壁を辿るように、和室とリビングを仕切る襖を避けるように、リビングを進む。

 リビングを半分進んだところに、一際太く存在感のある柱があった。大黒柱だった。

 見上げると1階から2階の天井まで、吹き抜け部分を貫くように家の全てを支えている。数百年生きた木だったらしく、これほどの長さと太さを持ったものは珍しいのだと、機嫌の良いときの父の自慢話が思い出される。

 守ってくれるように、ユカには思えた。

 

 リビングを進み、ユカの足は台所まで伸びていた。

 そこが目的地である。武器の確保。それが目的である。

 

 ユカは包丁スタンドから、父が魚を捌くときにだけ使う和包丁の中から細長い刺身包丁を選び、それを手に取った。

 急速に恐怖が薄れる。気が強くなったことは、ユカが包丁をスタンドから引き出す際のシャナリとした音を気にしなかったことにも現れていた。

 恐怖が怒りに、凶暴性に転化してゆく。

 ここに至るまで、幾つもの部屋を検めることなく通り過ぎた。

 本当に何かに遭遇するのが怖かった。

 しかし、武器を手にした今は違った。

 

「誰かいるの?! いるなら出てこい! 今出てこないと、大変だからね!!」

 

 マイナスドライバーなど放り捨て、両手で得物を把持する。

 ユカは自身の怒鳴り声が残響しているのを感じた。

 身体がひと回り膨張したようだった。

 

 やがて、振り子時計の音しか聞こえない静寂が空間に満ちる。

 ユカは空間ごと威嚇するように、わざとドタドタと音を立てて台所から再びリビングに飛び出したのだった。

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