禁忌の書庫アポクラ ~書庫の主とガチ恋するまで出られない部屋~ 作:とくめい
北側諸国、某所。
人の暮らしていない廃れた村の中を、フリーレンとフェルンは進んでいた。
崩れた石壁の間を、冷たい風が吹き抜けていく。
シュタルクは今夜の野宿に使う薪を拾うため、少し離れた森へ向かっている。
以前、フリーレンがヒンメル一行と共にここに訪れたときから、村は既に廃れていた。
あれから八十年以上の年月が経っていることになるが、朽ちた建造物はフリーレンが記憶する限りにおいて、そのままの状態で取り残されている。
廃村化の要因が魔物に襲われたことによるものなのか、農畜産物が定着しなかったことによるものなのか、あるいはもっと他の理由があるのかについては、フリーレンにも分からなかった。
魔王が討伐され三四半世紀。
一度自治を経験したことのある土地が復興されることも多くなっているが、この村はそうした時の流れからは断絶しているようだった。
「フリーレン様。本当にこんな場所に女神の石碑があるんですか?」
フェルンが呆れたように問いかける。
今夜の野宿の場所にこの廃村を選んだのは、フリーレンの強い希望だった。
「あるよ。……たぶんね」
フリーレンは地図をしまいながら、自信ありげに胸を張る。
「初めて来たときは知らなかったんだけどね。この辺りにあるという噂を後から知ったんだ。この機会に解析してみたいんだよ」
大陸に今も残る、女神自らが魔法を込めたとされる十の石碑。
そこに刻まれた呪文は有史以来その解読を拒んでいた。
不可読性は当然、神秘性をも生んで、聖職者以外にも数学者や天文学者、考古学者、博物学者、物好きな貴族から素人研究家まで、こぞってその解読に精を出している。
フリーレンもそのひとりだといえた。
フェルンは深く溜息をついたが、特に反対もしない。フリーレンの魔法に関する知的好奇心を満たすためだけの寄り道は、この旅では特に珍しいものではなかった。
むしろそうした道草の方が、本筋を圧倒しているはずだとフェルンは確信している。
当のフリーレンは気にした様子もなくずんずん歩いていたが、不意にその足を止め、後ろからついてきていたフェルンは危うく背中にぶつかりそうになった。
「フリーレン様、急に──」
「フェルン。警戒」
師の言葉に、フェルンは咄嗟に杖を構えて周囲に目を走らせる。反射的に魔力探知を放つがこれは悪手だったと遅れて気づく。魔族の中には逆探知してこちらの位置を割り出してくる者もいる。しかしフェルンの探知は特にヒットしなかった。
とはいえ異様な感覚であることは明らかだ。
気圧が鼓膜を包んでいるかのように、周囲の音が、妙に遠い。
すぐ側で風が吹いているのに、土や草の匂いがまったくしない。
この空間の座標そのものが、本来あるべき位置から微妙にずれ込んでいるような不快感。
フリーレンの視線が、半壊した家屋の影に向く。
そこから流れ出るものは魔力ではない。大魔族の放つ威圧とも、全然違う。
魔よりも深く、澱んでいて、暗い。それでいて無機質で、得体の知れない気配。
「見てくる」
短く告げ、フリーレンは歩き出す。
すぐ背後から、衣擦れの音とともにフェルンが杖を握り直す気配がした。
「私も一緒に――」
「ううん。私一人で行くよ」
フリーレンは振り返らずに、軽く手を振った。
「……少しでも危険を感じたらすぐに引く。だからフェルンはシュタルクを探してきて」
フリーレンの直感をよく信頼しているフェルンは、「分かりました」とだけ言い、踵を返して森の方角に向けて飛び立った。
フリーレンは嫌な予兆を強く感じていた。一人旅のときならばともかく、今はフェルンとシュタルクもいる。早々に二人を回収して離れた方が良いかも知れない。
同時に、この不吉を放置するべきではないとも思った。もしこの「澱み」が何かの良くないことに前触れであるのなら、先手を打つことができるかも知れない、と。
あまり渾沌へ向けて深く踏み入らないようにしている自分にしてみれば、気に食わない思考でもあるのだが。自分らしくないというよりも、ただ不思議と納得がいかなかった。
「澱み」は、フリーレンを誘っている。
フリーレンの意識が「澱み」に向くよう、「澱み」自体によって感じさせられている。
誘われていることよりも、そう“感じられる”という事実の方が、フリーレンには奇妙だった。純粋なエネルギーであるはずなのに、技巧的で胡乱な、こちらの認識を意図的に操作しようとするような、作為的な感覚──。
フリーレンは瓦礫の縁に手をかけ、廃屋の中へと一歩踏み込んだ。
何かがおかしいと分かっている。罠にかかっているとも気がついているはずなのに、身体はその気づきに追従しない。代わりに背筋をなぞるような冷たい感覚が走った。
──やっぱり逃げるべきだったかな。
フリーレンがそう思った瞬間。
世界が、きしみを上げて裏返った。
「……っ」
肌を撫でる温度も湿度も、一瞬にして変質する。
三半規管が狂わされたような、平衡感覚を失う気持ち悪さ。
背後を振り返るが、そこにはもう廃れた村の光景も、吹き抜けていた冷たい風と澱みもなかった。
(……空間転移?)
魔族や女神の魔法の中には、高度な転移魔法の存在が知られている。もっとも、依然として魔力は感じられず、探知にも反応がない。
足元にあるのは、廃屋の朽ちた床板ではなかった。
磨き抜かれた黒曜石のように見える、どこまでも滑らかで継ぎ目の存在しない床。
壁もまた同質の素材でできている。その漆黒は光を吸収し、闇を照らし返している。
顔を上げると、天井は見えないほど高い。光源がないのに、室内の明度はなぜか保持されている。
空気には埃ひとつなく、呼吸すらためらわれるほどの静謐。
そして、それらの調度を圧倒せんとする本棚と書物。
あまりに魔術的で、瀟洒な趣向の「書庫」。
当然、ただの書庫ではない。現実には存在せず、かといって夢の産物でもない。
魔法による空間拡張よりも、遥かに高度で異質な意思によって編まれた空間。
フリーレンは圧倒されて立ち尽くす。
魔法はイメージの世界。イメージできないものは、魔法として扱えない。
しかしこのような空間を忠実にイメージできる者がこの世界に存在するとは、フリーレンにはとても思えなかった。魔族の魔法だとしても、常軌を逸している。
フリーレンは、すぐそばの本棚に納められた書物に手を伸ばそうとし――気づく。
──奇妙な猫がいた。
本棚の影に、静かに座っている。
毛のない身体。人間のような瞳。
瞬きもせず、深い湖面のように何も映さないまま、じっとこちらを見つめていた。
(……猫? 違う、よくわからないけれど気味の悪い……)
魔力がない。魔物でもない。
けれど、この異質な空間において、当然のようにそこへ存在していることがひどく異常だった。絡みつくようなその視線から、どうしても目が離せない。
フリーレンはゆっくりと歩み寄る。
あと一歩の距離まで近づいた瞬間、その生き物は棚の向こうに走り去って、あっという間に姿を消してしまった。
代わりに生き物がいた場所には一冊の本が、まるで棚から弾き出されてしまったかのように床に横たわっていた。
フリーレンにはその表紙に綴られた文字が読めた。
(えす……しー……ぴー?)
──SCP
──Special Containment Procedures
──特別収容プロトコル
そう、フリーレンの知らない言語で綴られていた。
不明の言葉の意味が、しかし翻訳を介さず頭に直接入ってくる。“理解させられる”という暴力的な感覚に、思わず指先が粟立った。
それが何らかの団体の名であるというところまで、フリーレンには分かった。
ついてはこの書物がその団体の、何らかの報告書であることも。
頁をいくつか捲ってみる。記述される猫ですよろしくお願いします記述される文字体系も、構文規則も、論理も、フリーレンの世界とは全く違う。
だがそれらの文字は見ているだけで思考が焼けつくほど鋭くなり、抑えがたい知識欲を掻き立てられた。
まるで文字に封じられた理が脈打ち、知識が生存へ向けてその身を変じようとしているかのように──あるいこの本こそが生命体だ。
(……すごい。こんな空間が──書物が存在するなんて)
フリーレンの足が勝手に前へ進む。
身体は、壁だと思っていた黒いガラスを通り抜ける。
その先にもまた、無限に本棚が続いていた。
図書は永遠をこえて実現している。
宇宙が永遠であるのと同じ程度には。
ここは世界の裏側に作られた、知識のための迷宮。
終わりのない書庫。
その奥へと進んでいくほどに、帰ることも、仲間のことも脳裏から霞んでいく。
目につく書物を集めていく。
これほどに価値のあるものは、どの宇宙にも存在しないだろう。
鞄の中の魔道具を全て捨て、書物を入れるためのスペースを確保する。
杖も邪魔で仕方がなく、その場に置いていくことにした。
千年生きてきて初めて味わう、甘い麻薬のような感覚が、フリーレンを狂わせていた。
床も壁も天井も、すべて本でできている。上にも下にも、果てがない。
感知できるのは魔力ではなく、もっと深く異質な理。世界の根を揺るがすようなもの。
『フリーレン様!』
そのとき、微かに自分を呼ぶ声が「書庫」に響いた。
声は見えない天蓋の向こう側から聞こえた。
シュタルクを無事回収することができたのか、遅れて彼が自分を呼ぶ声も響く。
「そうだ──フェルン──シュタルク──」
この「書庫」に落ちてしまった自分のことを、二人は探しているのだろうとフリーレンは思う。
いや、このままでは二人も「書庫」に誘われてしまうかも知れない。
こっちに来るなと叫ぼうとするが、喉からは呻きのような声しか出ない。
フリーレンはまるで何百年ぶりかの眠りから覚めるようにして、自力で、湖の底に沈んでしまった意識を少しずつ引き上げる。
「帰らないと……」
そう思い、ふと横を見ると、そこに扉が見えた。
これまでは気にしなかったが、思い返せば、ずっと右手側に同じ扉が等間隔で並んでいた。無個性すぎて、脳が勝手に意識から外していたのだ。
……不自然だ。
“いつでも入れ”と囁くように。
あるいは“必ず入る”と設計されているかのように。
ひとつに手をかける。
ドアはただ、待ち構えていたように静かに開いた。
そこは――果てしない書庫にぽっかり開いた“客間”だった。
丸テーブルと椅子。穏やかに揺れる魔導灯。低い本棚が並び、圧迫感を和らげている。
書庫の中では明らかに異物なはずなのに、不思議と居心地の良さそうな空間だった。
そして、
部屋の中央に――男がひとり、座っていた。
顔は霧のヴェールに包まれたように曖昧で、輪郭すらよく見えない。
「まさか書庫を抜けて来るとは思わなかったよ」
男は苦笑する。顔が見えなくとも、震えて聞こえる声音からそうと分かる。
「普通はね、この空間に迷い込むときはここ、“客間”の方に出るんだ。君みたいにいきなり書庫から現れるのはレアケースだよ」
フリーレンは答えず、無言のまま男を観察した。
男はそんな彼女の警戒を気にも留めず、淡々と続ける。
「けど、まあ……いいか。無事で何よりだよ。そしてようこそ、“フリーレン”。君を歓迎するよ」
フリーレンの身体が反射的に強張った。
「どうして、私の名前を知っているの?」
静かだが、刃のように鋭い声。
フリーレンは平静を取り戻しつつあった。
一度我に返ると、なぜあれほどまでに「書庫」へ執着してしまったのかは分からない。
どこかへ置いてきたと思っていた杖は、自身の手元にあった。
置いてきてしまったという記憶が偽りだったのか、そもそも最初からすべてが夢の出来事だったのかという疑問については、今は措く。
戦闘準備はすでに完了している。
油断なく一瞬で魔法を撃てる。
この異常な空間に来て初めて、明確な“敵”の可能性が浮かんだ。
男はただ、困ったように肩をすくめた。
「君の名前も記憶も、ここに来た時点で情報として記録されるんだ。断片的だけどね。俺にも理由は説明できない。……そういう場所なんだよ、ここは」
言葉の意味をフリーレンは捉え損ねるが、嘘をついている気配はなかった。
この男は本当に困惑しているように見える。
とはいえ状況を把握する手掛かりは、目の前で茶をすするこの男しかいない。
「仲間とはぐれたんだ。帰らなきゃいけない。あなたは、ここから出る方法を知ってる?」
男は少し言い淀み、申し訳なさそうに眉を下げる。
「うん、帰れるよ。……でも“条件”がある。俺が決めたわけじゃないけどね」
その瞬間、フリーレンの意識に“ソレ”が直接流れ込んできた。
言葉でも、映像でもない。純然たる情報の塊として、逃げ場のない真実を脳髄に強引に刻み込まれる。この空間を出るための絶対条件――
《アポクラの主に対し、魂の底から恋焦がれること》
「…………は?」
冗談みたいな条件に、思わずフリーレンから素っ頓狂な声が漏れた。
男は「やっぱりそうなるか」と言わんばかりに苦笑して肩をすくめる。
「だいたい皆そんな顔をする。でも本当に俺のせいじゃないからね? この空間のルールなんだ」
「アポクラ」というのが「書庫」を含むこの空間の名であり、「主」というのが目前の男のことを指しているところまで、吹き込まれた情報は懇切丁寧に説明していた。
それはとりあえずいいとして──。
「帰る条件が……恋?」
「そう。もっと異界の俗な言葉で分かりやすく言うなら――俺に『ガチ恋』しないと出口の扉は開かない仕様らしい」
「……がちこい?」
フリーレンは目を丸くして、その奇妙な響きを口の中で転がした。
「って、なに?」
「本気で恋をするってこと。魂の輪郭が曖昧になるくらい、深く、どうしようもなくね」
フリーレンは動揺する。言葉の内容そのものに対してというよりは、それを語る男の瞳に狂気の色がないことに。男はまるで正気だ。
そして、この空間の主が正気であるのなら、この「条件」もまた正気ということになる。
「あの『書庫』も、あなたが造った空間?」
フリーレンの問いに、男は霧のように印象が揺れる顔を横に振るような仕草をして応える。
「すべての書は神のものだよ。俺は管理を任されているだけでね。任されているというより、強いられている、かな。これでも君と同じ、囚われの身なのさ」
はぐらかし、煙に巻くような男の応答。どこまでが嘘で、どこからが真実なのかが分からない。
さっきの書庫の光景が脳裏をよぎる。無限の知の迷宮。
あれは魔法使いとして──というよりは学者として、喉が渇くほどに魅力的だった。
出ていくのは惜しい。だが同時に、ここは危険な世界だということもまた痛感している。また心を支配されてしまう前に去り退いてしまいたいが──
「……ここを出る条件が恋って……」
人間の感情すらまだろくに理解できていない自分が、初対面の得体の知れない男に本気で恋をする?
何百年かけても不可能に近い難題だ。
荘厳な大書庫と、要求される条件の落差。理不尽が過ぎている。
「……ふざけてる」
きっぱりと言い捨てた。声は静かなのに、絶対零度のような冷たい響きが混じる。
「ふざけてないさ」
男は肩をすくめて笑う。
そのあまりに暢気な態度に、フリーレンのこめかみが僅かに引きつった。
男はカップをテーブルに置き、まっすぐにこちらを向いた。
「君が帰りたいなら――俺はできる限りの範囲で協力するよ。まずは、顔を見せるところからかな」
ふと、男の顔を覆っていた霧が晴れた。
彼が意図的に、この空間の認識阻害を解いたのだ。
整った顔立ちをした、落ち着いた眼差しの青年がそこにいた。
美に対して動じるということがないフリーレンが、その青年の姿に、一歩たじろく。
この感覚が頭の中で言語化されてしまう前に、フリーレンは頭を振り、代わりに問いを投げかける。
「……あなたは、今まで何人もここに迎えたの?」
「ああ。ほとんどの子は条件を満たして帰ったし、たまに戻ってくる子もいるよ」
「条件を満たす」とは「ガチ恋」をしたということだろう。「たまに戻ってくる」とは……?
疑問が尽きない。
「証拠はあるの? ガチ恋をすれば帰られるという証拠は」
「あるけど……見せられない。見ようとすると遮られる」
「誰に?」
「この空間そのものに。権限がないと拒絶されるんだ」
フリーレンは杖の石突きを床に軽く打ち付けながら、慎重に訊く。
「他に方法はないの? この空間ごと攻撃魔法で破壊するとか」
男は笑い、かぶりを振る。
「物騒だな。破壊はできない。やってみてもらっても良いけど、勧めはしない。条件をクリアする以外、ここから出る術はないさ」
「それはどういう理屈? 魔法や呪いによって縛られているということ?」
「ここには理屈なんて存在しない。全く適当な世界なんだから」
フリーレンは呆れ果てて、思わず更に半歩下がる。
さっきまで神秘と理知の結晶に見えていた空間が、たった一つの条件で無残に茶番へ変わっていく。
不本意だが、知識の誘惑で狂いかけていた感覚に、妙な現実感も戻ってきた。
「……ごめん、フェルン、シュタルク。一生出られないかもしれない」
真顔の、心の底からの呟きに、男は吹き出しかけた。
「諦めるの早くない?」
「諦めたわけじゃない。真剣に考えてるだけ」
「それは結構。……まあ、気が済むまでいていいよ。君がその気になるまで、俺はある程度なら付き合うから」
男がそう言って微笑むと、部屋を満たす暖かな瓦斯灯の光が、まるで主の感情に呼応するようにふわりと明るさを増した。
テーブルに置かれたカップから立ち昇る紅茶の香りが、ほんのりと甘く鼻腔をくすぐる。
外に広がる、狂気に満ちた果てしない書庫とは対極の空間。
ここは間違いなく、彼によって完璧に保護された安全な「箱庭」だった。
フリーレンは意を決して、あらためて彼を見た。
曖昧で、掴みどころのない男。
だが、不思議と嫌な雰囲気はしない。
張り詰めていた警戒をふっと逸らされるような、深くて静かな水底のような引力があった。それがいわゆる魅力というやつなのかは、まだ分からない。
男はゆっくりと立ち上がり、うやうやしく片手を胸に当てた。
それは、古き時代の王族が稀代の客人をもてなすような、洗練された、しかしどこか人間離れした美しい所作だった。
男は一礼する。再び顔を上げたとき、まるで役者みたいな面持ちと口調で、芝居の台詞のように語り始める。
「フリーレン。あらためてようこそ、禁忌の大書庫『アポクラ』へ」
紡がれた声はどこまでも穏やかだったが、その黒い瞳の奥には、確かな驚きと、隠しきれない歓喜の色が揺らめいていた。
「……普通、この空間に招かれた人間は、安全なこの『客間』に直接転送される。そこで俺と会い、条件を満たして帰っていくんだ」
男は静かに、フリーレンが開けてきた書庫の扉を見やった。
「でも、稀に……あの『書庫』のど真ん中に直接迷い込んでしまう者がいる。あそこは純粋すぎる知識の奔流だ。誘惑されるまま本を開き、理性を呑まれて、二度と帰れなくなる」
それは、フリーレンが一歩間違えれば知識の海を彷徨う永遠の迷子になっていたことを意味する。
それほどまでに、彼女がくぐり抜けてきた状況は危険なものだったのだ。
「だが、君は違った。死の書庫に落ちたにもかかわらず、狂気に沈み切ってしまう前に扉を開いた。そんな来訪者は――俺が知る限り、初めてだ」
男は楽しげに目を細め、更に言葉を紡ぐ。
「この空間が君を選んだのか、それとも君が空間の理をねじ伏せたのか。どちらにせよ……君という存在は、ここでは異例中の異例だよ」
男は悪戯を見つけた子供のように無邪気に笑った。
果てしない知識の海を管理する主が、千年の魔法使いに向けた、心からの歓迎の笑みだった。
「――さあ、またとびきり変わったお客さんが来た。これからの日々は、きっと楽しくなりそうだ」
その言葉には、一切の悪意も打算もなかった。
ただ純粋に、これから始まる終わりのない時間を待ち望むような、朗らかな響き。
肩の力が抜けるようなその底抜けの気楽さに、
フリーレンは――知らず知らずのうちに、ほんの少しだけ、杖を握る手の力を緩めていた。