世界で一番幸せな男   作:好感度反転をすこれ

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1話

魔王城、最上階。

天を突く漆黒の玉座の間は、いまや崩壊の土煙と、焼け焦げた魔力の残滓に満たされていた。

 

「――っ、はあぁッ!!」

 

勇者、カイル。

そう呼ばれるべき少年は、ボロ布のようなマントを翻し、折れかけた聖剣を魔王の心臓へと突き立てた。

 

「ガ、ぁ……っ!!」

 

魔王の絶叫が空間を震わせる。漆黒の血が噴き出し、カイルの頬を汚した。

しかし、その光景を背後で見守っていたはずの「仲間」たちの瞳に、歓喜の色はない。

 

「汚らわしい」

 

聖女エルナが、嫌悪を隠そうともせずに吐き捨てた。

 

「その汚い手で、魔王に触れるな。……見てるだけで、虫酸が走るわ」

 

「全くだ」

 

戦士グレンが、大剣を杖代わりにつきながら、ゴミを見るような目でカイルを睨みつける。

 

「トドメだけは一丁前だな、この卑怯者が。俺たちが削った手柄を横取りしやがって……。その薄汚い顔、二度と見せるなと言ったはずだぞ」

 

「ふふ、死ねばよかったのに」

 

魔法使いリミスの杖から、冷たい氷の礫が放たれた。それは魔王ではなく、カイルの足元を狙って放たれ、彼の皮膚を鋭く切り裂いた。

 

カイルは何も言い返さなかった。

いや、言い返せなかった。

彼らから向けられる殺意にも似た視線は、この数年間、片時も絶えることなく彼に浴びせられ続けたものだ。

 

――僕が、悪いんだ。

――僕が、もっとまともな人間だったら。もっと、みんなに好かれるような勇者だったら。

 

カイルは震える手で聖剣を握り直し、ただ黙ってうつむいた。

彼には知る由もなかった。

自分が聖剣に選ばれたあの日、魔王が放った『反転の呪い』。

彼の献身は「偽善」に。

彼の優しさは「嘲弄」に。

彼の勇気は「慢心」に。

彼という存在そのものが、この世界の全人類にとって「生理的な嫌悪の対象」となるよう、認識が捻じ曲げられていたことを。

 

だが。

その終わりは、あまりに唐突に訪れた。

 

「ア……ガ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」

 

魔王が完全に消滅し、その魔力の核が砕け散った瞬間。

世界を覆っていた粘着質な「悪意」のベールが、パリン、と音を立てて弾け飛んだ。

 

その刹那。

エルナ、グレン、リミスの三人の脳裏に、凄まじい濁流のような「真実」が流れ込んだ。

 

「え……?」

 

最初に異変に気づいたのは、聖女エルナだった。

彼女の脳裏にある記憶。

一年前の冬、自分が流行病で倒れた際、カイルが看病に来た時のこと。

 

これまでの記憶では、彼は病床の彼女を「無様だな」と笑い、汚れた手で彼女の頬を触り、聖域を汚した……はずだった。

だが、今見えている景色は違う。

 

『……お願いだ。彼女だけは、助けてくれ』

 

視界の中のカイルは、血を吐くような形相で神に祈っていた。

自分の命を削る禁呪を使い、彼女の病を肩代わりし、震える手で彼女の冷えた手を握り締めていた。

彼の瞳から零れ落ちたのは、嘲笑ではなく、彼女を案じる切実な涙だった。

 

『……良かった。エルナが、笑ってくれるなら。……僕は、嫌われたままでもいい』

 

その声が、呪いのフィルターを通さない「本物の声」として、彼女の心に突き刺さった。

 

「う、そ……何、これ……?」

 

戦士グレンもまた、膝をついていた。

数ヶ月前、大軍に囲まれた際、カイルが自分を置き去りにして逃げた記憶。

それが、真っ白に塗り替えられていく。

 

真実は逆だった。

カイルは、動けないグレンを岩陰に隠し、たった一人で万の軍勢の前に立ち塞がっていた。

『グレン、死ぬなよ。……お前には、帰りを待つ家族がいるんだから』

そう言って笑ったカイルの背中は、無数の刃に切り刻まれ、真っ赤に染まっていた。

あの時、グレンがカイルに投げつけた「臆病者」という罵倒。それを聞いたカイルが、悲しそうに、でもどこか納得したように浮かべた微笑み。

 

「俺は……俺はあいつに、なんてことを……ッ!!」

 

リミスは、自分がカイルに放った「氷の礫」を見つめ、絶叫した。

自分が魔導書を奪われたと思っていたあの日。彼は自分の術式の欠陥を見抜き、命を狙われるリスクを承知で、禁書を書き換えて自分を守ってくれていたのだ。

それを知らずに、彼女は彼を「泥棒」と呼び、杖で何度も何度も彼を打ち据えた。

 

呪いが解けた世界。

彼女たちの目に映るカイルは、もはや「不浄な怪物」ではなかった。

 

そこには、ボロボロに傷つき、骨が浮き出るほど痩せこけ、全身から血を流しながらも、自分たちのために立ち続けていた――あまりにも痛々しい、一人の少年がいた。

 

「カ、カイル」

 

エルナが、震える声でその名を呼んだ。

これまでの「嫌悪」ではない。狂おしいほどの後悔と、溢れ出す愛着を込めて。

彼女は、今すぐに彼に駆け寄り、その傷だらけの体を抱きしめたかった。

床に額を擦り付けて、これまでの所業を詫びたかった。

 

だが。

 

「ひっ」

 

名前を呼ばれた瞬間。

カイルの肩が、跳ねるように大きく震えた。

 

彼はゆっくりと、機械的な動きで振り返った。

その顔は、青ざめ、引き攣っている。

 

「あ……あ、ああ……ごめんなさい。ごめんなさい……ッ!」

 

カイルの口から漏れたのは、歓喜でも、安堵でもなかった。

剥き出しの、純粋な恐怖だった。

 

「エルナ様、すみません……。僕が、僕が魔王に触れたからですよね? 汚いですよね……。すぐに、すぐに消えますから。だから、どうか……魔法は、打たないで……」

 

カイルはガタガタと歯の根が合わないほど震えながら、後ずさる。

呪いは解けた。

だが、彼の心には、数年間刻まれ続けた「拒絶の記憶」が、呪いよりも深く、鋭く残っていた。

 

「違うの、カイル! 私たちが、私たちは間違っていたの! あなたは何も悪くない、あなたは私たちの恩人で――」

「嘘だ……」

 

カイルの瞳が、恐怖で爛々と輝く。

彼にとって、急に優しくなった彼女たちの言葉は、理解不能な恐怖でしかなかった。

 

――まただ。

――また、新しい虐めなんだ。

――優しくしておいて、期待させておいて、最後にもっと酷い絶望に突き落とすんだ。

――もう、耐えられない。これ以上は、心が壊れてしまう。

 

「く、来るな!来ないでえええええええええッ!!」

 

カイルは狂ったように叫ぶと、崩壊を始めた玉座の間の亀裂へと、迷わず飛び込んだ。

 

「カイル――ッ!!」

 

グレンが手を伸ばすが、届かない。

カイルは瓦礫の山を転がり落ち、血を流しながらも、必死の形相で闇の中へと這い進んでいく。

その姿は、英雄の凱旋などではなかった。

天敵から逃げ惑う、小さな獣のそれだった。

 

「追いなさい! すぐに追うのよ!!」

 

聖女の叫びが響く。

 

「彼は怪我をしているわ! 放っておいたら死んでしまう! 捕まえて、治療して、今度こそ私たちが守るのよ!」

 

三人は、それぞれの武器を手に、崩壊する城の中へと飛び込んでいった。

 

救いたい。

謝りたい。

彼を愛したい。

 

その純粋すぎる善意が。

今のカイルにとっては、何よりも恐ろしい「死の宣告」であることに、彼女たちはまだ気づいていなかった。

 

 

魔王城の外、冷たい雨が降り頻る荒野。

カイルは、泥にまみれながら必死に走っていた。

 

肺が焼けるように痛い。脇腹の傷が疼く。

だが、止まれば「彼女たち」が来る。

あの、冷たくて鋭い視線を持った、最強の殺戮者たちが。

 

「……帰らなきゃ」

 

カイルは呟く。

だが、どこへ?

この世界に、彼の味方は一人もいない。

かつて守った村の人々も、彼に石を投げた。

かつて救った子供たちも、彼に唾を吐いた。

 

「……誰も、いない。どこにも、僕を好きな人なんて、いない……」

 

カイルは、雨の中に自分の涙を隠しながら、暗い森の奥へと消えていく。

 

世界を救った英雄は、この日、世界から逃げ出した。

自分を愛してくれるはずの、すべての人々から逃げ切るために。

 

そして、それから始まるのは。

愛という名の「執着」を持って彼を追うヒロインたちと、恐怖という名の「傷」を持って逃げ続ける少年の、決して交わることのない地獄の鬼ごっこだった。

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