世界で一番幸せな男 作:好感度反転をすこれ
魔王城、最上階。
天を突く漆黒の玉座の間は、いまや崩壊の土煙と、焼け焦げた魔力の残滓に満たされていた。
「――っ、はあぁッ!!」
勇者、カイル。
そう呼ばれるべき少年は、ボロ布のようなマントを翻し、折れかけた聖剣を魔王の心臓へと突き立てた。
「ガ、ぁ……っ!!」
魔王の絶叫が空間を震わせる。漆黒の血が噴き出し、カイルの頬を汚した。
しかし、その光景を背後で見守っていたはずの「仲間」たちの瞳に、歓喜の色はない。
「汚らわしい」
聖女エルナが、嫌悪を隠そうともせずに吐き捨てた。
「その汚い手で、魔王に触れるな。……見てるだけで、虫酸が走るわ」
「全くだ」
戦士グレンが、大剣を杖代わりにつきながら、ゴミを見るような目でカイルを睨みつける。
「トドメだけは一丁前だな、この卑怯者が。俺たちが削った手柄を横取りしやがって……。その薄汚い顔、二度と見せるなと言ったはずだぞ」
「ふふ、死ねばよかったのに」
魔法使いリミスの杖から、冷たい氷の礫が放たれた。それは魔王ではなく、カイルの足元を狙って放たれ、彼の皮膚を鋭く切り裂いた。
カイルは何も言い返さなかった。
いや、言い返せなかった。
彼らから向けられる殺意にも似た視線は、この数年間、片時も絶えることなく彼に浴びせられ続けたものだ。
――僕が、悪いんだ。
――僕が、もっとまともな人間だったら。もっと、みんなに好かれるような勇者だったら。
カイルは震える手で聖剣を握り直し、ただ黙ってうつむいた。
彼には知る由もなかった。
自分が聖剣に選ばれたあの日、魔王が放った『反転の呪い』。
彼の献身は「偽善」に。
彼の優しさは「嘲弄」に。
彼の勇気は「慢心」に。
彼という存在そのものが、この世界の全人類にとって「生理的な嫌悪の対象」となるよう、認識が捻じ曲げられていたことを。
だが。
その終わりは、あまりに唐突に訪れた。
「ア……ガ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
魔王が完全に消滅し、その魔力の核が砕け散った瞬間。
世界を覆っていた粘着質な「悪意」のベールが、パリン、と音を立てて弾け飛んだ。
その刹那。
エルナ、グレン、リミスの三人の脳裏に、凄まじい濁流のような「真実」が流れ込んだ。
「え……?」
最初に異変に気づいたのは、聖女エルナだった。
彼女の脳裏にある記憶。
一年前の冬、自分が流行病で倒れた際、カイルが看病に来た時のこと。
これまでの記憶では、彼は病床の彼女を「無様だな」と笑い、汚れた手で彼女の頬を触り、聖域を汚した……はずだった。
だが、今見えている景色は違う。
『……お願いだ。彼女だけは、助けてくれ』
視界の中のカイルは、血を吐くような形相で神に祈っていた。
自分の命を削る禁呪を使い、彼女の病を肩代わりし、震える手で彼女の冷えた手を握り締めていた。
彼の瞳から零れ落ちたのは、嘲笑ではなく、彼女を案じる切実な涙だった。
『……良かった。エルナが、笑ってくれるなら。……僕は、嫌われたままでもいい』
その声が、呪いのフィルターを通さない「本物の声」として、彼女の心に突き刺さった。
「う、そ……何、これ……?」
戦士グレンもまた、膝をついていた。
数ヶ月前、大軍に囲まれた際、カイルが自分を置き去りにして逃げた記憶。
それが、真っ白に塗り替えられていく。
真実は逆だった。
カイルは、動けないグレンを岩陰に隠し、たった一人で万の軍勢の前に立ち塞がっていた。
『グレン、死ぬなよ。……お前には、帰りを待つ家族がいるんだから』
そう言って笑ったカイルの背中は、無数の刃に切り刻まれ、真っ赤に染まっていた。
あの時、グレンがカイルに投げつけた「臆病者」という罵倒。それを聞いたカイルが、悲しそうに、でもどこか納得したように浮かべた微笑み。
「俺は……俺はあいつに、なんてことを……ッ!!」
リミスは、自分がカイルに放った「氷の礫」を見つめ、絶叫した。
自分が魔導書を奪われたと思っていたあの日。彼は自分の術式の欠陥を見抜き、命を狙われるリスクを承知で、禁書を書き換えて自分を守ってくれていたのだ。
それを知らずに、彼女は彼を「泥棒」と呼び、杖で何度も何度も彼を打ち据えた。
呪いが解けた世界。
彼女たちの目に映るカイルは、もはや「不浄な怪物」ではなかった。
そこには、ボロボロに傷つき、骨が浮き出るほど痩せこけ、全身から血を流しながらも、自分たちのために立ち続けていた――あまりにも痛々しい、一人の少年がいた。
「カ、カイル」
エルナが、震える声でその名を呼んだ。
これまでの「嫌悪」ではない。狂おしいほどの後悔と、溢れ出す愛着を込めて。
彼女は、今すぐに彼に駆け寄り、その傷だらけの体を抱きしめたかった。
床に額を擦り付けて、これまでの所業を詫びたかった。
だが。
「ひっ」
名前を呼ばれた瞬間。
カイルの肩が、跳ねるように大きく震えた。
彼はゆっくりと、機械的な動きで振り返った。
その顔は、青ざめ、引き攣っている。
「あ……あ、ああ……ごめんなさい。ごめんなさい……ッ!」
カイルの口から漏れたのは、歓喜でも、安堵でもなかった。
剥き出しの、純粋な恐怖だった。
「エルナ様、すみません……。僕が、僕が魔王に触れたからですよね? 汚いですよね……。すぐに、すぐに消えますから。だから、どうか……魔法は、打たないで……」
カイルはガタガタと歯の根が合わないほど震えながら、後ずさる。
呪いは解けた。
だが、彼の心には、数年間刻まれ続けた「拒絶の記憶」が、呪いよりも深く、鋭く残っていた。
「違うの、カイル! 私たちが、私たちは間違っていたの! あなたは何も悪くない、あなたは私たちの恩人で――」
「嘘だ……」
カイルの瞳が、恐怖で爛々と輝く。
彼にとって、急に優しくなった彼女たちの言葉は、理解不能な恐怖でしかなかった。
――まただ。
――また、新しい虐めなんだ。
――優しくしておいて、期待させておいて、最後にもっと酷い絶望に突き落とすんだ。
――もう、耐えられない。これ以上は、心が壊れてしまう。
「く、来るな!来ないでえええええええええッ!!」
カイルは狂ったように叫ぶと、崩壊を始めた玉座の間の亀裂へと、迷わず飛び込んだ。
「カイル――ッ!!」
グレンが手を伸ばすが、届かない。
カイルは瓦礫の山を転がり落ち、血を流しながらも、必死の形相で闇の中へと這い進んでいく。
その姿は、英雄の凱旋などではなかった。
天敵から逃げ惑う、小さな獣のそれだった。
「追いなさい! すぐに追うのよ!!」
聖女の叫びが響く。
「彼は怪我をしているわ! 放っておいたら死んでしまう! 捕まえて、治療して、今度こそ私たちが守るのよ!」
三人は、それぞれの武器を手に、崩壊する城の中へと飛び込んでいった。
救いたい。
謝りたい。
彼を愛したい。
その純粋すぎる善意が。
今のカイルにとっては、何よりも恐ろしい「死の宣告」であることに、彼女たちはまだ気づいていなかった。
魔王城の外、冷たい雨が降り頻る荒野。
カイルは、泥にまみれながら必死に走っていた。
肺が焼けるように痛い。脇腹の傷が疼く。
だが、止まれば「彼女たち」が来る。
あの、冷たくて鋭い視線を持った、最強の殺戮者たちが。
「……帰らなきゃ」
カイルは呟く。
だが、どこへ?
この世界に、彼の味方は一人もいない。
かつて守った村の人々も、彼に石を投げた。
かつて救った子供たちも、彼に唾を吐いた。
「……誰も、いない。どこにも、僕を好きな人なんて、いない……」
カイルは、雨の中に自分の涙を隠しながら、暗い森の奥へと消えていく。
世界を救った英雄は、この日、世界から逃げ出した。
自分を愛してくれるはずの、すべての人々から逃げ切るために。
そして、それから始まるのは。
愛という名の「執着」を持って彼を追うヒロインたちと、恐怖という名の「傷」を持って逃げ続ける少年の、決して交わることのない地獄の鬼ごっこだった。