世界で一番幸せな男 作:好感度反転をすこれ
雨は止む気配を見せなかった。
魔王城から数キロ離れた、深い原生林の奥。カイルは、大樹の根元に掘られた小さな空洞に、這いずるようにして逃げ込んでいた。
「は、ぁ……っ、ひゅう、っ……」
肺が鳴る。酸素が足りない。肋骨の数本は、魔王との戦いで折れていた。呪いが解けた今、それまで麻痺していた激痛が、鋭利な刃となってカイルの全身を切り刻んでいた。
だが、カイルにとって肉体の痛みなど、背後に迫る「恐怖」に比べれば些細な問題だった。
(追ってくる……絶対に、追ってくる……)
目を閉じれば、エルナたちの顔が浮かぶ。
さっき、彼女たちは泣いていた。あんな顔は、数年間一度も見たことがなかった。
――あれは、罠だ。
カイルの壊れた心が、そう断定する。
これまでの旅路で、何度もあったことだ。
魔物に襲われ、盾となって守り抜いた翌日、リミスは「あなたが余計なことをしたせいで、私の服が汚れたわ」と冷笑しながら、彼の傷口に氷の魔法を押し当てた。
飢えに苦しむ村に食料を運んだ際、グレンは「偽善者の配給なんて吐き気がする」と、彼を泥の中に蹴り飛ばした。
優しくされた記憶など、一秒たりともない。
だから、あの涙も、あの叫びも、カイルにとっては「新しい拷問のプロローグ」にしか見えなかった。
「もう……何も、いらないから……。お願いだから、見つけないで……」
カイルは震える手で、泥を顔に塗りたくった。少しでも体温を隠し、存在を消すために。
彼は英雄などではない。ただ、逃げ場を失っただけの獲物だった。
一方で、魔王城の廃墟には、かつての「英雄パーティ」の姿があった。
しかし、そこにあるのは勝利の美酒ではない。地獄のような後悔と、狂気に近い焦燥だった。
「どうして……どうして、探知魔法に引っかからないのよッ!!」
聖女エルナが、血が滲むほど唇を噛み切り、叫んだ。
彼女が展開しているのは、広域索敵魔法『聖域の眼』。本来なら数キロ先の小動物の鼓動さえ捉える術式だが、カイルの反応だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
「あいつ、隠密スキルを全開にしてやがる……」
グレンが大剣の柄を、拳が白くなるほど握りしめる。
「俺たちが、教えちまったんだ。……敵から逃げる時は、魔力も気配も、心臓の音すら殺せって。あいつは、それを忠実に守ってる。……『俺たち』という敵から逃げるために」
「っ……あああああ!!」
魔法使いリミスが、地面を杖で叩きつける。
「私が……私が魔導書を奪ったなんて嘘を信じて、あいつの魔力を阻害する呪具を嵌めたから……! だから、あの子の魔力が微弱すぎて、探知できないんだわ……!」
リミスは自分の喉を掻きむしった。
呪具を嵌めた時、カイルはどんな顔をしていたか。
「これで、君に迷惑をかけずに済むね」と、弱々しく笑っていなかったか。
自分はそれを「罪を認めた卑怯者の顔」だと思って、さらに罵った。
「見つけなきゃ……死んじゃう。あの子、魔王の一撃を、まともに受けてた……。私のバリアが間に合わなかったんじゃない。あの子が、私を庇って、わざとバリアの外に出たのよ……!」
エルナの瞳には、かつての清廉な光はない。
あるのは、自分が壊した「唯一の光」を取り戻そうとする、執着の炎だけだった。
「どんな手を使っても見つけるわ。……カイル、待ってて。今度は、私があなたを救うから。這いつくばってでも、あなたの足を舐めてでも、謝らせて……!」
彼女たちは、自分たちの「謝罪」がカイルにとっての「救済」になると信じて疑わなかった。
それが、更なる絶望の始まりだとも知らずに。
カイルが森に潜んで三日が経った。
傷口は化膿し、意識は朦朧としている。
空腹と渇き、そして何より「いつ見つかるか」という恐怖が、彼の精神を極限まで摩耗させていた。
カサリ、と木の葉が鳴った。
「――っ!?」
カイルは反射的に息を止めた。
茂みの向こうから現れたのは、銀の鎧を纏った女騎士。パーティの戦士、グレンだった。
「カイル……? カイル、そこにいるのか?」
グレンの声は震えていた。それは、カイルが知る「お前なんて死ねばいい」という怒号ではなく、縋るような、慈愛に満ちた調べ。
だが、カイルの脳内では、その声が死の宣告として翻訳される。
(見つかった。見つかった見つかった見つかった!!)
逃げなければ。
カイルは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
グレンが、ゆっくりと近づいてくる。その瞳に涙を溜めて。
「ああ……良かった。生きてた……。カイル、すまない。本当に、俺がバカだった。頼む、一回だけでいい、殴ってくれ。殺してもいい。でも、まずはその傷を――」
グレンが手を伸ばす。
その瞬間、カイルの中で何かが弾けた。
「ひ……ひ、ああああああああああああああああああああッ!!!」
カイルは絶叫した。
それは人間というより、屠殺場に引かれる獣の悲鳴だった。
彼は地面を這い、グレンから遠ざかろうとする。
「ごめんなさい! ごめんなさいグレンさん!! 逃げてすみません! 隠れてすみません! 汚い僕が、あなたの視界に入ってすみません!!」
「カイル!? 違う、俺は――」
「痛くしないで! お願い、足を折らないで! 爪を剥がないで!! 何でもします、何でも言うことを聞くから……ッ! だから、せめて、一思いに……首を、跳ねて……っ!!」
カイルは額を地面に叩きつけた。何度も、何度も。
鈍い音が響き、彼の額から鮮血が流れる。
それでも彼はやめない。そうすることでしか、許しを乞う方法を知らなかったからだ。
「あ……」
グレンは、差し出した手を空中で止めたまま、凍りついた。
目の前の少年は、自分を「守ってくれる仲間」だなんて微塵も思っていない。
自分を、自分を嬲り殺しにする、残虐な化け物だと思っている。
「違うんだ……カイル、俺は、お前を愛して――」
「いやぁあああああ!! 助けて、誰か助けてえええ!!」
カイルは、折れた足を引きずりながら、崖の淵へと追い詰められる。
彼の目には、グレンの背後に、これまで自分が受けてきた「暴力の幻影」が見えていた。
――もう、嫌だ。
――優しいフリはやめてくれ。
――そんな顔で、僕を殺そうとしないでくれ。
「バイバイ、グレンさん。次は、もっといい勇者を……選んでね」
カイルは、ふわりと後ろに倒れ込んだ。
背後の断崖絶壁。そこは、激流が渦巻く谷底だった。
「カイルうううううううううううううううううううッ!!!」
グレンの絶叫が木霊する。
だが、落ちていくカイルの顔に浮かんでいたのは、恐怖からの解放を喜ぶような、歪な微笑みだった。
カイルは死ななかった。
谷底で彼を待ち受けていたのは、聖女エルナが展開した「捕獲用」のクッション魔法だった。
気絶したカイルを、エルナが抱きしめる。
リミスが、泣きながら彼の傷に最上位の回復魔法を注ぎ込む。
だが、どれほど傷を癒しても。
どれほど白い肌を取り戻しても。
彼が眠りの中で漏らすのは、「助けて」「殺して」という呪詛の言葉だけ。
「……離さないわ」
エルナが、虚ろな瞳で笑った。
「絶対に離さない。あなたが私を怖がるなら、怖がらなくなるまで、何十年でも、何百年でも一緒にいてあげる」
「そうよ……。私たちは、一生かけてあなたに償うの。……たとえ、あなたがそれを望んでいなくても」
彼女たちの後悔は、いつしか「歪んだ執着」へと変質していた。
カイルが目を覚ました時。
そこは、窓一つない、黄金で飾られた「檻」の中だった。
そして、目の前には、自分を地獄に突き落とした三人の「死神」たちが、聖母のような笑みを浮かべて座っていた。
カイルの本当の地獄は、ここから始まったのだ。