世界で一番幸せな男   作:好感度反転をすこれ

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2話

雨は止む気配を見せなかった。

魔王城から数キロ離れた、深い原生林の奥。カイルは、大樹の根元に掘られた小さな空洞に、這いずるようにして逃げ込んでいた。

 

「は、ぁ……っ、ひゅう、っ……」

 

肺が鳴る。酸素が足りない。肋骨の数本は、魔王との戦いで折れていた。呪いが解けた今、それまで麻痺していた激痛が、鋭利な刃となってカイルの全身を切り刻んでいた。

だが、カイルにとって肉体の痛みなど、背後に迫る「恐怖」に比べれば些細な問題だった。

 

(追ってくる……絶対に、追ってくる……)

 

目を閉じれば、エルナたちの顔が浮かぶ。

さっき、彼女たちは泣いていた。あんな顔は、数年間一度も見たことがなかった。

 

――あれは、罠だ。

 

カイルの壊れた心が、そう断定する。

これまでの旅路で、何度もあったことだ。

魔物に襲われ、盾となって守り抜いた翌日、リミスは「あなたが余計なことをしたせいで、私の服が汚れたわ」と冷笑しながら、彼の傷口に氷の魔法を押し当てた。

飢えに苦しむ村に食料を運んだ際、グレンは「偽善者の配給なんて吐き気がする」と、彼を泥の中に蹴り飛ばした。

 

優しくされた記憶など、一秒たりともない。

だから、あの涙も、あの叫びも、カイルにとっては「新しい拷問のプロローグ」にしか見えなかった。

 

「もう……何も、いらないから……。お願いだから、見つけないで……」

 

カイルは震える手で、泥を顔に塗りたくった。少しでも体温を隠し、存在を消すために。

彼は英雄などではない。ただ、逃げ場を失っただけの獲物だった。

 

 

一方で、魔王城の廃墟には、かつての「英雄パーティ」の姿があった。

しかし、そこにあるのは勝利の美酒ではない。地獄のような後悔と、狂気に近い焦燥だった。

 

「どうして……どうして、探知魔法に引っかからないのよッ!!」

 

聖女エルナが、血が滲むほど唇を噛み切り、叫んだ。

彼女が展開しているのは、広域索敵魔法『聖域の眼』。本来なら数キロ先の小動物の鼓動さえ捉える術式だが、カイルの反応だけが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

 

「あいつ、隠密スキルを全開にしてやがる……」

 

グレンが大剣の柄を、拳が白くなるほど握りしめる。

 

「俺たちが、教えちまったんだ。……敵から逃げる時は、魔力も気配も、心臓の音すら殺せって。あいつは、それを忠実に守ってる。……『俺たち』という敵から逃げるために」

 

「っ……あああああ!!」

 

魔法使いリミスが、地面を杖で叩きつける。

 

「私が……私が魔導書を奪ったなんて嘘を信じて、あいつの魔力を阻害する呪具を嵌めたから……! だから、あの子の魔力が微弱すぎて、探知できないんだわ……!」

 

リミスは自分の喉を掻きむしった。

呪具を嵌めた時、カイルはどんな顔をしていたか。

「これで、君に迷惑をかけずに済むね」と、弱々しく笑っていなかったか。

自分はそれを「罪を認めた卑怯者の顔」だと思って、さらに罵った。

 

「見つけなきゃ……死んじゃう。あの子、魔王の一撃を、まともに受けてた……。私のバリアが間に合わなかったんじゃない。あの子が、私を庇って、わざとバリアの外に出たのよ……!」

 

エルナの瞳には、かつての清廉な光はない。

あるのは、自分が壊した「唯一の光」を取り戻そうとする、執着の炎だけだった。

 

「どんな手を使っても見つけるわ。……カイル、待ってて。今度は、私があなたを救うから。這いつくばってでも、あなたの足を舐めてでも、謝らせて……!」

 

彼女たちは、自分たちの「謝罪」がカイルにとっての「救済」になると信じて疑わなかった。

それが、更なる絶望の始まりだとも知らずに。

 

カイルが森に潜んで三日が経った。

傷口は化膿し、意識は朦朧としている。

空腹と渇き、そして何より「いつ見つかるか」という恐怖が、彼の精神を極限まで摩耗させていた。

 

カサリ、と木の葉が鳴った。

 

「――っ!?」

 

カイルは反射的に息を止めた。

茂みの向こうから現れたのは、銀の鎧を纏った女騎士。パーティの戦士、グレンだった。

 

「カイル……? カイル、そこにいるのか?」

 

グレンの声は震えていた。それは、カイルが知る「お前なんて死ねばいい」という怒号ではなく、縋るような、慈愛に満ちた調べ。

だが、カイルの脳内では、その声が死の宣告として翻訳される。

 

(見つかった。見つかった見つかった見つかった!!)

 

逃げなければ。

カイルは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

グレンが、ゆっくりと近づいてくる。その瞳に涙を溜めて。

 

「ああ……良かった。生きてた……。カイル、すまない。本当に、俺がバカだった。頼む、一回だけでいい、殴ってくれ。殺してもいい。でも、まずはその傷を――」

 

グレンが手を伸ばす。

その瞬間、カイルの中で何かが弾けた。

 

「ひ……ひ、ああああああああああああああああああああッ!!!」

 

カイルは絶叫した。

それは人間というより、屠殺場に引かれる獣の悲鳴だった。

彼は地面を這い、グレンから遠ざかろうとする。

 

「ごめんなさい! ごめんなさいグレンさん!! 逃げてすみません! 隠れてすみません! 汚い僕が、あなたの視界に入ってすみません!!」

 

「カイル!? 違う、俺は――」

 

「痛くしないで! お願い、足を折らないで! 爪を剥がないで!! 何でもします、何でも言うことを聞くから……ッ! だから、せめて、一思いに……首を、跳ねて……っ!!」

 

カイルは額を地面に叩きつけた。何度も、何度も。

鈍い音が響き、彼の額から鮮血が流れる。

それでも彼はやめない。そうすることでしか、許しを乞う方法を知らなかったからだ。

 

「あ……」

 

グレンは、差し出した手を空中で止めたまま、凍りついた。

目の前の少年は、自分を「守ってくれる仲間」だなんて微塵も思っていない。

自分を、自分を嬲り殺しにする、残虐な化け物だと思っている。

 

「違うんだ……カイル、俺は、お前を愛して――」

 

「いやぁあああああ!! 助けて、誰か助けてえええ!!」

 

カイルは、折れた足を引きずりながら、崖の淵へと追い詰められる。

彼の目には、グレンの背後に、これまで自分が受けてきた「暴力の幻影」が見えていた。

 

――もう、嫌だ。

――優しいフリはやめてくれ。

――そんな顔で、僕を殺そうとしないでくれ。

 

「バイバイ、グレンさん。次は、もっといい勇者を……選んでね」

 

カイルは、ふわりと後ろに倒れ込んだ。

背後の断崖絶壁。そこは、激流が渦巻く谷底だった。

 

「カイルうううううううううううううううううううッ!!!」

 

グレンの絶叫が木霊する。

だが、落ちていくカイルの顔に浮かんでいたのは、恐怖からの解放を喜ぶような、歪な微笑みだった。

 

カイルは死ななかった。

谷底で彼を待ち受けていたのは、聖女エルナが展開した「捕獲用」のクッション魔法だった。

 

気絶したカイルを、エルナが抱きしめる。

リミスが、泣きながら彼の傷に最上位の回復魔法を注ぎ込む。

 

だが、どれほど傷を癒しても。

どれほど白い肌を取り戻しても。

彼が眠りの中で漏らすのは、「助けて」「殺して」という呪詛の言葉だけ。

 

「……離さないわ」

 

エルナが、虚ろな瞳で笑った。

 

「絶対に離さない。あなたが私を怖がるなら、怖がらなくなるまで、何十年でも、何百年でも一緒にいてあげる」

 

「そうよ……。私たちは、一生かけてあなたに償うの。……たとえ、あなたがそれを望んでいなくても」

 

彼女たちの後悔は、いつしか「歪んだ執着」へと変質していた。

 

カイルが目を覚ました時。

そこは、窓一つない、黄金で飾られた「檻」の中だった。

そして、目の前には、自分を地獄に突き落とした三人の「死神」たちが、聖母のような笑みを浮かべて座っていた。

 

カイルの本当の地獄は、ここから始まったのだ。

 

 

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