世界で一番幸せな男   作:好感度反転をすこれ

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3話

柔らかな陽光が差し込む。

カイルが目を覚ました時、視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪華な天蓋付きのベッドだった。

肌に触れるシーツは最高級の絹で、部屋には心を落ち着かせる香草の香りが漂っている。

 

「……あ」

 

体が、軽い。

あれほど苦しめられた化膿した傷も、折れた肋骨も、灼熱のような痛みも、すべてが消えていた。

奇跡のような回復。だが、カイルはその事実に、恐怖で全身の毛が逆立つのを感じた。

 

(治されてる……)

 

それは「救済」ではなく、「再利用のための修繕」だと脳が警告する。

かつて、グレンの訓練という名の暴行で腕を折られた後、聖女エルナに治された時のことを思い出す。彼女は「怪我が治ったら、また訓練に戻れるわね。次はもっと頑丈になってね、不潔な勇者様」と、慈悲の欠片もない冷笑を浮かべていた。

 

「おはよう、カイル。気分はどう?」

 

心臓が止まるかと思った。

枕元に座っていたのは、聖女エルナだった。

彼女は、カイルがかつて夢見たような、慈愛に満ちた聖母の微笑みを浮かべていた。

 

「っ……、あ、が……あ……」

 

声が出ない。カイルは反射的にベッドの端まで這い下がり、壁に背中を押し付けた。

逃げ場はない。ここは王宮の最深部、結界が何重にも張り巡らされた「黄金の檻」なのだから。

 

「ごめ、んなさい。ごめんなさい……っ、すぐに、起きます。寝坊して、すみません……っ。どんな罰でも、受けますから……っ!」

 

カイルはシーツを握り締め、震えながら頭を下げた。

エルナの瞳に、鋭い痛みが走る。彼女は震える手を伸ばし、カイルの頬を撫でようとした。

 

「違うのよ、カイル。罰なんて、もうどこにもないの。あなたは頑張ったわ。世界を救ったのよ。だから、これからは私たちが、あなたを甘やかしてあげる。ずっと、そばにいてあげるから」

 

その言葉。

かつてのカイルが、死ぬほど欲しかった救いの言葉。

だが、今のカイルにとっては、それは「一生かけて嬲り殺す」という宣告にしか聞こえなかった。

 

昼食の時間、部屋にはグレンとリミスも現れた。

彼らもまた、かつての傲慢な態度はどこへやら、腫れ物に触れるような、痛々しいほどの優しさを持ってカイルに接した。

 

「ほら、カイル。お前が昔『食べてみたい』って言ってた、王都で一番の店の肉料理だ。食えるか?」

 

グレンが、震える手でフォークを差し出す。

カイルは、差し出された銀色の先端を見て、それが自分の目を突き刺すための道具ではないかと疑い、失禁しそうなほどの恐怖に襲われた。

だが、ここで拒めば、次に待っているのは激痛だ。

彼は本能的な生存戦略として、「理想の操り人形」を演じることを選んだ。

 

「あ、ありがとうございます。美味しい、です……」

 

味がしない。砂を噛んでいるような感触。

それでもカイルは、顔を引き攣らせながらも「微笑み」を作った。

ヒロインたちが望んでいるのは、この顔なのだと理解していたから。

 

「カイル。無理をして笑わなくていいのよ?」

 

魔法使いリミスが、涙を浮かべてカイルの手を握る。

 

「私たちは、あなたの本当の気持ちを知りたいの。怒ってもいい、罵ってもいい。私たちがあなたにしたことを、やり返していいのよ」

 

カイルの背中に、冷たい汗が流れる。

やり返せ?

それが「不敬罪」を問うための罠であることは明白だった。

ここで彼女たちを責めれば、きっと「やっぱりお前は傲慢な怪物だ」と正体を現し、暴力が再開される。

 

「そんな、僕が、皆様を罵るなんて、滅相もありません。皆様は、いつだって、僕を導いてくださった、素晴らしい仲間、ですから……」

 

その言葉は、リミスの心を鋭利なナイフで抉った。

自分が「素晴らしい仲間」?

毎日彼を泥に突き飛ばし、魔導の実験体にし、言葉の刃で切り刻んできた自分たちが?

 

「ああ、あああああ……ッ!!」

 

リミスは耐えきれず、部屋を飛び出した。

残されたグレンとエルナも、カイルの「完璧に作り込まれた、恐怖を隠すための微笑み」に、息もできないほどの絶望を感じていた。

 

呪いが解けた世界で、彼らは気づいたのだ。

カイルの心を壊したのは、魔王の呪いではない。

呪いのフィルターを信じ込み、自分たちの意志で彼を傷つけ続けた、自分たち自身の「悪意」なのだということに。

 

数日が過ぎても、状況は変わらなかった。

ヒロインたちは献身的にカイルに尽くした。

食事を与え、体を拭き、髪を梳き、眠りにつくまで愛の言葉を囁き続けた。

だが、カイルの反応は、常に一定だった。

 

「はい」「すみません」「ありがとうございます」

 

彼は決して自分の意志を示さず、彼女たちの顔色を伺い、望まれる通りの「良い子」を演じ続けた。

彼女たちが「愛している」と言えば、彼は「僕も、愛しています」と返す。

その瞳には光がなく、まるで録音された音声を再生しているかのようだった。

 

ある夜。

カイルの寝顔を見ていた戦士グレンは、カイルがうなされているのに気づいた。

 

「やめて、グレンさん。もう、剣は、握れないんだ……。ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 

眠りの中でさえ、カイルはグレンに謝罪していた。

グレンは、かつて自分がカイルの指を「訓練」と称して踏みつけたことを思い出し、自分の手を切り落としたい衝動に駆られた。

 

彼女は、カイルを抱きしめた。

かつての仲間として。いや、今は一人の騎士として、彼を守り抜くと誓って。

だが。

 

「……ぁ」

 

触れた瞬間、カイルが目を覚ました。

その瞳に宿ったのは、この世の終わりを見たような絶望。

カイルはグレンの腕の中で、一切の抵抗をやめ、ぐったりと体を預けた。

 

「あ、そうですよね。今日は、僕の番、ですよね……。いいですよ。どこからでも、好きなように……壊して、ください……」

 

カイルは、グレンが自分を抱いたのは、新しい肉体的な苦痛を与えるためだと思い込んだのだ。

彼は無感情に服のボタンに手をかけ、震える指で自分を差し出そうとした。

 

「違う!カイル、違うんだ!!俺はただ、お前が苦しそうだったから――」

 

「すみません。手間を、取らせました。すぐに、準備しますから。だから、怒らないで……っ」

 

グレンは絶叫し、その場に膝をついた。

何を言っても、届かない。

自分たちが積み上げてきた数年間の「暴力」という実績は、数日間の「優しさ」などでは、一ミリも揺るがない。

 

カイルにとって、ヒロインたちはもはや「人間」ではない。

いつ牙を剥くかわからない、気まぐれな神、あるいは死そのものなのだ。

 

一ヶ月が経つ頃には、部屋の主導権は完全に三人に移っていた。

カイルはもはや、自分から動くことさえしなくなった。

与えられれば食べ、命じられれば服を脱ぎ、抱きしめられれば石のように固まってそれを受け入れる。

 

聖女たちは、そんなカイルを愛で続けた。

彼女たちの精神もまた、限界を迎えていた。

 

「これでいいの、カイル。外は危険だもの。みんな、あなたのことを誤解していた悪い人たちばかりよ。私たち三人のそばにいれば、あなたはもう傷つかない」

 

エルナが、カイルの膝の上に頭を乗せて囁く。

カイルは、彼女の柔らかな髪を、壊れ物を扱うような手つきで――あるいは、触れなければ罰せられるという恐怖から――ゆっくりと撫でた。

 

「はい、エルナ様。僕は、ここで、皆様と一緒に入れて……幸せ、です」

 

その言葉を聞いて、エルナは至福の表情で涙を流した。

それが真っ赤な嘘だと分かっていても、今の彼女には、その嘘の言葉しか縋るものがない。

 

カイルの心は、ずっと前に死んでいた。

今ここにいるのは、彼女たちが望む「理想の勇者」の形をした、空っぽの抜け殻。

 

彼女たちは、自分たちの罪から逃げるために、彼を「愛」という名の檻に閉じ込め。

カイルは、彼女たちの暴力から逃げるために、自分を「服従」という名の死に閉じ込めた。

 

窓の外では、魔王のいなくなった平和な世界が、救世主の帰還を待ちわびていた。

だが、その救世主が、黄金の檻の中で死人よりも冷たい微笑みを浮かべ、一生終わらない「処刑」を待ち続けていることを、誰も知らない。

 

「愛しているわ、カイル」

 

「はい、僕も。愛して、います」

 

閉ざされた部屋に、虚無の愛の言葉が木霊する。

それは、世界で最も残酷で、最も美しい、赦しのない終焉だった。




ここまでお読みいただきありがとうございます。
彼はこの世界で最も安全な場所で、最も手厚い加護を受け、最も愛されている男となりました。
そんな彼は間違いなく「世界で一番幸せな男」と言えるでしょう。

もし皆様が、完全に救いのない「メリーバッドエンド」としての結末をお求めであれば、この第3話をもって物語は完結となります。
次話からは、この「完成された地獄」が壊れていく展開となっていきます。
もう少し地獄を楽しみたい方は引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
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