世界で一番幸せな男   作:好感度反転をすこれ

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4話

深夜、王宮の最深部は死寂に包まれていた。

カイルに与えられた「黄金の檻」の扉が、音もなく開く。

 

「カイル。起きて、カイル」

 

リミスの震える声が、暗闇に溶け込む。

カイルは即座に跳ね起きた。心臓の鼓動が、静寂の中で太鼓のように鳴り響く。彼は条件反射でベッドから滑り落ち、床に膝をついた。

 

「は、はい……っ。リミス様。すみません、すぐに準備します……っ。今日は、何を……何をすれば、いいですか?」

 

その怯えきった、従順な瞳。

リミスは自分の心臓が握り潰されるような痛みを感じた。

監禁が始まってから、カイルの精神は急速に摩耗していた。エルナとグレンは「これで彼は私たちのものだ」と狂った安堵に浸っているが、魔法使いであるリミスには見えていた。

彼の魔力回路が、もはや「生きたい」という信号を一切発していないことを。

 

「逃げなさい、カイル」

 

「……え?」

 

カイルが呆然と顔を上げる。リミスは彼の細くなった肩を掴み、無理やり立たせた。

 

「エルナとグレンには、眠り薬を盛ったわ。……数時間は起きない。王宮の結界も、私が一部だけ書き換えて『穴』を作った。……今なら、誰にも見つからずに外に出られる」

 

「に、逃げる……? でも、どこへ……? 僕は、皆様の、所有物で……」

 

「所有物なんかじゃないわッ!!」

 

リミスは叫び、すぐに自分の口を抑えた。涙が、彼女の頬を伝い落ちる。

 

「あなたは、一人の人間なの。……あんな、あんな呪いさえなければ、私たちは笑い合えていたはずなのに……。私たちが、それを全部壊した。……だから、せめて」

 

リミスはカイルの手に、古びた麻袋を押し付けた。中には、わずかな金貨と、一週間分の保存食、そして彼女が私蔵していた隠密の魔導具が入っている。

 

「これを持って、誰にも見つからない場所へ行きなさい。……私たちからも、この国からも、できるだけ遠くへ。……そして、いつか、私たちを忘れて。……それが、私の望む唯一の罰よ」

 

カイルは、リミスに手を引かれるまま、迷路のような王宮の隠し通路を進んだ。

彼の頭の中は、真っ白だった。

 

(罠だ。……これは、脱走を試みたという『罪』を僕に着せるための、最後の手順なんだ)

 

そうに違いない、とカイルは確信していた。

一歩外へ出た瞬間、背後から魔法で撃たれるか、あるいはグレンが待ち構えていて、絶望する僕の顔を見て笑うのだ。

だが、リミスの震える手は、カイルが知る「残酷な魔法使い」のものではなかった。それは、取り返しのつかない過ちを犯した子供のような、あまりにも無力な震えだった。

 

「ここよ。この排水溝を抜ければ、王都の外縁に出られる」

 

湿った冷たい風が、カイルの頬を撫でる。

月明かりの下、リミスはカイルの顔を、一生の別れを惜しむように見つめた。

 

「カイル。二度と、戻ってきちゃダメよ。……エルナたちは、狂ってる。私も含めて、私たちはみんな、あなたに触れる資格さえない怪物なの」

 

リミスは膝をつき、カイルの泥に汚れた足の甲に、最後の手向けとして口づけをした。

 

「……さようなら。……私の、小さな勇者様」

 

リミスが杖を振るう。

カイルの背中を、穏やかな風の魔法が押し出した。

 

「あ……」

 

カイルは、よろめきながら外へと足を踏み出す。

背後を振り返ると、そこには崩れ落ちるように泣き崩れるリミスの姿と、重々しく閉じていく鉄の扉があった。

 

追手は、来なかった。

叫び声も、魔法の光も、彼を貫くことはなかった。

 

カイルは走り続けた。

夜の森を、足がもつれるのも構わずに。

 

数時間が経ち、夜が明け始めた頃。カイルは王都から遠く離れた、かつて魔王軍の残党に滅ぼされた「名もなき廃村」に辿り着いた。

もはや動く力もなく、カイルは半壊した民家の影に倒れ込む。

 

「……はぁ、っ、はぁ……」

 

静かだった。

耳を澄ませても、エルナの祈る声も、グレンの威圧的な足音も、リミスの詠唱も聞こえない。

あるのは、朝露の匂いと、遠くで鳴く鳥の声だけ。

 

カイルは、リミスからもらった袋を覗き込んだ。

中には金貨の他に、一通の手紙が入っていた。

 

『カイルへ。

 この手紙を読む頃、あなたは自由になっているはずです。

 これまでのことを謝って済むとは思っていません。

 でも、もし、あなたがまだ「生きていてもいい」と思えるのなら……

 かつてあなたが守った、西の果ての漁村を訪ねてください。

 そこには私の遠い親戚の老夫婦が住んでいます。

 彼らには、あなたが「大切な友人」だとだけ伝えてあります。

 勇者の名も、呪いのことも、彼らは何も知りません。

 あなたはただの「カイル」として、そこで生きていいのです』

 

手紙を読み終えたカイルの瞳から、一筋の涙が溢れた。

それは恐怖によるものではなく、数年ぶりに、自分という存在が「勇者」以外の何かとして肯定されたことへの、戸惑いだった。

 

「カイル。僕は、カイルなんだ……」

 

彼はその名を、噛みしめるように呟いた。

 

数日後。

西の果ての漁村。潮の香りが漂うその村に、一人の少年が辿り着いた。

服は汚れ、目は怯え、今にも消えてしまいそうなほど頼りない姿。

 

「おや、あんたがリミスから聞いてた子かね?」

 

出迎えたのは、深い皺の刻まれた、穏やかな表情の老婆だった。

カイルは反射的に首を縮め、謝罪の言葉を口にしそうになる。

 

「あ、すみません……。僕、汚いのに……こんなところに来て……」

 

「何を言ってるんだ。遠路はるばる大変だったろう。さあ、まずは温かいスープでも飲みな。あんたの席は、もう用意してあるんだから」

 

老婆はカイルの手を引いた。

その手は、カイルを殴るために固められた拳でも、彼を捕縛するために握られた手でもなかった。

ただ、凍えた旅人を温めるための、カサカサとした、けれど力強い、人間の手。

 

カイルは、生まれて初めて「強制されない食事」を摂った。

不快感を誤魔化すための微笑みではなく、一口飲んだスープの温かさに、自然と肩の力が抜けた。

 

(温かい……)

 

カイルの本当の救済は、ここから始まる。

 

王都では、カイルを失ったエルナとグレンが狂気の中で互いを責め合い、パーティは崩壊の一途を辿っていた。彼らは一生、カイルを見つけることはできないだろう。リミスが、命を賭して彼らの目を欺き続けているからだ。

 

カイルは、まだ夜になると怯えて飛び起きることがある。

足音が聞こえれば、隠れる場所を探してしまう。

けれど、目の前で笑う老夫婦の、見返りを求めない優しさに触れるたび、彼の中にあった「恐怖の氷」が、少しずつ、少しずつ溶けていく。

 

「きょ、今日は、魚を捕るのを手伝ってもいいですか?」

 

一ヶ月後。

カイルの口から、初めて「自分の意志」が紡がれた。

老婆は、最高に明るい笑顔で頷いた。

 

「もちろんだよ、カイル」

 

世界を救った英雄は、もうどこにもいない。

けれど、西の空に沈む夕陽を眺めながら、穏やかに明日のことを考える一人の少年が、確かにそこにいた。

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