世界で一番幸せな男   作:好感度反転をすこれ

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5話

◇ エルナ ◇

 

カイルがいなくなってから、一週間が過ぎた。

王宮の「黄金の檻」は、主を失ったことでただの冷たく豪華な石の箱へと成り果てていた。

 

「カイル? お食事よ。今日はあなたの好きな、甘いハーブのタルトを焼かせたの」

 

聖女エルナは、誰もいない無人のベッドに向かって、優しく語りかけていた。

その手には、銀のトレイに乗った食事が捧げられている。だが、当然ながら返事はない。彼女の前に広がるのは、主が逃げ出した際に乱れたままのシーツと、埃の舞う静寂だけだ。

 

「あら。恥ずかしがっているのね? どこに隠れているのかしら。クローゼットの中? それとも、ベッドの下?」

 

エルナは虚ろな笑みを浮かべ、部屋の調度品を一つ一つ、狂ったような手つきで開けていく。

クローゼットを開け、衣装を床にぶちまけ、宝石箱をひっくり返す。カイルの気配を探して、彼女の指先は血が滲むほどに壁を掻き毟った。

 

「いない。いないわ。いないいないないいないいないいないいないいないいない!!!!」

 

ガシャァァン! と、銀のトレイが床に叩きつけられた。

タルトが無残に潰れ、甘い香りが部屋に充満する。その香りが、かつてカイルがこの部屋で流した、恐怖の混じった涙の匂いと混ざり合う。

 

「どこ? どこにいるの……ッ!!」

 

エルナは、カイルが最後に身につけていたシャツを抱きしめ、その場に崩れ落ちた。

彼女にとって、カイルを愛でることは、自らの聖性を証明する儀式だった。彼を救い、彼に依存され、彼を慈しむ。そのサイクルが途切れた瞬間、彼女の中の「聖女」という偶像は内側から崩壊を始めた。

 

「私は、私は、あの子を一番愛していたのに。あの子の震える肩を抱いてあげられるのは、私だけだったのに……!」

 

彼女の脳裏には、カイルが自分を見て目を逸らし、ガタガタと震えていた姿が蘇る。

普通なら「嫌われていた」と気づくはずのその記憶さえ、今の彼女にとっては「私を求めていた証拠」へと書き換えられていた。

 

「見つけ出して、今度こそ逃げられないようにしてあげる。そうよ。カイルの足が動かなければ、あの子はどこへも行けない」

 

エルナは、自分の頬を自傷するように強く打ち据えた。

その瞳には、慈愛の欠片もない、暗く濁った執念だけが宿っていた。

 

◇ グレン ◇

 

一方、王宮の地下にある広大な訓練場。

そこでは、人のものとは思えない絶叫と、岩を砕くような激しい音が響き渡っていた。

 

「おおおおおおおッ!! どこだぁッ!! カイルッ!!」

 

女騎士グレンが、大剣を狂ったように振り回していた。

対峙する標的などいない。彼女が斬っているのは、目に見えない自分自身の「後悔」だった。

一撃ごとに石床が爆ぜ、破片が彼女の頬を切り裂くが、グレンは痛みを感じている様子すらなかった。

 

「ハァ、ハァ……っ。……クソ、クソが……ッ!」

 

剣を地面に突き立て、グレンはその場に膝をついた。

彼女の手は、過剰な連撃のせいで痺れ、皮膚が裂けて血が滴っている。

 

カイルが王宮から消えたあの日以来、グレンは一睡もしていなかった。

王都の全門を封鎖し、街道に騎士を放ち、カイルの魔力残滓を追わせた。だが、足取りはまるで煙のように消え去っていた。

 

「俺が、あいつを追い詰めたからだ……」

 

グレンは、自分の分厚い掌を見つめた。

この手で、カイルの髪を掴んだ。

この拳で、カイルの腹を殴った。

「訓練だ」と言い訳をしながら、少年の心が死んでいく様を、特等席で眺めていた。

 

「あいつ、俺のこと……死ぬほど怖がってたな」

 

ふと漏れた独白。

暴力でしか他者と繋がれなかった彼女にとって、カイルの「恐怖」は、自分が彼を支配しているという歪な実感を与えていた。

だが、いざカイルがいなくなってみると、その支配がいかに脆く、独りよがりなものだったかを思い知らされる。

 

「カイル。頼む、戻ってきてくれ。殴らなくていい、訓練もしなくていい。ただ、そこにいてくれれば……俺は、お前の前で一生、犬のように土下座して過ごしたっていい……!」

 

グレンは、自分の頭を地面に打ち付けた。

コンクリートに血の花が咲く。

彼女の誇りだった騎士の精神は、カイルという「依り代」を失ったことで、自責と後悔の念の泥沼へと沈んでいった。

 

◇ リミス ◇

 

王都の結界を指先一つで切り裂き、カイルを「自由」へと放逐したあの日。

リミスは、闇に消えていく少年の背中を、誰にも見られない暗がりのなかで、ただ一人見送っていた。

 

「ふふ。あははははッ!!」

 

押し殺した笑い声が、深夜の回廊に漏れる。

それは贖罪の喜びなどではない。ライバルたちを鮮やかに出し抜いた、捕食者の歓喜だった。

 

エルナは、押し付けて手に入れた偽りの愛に酔いしれていた。

グレンは、罪悪感でまともに向き合わず謝罪を押し付けるだけだった。

だが、リミスは知っている。そんな剥き出しの強制は、いつか反動を生む。

 

(馬鹿な女たち。あの子を「檻」に入れるから、逃げたくなるのよ。私は違う。私は、あの子が自分から『ここにいたい』と願う、出口のない楽園をあげるわ)

 

リミスは、カイルの足取りを魔法の糸で密かに追跡しながら、王宮の自室へと戻った。

数日間、彼女は「カイルがいなくなって取り乱す仲間」を完璧に演じた。エルナと共に泣き、グレンと共に騎士団を叱咤した。

その裏で、彼女はカイルが辿り着くであろう西の漁村へ、何重もの「認識阻害」と「精神誘導」の魔法を、遠隔で、しかし緻密に仕掛けていた。

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