世界で一番幸せな男   作:好感度反転をすこれ

6 / 8
6話

西の果ての漁村。潮の香りが立ち込めるその場所で、カイルはようやく「人間」としての呼吸を取り戻しつつあった。

王宮という名の地獄から逃げ出し、リミスが用意してくれたはずのこの場所で。カイルは毎日、砂を噛むような思いもせず、そして自分のことを誰も知らない世界で生きていた。

だが、その日は違った。

 

夕暮れ。岬の突端。

赤く染まった波打ち際を見つめる、紺碧のローブを纏った女性。

 

「――っ」

 

心臓が、跳ねるというよりは、握り潰されたような衝撃を受けた。

カイルは手元に抱えていた空のバケツを落とした。乾いた音が響き、中身のない音が空虚に木霊する。

 

忘れもしない。その背中を。

かつて、幾度となく「不浄な勇者」と見下され、背後から冷たい氷の礫を浴びせられた、あの魔法使い。

リミス。

 

カイルの全身が、冬の海に放り込まれたようにガタガタと震え始めた。

逃げなきゃ。

隠れなきゃ。

でも、足が地面に縫い付けられたように動かない。

脳裏には、彼女に杖で打ち据えられた記憶が、魔導書を読み解く手を踏みつけられた記憶が、走馬灯のように駆け巡る。

 

「カ、イル?」

 

振り返ったリミスの顔は、カイルの記憶にあるそれとは、あまりにもかけ離れていた。

自信に満ち溢れていた端正な顔立ちは見る影もなくやつれ、瞳には執念と悲哀、そして底知れぬ後悔が混濁している。

 

「ひっ……あ、ああ……っ!」

 

カイルはたまらず、砂浜に膝をついた。額を砂に擦り付け、必死に許しを乞う。

 

「ごめんなさい!ごめんなさいリミス様!逃げ出してすみません、僕が、僕が勝手にいなくなって、皆様にご迷惑を……っ。何でもします、何でも!だから、どうか、氷だけは……あの寒い魔法だけは、もう……ッ!!」

 

カイルの絶叫に、リミスの顔が激痛を受けたかのように歪んだ。

 

「違う……違うのよ、カイル! 私は、あなたに罰を与えに来たんじゃないわ。私はただ――」

 

リミスが一歩踏み出す。

カイルは、悲鳴を上げながら砂を掻き、後ずさった。

その光景は、救世主と仲間が再会する美談などではない。一人の壊れた被害者が、自分を壊した元凶に怯える、無残な現実だった。

 

「お願い、来ないで。来ないでください……」

 

過呼吸に陥り、胸を掻きむしるカイル。

リミスは、その場に立ち止まり自身の持つ最上級の魔導杖を、波打ち際へ放り捨てた。

そして、迷いなくその場に膝をつき、額を砂に押し当てた。

 

「カイル。私は、あなたを捕まえに来たのではないわ。私は、自分の罪を、ただ、確かめに来ただけよ」

 

「え……?」

 

「あなたが逃げた後、私は自分たちがしてきたことを……魔王の呪いすら言い訳にできないほど、醜い自分たちの本性を知ったわ。あなたを逃がしたのは、正義感だけじゃない。あなたの顔を見るのが、怖くなったから……自分の罪から、逃げたかっただけなの」

 

リミスの声は、海風にかき消されそうなほど弱々しかった。

カイルは、片目を開け、おそるおそる彼女を見た。

かつて高慢に天を見上げていた魔法使いが、今、自分よりも低い場所で、泥にまみれている。

 

「罠、じゃないの……?」

 

「罠にしては、今の私は無様すぎると思わない?」

 

リミスが、自嘲気味に笑った。その目からは、とめどなく涙が溢れ、砂を濡らしている。

カイルの心に、小さな「空白」が生まれた。

恐怖しかないはずの場所に、彼女の「弱さ」が入り込んだのだ。

 

数分。いや、数十分。

寄せては返す波の音だけが響く中、カイルはゆっくりと呼吸を整えた。

 

「リミス様。顔を、上げてください。あなたが、そんな風にする必要は、ないんです。僕は、あなたが嫌いだったわけじゃ……ただ、怖かっただけで……」

 

カイルのその「優しさ」が、リミスの心をさらに鋭利に抉る。

傷つけられた側が、傷つけた側を案じる。

リミスは顔を上げ、赤い夕陽を背にしたカイルの姿を、聖画でも拝むような目で見つめた。

 

 

 

それから、リミスは村の外れに小さな天幕を張り、カイルの生活を「影」として支え始めた。

最初は数メートル近づくだけで震えていたカイルも、彼女が決して魔法を使わず、食事の準備や洗濯、掃除を黙々とこなす姿を見て、少しずつ心を開き始めていった。

 

「カイル、今日はリクシスの魚が届いているわ。あなたの好きなスープにしておいたわよ」

 

「あ、ありがとうございます、リミス様。でも、掃除くらいは僕がやりますから……」

 

「いいのよ。私は、これがしたかったの。あなたのために、何かができることが、今の私を支えているの」

 

リミスは微笑む。

その微笑みは、一見すれば慈愛に満ちている。だが、その瞳の奥には、どす黒いほどの執着が沈殿し始めていた。

 

彼女は気づいたのだ。

カイルに尽くし、彼に「ありがとう」と言われるたびに、自分の罪が薄まっていくような感覚。そして、カイルが自分に依存し、自分がいなければ生活できないほどに弱っている姿こそが、自分の存在価値を証明してくれるという事実に。

 

(ああ、カイル。あなたは私を怖がっているけれど、同時に、私なしでは生きていけなくなっているわね……)

 

リミスは、カイルが村の人たちと楽しげに話すのを、天幕の影からじっと見守る。

村の漁師が、カイルの肩に親しげに手を置く。

その瞬間、リミスの心臓に、凍てつくような殺意が灯った。

 

(その汚い手で、あの子に触れないで)

 

リミスは、カイルには決して見せない、冷酷な「魔法使い」の表情を一瞬だけ浮かべた。

だが、カイルが自分を振り返ると、即座に「優しいお姉さん」の顔に戻る。

 

「カイル、どうしたの? 寒いの? さあ、私のそばに来て。魔法で温めてあげるわ」

 

「はい」

 

カイルは、リミスの隣に腰を下ろした。

かつての冷たい魔法ではない。柔らかく、心地よい温熱の結界。

カイルは、その温もりに包まれながら、少しずつ「リミスがいれば、自分は安全なんだ」と思い込むようになっていった。

 

ある夜、カイルはリミスに問うた。

 

「リミス様。エルナ様や、グレンさんは……今、どうしているんですか?」

 

その問いに、リミスの指先がわずかに止まった。

 

「……彼らは、まだあなたを『自分たちのもの』だと思っているわ。特にグレンは、力ずくであなたを連れ戻そうと躍起になっている。エルナは、あなたの精神が自分に依存するように、さらに高度な監禁計画を立てていたの」

 

それは、半分は真実で、半分はリミスの「解釈」という名の嘘だった。

実際には、エルナもグレンも後悔で正気を失い、互いを責め合いながらカイルを探し回っているに過ぎない。

だが、リミスはカイルの恐怖を煽った。

 

「カイル。彼らに見つかってはダメ。彼らはあなたを『道具』としか見ていない。あなたを『人間』として愛しているのは、私だけなの」

 

カイルの体が、びくりと震えた。

 

「やっぱり、そうなんですね。僕がいないと、みんな、怒りますよね……」

 

「ええ。だから、この村からもいつか離れなきゃいけないかもしれない。でも、大丈夫。私が、あなたをどこまでも護るから。私の隣だけが、あなたの聖域なの」

 

リミスは、カイルをそっと抱きしめた。

カイルは、その抱擁を拒まなかった。

彼にとって、リミスは「過去の恐怖」から「現在の救い」へと昇華されていた。

それが、リミスが巧みに仕組んだ、『依存』という名の精神的な捕縛であるとも知らずに。

 

「愛しているわ、カイル。……あなたを一番傷つけた私が、一番あなたを愛してあげる」

 

リミスの囁きは、蜂蜜のように甘く、そして致死量の毒を孕んでいた。

 

カイルは、リミスの胸に顔を埋めた。

外の世界は、まだ怖い。

かつての仲間も、まだ怖い。

自分を愛してくれるこの女性だけを信じていれば、それでいい。

 

カイルの心が、一歩ずつ、外界から遮断されていく。

リミスが用意した、目に見えない「認識の檻」。

王宮の黄金の檻よりも、ずっと深く、逃げ場のない場所へ、カイルは自分から足を踏み入れていった。

 

紺碧の月光が照らす中、リミスはカイルの眠る顔を見つめ、陶酔したような笑みを浮かべた。

 

――グレン、エルナ。

――あなたたちには、もう一歩も近づかせない。

――カイルを壊した責任は、私一人が、この『幸福』という名の刑罰と共に背負うのだから。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。