世界で一番幸せな男 作:好感度反転をすこれ
西の果ての漁村。潮の香りが立ち込めるその場所で、カイルはようやく「人間」としての呼吸を取り戻しつつあった。
王宮という名の地獄から逃げ出し、リミスが用意してくれたはずのこの場所で。カイルは毎日、砂を噛むような思いもせず、そして自分のことを誰も知らない世界で生きていた。
だが、その日は違った。
夕暮れ。岬の突端。
赤く染まった波打ち際を見つめる、紺碧のローブを纏った女性。
「――っ」
心臓が、跳ねるというよりは、握り潰されたような衝撃を受けた。
カイルは手元に抱えていた空のバケツを落とした。乾いた音が響き、中身のない音が空虚に木霊する。
忘れもしない。その背中を。
かつて、幾度となく「不浄な勇者」と見下され、背後から冷たい氷の礫を浴びせられた、あの魔法使い。
リミス。
カイルの全身が、冬の海に放り込まれたようにガタガタと震え始めた。
逃げなきゃ。
隠れなきゃ。
でも、足が地面に縫い付けられたように動かない。
脳裏には、彼女に杖で打ち据えられた記憶が、魔導書を読み解く手を踏みつけられた記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
「カ、イル?」
振り返ったリミスの顔は、カイルの記憶にあるそれとは、あまりにもかけ離れていた。
自信に満ち溢れていた端正な顔立ちは見る影もなくやつれ、瞳には執念と悲哀、そして底知れぬ後悔が混濁している。
「ひっ……あ、ああ……っ!」
カイルはたまらず、砂浜に膝をついた。額を砂に擦り付け、必死に許しを乞う。
「ごめんなさい!ごめんなさいリミス様!逃げ出してすみません、僕が、僕が勝手にいなくなって、皆様にご迷惑を……っ。何でもします、何でも!だから、どうか、氷だけは……あの寒い魔法だけは、もう……ッ!!」
カイルの絶叫に、リミスの顔が激痛を受けたかのように歪んだ。
「違う……違うのよ、カイル! 私は、あなたに罰を与えに来たんじゃないわ。私はただ――」
リミスが一歩踏み出す。
カイルは、悲鳴を上げながら砂を掻き、後ずさった。
その光景は、救世主と仲間が再会する美談などではない。一人の壊れた被害者が、自分を壊した元凶に怯える、無残な現実だった。
「お願い、来ないで。来ないでください……」
過呼吸に陥り、胸を掻きむしるカイル。
リミスは、その場に立ち止まり自身の持つ最上級の魔導杖を、波打ち際へ放り捨てた。
そして、迷いなくその場に膝をつき、額を砂に押し当てた。
「カイル。私は、あなたを捕まえに来たのではないわ。私は、自分の罪を、ただ、確かめに来ただけよ」
「え……?」
「あなたが逃げた後、私は自分たちがしてきたことを……魔王の呪いすら言い訳にできないほど、醜い自分たちの本性を知ったわ。あなたを逃がしたのは、正義感だけじゃない。あなたの顔を見るのが、怖くなったから……自分の罪から、逃げたかっただけなの」
リミスの声は、海風にかき消されそうなほど弱々しかった。
カイルは、片目を開け、おそるおそる彼女を見た。
かつて高慢に天を見上げていた魔法使いが、今、自分よりも低い場所で、泥にまみれている。
「罠、じゃないの……?」
「罠にしては、今の私は無様すぎると思わない?」
リミスが、自嘲気味に笑った。その目からは、とめどなく涙が溢れ、砂を濡らしている。
カイルの心に、小さな「空白」が生まれた。
恐怖しかないはずの場所に、彼女の「弱さ」が入り込んだのだ。
数分。いや、数十分。
寄せては返す波の音だけが響く中、カイルはゆっくりと呼吸を整えた。
「リミス様。顔を、上げてください。あなたが、そんな風にする必要は、ないんです。僕は、あなたが嫌いだったわけじゃ……ただ、怖かっただけで……」
カイルのその「優しさ」が、リミスの心をさらに鋭利に抉る。
傷つけられた側が、傷つけた側を案じる。
リミスは顔を上げ、赤い夕陽を背にしたカイルの姿を、聖画でも拝むような目で見つめた。
それから、リミスは村の外れに小さな天幕を張り、カイルの生活を「影」として支え始めた。
最初は数メートル近づくだけで震えていたカイルも、彼女が決して魔法を使わず、食事の準備や洗濯、掃除を黙々とこなす姿を見て、少しずつ心を開き始めていった。
「カイル、今日はリクシスの魚が届いているわ。あなたの好きなスープにしておいたわよ」
「あ、ありがとうございます、リミス様。でも、掃除くらいは僕がやりますから……」
「いいのよ。私は、これがしたかったの。あなたのために、何かができることが、今の私を支えているの」
リミスは微笑む。
その微笑みは、一見すれば慈愛に満ちている。だが、その瞳の奥には、どす黒いほどの執着が沈殿し始めていた。
彼女は気づいたのだ。
カイルに尽くし、彼に「ありがとう」と言われるたびに、自分の罪が薄まっていくような感覚。そして、カイルが自分に依存し、自分がいなければ生活できないほどに弱っている姿こそが、自分の存在価値を証明してくれるという事実に。
(ああ、カイル。あなたは私を怖がっているけれど、同時に、私なしでは生きていけなくなっているわね……)
リミスは、カイルが村の人たちと楽しげに話すのを、天幕の影からじっと見守る。
村の漁師が、カイルの肩に親しげに手を置く。
その瞬間、リミスの心臓に、凍てつくような殺意が灯った。
(その汚い手で、あの子に触れないで)
リミスは、カイルには決して見せない、冷酷な「魔法使い」の表情を一瞬だけ浮かべた。
だが、カイルが自分を振り返ると、即座に「優しいお姉さん」の顔に戻る。
「カイル、どうしたの? 寒いの? さあ、私のそばに来て。魔法で温めてあげるわ」
「はい」
カイルは、リミスの隣に腰を下ろした。
かつての冷たい魔法ではない。柔らかく、心地よい温熱の結界。
カイルは、その温もりに包まれながら、少しずつ「リミスがいれば、自分は安全なんだ」と思い込むようになっていった。
ある夜、カイルはリミスに問うた。
「リミス様。エルナ様や、グレンさんは……今、どうしているんですか?」
その問いに、リミスの指先がわずかに止まった。
「……彼らは、まだあなたを『自分たちのもの』だと思っているわ。特にグレンは、力ずくであなたを連れ戻そうと躍起になっている。エルナは、あなたの精神が自分に依存するように、さらに高度な監禁計画を立てていたの」
それは、半分は真実で、半分はリミスの「解釈」という名の嘘だった。
実際には、エルナもグレンも後悔で正気を失い、互いを責め合いながらカイルを探し回っているに過ぎない。
だが、リミスはカイルの恐怖を煽った。
「カイル。彼らに見つかってはダメ。彼らはあなたを『道具』としか見ていない。あなたを『人間』として愛しているのは、私だけなの」
カイルの体が、びくりと震えた。
「やっぱり、そうなんですね。僕がいないと、みんな、怒りますよね……」
「ええ。だから、この村からもいつか離れなきゃいけないかもしれない。でも、大丈夫。私が、あなたをどこまでも護るから。私の隣だけが、あなたの聖域なの」
リミスは、カイルをそっと抱きしめた。
カイルは、その抱擁を拒まなかった。
彼にとって、リミスは「過去の恐怖」から「現在の救い」へと昇華されていた。
それが、リミスが巧みに仕組んだ、『依存』という名の精神的な捕縛であるとも知らずに。
「愛しているわ、カイル。……あなたを一番傷つけた私が、一番あなたを愛してあげる」
リミスの囁きは、蜂蜜のように甘く、そして致死量の毒を孕んでいた。
カイルは、リミスの胸に顔を埋めた。
外の世界は、まだ怖い。
かつての仲間も、まだ怖い。
自分を愛してくれるこの女性だけを信じていれば、それでいい。
カイルの心が、一歩ずつ、外界から遮断されていく。
リミスが用意した、目に見えない「認識の檻」。
王宮の黄金の檻よりも、ずっと深く、逃げ場のない場所へ、カイルは自分から足を踏み入れていった。
紺碧の月光が照らす中、リミスはカイルの眠る顔を見つめ、陶酔したような笑みを浮かべた。
――グレン、エルナ。
――あなたたちには、もう一歩も近づかせない。
――カイルを壊した責任は、私一人が、この『幸福』という名の刑罰と共に背負うのだから。