世界で一番幸せな男 作:好感度反転をすこれ
西の漁村に、緩やかな死が満ちていた。
かつてのカイルが望んだ「平穏」は、今やリミスという巨大な母性に塗り潰され、外部との接触を拒む「無菌室」へと変貌していた。
「カイル、起きたの? さあ、冷めないうちに召し上がれ」
リミスの天幕。そこは、村の誰一人として立ち入ることを許されない、彼女が構築した絶対聖域だ。
カイルが目を覚ますと、そこにはいつもリミスの笑顔があった。
かつての刺すような冷徹さは微塵もない。だが、その微笑みの裏側に潜む「何か」が、カイルの生存本能に小さな警鐘を鳴らし続けている。
「リミス様。あの、今日は村の広場に手伝いに行こうと思うんです。老夫婦が、新しい網が届いたって――」
カイルが言いかけた瞬間。
リミスの手元、スープを注いでいたお玉が、キン、と鋭い音を立てて皿の縁に当たった。
「ダメよ、カイル。忘れたの?」
リミスの声から、温度が消える。彼女はゆっくりとカイルの元へ歩み寄り、その細い肩を、壊れ物を扱うような手つきで包み込んだ。
「村の人たちは、あなたが『元勇者』だと気づき始めているわ。昨日、井戸端で話していた人たちの目を見た? あれは『尊敬』じゃない。『好奇』と『搾取』の目よ。あなたがまた戦場へ駆り出されるのを、彼らは望んでいるの」
「え……でも、皆さんはそんな人じゃ……」
「私を信じて、カイル。私は世界最高の魔法使いよ?人の嘘や悪意を見抜くなんて、呼吸をするより簡単なの。彼らはあなたを、都合のいい守り神だとしか思っていない。傷ついて、ボロボロになっても戦わせるつもりなのよ。かつての私たちが、そうしたように」
リミスの指先が、カイルの頬をなぞる。
かつての「自分たちの罪」を引き合いに出されると、カイルは何も言い返せなくなる。
それがリミスの計算であることに、彼は気づかない。
「……ごめんなさい。リミス様の言う通りですね。僕は、また利用されるところでした」
カイルがうつむく。
リミスは、その絶望に染まった少年の首筋に、吸い付くような口づけを落とした。
支配の印。それをカイルは「慈愛」として受け入れるしかなかった。
カイルが天幕の中で読書をしている間、リミスは「見張り」と称して入り口に座り続ける。
彼女が展開しているのは、物理的な防壁ではない。
『認識操作』と『偽記憶の定着』。
カイルが村人の明るい笑い声を聞くたびに、それが「嘲笑」や「殺意を秘めた声」に聞こえるよう、微細な魔力波を流し続けているのだ。
(ああ、カイル。あなたの世界から、余計なものを削ぎ落としてあげる。不純なものは、あなたを傷つけるだけだもの)
リミスは、カイルが眠りについた後、彼が村人から貰ったという木彫りの玩具を、魔法の炎で跡形もなく焼き払った。
カイルに「他者からの善意」を感じさせてはならない。
彼が受け取っていい温もりは、リミスが与えるものだけでいい。
「ねえ、リミス様」
ふと、カイルが尋ねた。
「最近、村の人たちが僕を見かけると、悲しそうな顔をするんです。僕、何か悪いことをしたんでしょうか」
リミスは心の中で嘲笑った。
村人たちが悲しそうなのは、カイルがリミスに監禁され、日に日に青白くなっていくのを心配しているからだ。彼らは何度もリミスに抗議し、天幕に入ろうとした。
そのたびに、リミスは彼らに『恐怖』の呪いを植え付け、カイルに近づかせないように追い払ってきた。
「それはね、カイル。あなたが彼らの思い通りにならないから、彼らは『被害者』のふりをしてあなたを罪悪感で縛ろうとしているのよ。聖女エルナがよく使った手口ね。覚えているでしょう?彼女が泣くたびに、あなたがどれだけ自分を責めたか」
「っ……あ……」
カイルの瞳に、激しい拒絶の光が宿る。
リミスは、カイルの最も脆い部分――エルナへのトラウマを突き、彼を自分の方へと引き寄せる。
「いいのよ、カイル。世界があなたを責めても、私だけはあなたの味方。世界中があなたを嫌っても、私だけはあなたを愛している。私が、あなたの『盾』になり、『剣』になり、『世界』そのものになってあげる」
リミスはカイルを膝の上に乗せ、ゆらゆらと揺らした。
それは、壊れた人形を愛でる子供のような、狂気に満ちた光景だった。
リミスは単なる独占欲に留まらなかった。
彼女は、カイルがかつて戦いで負った「傷跡」を愛でるようになる。
「ここ、覚えているわ。私が、氷の礫で撃ち抜いた跡。痛かったわよね」
リミスは、カイルの脇腹に残る古い傷跡を、舌でなぞった。
カイルは身を強張らせるが、逃げることはしない。
「リミス様、それは……っ」
「いいの、カイル。この傷は、私があなたを傷つけてしまった証。他の誰にも、こんな傷を付ける権利なんてなかったのに。グレンもエルナも、浅はかだわ。彼らはあなたを壊すことしか知らなかったけれど、私はあなたを『治す』ことができる」
リミスの魔力が、カイルの血管に侵入する。
カイルの体温を奪い、自分の魔力の温度に同調させていく。
カイルは次第に、リミスが触れている間だけ、安らぎを感じるようになっていった。
リミスの魔力が途切れると、耐え難い寒さと不安に襲われる。
それは、魔力による「薬物中毒」に近い状態だった。
(これでいい、これでいいわ。カイル。もう、あなたは私なしでは息をすることも、眠ることもできない。この村も、いずれは焼き払いましょう。あなたが見る景色は、私の瞳の中にだけあればいいのだから)
リミスは、カイルの細い首に手をかけ、力を込める。
苦しそうに顔を歪めるカイル。だが、その瞳には「助けて」という叫びはなく、ただ「リミス様に従わなければ」という盲目的な服従の色だけがあった。
夜が更け、カイルはリミスの腕の中で深い眠りに落ちた。
リミスは、彼の耳元で、一晩中呪文を囁き続ける。
『あなたは、私だけのもの』
『外の世界は、あなたを傷つける地獄』
『あなたは、何も考えなくていい』
『私が、あなたの代わりにすべてを決めてあげる』
その言葉は、カイルの潜在意識に沈み込み、彼を内側から縛る鎖となる。
カイルは夢を見る。
暗い、暗い海の底で、自分一人が泡のように消えていく夢。
でも、その海の水は、リミスの温かな魔力の味がした。
物語は、一歩も進まない。
ただ、少年の精神が、静かに、確実に、修復不可能なほどに「リミス専用の愛玩物」へと作り替えられていくだけ。
天幕の入り口で、リミスは狂おしい愛着を持って、自分の腕の中に収まる「壊れた救世主」を抱きしめ続けた。
外の世界では、グレンの足音が近づいているかもしれない。
エルナの追跡魔法が、この場所を特定しかけているかもしれない。
だが、リミスにとっては、どうでもいいことだった。
「ふふ。誰にも、渡さない。たとえ、この世界が明日滅ぶとしても、あなたは私の腕の中で、私の名前を呼んで死ぬのよ。カイル」
紺碧の闇の中、リミスの歪んだ高笑いが、音もなく夜の海に吸い込まれていった。