世界で一番幸せな男   作:好感度反転をすこれ

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8話

西の漁村の岬、海風が絶えず岩肌を削るその場所に、その「聖域」はあった。

リミスが展開した多重結界は、外の世界の喧騒を一切遮断し、天幕の中にはただ、波の音を模した微かな魔力の揺らぎと、甘い香香の匂いだけが満ちている。

 

カイルは、リミスの膝の上に頭を預けていた。

かつての「勇者」としての凛々しい面影は、もはや欠片も残っていない。頬はこけ、瞳の焦点はどこか遠くを彷徨っている。リミスが魔法で指先に灯した、紺碧の光の蝶がひらひらと舞うのを、彼は幼子のような無垢さと、深い虚脱感の入り混じった目で見つめていた。

 

「リミス様。この蝶々、綺麗ですね」

 

カイルの声は、掠れて、消え入りそうに細い。

リミスは愛おしげに目を細め、その白い指先でカイルの髪を一本一本、丁寧に梳いていく。彼女の仕草は、壊れやすいガラス細工を愛でるコレクターのそれであり、あるいは、弱った雛鳥を巣から出さないように閉じ込める母鳥のようでもあった。

 

「ええ、カイル。あなたのために作ったのよ。お外はね、今とても荒れているの。悪い人たちが、あなたをまた戦場へ連れて行こうと探し回っているわ。でも、ここなら大丈夫。私が、あなたのすべてを隠してあげているから」

 

「もう、誰かを斬りたくない。殴られるのも、冷たい目で見られるのも……っ」

 

カイルの体がびくんと跳ね、リミスの服を強く握りしめた。

リミスは、その「恐怖」を歓迎するように、さらに深く彼を抱き寄せた。

 

(いいわ、カイル。もっと怖がりなさい。もっと、私に縋りなさい。あなたの世界を、私一人で埋め尽くしてあげる)

 

リミスは知っている。彼女が施している『認識の揺りかご』は、カイルの不安を増幅させ、自分への依存を強化する毒であることを。しかし、彼女にとってそれは、カイルを二度と失わないための「必要な治療」だった。

 

その歪な平穏が、物理的な衝撃によって粉砕されたのは、昼下がりだった。

 

――ドォォォォォンッ!!

 

大気を引き裂く轟音と共に、天幕が激しく揺れ、結界の最外周が火花を散らして霧散した。

カイルは短い悲鳴を上げ、リミスの胸に顔を埋める。

 

「チッ、嗅ぎつけたか」

 

リミスが忌々しげに顔を歪めた瞬間、二度目の衝撃が走った。今度は天幕そのものが断ち割られ、潮風と共に、圧倒的な「暴力」の気配が室内に流れ込む。

砂埃を巻き上げ、そこに立っていたのは、銀色の鎧を血と泥で汚した女騎士――グレンだった。

 

「見つけたぞ。リミス、貴様ァッ!! カイルをどこへやった!!」

 

グレンの咆哮は、かつての訓練場と同じ、逃げ場のない圧迫感を持って響いた。

彼女は、あの日カイルが逃げ出した後、初めて「一人の人間」としての自責の念に焼かれていた。自分が勇者として育てようとした行為が、単なる虐待であったことを、カイルの空虚な瞳を思い出してようやく悟ったのだ。

 

だからこそ、彼女はここにいた。

今度こそ、カイルに謝罪し、彼を対等な仲間として「救い出す」ために。

 

「カイル! 返事をしろ! 今、助けてやる!」

 

グレンの瞳には、かつての傲慢な支配欲ではない、必死の「善意」が宿っていた。だが、その善意こそが、今のカイルにとっては最も鋭利な刃となることに、彼女はまだ気づいていなかった。

 

「下がりなさい、野蛮な女騎士」

 

リミスが立ち上がり、カイルを自分の背後に隠した。その手には、既に高密度の魔力が凝縮された魔導杖が握られている。

 

「よくもここまで辿り着いたわね。でも、遅かったわ。カイルはもう、あなたのことなんて覚えていない。彼が求めているのは、私の安らぎだけよ」

 

「安らぎだぁ!? 貴様、カイルの顔を見ろ! 洗脳でもして、魂を抜きやがったか!」

 

グレンは大剣を引き抜き、凄まじい闘気を放った。彼女は、リミスがカイルを無理やり連れ去り、魔法で自由を奪っているのだと確信していた。

 

「リミス、俺は自分の過ちを認める。俺がカイルを傷つけたことは、一生かけて償うつもりだ。だがな、お前がやっていることはそれ以上に最悪だッ! 精神を去勢して、自分なしでは生きられない傀儡にする……そんなのは『愛』じゃねえ! ただの死体愛好だッ!!」

 

「ふふ、あはははは! 面白いことを言うわね。暴力でカイルを壊した貴方が今更何を語るの?」

 

言葉の応酬は、即座に殺し合いへと転じた。

リミスが放つ、絶対零度の氷結魔法。空間そのものを凍りつかせ、細胞の一つ一つを砕こうとする極光。しかし、グレンは一切怯まない。

 

「おおおおおッ!! 『不動の型・断空』!!」

 

物理法則を無視した一閃が、氷の嵐を真っ向から切り裂いた。

グレンの動きには、迷いがない。今の彼女を動かしているのは、愛する少年を救い出すという「正義」だった。

 

だが、リミスもまた、退くわけにはいかなかった。ここでカイルを失えば、自分はまた「カイルを壊した一人」に戻ってしまう。彼を保護し、独占している間だけ、彼女は「救済者」という偽りの仮面を被っていられるのだ。

 

「――『紺碧の奈落』!!」

 

多重展開された魔方陣が、グレンを重力の檻で押し潰そうとする。しかし、グレンの「後悔」という名の執念は、それを上回った。

一歩、また一歩と、血を吐きながらもグレンは距離を詰める。

 

「返せ……ッ! カイルを、自由な空へ返せッ!!」

 

渾身の一撃。

大剣がリミスの防御結界を粉砕し、彼女の肩口を深く切り裂いた。

リミスは悲鳴を上げて岩壁に叩きつけられ、魔導杖が砂浜へと転がった。

 

「ハァ、ハァ……。終わったぞ、カイル」

 

グレンは、肩で息をしながら剣を収めた。

彼女の視線の先には、ガタガタと震えながら、崩れ落ちたリミスの横で立ち尽くすカイルがいる。

 

グレンは、自分の顔を精一杯、穏やかに整えようとした。かつての威圧感を捨て、かつての暴力を謝罪するために、ゆっくりと手を差し出した。

 

「カイル。怖かったよな。もう大丈夫だ。俺が悪かった。お前を殴ったことも、無理な訓練を強いたことも。全部、謝る。だから、一緒に帰ろう。今度こそ、お前を一人にしない。お前の好きな飯を食って、好きなだけ眠っていい。俺が、一生お前を守るから――」

 

グレンの言葉は、彼女なりの精一杯の「善性」だった。

しかし。

カイルの反応は、グレンの想像を絶するものだった。

 

「ひっ……、ああ、あ、あああああッ!!!」

 

カイルは耳を塞ぎ、喉が裂けんばかりの悲鳴を上げた。

彼にとって、グレンの差し出した手は、救いの手などではなかった。かつて何度も自分の腹部を殴り、髪を掴み、泥の中に突き落とした、あの「恐怖の象徴」そのものだったのだ。

 

「来ないで……来ないでください!助けて、リミス様!この人が、また僕を殺しに来た!また、あの痛いところに連れて行かれる……っ!!」

 

「カイル……? 違う、俺は救いに……」

 

「嘘だッ!!救うなんて嘘だ!あなたは僕が苦しむのを見て笑ってたじゃないか!お願いだ、もう僕に関わらないで!死んでもいいから、あなたの顔だけは見たくないんだぁッ!!」

 

カイルは狂乱し、這いつくばって、血を流しているリミスに縋り付いた。

ボロボロになったリミスの体を、細い腕で必死に守り、グレンに対して憎悪と恐怖の入り混じった、獣のような目を向けた。

 

「な、ぜ……」

 

グレンの腕が、力なく垂れ下がった。

 

リミスは、苦痛に顔を歪めながらも、カイルの腕の中で勝利の笑みを浮かべていた。

 

「ふふ……。見たかしら、グレン。カイルが求めているのは、私よ。あなたがどんなに『正しい』言葉を並べても、あの子の心には、あなたが刻んだ『痛み』しか残っていないのよ」

 

「う、嘘だ。俺は、あいつを救いたくて……」

 

「救う? 笑わせないで。あなたは今、彼が築き上げた唯一の平穏を、その暴力で壊したのよ。ほら、見て。あなたのせいで、あの子はこんなに怯えているわ」

 

グレンは、カイルの瞳を見た。

そこには、かつての「期待」も「信頼」も、一欠片も残っていなかった。あるのは、生理的な拒絶。自分という存在そのものに対する、絶対的な拒否反応。

 

自分が「正しい」と信じて行った救出。

自分が「後悔」を込めて差し出した謝罪。

そのすべてが、カイルをさらに深い地獄へと突き落とし、自分自身を「世界で最も憎むべき加害者」として確定させてしまった。

 

「ああ……ああああ……ッ!!」

 

グレンは、自分の掌を見つめた。

この手で、カイルを救えると思っていた。

だが実際には、この手がカイルに触れるたび、彼の心は死んでいくのだ。

 

グレンの大剣が、カラン……と、空虚な音を立てて砂浜に落ちた。

彼女の誇りだった騎士道が、今度こそ完全に死に絶えた。

 

カイルは、血まみれのリミスを抱きしめ、泣き続けている。

「リミス様、ごめんなさい、僕がもっと強ければ」「リミス様だけは僕を捨てないで」

その献身的な依存の姿こそが、グレンにとっての、この世で最も残酷な罰となった。

 

西の果ての岬。

波の音だけが響く中、正義を掲げた戦士は、ただ一人、絶望の海に沈んでいった。

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