ポケットモンスター ブラック・ホワイト とあるトレーナーが綴る、イッシュ地方の旅路 原作ゲーム沿いノベライズ 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ライモンシティの喧騒が、急に遠のいた気がした。
僕の目の前には、観覧車のゴンドラを背にした一人の青年が立っている。
長い緑の髪を揺らし、驚くほどの早口で、まるで数式を読み上げるように喋る男。N(エヌ)だ。
「……乗らないのかい? 円運動は素晴らしいよ。加速と減速、そして回転。すべてが計算可能な調和で満たされている」
誘われるまま、僕は彼と二人きりで狭いゴンドラに乗り込んだ。
ガタン、という鈍い振動とともに、僕たちの身体を乗せた密室がゆっくりと地上を離れていく。
逃げ場のない、高さ数十メートルの空中回廊。かつてDSの小さな画面越しに見たあの「伝説のシーン」が、今、現実の圧倒的な圧迫感を持って僕の五感に襲いかかる。
(……まずい。これ、原作だと一番情緒をかき乱されるやつだ)
僕は窓の外を流れる、宝石をぶちまけたようなライモンの夜景に目を逸らした。だが、Nの視線は真っ直ぐに、射貫くような冷徹さで僕の横顔を捉えていた。
「僕はね、トモダチ――ポケモンの声が聞こえるんだ。……彼らは泣いているよ。人間の身勝手なルールに縛られ、戦わされ、ボールというカプセルに閉じ込められてね」
彼の声は、静かだが狂気に満ちていた。
廃人として効率を追い求め、二〇〇〇個の卵を孵し、個体値を「V」だ「逆V」だと選別していた僕のこれまでの行いを、根底から否定するような純粋すぎる問いだ。
「……救うって、具体的にどうするんだよ。プラズマ団のやり方が正しいとでも言うのか?」
僕は精一杯の反論を絞り出した。だが、Nは微塵も揺らがなかった。むしろ、その瞳はさらに深く、濁りのない光を宿していく。
「僕は王になる。レシラムと共に世界を変え、ポケモンを解き放つんだ。人間とポケモンを切り離し、それぞれが完成された世界で生きるためにね。……そのために、君を試させてもらった」
ゴンドラが頂上に達した瞬間、夜景が最高潮に輝く。
だが、隣の青年の告白は、その輝きを塗りつぶすほどに暗く、そして巨大な質量を持って僕の肩にのしかかった。
「僕はプラズマ団の王。……僕は君に勝って、自分の理想を証明しなきゃいけない。それが、僕の中に導き出された唯一の解答だ」
頂上を過ぎ、ゴンドラが地上へと戻るまでの数分間。
車内には、吐き気がするほどの沈黙が支配した。
災い転じて福となす、なんて安っぽい言葉を差し挟む余地さえない。
ただ、自分が愛してきた「ポケモン」という文化そのものを悪と断じられるような、身の毛もよだつ恐怖だけが、心臓の鼓動を早めていた。
「……降りよう。僕のトモダチが、君と戦いたがっている」
扉が開いた瞬間、僕は逃げるように夜風の中へ飛び出した。
カミツレの電撃よりも、今のNの言葉の方が、よっぽど深く僕の精神に消えない傷跡を刻んでいた。
(……本気なんだ。あの男は、本気で僕らの積み上げてきた『当たり前』を壊そうとしている)
僕は震える手で、相棒のモンスターボールを握りしめた。
ライモンの夜空に、遠く雷鳴が響く。
この戦いは、もはや単なる「バッジ集め」では済まされないところまで来てしまった。