聖杯戦争は、まだ始まっていない。
それでも、冬木の空気は確実に変わりつつあった。
屋上から街を見下ろす。
昼間の冬木は穏やかだ。川面は光を反射し、子どもたちの声が風に混ざる。
だがその地下では、既に魔術師たちが動き始めている。
「遠坂はそろそろだな」
俺は呟く。
アーチャー召喚は間近。
間違いなく成功する。
問題は、その後。
「お前、本当に全部分かってんのか?」
隣でフェンスにもたれたモードレッドが言う。
現界は抑えている。一般人には見えない。
「ある程度は」
「ある程度、ねえ」
疑い半分、興味半分といった声音。
俺は視線を逸らさず答える。
「誰がどこで戦うか。誰が脱落するか。大体は」
「で? 助けねえのか?」
核心を突く。
助けられる未来は、ある。
例えば。
柳洞寺。
キャスターの動き。
あるいは、あの夜の倉庫。
だが。
「動けば、別の何かが壊れる可能性がある」
バタフライ・エフェクト。
一つの救いが、別の破滅を呼ぶかもしれない。
俺はそれを恐れている。
「……臆病だな」
モードレッドは笑う。
「自覚はある」
だからこそ、最小限しか動かない。
士郎は助ける。
聖杯は壊す。
それ以外は――極力、原作の流れに沿わせる。
俺は異分子だ。
本来、この物語にいない存在。
ならば、波紋は小さくあるべきだ。
「自分を世界の外側に置きすぎだ」
モードレッドがぼそりと呟く。
「……何?」
「お前の目だよ。いつも一歩引いてやがる」
図星。
俺は笑って誤魔化す。
「中立だからな」
「中立ってのは、逃げ場じゃねえぞ」
言葉が刺さる。
だが、今はまだ。
まだ中立でいる。
◆
夜。
アパートに戻ると、結界にわずかな歪みを感じた。
「動き始めたか」
霊脈が微かに震えている。
どこかで召喚が行われた可能性。
遠坂か、それとも別のマスターか。
戦争は、静かに始まりつつある。
「マスター」
モードレッドが剣を顕現させる気配を見せる。
「まだだ」
俺は制する。
今動く意味はない。
情報を集める。
位置を把握する。
無駄な衝突は避ける。
「つまんねえな」
「生き残るためだ」
「壊すため、だろ?」
訂正される。
俺は小さく頷く。
ベランダに出る。
夜風が冷たい。
空は澄んでいる。
だが、この静寂は長く続かない。
数日後。
あの倉庫で、血が流れる。
その瞬間から、物語は加速する。
俺は目を閉じる。
「……助けるさ」
誰にも聞こえない声で呟く。
士郎だけじゃない。
できる限り、多くを。
だが、壊すべきものは壊す。
そのために、俺はここにいる。
「戦争前夜、って顔してるな」
モードレッドが隣に立つ。
「どんな顔だよ」
「覚悟決めた顔だ」
違う。
まだ完全じゃない。
俺はどこかで、自分が消える前提で考えている。
十一秒目を踏み込む未来を、どこかで許容している。
だが。
「最後まで立つのは、俺たちだ」
モードレッドが笑う。
強く、反骨に満ちた笑み。
その横顔を見ていると、不思議と――
自分が異物ではない気がした。
夜は深い。
戦争は、もうすぐ始まる。
これは嵐の前の静寂。
それでも。
俺は目を逸らさない。
聖杯を壊すために。
次回
「運命の夜」