特級冷却材の無自覚無双~致死級の魔力暴走を「ただの風邪」だと思って看病していたら、国家最高戦力の美少女たちがヤンデレ化して俺を逃がしてくれない~ 作:半歳独法
鳩羽《はとば》クロトが十五歳の春に学んだ人生の教訓は、たった一つだった。
——女は、熱が下がると異常に甘えん坊《ぼう》になる生き物である。
「行かないでええええぇぇぇっ!!」
朝の八時。玄関の三和土《たたき》に仁王立ちする母・鳩羽桜子《はとばさくらこ》(三十七歳・無職・息子依存歴十年)の絶叫が、閑静な住宅街を物理的に揺るがした。
いや、比喩《ひゆ》ではない。
彼女の全身から放出された淡いピンク色の光——本人が言うところの「ママの愛情オーラ」——が空気を灼《や》き、玄関のドアノブが飴《あめ》のように歪んだ。郵便受けの金属フラップが赤熱して溶接《ようせつ》され、二度と開かない遺物《いぶつ》と化す。配達員が泣く。
近所のガラス窓がビリビリと共振していたが、この界隈《かいわい》の住民はとっくに慣れきっていた。「ああ、鳩羽さんちのお母さん、またストレスで発熱《はつねつ》してらっしゃるわ」「今日はピンクね、比較的《ひかくてき》穏《おだ》やかなほうだわ」と、遮光カーテンの隙間から冷静に実況する主婦たちの声が聞こえてくる。
この世界では、日常である。
「母さん。落ち着け」
その光の暴風の中心で、鳩羽クロトは欠伸《あくび》を噛み殺しながら立っていた。
身長一七四センチ。マットな質感の漆黒の髪は光を一切反射せず、彼がいる場所だけ空間が四角く切り取られたかのように暗い。ハイライトの欠片《かけら》もない底なしの黒い瞳は、覗き込む者に深淵を連想させる——はずだが、今は半開きで、眠たそうに細められていた。寝癖が一本、アンテナのように天を衝《つ》いている。
彼の服装は、ペラペラの紺色ジャージ。上下セット。
何度洗濯しても落ちない柔軟剤の匂いが染みついたそれは、この世界においては「全裸で核燃料棒を素手で持ち歩いている」に等しい蛮行《ばんこう》であったが、本人にその自覚は微塵もない。
「い゛やああああっ! クロトがママを捨てるうぅぅっ!」
桜子が崩れ落ちる。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔面を、息子のジャージの裾《すそ》に押し付けながら、全身の肌がストロベリー色に発光している。体温計があれば間違いなく四十度を超えているだろう。
この世界の常識に照らせば、成人女性の発熱——すなわち体内魔力の制御不全——は、即座に周囲三百メートルを焼き尽くしかねない生体災害《バイオハザード》の前兆である。国家魔力防衛省のマニュアルには、『発熱した女性を発見した場合、直ちに半径五百メートル以内から避難し、特務部隊の到着を待つこと』と明記されている。
クロトは溜息をついた。
「ハイハイ。そうやってすぐ熱出すの、昔から変わんねーな」
屈《かが》みこみ、泣きじゃくる母親の額にごく自然に掌《てのひら》を当てた。
ジュッ、と。
焼けた鉄板に水を垂らしたような音が、一瞬だけ響く。
桜子の全身を覆っていたピンク色の光が、息子の掌に触れた部分から急速に色を失い、まるで排水溝に吸い込まれる水のように——彼の漆黒の掌の中へと消えていった。
五秒。
玄関は静寂を取り戻した。郵便受けは犠牲になったが。
「…………ぅ、くろと……」
桜子の瞳から、炎のような光が消える。代わりに、熱を抜き取られた後の虚脱感と、目の前の息子の掌のひんやりとした感触への、麻薬中毒者《まやくちゅうどくしゃ》のような恍惚《こうこつ》が、瞳に溶け出した。
瞼が蕩《とろ》ける。頬が上気して、しかし発光はしない。体温を奪われた肌が、雪のように白く、しっとりと湿っている。
彼女は息子の手首を両手で掴み、まるで溺れる者が浮木《うき》にすがるように、その冷たい掌を自分の頬に押し当てた。
「……んっ……もう少し、だけ……」
「気持ちわりいからやめろ」
クロトは手を引き抜いた。無慈悲に。
「ぎゃっ」
「風邪薬飲んで寝てろ。飯はチンできるやつ冷蔵庫に入れといた。洗濯物は——まあ、溜めんなよ」
トランクを引きずり、玄関を跨《また》ぐ。振り返らない。
桜子は三和土《たたき》に尻餅をついたまま、息子の背中をぼんやりと見送った。漆黒の髪が春風に揺れている。光を反射しない、この世界の何処にもない色。
自分の指先がまだ、あの冷たさを覚えている。
体の芯《しん》が、もう一度あの温度を求めて疼《うず》いた。
「……行っちゃった」
ぽつり、と。
誰もいなくなった玄関で、鳩羽桜子は膝を抱えてうずくまった。
その瞳の奥で、母性とは名ばかりの、飢えた獣のような熱が、ゆっくりと再点火《さいてんか》していた。
「…………早く、帰ってきてね。ママ、クロトがいないと——」
玄関ドアの溶けたドアノブが、ボトリと床に落ちた。
「——死んじゃうから」
近所中の遮光カーテンが、音もなく閉じられた。
◆
——よし、今日も平和だ。